物語る亀

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物語愛好者の雑文

<考察>『EUREKA 交響詩篇エウレカセブン ハイエボリューション』ネタバレ感想&評価

 

それでは、今回は『EUREKA 交響詩篇エウレカセブン ハイエボリューション』について語っていきましょう!

 

ついにハイエボシリーズも3作目であり、最終章になったね

 

 

 

カエルくん(以下カエル)

「結構待ったと言えば、待った作品だよね。もうちょっと早いスパンでくると思ってたよ」

 

「だけれど、その価値があったんじゃないかな

 自分はこの作品、かなり途轍もないことをしているから、多くの人に触れてほしいけれどね」

 

カエル「なるほどなるほど……それでは、記事を始めていきましょう!」

 

主「ちなみに、今回は一方的な解釈をつらつらと書き連ねている記事になりますので、ご容赦ください」

 

 

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(C)2021 BONES/Project EUREKA MOVIE

 


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感想

 

それでは、Twitterの短評からスタートしましょう!

 

 

 

これは100か0かという、まさにエウレカセブンらしい作品となったね

 

 

カエル「かなり物語としては難しい部分が多かったよね……

 実は大手映画レビューサイトなどでは酷評もあって、平均点が2点台と大きく期待を下回る結果になっていたり……エウレカセブン自体の人気が落ちていることもあるかもしれないけれど、それでも前作の『ANEMONE』の高評価を考えれば、少し驚きと共に迎えられるというか……」

 

 

 

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主「ただ、個人的にはかなり賞賛したい作品でもある。

 多分、この映画って既存の物語表現のように評価したら理解できないんだよ。

 そういっている自分でも、じゃあ全てを理解したのか? と問われると、かなり厳しいものがあるのは事実だけれどさ」

 

 

カエル「それがTweetにある『100人の満足よりも1人の激賞』ってやつなの?

 

主「そうそう。

 自分としては、今作が好きかと言われると、ちょっと困る。年間ランキング入りさせるかもちょっと考えてしまう部分がある。

 でも、入れるとしたら1位。

 1位以外はあり得ないし、似合わない。

 そうじゃなかったら、ランキングに入れるべきではない……そう感じたほどの作品かな」

 

 

……1位以外は似合わないって、年間ベスト級って意味じゃない!

 

だから、ハマった人にはそこまでいくであろう作品なんだよ

 

 

主「元々エウレカセブンって相当癖が強い作品ではあるんだけれど、今作の場合もまさにそうでさ、実験的要素がものすごく多い。

 過去のエウレカセブンらしさ……特に誰もが思い浮かべるであろうテレビシリーズの1作目の”ボーイミーツガール”で電気グルーブみたいなテクノ調の音楽を使っておしゃれに空を駆け回る作品を想像すると、かなり裏切られる。その意味では『エウレカセブンらしさ』ってものは皆無なのかもしれない。

 だけれど、同時にこれほどエウレカセブンという作品に言及した作品はないわけだ。

 エウレカがエウレカであるために必要なこと……それがこの作品にはこもっている。

 だからこそ、本作は1位でもあり、ランキング外でもあるわけだな

 

以下ネタバレあり

 

 

 

 

 

作品考察

 

『映画とは引用でできている』

 

ではでは、早速ですがここからは考察といきましょうか

 

自分は押井信者だから押井守の言葉を引用するけれど『映画は引用でできている』んだよ

 

 

カエル「ふむふむ……

 この作品って、なんだか見たことがあるような映像が多かったよね。冒頭は『エヴァンゲリオン』や『シン・ゴジラ』などの庵野秀明作品に強く言及しているようだったし、山での爆発シーンなんかは、まんまヤシマ作戦だった。

 あの大量のポンプ車で放水? しているシーンなんかは、明確に『シンゴジラ』のラストだったわけじゃない?」

 

 

シン・ゴジラ

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  • 長谷川博己
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主「『映画は引用でできている』ってのは、押井守が常々言っていることなんだよ。

 僕らは一般的には映画にはオリジナリティがあって、作者(監督)が伝えたいことがあり、そのオリジナルな部分を見出そうとする。だけれど、必ずそれらには先行作品があって、それを下敷きにしている。

 もしかしたら、リュミエール兄弟とか、あるいはメリエスとか、グリフィスみたいな本当に黎明期な人たちはオリジナルなものを作っていたかもしれない。それでも、物語は小説や聖書を引用し、絵画などの構図を引用し、そうして映画を作り上げていった。

