この記事は『君たちはどう生きるか』のネタバレ考察記事になります!
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カエルくん(以下カエル)
この記事では全編にわたり、鑑賞したことを前提にネタバレありで語っていきます!
主
ネタバレが嫌な方は上の記事を読んでください
カエル「なお、当然ですがあくまでも解釈の1つとして捉えてください。
この映画は色々な解釈ができるのが強みだと考えています」
主「好きに解釈して、好きに語ればいい作品だと思うよ。
それじゃ、記事のスタートです」
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他作品との比較
黒澤明の『夢』
まずはこちらのツイートをご覧ください
今作は例えるならば
— 井中カエル@物語るカメ/映画・アニメ系VTuber(初書籍発売中!) (@monogatarukame) 2023年7月14日
細田守の「未来のミライ」であり
押井守の「天使のたまご」であり
黒澤明の「夢」である
でも最後はやっぱり、宮崎駿である
自分が連想した作品は、上記の3作品なんだよね
カエル「ふむふむ……なぜこの3作品なのか、説明していきましょうか」
主「まず、前作の『風立ちぬ』を見た時に、連想したのは黒澤明の『まあだだよ』なんだよね。
その理由としては……どちらも完璧主義と言われるくらい、作品完成度が高い監督じゃない? エンタメの巨匠という点でも同じだし、宮崎駿は黒澤明を好きな作品で挙げているから、少なからず影響を受けているのではないだろうか。
日本を代表する国民監督の最後の作品という共通項もあったけれど……その最後と、少なくとも当時言われていた作品は、作品完成度は全盛期に比べると劣る部分があるけれど、監督の人間らしさが最も発揮された作品だったようにも感じられたんだよね」
ふむふむ……そして、本作では黒澤明の『夢』が連想された、と
結構、他の人でもこの意見はあったから、連想する人はいるんじゃないかなぁ
主「『夢』という作品は黒澤明が自分が見た夢をオムニバス形式で撮った、全8話の短編映画を集めた作品なんだけれど……奇想天外な発想もあったり、あるいは美しい映像もありつつ、でも作品の完成度はバラバラだったりするんだよね。
だけれど、黒澤明の思想や死生観とかも反映されていて、面白い作品とかではないけれど、まあ黒澤に興味があれば見ておいて損はないって作品でさ」
カエル「ふむふむ……で、それが今作と何が繋がるの?」
主「『君たちはどう生きるか』って、宮崎駿の人生観……特に死生観が反映されている作品なんだよね。
しかも先の記事でも語ったように、物語にまとまりがない。1つ1つの特徴的なエピソードを無理やりに繋げたような、歪さがある。だから、自分は今作って連作短編の延長線上にあるような印象があるんだよ。
正直、どちらも作品に老いは感じる。
だけれど、それは”劣化”ではなくて、老いによる新たな境地。
40代50代では見えてこない、70代80代だからこその死生観が発揮されている。
そのあたりも含めて、黒澤明の『夢』に近い印象を受けた」
『未来のミライ』と『天使のたまご』
次に挙げたのが『未来のミライ』と『天使のたまご』という、細田守監督の作品と、宮崎駿監督の盟友? ライバル? の押井守監督作品ですが……
この2作は要素が似ているというか、下敷きにすると今作を読み解くことができるということだ
カエル「上記の2作に関しても難解な部分が多いために、独自解釈も含めれているということをご容赦ください」
主「それを言い出したら、この記事は全部独自解釈だけれどさ!
それはいいとして……『未来のミライ』って日本では評判散々だし、エンタメとしてはケチがつくけれど、でも細田守という個人の話だと解釈すると、色々と見えてくるものがある。
特に今回引用したいのが、主人公のくんちゃんが、福山雅治演じるひいじいじに会うシーンだ」
『未来のミライ』は、くんちゃんを主人公として、自分のルーツを探りながら内面を掘り下げていく物語として評価しているよね
この試みそのものは、かなり近いものがあると感じている
次に押井さんの『天使のたまご』だけれど……
複雑なメタファー混じりの作品として下敷きにしたい
カエル「『天使のたまご』と今作の共通点といえば……鳥、かな?」
主「メタファー論になるけれど、鳥というのは昔から羽が生えていて、あの世とこの世の境にいる動物とされている。
例えば天使や悪魔は、羽が生えているでしょ?
これは生と死の世界の境目にいる生き物だからなんだ。
それをベースに考えると……例えばヒッチコックの『鳥』という名作があるけれど、あれもなぜ鳥なのかというと、天使と悪魔……つまり生と死の境目にいる存在が人間に罰を与えるという意味があるんだ。
実は『鳥』も宗教的な要素を多く含む映画なんだよ」
今作の鳥が指し示すメタファー
となると……今作のアオサギが指し示すものって、一体なんなの?
