亀爺(以下亀)
「さて、今回は押井守作品を基にした実写映画が近いということで、押井作品を扱うということであるが……なぜここに来てスカイクロラなのじゃ?
いや、悪い作品ではないが……もっと他にあるじゃろう」
ブログ主(以下主)
「何となく、スカイクロラに関してはいつか語らないといけないと昨年からずっと考えていたんだよね」
亀「元々主が押井ファンなのは知っておるが、もっと他にもあるじゃろう。攻殻機動隊は語っておるが、他にも『イノセンス』『パトレイバー』『ビューティフルドリーマー』の方が需要がありそうな気がするがの」
主「誰もが語る名作といえばその辺りだよね。
だけどね……はっきりと言わせてもらうと、今の自分にとって1番考えなければいけない押井作品は、誰がなんと言おうと間違いなく『スカイクロラ』なんだよ。
多くの人にとっては単なる押井作品の1つかもしれないけれど、自分にとってこの作品は非常に大きい意味がある。
本当はこの作品について語ろうとしたら『戦後の若者文化と物語の関係性』についても語らなければいけないことなんだ。文字数にすると……多分3万文字はざっと超える。ちょっとした論文になるかもしれない。
だけどさすがにそれだけ語ると誰も読まないだろうか、今作だけに注目して語っていくよ」
亀「賛否分かれることも多い押井作品じゃが、この作品は特に荒れる話題じゃの」
主「個人的にはアニメ映画史の中で1番と言っていいほど重要な人物で『アニメ』を『映画』にしたのは押井守だという評価だから。
宮崎駿よりも重要だと思う」
亀「そこは結構思い切ったことを言い出したの。
それでは記事を始めていこうかの」
1 初見時の感想
亀「それでは初見時の感想から述べていこうかの。主はこの映画を2008年の公開初週……おそらく初日ではないじゃろうが、鑑賞した時の印象はどうじゃった」
主「全く意味がわからなかった!
単純に退屈だよね。意味がわからないのはいいんだよ。ぶっちゃけていえば、初見時に意味がわかった押井作品なんてないからさ。
当時、ブログを始めてなくてよかったと思うのはこういうときで、おそらく酷評していたと思う。最近だとイーストウッドの『ハドソン川の奇跡』がそこまで酷評はしていないけれどモヤモヤした気持ちがあって……今ならあの省略のうまさと本質のみを汲み取った映像表現の素晴らしさというのは理解できる。
多分『ひるね姫』も後々理解できるんじゃないかな?
だけどこの映画は……押井作品は10年後に理解できるようにできているから。
その意味では今年は(2017年)はまだ10年には少し早いけれど、公開から9年過ぎてようやくやりたいことの意味がわかるような気がする」
亀「押井作品が10年後に評価されるというのは『イノセンス』などもそうかもしれんの。
いまだにあのCGの情報量を超えるCG映画はほとんど出てこないし、明日公開されても何の違和感もないクオリティの作品になっておる」
主「今思うと驚愕だよね。全く意味がわからない。日本アニメってこの10年何やっていたの? と思うレベルだよ。
まあ、それはそれでいいとして……実は押井守がスカイクロラで試みたことはすべての物語表現における、究極の表現なのかもしれないと最近考えるよになってきたんだよね」
亀「それは絶賛じゃの」
主「まあそれは言い過ぎだとしても、この映画は無視されてはいけない映画だと思う。
じゃあそこについてこれから語っていくか」
亀「この解説を読めばスカイクロラが100倍面白くなりそうじゃな」
主「いや、面白くならないよ。
むしろもっと退屈になると思う」
亀「……なぬ?」
『退屈な映画』
亀「退屈になる? 語るべきことが多いのに面白くないのか?」
主「面白くないよ。
自分はこの映画を過去に2回見ている。公開初週の時と、リバイバル上映の時。リバイバル上映の時は池袋にある新文芸坐で公開されていた『押井守オールナイト』があって、押井さんのサインが入ったスカイクロラの絵コンテ集が当たったんだよ! まあ、それはいいとして……その時に劇場で見たけれど、その時もやっぱり印象は変わらなかった。
『この映画つまらないな』って。オールナイトだったこともあって、ちょっと寝ていたくらいだし」
亀「まあオールナイトあるあるじゃな。すべて寝ないで見るということは稀なことで、案外そんなものじゃよ」
主「じゃあ、なんでそんなつまらない作品をこれだけ語りたいのかというと、それはこの映画が『つまらない』からなんだよ。これほどまでに『つまらないことに意味が有る』という映画は他にないかもしれない」
亀「ふむ……その意味は何じゃ?」
