物語る亀

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物語愛好者の雑文

<考察>『天使のたまご』ネタバレ感想&解釈 押井守の難解作に込められた意味を独自解釈で読み解く

 

今回は旧作の『天使のたまご』の感想&考察・解釈披露の記事になります!

 

いやー、久々に観たけれと、語りたいことが大いにある作品だったね!

 

天使のたまご

 

カエルくん(以下カエル)

押井監督が好きだから、かなり昔に鑑賞したけれど、その当時は『???』という印象しかなかったような気がするかなぁ

 

やっぱり、映画やアニメをたくさん語ってきたことで、色々と読み解く力が出てきたのかもしれないな

 

カエル「色々と難解な作品だけれど、明確な答えが見つかったの?」

 

主「そうだね。

 ただし、これから語るけれど、今回の解釈を”正解だ!”と豪語するつまりはありません。

 あくまでも解釈の1つだとして、捉えてください」

 

カエル「それでは、記事のスタートです!」

 

 

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感想

 

それでは、Twitterの短評からスタートです!

 

 

 

 

久々に観たけれど、とても意味が分かりやすく感じたよ!

 

カエル「えー、難解という評価も多い作品ですが、それでも意外と理解することができたということでいいのかな?」

 

主「より正確にいうならば”自分なりの答えを見つけることができた”ということだね。

 この作品は宗教的なシンボルが多く用いられていて、それがなんとなくわかると、物語構造……というか、やりたいことが見えてくるという形になっている。

 ちょっとソースを探したけれど見つからないけれど、確か押井さんは『天たま』は脚本がないというか、いわゆる物語を紡ごうという作りをしていないというようなことを仰っていたと思うけれど、まさにそんな作品で……物語を追おうとすると、訳がわからなくなるんだよ

 

つまり、物語を追わずにもっとフラット、感じるように見るべきだと

 

いや、フラットに見ると訳がわからんのではないの?

 

カエル「……え? どうやって観るのがいいの?」

 

主「だから自分が先に述べたように”答えを見つける”ということなんだよ。

 重要なのは、正答を目指すのではなく、自分の中で答えを見つける。

 つまり調査し、思考し、発見することにあるんだよ」

 

85年に手書きでこの表現は映像表現としても素晴らしい

 

『物語を語る』ということが持つ意味〜ストーリーは果たして重要なのだろうか?〜

 

なんか作品とは関係がなさそうなことが始まっているんだけれど……

 

ここからは持論になるけれどさ、物語っていうのは、実はみんなが同じものを見ても違う感じ方をしているんだ

 

カエル「え? なんだかそれを聞くと、すごく当たり前なようにも感じるけれど……」

 

主「なんだか、どうにも最近思うのは『物語や映画には正解となる見方がある』と思っている人が多いのではないか? という疑問なんだ。

 それに対する呟きがこちらです」

 

 

「物語を語る」という行為には、単一的な正解なんてないんだよ

 

カエル「単一的な正解がない?」

 

主「例えば監督はどのような意図でその作品を作ったのか?

 演者はどのような思い出その演技を披露したのか?

 そういったことを求めすぎているようにも感じられる。

 つまり『物語には作者の明確な意図という、確たる柱があり、その意図通りに鑑賞者の心が動く。鑑賞者の心が動かないとしたら、それは物語や、あるいは作品の演出力、メッセージ性などが劣っているからである』という考え方だ」

 

え、ストーリーには流れがあるもんだし、面白くない作品って、作品が悪いんじゃないの?

 

だから、さっきから述べているように、物語の読み解き方に正解はないし、面白くない作品は作品が悪いわけではない

 

主「最近アニメ化した漫画で『ブルーピリオド』という作品があるけれど、12巻にはこのようなシーンがあるんだ」

 

 

 

映画もそうだけれど、作品にはその作品と鑑賞者に合った場所・タイミング・心理状態などがあるわけだ

 

カエル「子どもの頃はつまらなかった作品が大人になって面白かったり、あるいはその逆も普通にあるよね。

 デートで観たらテンションが合わなかったけれど、フラれた時に観たら沁みる映画とかも合ったり……」

 

