今回は映画『正体』の感想記事となります!
この短いタイトルは検索する時大変なんだよなぁ
カエルくん(以下カエル)
今回の記事はかなり独特な記事となっています
主
この映画自体が、かなり解釈を問う映画になっているからね
カエル「どうだろう……手前味噌な話だけれど、公開して3日目でこの解釈とこの文章が登場するのは、独自性が高くて価値があると受け取られるような記事であると思うけれど……ただ、それが賛同されるかはわからないかな」
主「いろいろな複数の解釈を載せているので『あなたの解釈はどのタイプ?私は鼻から』って感じで気軽に読んで貰えばそれが1番かもね」
カエル「ネタバレありパート以降は、本当に遠慮なしにネタバレしているのでご注意ください。
それでは、感想記事のスタート!」
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- Xの短評はこちら
- 感想
- 以下ネタバレあり
- 解釈1 酷評するパターン〜作品の悪意に無自覚だった場合〜
- 解釈2 絶賛するパターン〜作品の悪意に自覚的だった場合〜
- 『物語る亀』の悪意ある解釈
- それでも疑いようの少ない真実
ChatGPTによるこの記事のまとめ
- 本作は藤井道人監督の高い映像表現力が光り、『新聞記者』や『デイアンドナイト』を踏襲し、社会派テーマやキャラクターの葛藤、矜持を描いている点が特徴。作品としての完成度は高く、評価は観客の感性や解釈に委ねられる映画といえる。
- 「情報だけで人を判断してはいけない」というテーマを掲げるが、犯人の描写が一面的で、主人公が後半になるとルックスにより善良に見える演出を問題視している。このルッキズム的演出が無自覚ならテーマ性に矛盾を感じ、激しく批判せざるを得ない。
- 実際の逃亡犯や社会問題を反映しており、テーマ性や社会的問いを深める作品として解釈できる。
- 映画『正体』の本質は、多面的な視点で「情報」による人の印象操作を問い、評価も解釈によって異なる多義性にある。視覚表現や物語構造を駆使して観客を惑わせ、その真のテーマやメッセージを探るよう促している。
Xの短評はこちら
#映画正体 観ました
— 井中カエル@物語るカメ/映画・アニメ系VTuber(初書籍発売中!) (@monogatarukame) 2024年12月1日
映像表現等の映画としての要素はとても良いですが物語面において評価が困る作品です
この映画の悪意に制作陣が無自覚ならばボクは2024年ワーストに嫌いな作品
だけれどこの映画の悪意に自覚的ならば大好きな作品ですね… pic.twitter.com/LyqkjznoPA
Xに投稿した感想
#映画正体 観ました
映像表現等の映画としての要素はとても良いですが物語面において評価が困る作品です
この映画の悪意に制作陣が無自覚ならばボクは2024年ワーストに嫌いな作品
だけれどこの映画の悪意に自覚的ならば大好きな作品ですね
ちょっとだけ他の人の感想を見たけれどこの映画が描いたある悪意に触れている感想がほぼないのでかなり上手く隠したか、あるいはただのボクの妄想なのでしょうか?
感想
それでは、簡単な感想からスタートです!