主「じゃあ、まずは質問だけど、この映画ってジャンルでいうとアニメ映画以外で区別すると何になると思う?」
亀「そうじゃの……SF、とはちょっと違うし……戦記物に近いのかもしれんが、戦争描写もそんなに多いわけでも派手なわけでもないしの。冒険活劇でもなく、少年少女の成長話でもなく……難しい話かもしれん」
主「自分はこの映画は『日常系』だと思うんだよ」
2 日常系アニメとしてのスカイクロラ
亀「日常系? もっとこう、萌えな女の子や男の子が出てきて、何にも起こらない日常をボケっと眺めるジャンルなのではないかの?」
主「まあ、そうだよね。2008年となると『けいおん』が放送開始された年でもあり、ここから日常系ブームが始まっていく。
そしてそれが支持されて、今でも一大ジャンルとして成立しているわけだけど……実は、この手の日常系アニメというのは、細かいことを言えば日常を扱ったものではない」
亀「ふむ。
この辺りの解釈というのは難しいが、多くが高校生の……特に女子高生の日常を扱ったものじゃ。その多くが期間限定の日常であり、毎日がイベント日のようなことが起きておる。
そしてその視聴者の多くが女子高生ではないであろうということを考えると『ファンタジーな日常』ということもできるの」
主「高校生ってそんなにキラキラしてばかりではないはずなんだよ。3年間もあるけれど、じゃあその3年間がずっと楽しいですか? と問われるとそんなことはなくて、もっと未来が見えないことや、閉塞感だってある。
1日のうちでちょっとだけある面白いところだけを切り取って、再編集しているようなものだから、楽しそうに思えるけれど……
日常というのは何も起きないから日常である」
ただただスクーターに乗るだけの日常
サザエさんとスカイクロラ
亀「ただ、そう考えると日常系アニメというのは別に今に始まったことではあるまい。それこそサザエさんやちびまる子ちゃんのような、一般的な家庭を扱った物語というのはたくさんあるではないか」
主「そうなんだけれどさ……実は、スカイクロラが描いたものはこれらの作品とわずかながら共通項がある」
亀「それは?」
主「登場人物が成長しないこと、歳を取らないことだ。
自分が10年前に見ていたサザエさんと、今のサザエさんは基本的には変わらない。いや、登場人物が増えていたりはするけれど、波平は相変わらずサラリーマンだし、カツオもワカメも小学生で、イクラちゃんはバブーしか言えない。
それは時が止まっているのと同じであり、2時間で表現したのが『歳を取らない子供たち』つまりキルドレの存在である」
亀「成長しない者たちの日常系アニメ……その意味ではサザエさんなどと確かに同じかもしれんの」
主「ただ、サザエさんなどと明確に違うのは『世界は変わる』ということだ。日常系アニメの多くは時代が変化しない。キャラクターの成長と時代の変化というのはイコールの関係になっていて、キャラクターが成長するときは世界の時間も進むし、成長しないときは時間が止まっている。
だけど、この映画においてはそこがイコールではない。それがこの作品のすごいところなんだよ」
3 世界の動きと成長
亀「多くの日常系作品というのは、変わらないことを売りにしておる。じゃが、本作は取り残されることをテーマにしておるとも言えるの」
主「だから他の日常系アニメが『癒し』を求めているものだとしたら、本作は真逆のことをテーマにしているわけだ。
そしてそれがこの映画の特異性であり……そしてつまらない理由でもある」
亀「ふむ……淡々と続く日常というのは、確かに面白いかと言われると難しいものがあるの」
主「そうなんだよ。
つまりさ、本作が他の日常系作品や映画と違うのは『変わらない日常』を売りにしていないから。
『世界に取り残されてしまう、変わることのない自分の日常』というものをテーマにしているからだ。
だけど、本当の日常ってむしろこっちの方であって……あれだけ楽しいことが毎日起きる日常というのは、ありえない。
日常って平凡でつまらないことなんだよ。
だから日常なんだ、常の日、なんだよ。
その意味では繰り返される非日常、文化祭の前日ということを延々とループしていた『ビューティフルドリーマー』の対極にある作品と言えるかもしれない。うる星やつらもギャグ寄りの日常系アニメに分類はされるだろうけれど……やっぱり繰り返される日常というのも逆手に取った映像作品だったわけだ」
亀「じゃが、そのある意味では動きがないような物語作品が面白いのかと問われると、難しいところじゃの」
主「本作が評価されないのもある意味当然の話であって、物語というのは『非日常』のものなんだ。冒険に出かける、誰かと恋に落ちる、大きな事件が起きる……そういった非日常がドラマとなる。