 もはや現代において……これは映画だけではなく、小説でも漫画でもアニメでもなんでもそうだけれど、真にオリジナルなものなんてほとんどない。

 誰もが意識的、あるいは無意識的に先人が作り上げてきた作品を基に引用しているわけだ」

 

 

一般的には引用が多い映画監督というと、例えばタランティーノとか、あるいは庵野秀明あたりになりそうだけれど……

 

そういう人たちはわかりやすいだけで、誰も彼もが過去の引用をしているわけだよ

 

 

主「例えば、押井守は『押井守の映画50年50本』という書籍で、寺山修司の『田園に死す』の項目でこのように語っている」

 

あらゆる言葉は、すでに言葉になっている。自分のオリジナルの言葉なんて作れやしない。作れるとしたら文脈のみだよ。要するに編集技術で勝負しているだけ。言葉の世界で勝負している人たちは、ひらめきではなく、既存の言葉の編集を高速で行なっている。

 

 

押井守の映画50年50本 (立東舎)

押井守の映画50年50本 (立東舎)

  • 作者:押井 守
  • リットーミュージック
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主「まさしくこの通り。

 他にも『勝つために戦え』という書籍では」

 

今でも映画っているのは引用でしか成立しないし、映画独自が生み出したピースっていうか、要素はいまだにないと思っている。ある種の写真的なレイアウトの価値とか、演劇的な役者の力とか、言葉の力とか、音楽とか、自分のジャンルじゃない「映画の外側」から全部輸入し続けているんだからさ。映画が独自の価値を生み出したことなんて、ただのいっぺんもないよ。

 

中略

 

彼(ゴダール)はベートベンを引用し、モーツァルトを引用し、時にはバッハも引用し、膨大な言語を引用し、もちろん役者も借用し、政治的言語まで全部引用した。もちろん意図的にやってる。「映画は編集なんだ」って。エディットして、引用をいかに整理して新しい価値を生み出すか。それが映画なんだよ

 

 

勝つために戦え!監督編 P200より

 

 

 

……なんだか、すごく過激な意見だね

 

個人的には映画オリジナルのものはない、とまでは言わないけれど、多くは賛同してしまう

 

 

主「これは映画だけじゃなくて……それこそ文学なんて、例えば近年50年で何を生み出したというのか?ってレベルじゃない。何千年という歴史があって、その言葉や思想を引用して編集して再構成していく、完全に引用で成立してしまっている。

 なんだかパクリだなんだという話になりがちだけれど、それは細かく言えばパクリのない、完全にオリジナルなものなんてものはこの世の中にもはや存在することができなくなってしまった。

 それだけ、表現形式がありふれてしまい、飽和し、溢れかえったわけだ。

 あとは技術革新の末に新しい技術が発明されるのを待つだけだよ」

 

カエル「ややこしいなぁ」

 

主「同時に物語とは作者と受け手(観客・読者)の誤解によって成立する。

 例えば本作は『閃光のハサウェイ』の引用があると一部で言われているけれど、制作時期とハサウェイの公開時期を考えれば偶然の一致とする方が自然だろう。だけれど、それは作者の意図と観客が知りうる情報の差によって生まれた”誤解”なんだ。

 その誤解は時に”解釈”と呼ばれ、作者の意識した意図を超え、時には無意識を掘り起こす。

 その誤解のことを時に”批評”と呼ぶわけだ。

 物語や表現は作者と読者・観客との誤解によってしか成立しない。

 この考え方を根底に、これから語ることを読み解いて欲しいんだよ」

 

 

 

エウレカセブンがあり得たかもしれない可能性

 

この映画はすごく引用が多いってことだよね

 

それこそ、冒頭はエヴァンゲリオンなどの引用だからね

 

主「でもさ、それって仕方ないことでもあって……エウレカセブンが誕生した2000年代はどうしても『新世紀エヴァンゲリオン』の影響下から逃げられなかった。

 それこそ京田監督が副監督を務めた、真正面からエヴァっぽいものを試行した『ラーゼフォン』とかさ、それこそ新開誠もその影響下から生まれた作家だし、元々は”セカイ系”って言葉も『エヴァっぽい』という意味からスタートしたと言われている。