解釈次第によっては、とても好きな映画でもあり、2024年ワースト級に嫌いな映画でもある
カエル「そんなに意見が割れることある? ってくらい、極端だね。
うちは藤井道人監督は結構追いかけていて、映画に関しては多分6、7割くらい見ているのでは? と思うくらいには好きな監督だけれど……それでもそこまで評価が自分の中で分かれるんだね」
主「ここは本当に解釈の問題なんだけれど、見終わった直後は『藤井道人監督を追いかけてきたのは間違いだったかも』と思うくらい嫌いな作品だった。
だけれど、改めて歩きながら帰っている最中に色々考えてみたら、やっぱりこの映画はいろいろな解釈ができるなってことで、評価を変えている最中ってところかな」
なぜそんなに変わるのかは後ほど詳しく語るとしましょう
ただここで注意して欲しいのは”駄作”のような、作品としての出来が悪いという意味ではないよってこと
カエル「一定以上のレベルにある作品なんだよね」
主「自分はこの作品の描き方が嫌いなだけで、それを好む人がいるのも理解を示すし、悪い映画ではない。
ここでワーストかも、と言っているのは”嫌い”であって、”悪い”ではない。
そして好き嫌いは個人の感性と趣味の問題だし、誰かの好きが嫌いになることは当たり前だ。しかも今作はかなり解釈が難しくて、その解釈次第で評価が変わることは、何度も強調したい。
なのでうちが”ワースト”という言葉を使うのは、それは嫌いだからであり、見方によったら嫌いと思わせた時点で勝ちという考え方もできるからね」
映像面について
駄作ではない、ということについて映像面からちょっと解説していこうか
やはり映像表現能力が飛び抜けている監督だよね
カエル「今回は盟友である今村カメラマンが不在で、その影響も伝わるくらいにはちょっと質感が異なったけれど、やはりチームとしての藤井組のレベルが高いから、映画として全く見落とりしない、むしろ特筆すべき映画だったよね」
主「このあと詳しく語るけれど、この映画は”映像で表現するということ”に対して、かなりの練度がある。レベルが高い作品なんだ。
だからこそ、自分が”嫌い”という解釈も成立する。これが凡なチームだったら、映画そのものが破綻しているけれど、全く破綻しない。
役者の撮り方や演技、アクションなども含めて、カメラワークも非常に巧みな作品だ」
藤井監督の過去作を踏襲する作品
それでいうと、藤井監督の過去作を踏襲している部分も多いという話だよね
特に影響が強いのは映画『新聞記者』やNetflix版、さらに『デイアンドナイト』だろうね
主「新聞記者は現実の国会、特に与党を糾弾するような内容が話題になるし、それは間違いないけれど、河村Pの意向が強く感じられる。
一方でNetflix版は権力との対峙もあるけれど、同時に各登場人物の覚悟と矜持が描かれていて、むしろ藤井作品としてはそちらの方が重要なのではないだろうか。
今作も警察という権力の対峙だったり、捜査手法への疑義だったりと社会派な一面もありつつ、各登場人物の葛藤と矜持が描かれているので、その視点で共通項を見つけて楽しんでも欲しいね」
以下ネタバレあり
解釈1 酷評するパターン〜作品の悪意に無自覚だった場合〜
テーマと描写の乖離
まずは解釈1として、この映画が大っ嫌いでもしかしたら注目していた藤井監督の評価そのものを落とすかもしれない、というくらいの解釈についてだけれど……
この作品のテーマと描写があまりに乖離していて、これが無自覚であれば自分は酷評する
カエル「テーマは何かと言ったら……やっぱり『人の内面を外部の情報だけで判断してはいけない』ってことなのかな。
例え囚人であろうと良い人はいるし、逆に一般人でも悪意がある人はいるんだけれど、みんなTVの情報で流されてしまう。その意味では現代のSNSの言論・情報社会……うちもブログを通して、あれこれ語っているという意味では同罪かもね。
現代社会だからこそ重要な問題というか」
主「主人公の鏑木に対して出会う人が『良い人』と称したり、いろいろな人物評価が出てくる。特に冒頭は強調するように『あいつは〇〇なやつだ』と称する描写が続く。女子高生だった酒井舞やその家族が、TVのニュースで色々と判断するというシーンは、まさに情報だけで人を判断している典型例だ」
ふむふむ……なぜそれが、今年ワーストに嫌いという評価に繋がるの?
それは真犯人の存在だよね
カエル「ネタバレになるけれど、ここは触れないと文章にならないので語ってしまいますが、中盤から後半にかけて事件の本当の犯人と思われる人が出てきます。そこで観客は主人公の鏑木の冤罪の可能性を知ります」
主「この犯人の描写があまりにも一面的だった。
はっきりと言ってしまうとキ〇〇〇に描写されていて……普段はこの表現は使わないけれど、映画の描写を文章化するとそうとしか書けないように描写されている。
そうなってからは鏑木役の横浜流星はとても良い人に見えてくる。しかもここから先は明らかに良い人そうな、小綺麗なイケメンになっている。
これは明らかにルッキズムによるものであり、まさに見た目という”情報”で判断しているのではないだろうか?」
後半の鏑木はそれまでの挙動不審と打って変わり、明らかに好青年に演技・演出されている
映画で象徴的な場面
それでいうと、この映画で象徴的な場面があるということだけれど……
それが鏑木の通っていて養護施設の園長と、鏑木を追う又貫の会話だ
園長「あの子は優しい子でした」
又貫「殺人を犯していることをお忘れなく」
この会話が、この映画を1つ象徴しているとも言える
カエル「ボクはなんてことない会話に感じるかなぁ。
違和感を抱く観客もいれば、そのまま納得する観客もいるような描写だね」
主「自分は重要な発言だと思っている。
というのは、ここは色々な意見があるだろうが、”殺人犯が優しい”ということは、普通にありうるわけだ」
……犯罪に手を染めているのに、その人が優しい可能性?