だけど本作はその非日常を極力排除した。
ディレクターズカット版ではこの映画で唯一派手なシーンである空戦シーンもカットする予定と語っているけれど……まあ、それが作られることがあるのかどうかは知らないけれどさ、この映画は『地上で暮らす者の日常』を淡々と描いた映画だ。
そしてそんな映画が面白いわけがない。つまらない。だけど、つまらないことに意義がある」
変わらない日常に違和感を覚える三ツ矢碧。ちなみに本作で1番好きなキャラクターです。
優一と水素
亀「そう考えると主人公の優一と水素の関係というのも、なかなか象徴的なのもかもしれんな」
主「空を飛ぶこと、戦うことに意義を見出している優一は地上で何をしても心が動かない。閉塞感でいっぱいになっている。何をやっても過去に体験したような気になってしまうし……それが本当に体験したのかどうかはわからないけれどね。
これって今のインターネットに触れている若者と同じようじゃない? これほど高度に情報化してしまった社会において、調べれば誰かが必ず何らかの情報は与えてくれる。その真偽はともかくとして、ね。
だからこそ何をやっても知っているような気にもなってしまうし……まあ、どうなるか何となく想像ができる」
亀「例えば就職や結婚という重大なことであろうとも、何となくどうなるかわかってしまうというかの」
主「だいたいどのクラスの会社に就職したらどんな生活が送れて、どんな仕事をやるかって何となくわかるじゃない? そこに……人生が変わるほどの劇的なことってほとんどない。
だから優一は女を買おうが酒を飲もうがパーティーへ行こうが、つまらなそうなんだよ。
白けているんだよ。それこそ、シラケ世代の象徴である」
亀「一方の水素はというと……こちらも似たようなものかもしれんの」
主「子供を産んでみたけれど退屈な日常は変わらず、空を飛ぶことも辞めてしまい、新しい男と付き合ってみるけれど……それも慣れてしまえば日常なんだよ。
子供を産む、育てる、恋愛をする……それ自体は確かにビックイベントかもしれないけれど、それをずっと行っていくとそれすらも日常になっていく。だから水素も反応が鈍いわけだ」
4 選択が示すこと
亀「じゃが、この両者のラストが全く違うものになってしまったの」
主「優一はあのような行為に走り、それを見送るのが水素の役割になった。ここがすごく……今なら深く突き刺さる。
あのラストの意味を考えてみる鍵は『ディレクターズカット版では空を飛ぶシーンもカットする』という言葉にある。
確かに空を飛ぶという行為は楽しいかもしれない。だけど、それはあくまでも『日常の中の非日常』でしかないんだよ。いつかは空から帰ってくるし、生活の場は地上にしかないし、仲間や友人も地上にしかいない。空を飛んでいるときに触れ合えるわけではないからね」
亀「優一は空を飛ぶことを選択したがの」
主「あの選択の意味って、結局は『日常の否定』なんだよ。きっと空に何かあるはずだ、楽しいことの先に何か新しい世界があるはずだと無謀な挑戦をして、散っていく。
それはそれで男冥利に尽きるかもしれないけれどね。自分の理想とともに殉死するんだからさ、ある意味ではハッピーエンドなんだよ。
自分が生きる日常を否定して、空の上で華々しく散る。その姿に人は感動するかもしれない。それは三沢光晴を『リングの上で死んだんだから本望だよな』というのとと一緒かもね」
亀「野球選手なら球場で、格闘家ならリングの上で最期を迎えるというのが1つの美学としてあるかもしれんの」
主「だけど本作はそれを決して華々しくは描かなかった。
ここが素晴らしいけれど、物語として娯楽性を高めたり、人々の印象に残るようにするには、その最期を魅力的に描くというのが非常に重要になってくるわけだ。カタルシスを1番感じる場面なはずだからね。
しかし押井守はそれを選択しなかった。なぜか? そこには『生きる日常』がないからであり、実は押井守の思想ではその自決精神というのは負け犬の論理でしかないということだからだ。
アーチャーの台詞を借りるなら……『理想を抱いて溺死しろ』ってところだろうな」
飄々としていて何かを分かっているような土岐野
水素の変化
亀「……一方の水素は生き残ることになったの」
主「それが本作における1番重要なポイントで……エンドロール後に水素の映像が入るじゃない? それって、本当に小さな変化なんだよ。初回に見た時は1番、物語におけるカタルシスにつながるであろうラストシーンにおいて、なぜあんな地味な絵を持ってきたのか全く理解できなかった。
だけど、それって実はすごく尊いことなんだよね」