そのまんま、あの世とこの世の境界線にいる動物ということだ
カエル「あれ、じゃあ、鳥じゃなくて犬とか猫とか、カエルとか亀とかじゃダメだったんだ?」
主「ダメダメ!
あれが鳥だからこそ、この映画は成立する。
今作は現実の世界からスタートするけれど、次第にアオサギの声に惹かれてしまう。あれはあの世へと誘う声なんだけれど、なぜ鳥なのか? というと、上記のメタファーがあるからだ。
もちろん、別世界が死の世界だと断定はできないけれど……今作は強烈なまでに死生観がはっきりと出ている作品になっているから、そのように解釈してもいいのかもしれないね」
うちが宮崎駿監督に対して厳しい理由
誰も否定できなくなった、宮崎駿
ここで話は少し変わりますが……うちは宮崎駿監督のアンチだと公言していますが、なぜそれを公言するの?
宮さんが、あまりにも高評価を獲得しているから、その反動かなぁ
カエル「……え、ただのあまのじゃく?」
主「……まあ、それも否定しないけれど。
でも、今のアニメ業界において宮崎駿という存在は、さながら神か天皇のようになってしまった。
プロのアニメーターはもちろん、アニメ研究者やライターなど、きちんとした人であればあるほど、否定はせずに大絶賛。もちろん、それだけの実績もあるし、アニメーション技術に関しては天才的で、他に代えがないこともわかっている。
じゃあ、宮崎駿は完璧な監督だったのか? というと……うちの答えはNoだ」
先の記事でも、脚本構成などに難がある監督という評価をしていたよね
もちろん、功罪でいえば功が圧倒的に大きいのはわかっている
主「だけれど……罪の部分もあるはずなんだけれど、それを語れない、語ることをなんとなく許さない雰囲気がある。
これは自分の経験談だけれど、宮崎駿の罪に触れる外部記事を書くと『その部分は意見が割れるのでなくしましょう』という意見を言われることもある。外部記事だから、その意見には従うのだけれど……これが他の監督ならば、例えば押井さんや富野由悠季監督であれば、功罪を合わせて語ることが可能なはずだ。
だけれど、宮崎駿はそれができない空気感があるのではないか……共産主義に傾倒したのに、アニメ界の神や天皇のような存在になるのは、まさに皮肉なものだね」
宮崎駿とジブリという名の呪い
その罪って、大まかに語るとどこになるの?
自分は”ファンタジーアニメ=ジブリ&宮崎駿”という意識を根付かせたところにあると考えている
カエル「確かに、アニメにおいてファンタジーってとても向いている題材なんだけれど、本格的なジュブナイルファンタジーになればなるほど、ジブリや宮崎駿っぽさが出てきしまうような気がするね。
ボクも昔は、無邪気に『ジブリっぽい!』とか言っていたかなぁ」
主「それこそ新海誠監督の『星を追う子ども』だったり、近年では今作でも参加している安藤雅司監督の『鹿の王 ユナと約束の旅』も、ジブリっぽいと言われている。もちろん、これらの作品が完璧とは言わないが……
異世界転生系のようなゲーム系ファンタジーはともかくとして、児童文学のような世界観のファンタジー作品は、ジブリっぽいとされてしまう傾向にある。
ファンタジーアニメ=ジブリ&宮崎駿になってしまっているんだ」
日本人は長い間に宮崎駿監督に触れるのを当たり前になりすぎていたのではにか?
主「宮さんがジブリにおいて後継を生み出せなかったとはよく言われているが、これは観客側のハードルが上がりすぎたということもあるだろう。素晴らしいスタッフがいれば、素晴らしい評価の作品ができるわけではないのは、ジブリ後期の、高畑勲&宮崎駿以外が監督した作品を見れば一目瞭然。
ただし、それらの作品もクオリティそのものが低いわけではないけれどね。
自分は”ファンタジーアニメ=ジブリ&宮崎駿”を、特に強く罪として意識しているんだ」
作品解釈
宮崎駿監督の思考
ようやく作品解釈の話になりますが、ここまでの前置きが大事だったんです
まずは、宮崎監督がよく言っていたことをおさらいしよう
カエル「今では日本全国民と言っても過言ではないほどに愛され、TVでも年に何回も放映される宮崎駿監督のアニメ作品ですが、監督自身は『アニメを観るのは年に1回にしてほしい!』と言っています」
宮さんからしたら、自分みたいにネットにどっぷり、毎日アニメや動画を見ている奴なんて、最も唾棄すべき存在なんだろうな
主「この辺りは押井守監督も解説しているけれど、宮さんは良質な世界のアニメーションがそこまで気軽に見れない時代にアニメーションを愛した世代だ。だからこそ、1回の体験を大事にして、卓越した記憶力で暗記して、脳内で何度も繰り返した結果、新しい表現を生み出してきた、まさに日本のアニメーションネイティブな世代だ。
その世代だからこそ生み出せる動きなどの魅力の数々は、今の時代では真似がしづらいだろう。もちろん、今の時代にあった修練方法があるだろうけれどね」
大量のインコは何者か?