それこそが”犯罪者”という情報だけで判断しているよね
主「それこそ……ナチスドイツの研究をしていた日本でも人気のある思想家であるハンナ・アーレントは『悪の凡庸さ』という言葉を使った。ナチスドイツでホロコーストの中心的な人物であったアイヒマンの裁判の証言などを検証した結果、凡庸な人がホロコーストという巨大な悪事に加担して手を染めていると結論をつける。
もちろん、社会的なシステムとしての悪と、猟奇的な事件の悪は異なるという考え方もあるだろう。
ここで重要なのは、接してみたら普通の人、凡庸な人、あるいは優しい人が、犯罪に手を染めているということは、普通に起こりうることなんだ。
その視点が異なるから、鏑木への人物像が異なっているように描写されているんだね」
映画に絡めてみると以下のように解釈できるわけだね
2人の立ち位置が違うからこそ、鏑木への解釈も異なるんだ
過去作とのつながり
その問題を深く追求したのが、藤井監督の出世作であり、うちでも大絶賛の『デイアンドナイト』になります
うちは『デイアンドナイト』『青の帰り道』の藤井監督を追いかけているところがあるからねぇ
カエル「簡単にあらすじをお話しすると、地元に帰った男が父の絡んだ事件が隠蔽されていることを知り、その解明に乗り出すのだが……という話ですね」
主「『デイアンドナイト』にしろ『青の帰り道』にしろ、悪と称されたり一方的な見方、あるいは偏見によって判断されてしまう人々の人生を見つめ直すという作品になっている。
テーマ性も『正体』とほぼ共通といっても良いだろう」
そういう作品を撮った監督と脚本家のコンビだからこそ……という思いがあるのかもね
だからこそ、仮に上記のようなルックス重視の演出を”無自覚に”描写していたら、自分は激怒する
主「あの時描いたことはなんだったんだ?
結局は悪は悪でしかなく、善良なる人は見た目も小綺麗でイケメンで、見るからに善良なのか?
その見方に立てば、この映画こそ”映画という表現形式(偏見)”によって成立している。横浜流星のルックによって、善良で優しそうな青年像が成り立っていて、それが感動を生んでいる。
そこに無自覚だとしたら、この映画の冒頭で述べたことはなんだったんだって。
過去作はなんだったんだって。
それこそ最低な映画だよね」
解釈2 絶賛するパターン〜作品の悪意に自覚的だった場合〜
今作で重要な3つの事件
だけれど、絶賛する解釈もあるということで、ここについて語っていきましょうか
今作の悪意に自覚的だった場合、映画の見方が一変するんだよ
カエル「ここの説明をする前に、うちが今作の制作に大きな影響を与えたのではないか? と考えている実際に起きた事件と人物について語っておきましょう」
- 殺人事件の逃亡犯 市橋達也 受刑囚
- オウム関連 高橋克也 受刑囚
- オウム関連 Aさん(無罪)
近年で大きな話題となった逃亡犯だ
カエル「最後のAさんは刑事事件としても無罪判決が出ており、民事訴訟でも勝訴した裁判例もあり、法的に完璧な白であるためにここでは匿名のAさん表記とさせていただきます。検索すればすぐに情報が出てきて特定可能だとは思いますが、やはりこのような事件と題材の映画を扱う以上、この点はきっちりとさせていただきます」
主「つい最近……それこそ2024年だと桐島聡容疑者が死去して、逃げ切りしたと話題になっているけれど、この手の逃亡犯はちょいちょい発生しているんだよね。
もちろん、警察も全力をあげているし、基本的に日本の警察は優秀だと自分も思うけれど、それでも発生してしまう」
その中でも鏑木のベースにあるのは市橋達也受刑囚なのかな
”イケメン”とか言われた逃亡犯だしね
カエル「色々な場所に転居して、2年以上逃げていたということでも話題だったよね。他の逃亡犯はどうしても事件が風化してしまうところがあるけれど、市橋達也受刑囚は定期的に語られて、今でも逃亡犯といえば、という印象もあるかな」
主「逃げ回る際に髪などをいじり、変装したり、あるいは全国各地を点々としたということは似ているよね」
今作の3つの構成と各事件の類似点
他の逃亡していた人たちとの類似点ってのは、どこにあるの?