亀「日常の積み重ねの先は……何も変わらないような世界においても色々なものが変わるということじゃの」
主「実は日常って日々変化している。
だけどその変化にはほとんどの人が気がつかないし、映画や物語になるような劇的な変化は滅多に起こらない。そしてそんな変化があったとしても、すぐに日常に戻ってしまう。
だけど、その日常こそが実は何よりも尊いものであるわけだ。それを……東日本大震災を知った今の日本人なら嫌という程知っているはずだ」
亀「当時は東日本大震災の発生前じゃったが、その閉塞感の打破というのも大きな話題になっておったの。特に若者に未来がない、というのが大きな問題であり……これは今でも、世界的な問題かもしれんな」
主「だけど、その閉塞感を打破するような、優一で言えば空を飛ぶようなことはイベントというのはほとんどない。あったとしても、必ず日常に戻ってくる。だけど、その中の日常に戻って来れば実に様々なことが起きる。
誰かが好きだと言ってくるかもしれないし、呑みに誘うかもしれないし、ボーリングに行くかもしれない。そんな小さな『変化』を繰り返し、全く何も進んでいないように平凡な人生を歩むこと……実はそれが『生きる』ということの正体かもしれない」
本作の映像的革新
亀「では、ここいらで本作の映像について少しだけ解説を加えておこうかの」
主「この作品がまた偉大なつまらなさに満ちている理由として、人物を動かさずに背景や物を動かしたことがある。
この映画は日常を、カタルシスのない日々を扱った映画だから、映像的享楽があってはいけないんだよ。
だから凄腕のアニメーターたちに『動かすな!』って何度も注意したと明かしている」
亀「普通、アニメーションというのは『動くこと』に注目をするメディアじゃが『動かないこと』に注目するということをとんでもないことじゃな」
主「その代わり、背景描写などにはすごくこだわっていて……本作の協賛企業が読売新聞だけど、作中でキャラクターたちが新聞を読んでいる。その新聞も実際に劇中の記事を実際に紙面に書いて、新聞で印刷をして、そして作画をしている。
そうすることでインクのにじみ具合や紙の質感なども絵で再現できるからだ。この手間がクオリティを生むことになる」
亀「他にもCGで作った酒瓶などに1枚1枚ラベルをきっちりと貼ったりしているの。『イノセンス』におけるコンビニのシーンなどの情報量の高さもそのような1つ1つ小物を作り上げることに由来しておるが……あれほどの分かり易い情報量に負けないながらも、こともなくサラリと、淡々と見せてしまうということが驚愕じゃの」
主「技術を引けらかすことは誰でもできる。だけど、その技術を『すごくないように見せる』というのは、トンデモナイ技量がいる。それこそクリント・イーストウッドが『ハドソン川の奇跡』で見せた手腕のようなものだよ。
じゃあ、なぜそんなに手間をかけてまで背景に気を使ったのかといういえば……それはその世界を、普通の日常を描くことを重視したからだ」
5 押井守の失敗
亀「じゃが、それが成功しているかというと……それはある意味では大成功じゃが、いろいろな意味では失敗しておるの」
主「まず、第1に映画の存在意義だよね。
みんな映画では『非日常』を楽しみに来ているわけだ。それは現実を忘れさせて、物語という架空のお話、夢物語を求めているからだ。
だけど、この映画は日常を扱っている。つまり夢物語を求めてきた観客は、あまりにもカタルシスのない物語に肩透かしを食らってしまう。それは自分も同じだよ」
亀「映画として観客が求めるものを提示することはできておらんの」
主「でもさ、この映画を作った意義って自分みたいな人間にはすごく大きくて……よく『日常と非日常』とか『虚構と現実』についてこのブログでは触れるんだよ。例えば『ラ・ラ・ランド』とかさ。
みんな当たり前のように現実を生きていると思うかもしれないけれど、物語を提示するということは非常に危ういことでもある。なぜならば、物語の世界から戻ってこれなくなる可能性があるからだ。オタクなんてそうだよね、現実に存在しない相手に熱狂し、お金を貢ぐ。
だけどそんなことをしても製作者は潤うけれど、そこに日常なんてない」
亀「現実に存在する女の子に貢いだ方が、まだ建設的と言えるかもしれんの」
主「リアリティがあるとか言うけれど、そんなものの多くが偽りなんだよ。だって、リアルにはそんなドラマがほとんどないからさ。
リアルな映画というならば、自分はこの映画が1番リアリティがある映画になる。
日常というもの、これでもかと描いたから。だからつまらない。だから尊い。
日常ってそういうものでしょ?