宮崎監督の発言が、作品論評にも絡んでくるということですが……
自分が見た限りでは、あの大量のインコって、まさにうちらのことなんだよ
カエル「……インコがうちら?」
主「すっごいわかりづらいけれどさ。
多分、今作における主人公のマヒトって、宮さんの投影①だよね。あるいは、宮さんが継承相手にしたい人物。
後半に大量のインコがマヒトを捉えて食べようとしているけれど……あれって、アニメを消費して食べてブクブク太った、まさに自分のようなオタクたちのことではないだろうか?」
……まって、この話についていける人がどれだけいるの?
つまりさ、この話ってアニメ論なんだよね
宮崎駿とジブリ論と『君たちはどう生きるか』
簡単にまとめたら、以下のようになる
つまり、これはアニメ論という解釈も成立するわけだね
主「あの塔はスタジオジブリというスタジオを表していて、大量に暮らしているインコはジブリ作品を愛してきた大衆・あるいはオタクといえる。それは宮崎駿や新しい才能を食べて(消費して)アニメ文化を壊してきた。
大叔父が語っていたあの13の積み木。
あれは宮崎駿が作ってきた作品の数だよ」
カエル「数え方にもよりますが『カリオストロの城』と『On Your Mark』を含めると、今作は13作品目にあたるみたいだね」
主「『あの作品はどうするんだ!』という声も聞こえてきそうだけれどさ。
つまり、大叔父は現在の宮崎駿で、その13本の積み木(13作の作品)を継承する相手を求めている。だけれど、インコの王=鈴木敏夫がそれを壊してしまい、次世代に継承することができなくなる。
その結果、あの塔のような建物(スタジオジブリ)は崩壊してしまう……という、まさに宮さんが、今現在辿ってきたことの寓話のような作品という解釈だ」
個人的に高く評価する理由
なんでこの作品を前の記事では『8割退屈』と語っていたのに、評価するの?
単純に”宮崎駿という呪い”を解こうという覚悟を感じたからだよ
カエル「さっきにも語っていた、宮崎駿という呪いだね」
主「マヒトが大叔父から継承を拒むのだけれど、マヒトは宮崎駿の過去であるのと同時に、これから先があるクリエイターの象徴として見ることもできる。
つまり大叔父(宮崎駿)から、塔の管理権(スタジオジブリ)と13の積み木を禅定されかけるんだけれど、マヒト(新しい才能)はそれを断る、という話なんだよね。
宮崎駿という呪いからの解放。
それがこの作品の核の1つではないか、と自分は邪推して、解釈する」
……宮崎駿という呪いからの解放
これに囚われている人が、どれだけ多いか
主「特に2010年代以降かなぁ、”ポスト宮崎駿”と呼ばれて、色々な人がそこの地位に行くかのようにマスコミに言われた。
細田守、米林宏昌、宮崎吾朗は筆頭、新海誠も……庵野秀明もそうかな。もちろん、他のアニメ映画監督も同じ。
その度に興行的な部分と、宮さんとの作家性の違いで『ジブリ&宮さんには届かない』とされ、烙印を押されていた。
それが呪いじゃなくて、なんだというのさ?
結局、ポスト宮崎駿の呪いを解いたのは『劇場版 鬼滅の刃 無限列車編』だったわけだ」
この呪いを、監督自らが解きにきたわけだ
主「もう自分の後継者なんていない。
みんな自分の世界に帰って、自分のやりたいようにやればいい。
それを呪いからの解放と言わずに、なんというのさ?
今作はアニメ界の神や天皇となった宮さんの”人間宣言”な映画なんだよ。
だからもう、ジブリはおしまい。
宮崎ブランドもおしまい。
我々インコと新しいクリエイターは塔が崩壊したから、新しい地で暮らしていくことが求められる。
そんな中で『君たちはどう生きるか』
それを問われている映画なんだよ」
最後に
というわけで、ネタバレありの考察記事でした
結局、宮さんの死生観の話とかはできなかったなぁ
カエル「掘ればもっと色々と出てきそうな映画ではあったよね」
主「堀がいはあるんだろうけれど、2回目は疲れるからいいかなぁ……
あとはゆっくり眠るとしたい」
カエル「……あなたはもっと活動的に生きた方がいいと思うよ」