主「押井さんの書籍で書かれていた言葉を借りるならば『映画は国境を超えない』んだよ。

 その映画が制作された際に想定されている前提条件を……文化、宗教、社会情勢、その他様々な状況を完全に理解することはできない。

 個人の経験、思想によって、映画や物語の感じ方というのは明確に左右される。鑑賞者によって作品から受けるメッセージは変わるのが当然だし、そこには文化的な素養の違い、あるいは興味関心があることの違いも大きい。

 例えるなば……ハリウッド映画であっても、人種差別に対する反応なんて、知識としてはともかく、肌感覚としては日本にいたらわからないと思うんだよね」

 

だからこそ、映画は国境を超えない。国境を超えたと思ったら、それは錯覚……という考え方なんだね

 

先ほどから語るように『物語に単一の正解なんてものは存在しない』んだよ

 

 

本作を楽しむために重要な姿勢

 

言われてみれば当たり前な気がするけれど、それが天たまを語る上では大事なわけだね?

 

単一的な正解を求めようとするなって話を理解してもらえば、この記事の8割は伝わっているかな

 

カエル「そして、それが押井さんが今作で語っていたという『意味はない』という言葉につながると」

 

主「天たまで大事なのは、単一的な正解を求めることではないんだ。

 むしろ、その鑑賞者が、この映画から何を感じ、どのように解釈し、どのような審美眼を発揮し評価を下すのか。

 その行為そのものに意味がある。

 本作がつまらないと思った人は、天たまから、自分なりの意味が見出せなかったからだ。それは同時に、今見るべきタイミングではなかったということもできるし、もしかしたら一生興味がわかないかもしれない。

 それはそれでいいの。

 それこそが、その人が天たまから望んだ、天たまの意味なんだか

 

わからない、つまらないも1つの意味なんだね……

 

だから、これから書いていくのは”正解”ではないというのが大事だ

 

主「何が長々と言いたいのかというと、これはあくまでも『個人の解釈にすぎない』ということ。

 この解釈が正解だと主張する気は一切ない。

 むしろ、正解なんていらない。

 どのように感じ取り、どのように解釈し、どのように意味を見出すのか……それを問われているのが天たまであり、1つの正解を見つけるものではないんだ。

 だから、この映画の正解はなんなのか…と検索して探そうという行為そのものが、自分の解釈と異なる。

 先ほどから語るように『単一的な正解を求めようとする行為』は、少なくともこの作品とは相容れないだろう、ということは、述べておきたい」

 

 

 

 

作品の解釈について

 

今作に用いられた宗教的モチーフ

 

それでは、ようやく本題の今作の宗教的モチーフについて語っていきましょうか

 

今作は多くの指摘があるように、キリスト教をはじめとした宗教的なモチーフが多用されているんだ

 

カエル「まずは卵から生まれようとしている鳥から始まるよね」

 

主「もう面倒臭いから、ある程度は一気に全部下に書いていくね」

 

◆本作の宗教的モチーフの一部◆ 鳥 → 天使。あるいは宗教上の聖なるものの象徴
卵 → 復活、再誕の象徴
壺 → マグダラのマリア
泉 → 聖母マリア
魚 → キリスト。あるいはキリスト教徒

 

なぜこのようになるのかは、これから話していこう

 

カエル「以前にも『コクソン』の時も話したけれど、わかりやすいのは魚かもね」

 

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魚というのはイクトゥス、つまりキリスト教徒やキリストの象徴なんだ

 

CLA クリスチャン 魚 シンボル イクサス クロムエンブレム

キリスト教では大きな意味を持つシンボル、イクトゥス

 

www.weblio.jp

 

ということは、あの魚の影絵を必死に追いかけている兵士というのは……

 

キリスト教徒、あるいはキリスト=救世主を恐れている者たち、という意味が成り立つね

 

カエル「それこそユダヤ教徒でキリストがいた時代に迫害してきた人々とも言えるのかなぁ」

 

主「そうだね。

 そのように観ていくと、いろいろな意味が見つかってくる。

 例えば主人公の少女は赤い服の上に青系の暗色のベールを着ている。この色を青というかは難しいけれど、この服装そのものは、聖母マリアの象徴であると解釈したい」

 

 

 

それでいうと、壺を持つ女というのはマグダラのマリアの象徴なんだ

 

 

ふむふむ……

 

他にも、例えば泉はルルドの泉などのように、聖母マリアの象徴ともされているわけだ

 

カエル「そうやって読み解いていくと、ちゃんとした意味があると解釈できるんだね」

 