今作の3つの構成と事件の類似性について考えていこう
カエル「大まかにいえば以下のような構成だよね」
自分はこのようになっていると解釈する
カエル「ふむふむ……市橋達也受刑囚を元にしつつも、それぞれのパートでモチーフとなった逃亡者がいるのではないか、ということだね」
主「例えば第一幕では建設現場の社宅にいるところを通報されるけれど、高橋克也受刑囚もAさん逮捕後、情報提供によって神奈川県内の社宅にいるところを通報されるんだよね。
警察が踏み込む数時間前に逃走して、そこから数日間逃げ回った末で逮捕されている。
作中でも建設現場の社宅から通報されているけれど、現実では関西にて市橋達也受刑囚が建設現場に勤めていたとされる。
つまり、第一幕は2人のエピソードを足し合わせた形で構成されているんだよね」
重要なAさんの存在
となると、第二幕がAさんの事件と関連があると
Aさんは逮捕時、内縁の夫がいて、その人もAさんが指名手配されていると知っていた上で匿っていたとされる
カエル「割とそこらへんもセンセーショナルに報道されたよね。逮捕をきっかけに内縁関係も解消したと『創』で書かれていたかな」
主「このAさんの存在は、この映画にもとても重要なんだ。
単に第二幕を映画的な……まあメロドラマ的な、ある種の安いドラマにするためのパートだと解釈するのも1つだろう。
だけれど、Aさんの手記で語られていることは、この映画と合致する」
《私は全国指名手配されて逃げているうちに、自分が地下鉄サリン事件で使われたサリンの生成に、なんらかの形で関与してしまったのだろうと思いこんでしまっていました。しかし、よくよく思い出してみると、指名手配になった当時は「なんで私が?」「幹部と言われている人達とたまたま一緒にいたからかなあ?」などと思っていたのです。
中略
先生(引用者注 弁護士のこと)に「サリンの生成には関与していないのではないか」と言われて、ようやく気付いたのです。「ああ、私はサリンの生成には関わってなかったんだ。何がサリンと関係していたのかがわからなくて当たり前だったんだ」と。
中略
「大変なことになった。じゃあ、やっぱりサリンの生成にも関わったのだろうか?」。そうは思っても、出頭する勇気は出ませんでした。「きっと『知らなかった』と言っても信じてもらえない。私は地下鉄サリン事件の犯人として裁かれてしまうんだ」。そう思いこんでしまったのです。》
↓以下の記事よりの抜粋↓
https://news.yahoo.co.jp/expert/articles/c1ef17ae683cf9f84ec9fac5347a16f4b7d63681
……この映画で、鏑木だけでなく弁護士の痴漢裁判の際に描かれていることと、とてもリンクしているね
手記ではこの後に警察の取り締まりに対する不信感も書かれていて、映画、そして特に第二幕以降とリンクする
主「大事なところだから重ねて語るけれど、Aさんは逃亡した容疑者ではあったものの、その逮捕の後に無罪判決を受けて、一部の出版社や新聞相手に民事訴訟を起こして勝訴もしている裁判もある。
マスコミによる報道の被害も含めて、映画と似たようなことは実際に発生している」
カエル「もちろん、映画で描かれた死刑囚の冤罪と、現実で実際に起きた逃亡犯という立場の違いはあります。Aさんは裁判の上の無罪なので冤罪問題とは違います。
それでも、それだけ普遍的な問題ということもできるんだね」
主「作中で弁護士の父親が『やっていないけれど、世間にこれだけ言われたら信じてしまう』というのは、まさにその通りだろう。『無罪だったら早く出てくればいい、逃げなければいい』という意見は理屈としては適っているが、人間の感情としては全く適っていない。
一般社会でも『嘘をついていないならば堂々としていればいい』と言われて、疑われたままで耐えられるだろうか?」
さらにAさんの手記はマスコミについても語っています
この一審の有罪判決直後に、私はある報道を知ることになり、自分が今だに地下鉄サリン事件の犯人であると世間から認識されていることに気付きました。私は狐につままれたように感じました。私は地下鉄サリン事件では起訴されていません。加えて、サリン生成には関与していないことが裁判で明らかになったばかりです。傍聴席にはマスコミの専用席が設けられており、その席が割り当てられた司法記者クラブの人達は、私の裁判を通しで傍聴しているはずです。であるのにかかわらず、なぜ私が地下鉄サリン事件に関わったかのような報道が、その裁判の直後に流れるのでしょう。