つまらない故に尊いものだからさ」
亀「それを映画で見せられてもの……」
本当に何気ないシーンの積み重ねの日常
ターゲット層の失敗
亀「この映画が公開された時、押井守はメッセージとして『僕は今、若い人に伝えたいことがある』と語っておったの」
主「じゃあその語りたいことって何かと言ったら、それは『日常の尊さ』と『日常を生きるしかない』ということなんだよ。
言葉にするとすごく当たり前で、若者なんて特に聞く耳を持たないような言葉だけどさ……でも、否定しようのない真実だ」
亀「理想を追ったり、変な夢を追うことはやめて、とりあえず今日1日を生きなさいという考えじゃの」
主「すごく仏教的だよね。仏教は『今を生きる』ということを説いた宗教だから。楽園とか本当の自分なんてものはなくて、ただ目の前の人生しかない。その先にしか、生きることはない。
それを本当は伝えたかったんだと思う。ただ、これはトークショーでも明かしていたけれど……失敗した」
亀「オタクやおじさんはこの映画を見に来たが、本当に何も持たないような、空虚で閉塞感に満ちた人は映画すら見に行かなくなっていたという話じゃの」
主「もはや映画が大衆娯楽ではない、ということかもしれないね。
昔なら『暇だからとりあえず映画を見るか』になったかもしれないけれど、今は映画を見るというのは結構能動的な行為であり、自発的にいきたいと思った人しか観ないものになってしまった。落語を聞きに寄席に行くのと一緒。
それはデータでも出ていて、日本人が1年間に映画館に行く回数は平均で1.3回だ。
そして1年に1回でも映画館に行った人は35パーセントで年々減っている。つまりさ、自分みたいなヘビーユーザーばかりが映画業界を回しているんだよ
亀「映画は社会を写す鏡とならなくなってきているのかの……」
主「じゃあそういう人は何をしているのかといえば、今ならTwitterやソシャゲになるだろうし……2008年はそこまでこれらが流行していなかったということ考えると、まあアニメやテレビやネットをやっていたのかもしれないけれど、とりあえず映画館に行こうとはならなかった。
オタクやおじさんはどうでもいいんだよ。おそらく日常を楽しく生きているしさ。閉塞感もそんなにないだろうし。だけど、本当に閉塞感がある人たちは……この映画を見なかった。
それが押井監督の最大の失敗だよ」
最後に
亀「これ以上語ってもまとまりがなさそうじゃから、とりあえずここいらで1度打ち切るとするかの」
主「自分みたいに毎日のように映画などの物語を見て、それを語る人間にはこの映画の語る日常の重要性ってよくわかる。だってさ、どれだけ映画が面白くても、どれだけ物語が好きでも一生映画を見ているわけにはいかないんだよ。
ご飯を食べて、寝て、排泄して、仕事へ行って、風呂に入って……例え独身の1人暮らしだとしても、最低限これだけのことはしないといけない。結婚していたらさらに配偶者や子供の世話もあるし、両親と同居ならば、場合によっては介護をしなければいけない。
じゃあさ映画を見て楽しんでいる非日常と、何も変わらないかもしれない日常、どっちが重要かと言われたら……そんなの後者なんだよ。前者だっていうなら、いますぐ会社を辞めて家を引き払って、ずっと映画館にこもる」
亀「当たり前のことじゃの」
主「だけど、この当たり前を映画で語ることが如何に難しいか!
だからこそこの映画は偉大であり……そして失敗作だとも思う」
亀「……押井監督は次のアニメ作品は撮らないのかの?」
主「押井理論では映画監督の勝敗は『次の作品を撮る権利を保留すること』と語っている。つまり、いつでも映画を作ることができる監督が勝者だという理論だ。そこは一貫しているよ、特攻隊や心中や殉死を全く評価しない人だからね。
だけど10年過ぎてアニメはまだ新作が作れていないし……まあ、短編を作るなんて話もあったけれど、もしかしたらいよいよ監督としての勝敗論では負けたのかもね」
亀「それはそれで残念じゃの」
主「だけど一押井党としては、この映画がラストになってもそれはそれで美しいと思う。
最後がこの映画だということは……なんだか映画監督が辿り着いた最後の境地のようで好きなんだけれどね」
亀「……主の主観では美しいのかもしれんがの」
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