主「そして出てきた少年は十字架を背負っており、浅黒い肌をしている。

 長い歴史の中でキリストは多くの絵画で白人となってしまったが、一説には浅黒い肌をしており、白人ではなかったという話も根強くあるんだ。

 つまり少年はキリスト……あるいはノアと言えるかもしれない。

 まあ、言ってしまえば救世主だよね」

 

まとめるとこういうことだね

 

◆本作のキャラクター意味◆ 少女  → 聖母マリアとマグダラのマリア
青年  → キリスト・あるいはノア。救世主
謎の兵 → 救世主の復活を恐れる者たち

 

 

 

処女懐胎と救世主の誕生を夢見る少女

 

では、あの少女が抱えていた卵の意味は……

 

新たなる奇跡の登場だよね

 

カエル「あれは、卵を抱き抱える→処女懐胎と観ていいの?」

 

主「だろうね。

 上記でも述べたように、鳥というのは天使のメタファーでもある。押井さんは『パトレイバー2』の映画版でも鳥を印象的に出したけれど、そのシーンはあの世とこの世の境目とという意味が強いと言われている」

 

(C)1993 HEADGEAR/BANDAI VISUAL/TOHOKUSHINSHA/Production I.G

 

主「今作に話を戻すと、生まれそうな鳥の卵→救世主、あるいは天使のたまご、ということになる。

 つまり新たなる希望、救世主の誕生を、あの少女は望んでおり、そのために活動しているわけだ

 

なるほど……でも、あの青年はその卵を割ってしまうわけだね

 

その前に話していた言葉が大事だ

 

カエル「あの木のモチーフのところで話していた内容だね」

 

主「おそらく、あの木は生命の木なのだろう。

 そこでノアの方舟の話をした後に、少女に話しかけた会話がこちらだ」

 

◆天使のたまご内のセリフ◆

 鳥がどこに辿り着いたのか、それとも水に呑まれ力尽きたのか。誰も知ることができなかった。だから人々はその帰りを待ち続けたのさ。待ち続け、待ち疲れて、いつか鳥を離したことを忘れ、鳥のことも忘れてしまった。水の下に沈んだ世界ごと。自分達がどこからやってきて、いつまでここにいて、どこにやっていくのかもね。

 獣たちが石になるほど遠い昔の物語だよ。僕が観た鳥もいつどこで観たのか忘れてしまうほど遠い記憶でしかない。夢だったのかもしれない。

 君も僕も、あの魚たちのようにとっくにいなくなってしまった人たちの記憶でしかなくて、本当は誰もいない世界に雨が降っているだけかもしれないんだ。

 鳥なんて初めからいなかったのかもしれない。

 

つまり、鳥=救世主・天使はすでに存在しないかもしれないんだ

 

カエル「この辺りは夢とか、世界の認知の話とか、押井さんらしいテーマが盛りだくさんだよね」

 

主「実際、この天使のたまごってその後の押井さんの作品に繋がるものが非常に多くて、それが濃密な形で出ていると言えるんだ。

 そしてこのセリフの後で少女は人に羽が生えたような化石の場所に連れていく。それは天使がかつていた証拠であり、彼女はその天使=奇跡が再び訪れることを信じているんだ」

 

だけれど、青年はそれを信用していないんだよね……彼女が卵の生命活動を告げる時でも「それは風の音だよ」なんて言っちゃったりして……

 

少女は処女懐胎した天使のたまごが孵ることを信じているけれど、青年はそれを信じていないんだよね

 

 

 

 

なぜ青年はあのような行動に出たのか?

 

その後に、青年は卵を壊してしまうけれど……それはどういう意味だと解釈するの?

 

彼は、救世主では合ったんだよ……少女が望む形とは違うけれど

 

カエル「……救世主?」

 

主「そう。

 先のセリフにもあるように、この世界では魚→キリスト教徒は迫害されている。

 そして影になるということは、すでに存在していないということだ」

 

カエル「『影に怯える』という言葉は、実態のないものに対して恐怖心を抱くという意味だから、すでに実態がないキリストやその信徒に怯えている、と受け取れるわけだね」

 

主「そして骸骨となり化石となった天使……つまり終末の時すらも超えて、救世はなされないことが確定しているんだよね。

 青年はそのことを理解しているし、何ならば最初から『鳥はいなかったかもしれない』=救世主や奇跡なんてなかったかもしれない、と考えている」

 