↓以下の記事よりの抜粋↓
https://news.yahoo.co.jp/expert/articles/c1ef17ae683cf9f84ec9fac5347a16f4b7d63681
マスコミ報道という情報がどれだけ事件と関与したとされる人への印象を左右するのかがわかるよね
主「この映画が描いたこととのリンクが非常に多いというのが、お分かりいただけるだろうか。
この『正体』という映画は、そのほとんどが逃亡犯の映画であると同時に、半分くらいはオウム関連の……さらにいえばAさんの手記ともリンクする内容なんだ」
『物語る亀』の悪意ある解釈
悪意解釈① 今作のテーマと資本関係
ふむふむ……そうなると、鏑木という登場人物に各逃亡犯の話をまとめてフィクションにしたのは、とても戦略的なことかもね
それでいうと、ここから先はうちの、個人による、なんの根拠もない悪意のある解釈だ
カエル「……そこまで前置きするほどの解釈?」
主「多分、この解釈にたどり着く人は1割くらいだろうし、なんなら『お前の妄想だろ』で片付けて欲しいんだけれど……この映画って、映画という媒体が持つ特性を理解して、その悪意の上で成立していると思うんだよね」
カエル「どういうこと?」
主「この映画の製作幹事(出資の中心となる企業)ってどこ?」
カエル「えっと……クレジットを見るとTBSスパークルとBABEL LABELで、配給が松竹だよね。
BABEL LABELってのは、藤井監督も所属する映像表現者が集まる会社だから当然として……あ、この映画ってTV制作を行なっているTBSが出資している映画ってことなんだね」
これは悪意がある解釈だけれど、TBS資本でオウムが深く関連していそうな作品の出資なんだね
カエル「それこそ陰謀論じみてきているけれど、オウム関連とさらにマスコミ報道となると、TBSは今でも反省として語ることがある大不祥事も含めて、色々と問題があったもんね。もちろん、TBSだけじゃなくて、オウム報道に関してはマスコミ全体の問題もあったのだろうけれど……」
主「そう考えると製作サイド……出資側がどこまで意識していたかはわからないけれど、うまくやったなぁ……という思いが強い。
陰謀論のようだけれど、そこも含めて”正体”だよね」
悪意解釈② 映画の特性と藤井監督の作家性
え、悪意解釈って他にもあるの?
この映画って藤井道人作品、あるいは邦画らしさを逆手にとっている作品でもあるんだよね
カエル「らしさを逆手に取る?」
主「つまり藤井監督って『余命10年』などのように、キラキラとした物語を撮る監督だと思われている。それは確かに、そういう一面はあるのも事実。
だけれど、今作はそのらしさを逆手に取る……つまりさ『あー、今回もキラキラさせてなんかいい感じにしているな』って、観客に思わせているんだよね」
……どういうこと?
この映画の悪意に気が付きにくいんだよ
カエル「それは先にあげた、横浜流星のルックに依存したいい人感とか?」
主「それもそうだね。
キラキラした映画、あるいは役者の顔面力に依存した映画というのは、今の大作邦画らしさだよね。うちではよく”商品”と”作品”の違いと言っているけれど、今作もFilmarksでは342館で上映されているという、当然ながら公開規模が大きいという意味で大作映画の範疇に入るよね。
そうなると、やっぱりそういう”キラキラ感”だったり……あるいは先に言ったように『真犯人はキ〇〇〇で、冤罪の人はとても綺麗』という、ある種の思い込みによる印象操作っていうのは、売るための工夫、つまり”商品”として重要になるという考え方もある。
そして役者の演技も含めて、そのキラキラ感でこの映画の奥にある悪意には全く気が付かないようになっている。
そういう自分だって、気がついた風なことを言いながら、この解釈が単なる妄想である可能性だって、否定できないわけだからね」
つまり、商品として成立する表向きのパッケージと、作家性が活きる”作品”としての裏の姿があるのではないのかと?