 この時代はエヴァに言及しなければ作品が制作できない……そんな可能性すらもありうるくらい、エヴァというのは時代に即した偉大な作品だったわけだ

 

カエル「それこそ時代だよね……流行りというのもあるんだけれど、それ以上に”個人の内面に踏み込んでいくロボットアニメ”の多くが、エヴァっぽくなってしまうというか……

 また2000年代って終末思想であったノストラダムスの大予言とかのオカルトブームの終焉もあって、その影響もあったのかもね。ちょうど911とかで新しい時代に突入した頃だったし」

 

 

 

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主「それから『機動戦士ガンダム』の影響も大きいとされている。

 月光号のメンバーはそのまんまホワイトベースだし、子供たち3人の存在もカツ・レツ・キッカの同じような存在として配置されている。レントンが家出してビームス夫妻と出会う描写は、そのまんまガンダムのランバ・ラルたちとかぶる部分がある。

 もちろん、『超時空要塞マクロス』にだって、あのニルヴァーシュたちの軌道などの影響を受けているだろう。

 さまざまな影響を受けて作られた作品、それがエウレカセブンだったわけだ

 

 

 

3幕の物語構成

 

もちろん、それが悪いってことではないよね

 

当然ながら、そのような過去の引用がなければお話作りなんてできないからね

 

 

カエル「過去にあった作品の要素を引用し、それを編集し、再構成して自分なりの物語に作り上げていったわけだし、それが大ヒットしたわけだもんね」

 

主「では、ハイエボの話に戻ろう。

 この作品は以下のような構成になっているわけだ。

 

  1. スタートから宇宙パート
  2. 地上で2人旅を繰り広げるパート
  3. クライマックス

 

 これを言い換えると

 

  1. エヴァ・庵野秀明のオマージュ
  2. 実写映画のオマージュ
  3. ガンダム(特に逆襲のシャア)のオマージュ

 

 という見方になる」

 

カエル「ふむふむ……」

 

主「自分なんかは実は2幕がとても好きなんだけれど……ここは実写映画、特に洋画からの引用が多い。

 おそらく基本系は無骨で強い大人と子供という王道の組み合わせから『レオン』や『ターミネーター2』などが根底にあるだろう。特に『ターミネーター2』の露骨なパロディとなったシーンもあるくらいだしね。

 それから焦げたフレンチトーストを元に2人の関係が問題が発生していると見せるのは『クレイマー、クレイマー』の有名なシーンだ。エウレカはこの作品と違い、料理がうまくならなったけれど、お尻をぶつけ合いながら『何よ』と語り合う姿で、2人の関係が好転していることを示している」

 

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そう考えると、あれだけ強くて孤独なエウレカっていうのは、もしかしたら『ターミネーター』のサラ・コナーのオマージュなのかもしれないね

 

ここはポリコレ的な観点でも、とても良かったと思うんだけれど……洋画はそういった言及があるのに、日本アニメってあんまりその見方で褒めてくれる人は少ないよなぁ

 

 

カエル「パンフレットでも京田監督が『ちゃんと自我をもった女性としてエウレカを描かなければいけない』と語っているように、レントンに守られるか弱い女の子ではなく、強く誰かを守る女性としての姿を描き出していました」

 

主「この辺りはエウレカという”人間”の魅力が内包したと考えている。

 自分はどちらかというとテレビシリーズのエウレカみたいなタイプ……それこそエヴァの綾波タイプというのかな、お人形さんみたいなキャラクター造形って苦手な部分もある。今作の場合は、それが好きな人には否定されるのもよくわかるけれど、でも自分はより力強さと個人としての意志を感じられて強く惹かれる部分があったね。

 こういった形で……今作の場合キャラクターが全員テレビシリーズとは変わっていたんだけれど、特にエウレカ、アネモネはキャラクターが変化した。

 この変化を自分は好意的にうけいれるかな」

 

 

デューイの目的

 

今作の悪役であるデューイの目的ってなんだったの?