だけれど、少女は卵を抱き続けている……つまり天使や救世を信じているんだ

 

そう考えると、なかなか残酷な物語だよね

 

カエル「叶わない夢を抱き続ける少女と、その夢から覚ましてあげる青年……」

 

主「もしかしたら青年が間違っていたのかもしれない。

 あの卵を暖め続ければ、救世はなされたのかもしれない。

 その長考をあの少女の長回しで表現しつつ、やっぱり青年は卵を破壊する。

 叶わない希望にすがり続けることが、どれほど残酷なことかわかっているから

 

その後は少女は谷に落ちて、やがて石になってしまうよね

 

彼女は成長し、吐き出した泡が卵になる→救世主を生み出そうとしていたんだ

 

カエル「そうか、彼女は聖母マリアであり、マグダラのマリアでもあるんだから、たまごが1つではないと……」

 

主「でも、その卵が孵ることはない。

 やはり卵は石になり、孵りそうになった卵も囚われてしまう。そして少女は最後は石となることで、すでに亡くなってしまった聖人に連なる。

 すでに信仰する人々もいなくなった奇跡の聖人としてね」

 

 

 

 

本作が問いかけた『神話の終わり』

 

……なんか、救いがないお話だね

 

神話が終わるというのは、そういうものなのかもしれないねぇ

 

カエル「この映画が問いかけたものというか、制作意図みたいなものって、どういうものだと思うの?」

 

主「非常に単純に言えば『神話の出現と終わり』だよね。

 天たまという作品は『神話』なんだよ。

 それこそ、聖書とかにあるような、ね。

 だけれど、それが叶わないで終わってしまう……救世主の手によって救済は行われず、この世は闇に包まれていき、静かに滅び去っていく……

 神話の終わりを描いた作品なんだ

 

聖書などで奇跡を語るのではなく、終末を語るわけだね……85年だから、今よりも終末思想が強かったであろう時代というのも関係するのかも

 

ここで大事なのが、自分が先ほどから語っている『単一的な答えなどない』ということだ

 

主「宗教の経典というのは、必ず解釈が含まれている。

 いや、実際には同じ宗教でも宗派によっては解釈が異なったり、解釈を禁止していたりするものだけれど……それは置いといて、経典に書かれた言葉の意味を読み解き、その教えを理解するために、解釈するという行為が必要になる

 

ふむふむ……

 

だから、この映画自体もある種の経典であり、その解釈が必要になる

 

主「自分が挙げたのもあくまでも解釈の一例である。つまり宗教の経典を映像的に表現してみたのが本作であり、その意図というのは解釈を行うことで完成する。

 しかしその解釈を創造した本人=押井さんが行うわけにはいかない。そうしては、これだけ寓意に満ちた作品を生み出した意味がなくなってしまうからね。

 そしてこの作品には宗教的指導者のような解釈を行い流布する存在もいない……つまり、鑑賞した各個人が作品の解釈を広げていくしかないわけだ

 

その解釈を行うこと、そして語ることこそが、映画を、ひいては物語を"観る"という行為の意義であり、真理なのだろう

 

カエル「物語を観る、語ることの意義……」

 

主「この作品を、映像表現をどのように解釈したのか、というのが、本作の鍵であるわけだ。だから経典で創造主が『あ、この項目はこういう意味だよ』と語るわけにはいかないように、押井さんは明確な答えを出さない。

 だけれど、一般の多くの人は作品に意味を求める、人から与えられた解釈を求め、わかりやすい単一的な解答を求めてしまう。

 宗教の場合は、高僧が教えを広めるために、解釈を考えて説法する必要があるのだけれど……先ほどから語るように、この作品に高僧は存在しないことが、この映画の難解さをより上げている要因かもしれないね」

 

 

 

 

最後に

 

というわけで、天たまの個人的な解釈の記事でした

 

これはあくまでも、うちの独自解釈だ

 

カエル「一部では『男女の問題を描いた』という指摘もあるようだけれど……」

 

主「ボクは全くそのように解釈しなかったけれど、そういう解釈があってもいいと思う。

 物語はあくまでも個人のためにあるものだ。

 この記事の解釈は、あくまでもボクの物語であって、読者の物語ではない」

 

これはボクの物語。あなたの物語はどうでしたか?

 

 

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