その2つの異なる側面と解釈が両立する作品になっているわけだね
『正体』という映画の正体とは
そうなると、この映画の……本質みたいな意味での正体ってなんなの?
ホント、なんだろうねぇ……それこそ多面的な映画だよね
- 正しい人は必ず報われる
- とても清々しい正義を信じる映画
- 冤罪などについて考える社会派の映画
- 単にキラキラしているだけのよくある大作邦画
- 物語にツッコミどころ満載のクソ映画
上記のようないろいろな評価が、それこそ出てくるであろう作品だ
カエル「この映画の正体は誰にもわからない……」
主「それこそ、情報だよね。
殺人犯だって思ったら、その人が悪党に見える。一方で冤罪で優しい人だって言われたら、とても優しい人に見える。
役者は何も変わってないのにね。
単に演出と物語だけで、映画の印象を操作することもできる。
その意味で第三章はいい話のようで、悪意の塊だよ。
映画の技術を総動員して、悪意を隠して、観客を騙くらかして、本質を見えなくして、今まで観客が陥っていた『何が真実なんだろう?』という気持ちを操作している。
自分が製作陣だったら観客に対して『お前、これで感動するとか本当に映画の内容わかってんの?』『お前、この映画で怒っているとか本当に映画みたの?』と、ニタニタするかもしれない。
それくらい、悪意の塊だけれど、でもその悪意に気がつけるのは観客の3割くらいなんじゃないかなぁ」
この映画の正体がわからないのが、この映画の正体だと……
だから「悪意に無自覚ならば最低」「悪意に自覚的ならば良し、意図的ならば最高」というのはそういう意味
それでも疑いようの少ない真実
この映画の真のテーマとは?
そうなると、この映画で本当のことって何もないの?
いや、あるんじゃないかなぁ
主「それはさ、やっぱり後半の長野の雪のシーンだと思うんだよ。
あそこは本当にキラキラしていて、綺麗なシーンだった。これぞ藤井道人の演出術と思うくらいに、見事な美しさだった。
あとは先ほどから引用している『創』の篠田博之編集長が、同じ記事に書いているここが印象に残っている」
じゃあ、どうして17年間も出頭しなかったの?という疑問は当然湧くだろう。彼女も思い悩んでいたらしい。私も接見の時に、弁護士さんにでも相談すれば絶対に出頭した方がよいと言われたと思う、と彼女に訊いてみたが、彼女の返事はこうだった。そんな相談をする相手はいなかった、と。確かに殺人容疑で指名手配されたら、怖くて誰かに相談することなどできなかったかもしれない。そのへんの心境も彼女は手記に書き込んでいる。
https://news.yahoo.co.jp/expert/articles/c1ef17ae683cf9f84ec9fac5347a16f4b7d63681
そして、この「なぜ逃げたのか、出頭しなかったのか?」という部分の藤井監督なりの答えを出したのではないか
カエル「これは最後の問答の場面だよね」
主「ここは本当に美しかった。
そのテーマをはっきりと出していたし、映画としての映像表現で証明されていたからこそ、この何を信じればいいのかわからない映画の正体はここにある、と言えるのではないだろうか」
最後に
結局、うちの結論はどのようなものなの?
わかんないよねぇ
主「結論を出そうにもさ、結局制作がこの作品の悪意に自覚的だったか否かで評価が変わるからね。
ただ、ここまでの作品はどこまで意識的だったのかはわからないけれど、かなり計算されているとは感じるんだよね。
これがもし無自覚だとしたら、その精神は嫌いだけれど、それはそれで映画の特性を感覚的にキチンと理解しているってことで、褒めるべきなのかもしれないね」
正体の正体はわからない、と
結局それが言いたいだけな気がするかなぁ