 

メタ的な見方をすれば”自我を持ったキャラクターが世界を滅ぼす”ということだよ

 

 

カエル「……あれって『逆襲のシャア』の時のシャアの真似事じゃなかったの?」

 

 

 

 

主「もちろん、その意図はあるだろう。

 それと同時に、本作は虚構と現実のリンクについて語っている。デューイが確か『自分達は空っぽの存在だ』というようなことを言っていていたけれど、あれは何かというと”作者によって設定されたキャラクター”という意味なんだよ。

 物語の都合のために作られたキャラクターたち……作中では”エウレカ”と呼ばれているけれど、明らかにあの世界の上位存在という意味では、神に近い存在=作者の意志によって生まれてきた。

 では、その作者の意志に気がついてしまったキャラクターはどうするのか……その手段は自死しかない、というのがデューイの結論だ

 

カエル「……なんか、わかるようなわからないような……」

 

主「より具体的に言えば『自死すら許されていない』のが彼らの存在だ。それでも何か行動を起こさなければいけないと考えた。

 神=作者であり、2度と目覚めないかもしれないと考えていた存在……つまり”エウレカ”が目覚めると知った時に、行動を起こすしかなかった。

 これはつまり……エウレカセブンという物語が再始動すると知った時には、デューイは行動を起こす以外の道はなかったんだ。

 だけれど、それは必ず失敗する。なぜならば、エウレカ=神=作者は物語を始めるから。だから、あれはデューイ目線では、世界を巻き込んだ壮大な自殺以外の何者でもなく、そしてそれは必ず失敗する運命だったとも言える」

 

カエル「……意味がわからないよ」

 

主「すごくメタ的な話かもしれないけれど、エウレカという存在が発見されたならば、それがエウレカになる前に……つまりエウレカセブンという新シリーズが始まる前に、世界が崩壊すればエウレカセブンという物語は始まらない。

 それしか、彼らキャラクターに与えられた自由は存在しない、ということではないだろうか」

 

 

 

 

エウレカセブン・ハイエボリューションが語るラスト

 

そういえば、こんなツイートもしているよね

 

 

あのラストがあるからこそ、本作は”エウレカセブン”であるんだよ

 

主「じゃあ、カエル。

 エウレカセブンとは、なんだと思う?

 

カエル「え? え〜っと……エウレカが出てきて、ニルヴァーシュがいて、ロボットアクションで、ボーイミーツガールで……あとは……」

 

主「そう、そのどれもが正解で、そのどれもが不正解だ。

 庵野秀明っぽさでもなく、実写洋画っぽさでもなく、ガンダムっぽさでもなく……それらの要素を内包しながらも、でもエウレカセブンたらしめるもの……それは何か?

 エウレカの物語というのはアニメだけではなくて、漫画・AO、そのほかにも色々とあるだろう。もしかしたらスパロボとかも含まれるかもしれない。

 そんな中で、エウレカセブンって一体なんだったのか?

 

カエル「……その答えがあのラストだったの?」

 

主「その通り。

 涅槃の案内人であるニルヴァーシュにエウレカが乗り込み、レントンと再会し、大きなハートを包み込み、世界を救う。それがエウレカセブンの1つである」

 

次世代のエウレカが『私もエウレカになる!』と宣言することこそが、エウレカセブンであり、ハイエボリューションなんだよ

 

カエル「え、何それ、わかんないよ!」

 

主「つまり、エウレカセブンというのは色々な作品の引用によって生まれている。もしかしたらオリジナルの成分とはそこまで多くないのかもしれない。

 そしてそれが次の世代のエウレカセブンに引き継がれた時、どのように変化するのか、誰にもわからない。

 それでも、それでも次世代のエウレカは高らかに宣言する。

 『私もエウレカになる!』と。

 つまり、この宣言こそが多くの媒体で作られて、多くの人に長年愛されたエウレカセブンというものの、根幹にして最大の正体であるわけだ。

 エウレカというのは一種の記号にしかすぎないわけだから、完全に同一人物でなくてもいいんだよ。だけれど、その子が『エウレカだ!』と宣言することが非常に重要なわけでさ。そこに自覚的になるかどうか。

 今作ってのは多くのシリーズもの作品の根幹について語っている。

 だからこそ1位。

 だからこそ選外。

 そういう作品なんだよ」

 

 

 

 

最後に

 

えっと……今回は色々と独特な記事になったかと思います

 

もちろん、これが正解なんて言うつもりは毛頭なくて、これはあくまでも解釈です!

 

 

カエル「でも、こういう解釈がしたくなる作品であったんだね」

 

主「先にも語ったように、物語や表現とは作者と受け手の誤解で成立する部分も多い。だからこそ、自分はその誤解を楽しんでいきたい。

 作者には迷惑な話かもしれないけれどね。

 これが僕の誤解であり、解釈ということです!」

 

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