物語る亀

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物語愛好者の雑文

映画『関心領域』ネタバレ感想&評価 今作の感想論争こそが関心領域だなぁ

今回は映画『関心領域』についての感想記事になります!

 

この規模の洋画を扱うのは久々かもしれんの

 

ポスター画像

 

カエルくん(以下カエル)

なんか、映画界隈で盛り上がっているらしいので、喜んで見に行きました!

 

亀爺(以下亀)

今回は前半が映画としての今作の評価、後半が映画を通して主が感じたことと言う形で書いているの

 

カエル「その意味では、ほとんどの人に後半は無意味に感じるかもしれません。

 単純に映画の評価が知りたい方は前半のみを読むことをお勧めします」

 

亀「それでは、早速じゃが記事をスタートするかの」

 

 

 

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Xでの短評

 

 

Xに投稿した感想

なにか話題になっているようなので喜び勇んで観に行きました
あまり得意なタイプではない映画でしたが、これはこれで完成されていると感じます

 


アウシュビッツの隣にある一般家庭を描写した作品という事前知識がないと、なんだこれ? となる映画ではありましたね

途中で会話が挟まれるので、もしかしたらそこで初めて「今まで聞こえていた音はアウシュビッツの音だったんだ」と知る仕掛けだとしたら、この映画の物語の事前情報が知られてしまった時点で評価がちょっと難しいのかなぁ
なんだこれ? とならないのが、この映画を理解する上ではダメなポイントなのかも

 

(そう考えると一部で「ナチス」「ヒトラー」という単語がタイトルにないのを賞賛されていましたが、それはナチスドイツ関連作品ということを少しでも遠ざけたいという意図も働いていた?)

 

音響のいい映画館だったらもっと評価変わったんだろうなぁ…ちょっと音響が悪い映画館で観たので、音の演出の効果が薄れてしまいました

 

劇場内に響き渡った寝息と、この映画の感想が揉めているということが、今作の最大の価値なのかもしれません

 

 

 

 

 

 

感想

 

それでは、感想から始めていきましょう!

 

今作は映画や映像芸術において何を求めるのかが、問われている作品かもしれんの

 

カエル「アメリカアカデミー賞の国際長編映画賞と音響賞の2部門を受賞ということでも話題になっている作品だよね。

 そのために、それこそナチス問題など世界の歴史や事件に関心がある観客も多くて、観に行った方の中でも評価が割れている印象です」

 

亀「はっきりと言ってしまえば、エンタメとして、娯楽として面白い映画ではない。

 近年の固まった脚本術であったり、特徴的な派手な映像演出や、音楽や役者・キャラクターを用いた娯楽要素は、ほぼないと断言してもいいかもしれん。

 しかし、映画の価値とは何であるか? ということを問うような作品かもしれんな」

 

映画の価値?

 

わしは、映画・および映像表現の価値とは”映像演出で何を伝えるのか”が最も大事だと考えておる

 

カエル「つまり、物語とかキャラクターや役者の感情の変化ではないと?」

 

亀「それを否定することはしないが、物語を重視するのであれば漫画・小説・演劇・落語などの話芸など何でもいいじゃろう。なぜ映画という映像表現媒体を選んだのか、その理由を問えば、それは”映像でしか伝えられないもの”があると思ったからではないか?

 そして今作は、それが大いにあったと言えるじゃろう」

 

今作が”映像表現”で伝えたかったものとは?

 

じゃあ、それは一体何かということを、先に言ってもらっていい?

 

まさに”映像と音の不一致じゃな

 

カエル「……不一致? 一致じゃなくて?」

 

亀「映像表現、特に映画という媒体は人間の五感の中でも視覚と聴覚に大きく依存する表現媒体じゃ。つまり、映像と音声じゃな。

 今作が映像面で語りかけるのは、まさに日常の光景じゃ。

 ドイツの一般……というには少し違うかもしれんが、ある家族のほのぼのとした物語。日常というのは、ある種変化もなく平凡ではたからみたらつまらないものじゃから、今作がつまらないという意見も、よくわかる。

 一方で音声で聞こえてくるのはアウシュビッツの中で起きているあまりにも凄惨な現場の音声。

 その”映像の日常””非日常の音声”のギャップこそが、今作の鍵なわけじゃな」

 

その凄惨な現場を一切見せないわけだもんね

 

これは映画、あるいは映像媒体でしかできないことかもしれん

 

亀「小説・漫画のような音声のないメディアはもちろん、映像のない話芸でも、行動範囲が限られる舞台でも難しい。

 つまり、映画・および映像媒体だからこその不一致さを持って、不気味に成立する物語表現である。

 その意味では2024年に観た作品では、最も”映画である必要性がある作品”と言ってもいいじゃろうな」

 

 

 

 

語られすぎた? 日本での公開

 

ここで1つ今作を理解する上でとても大事なポイントがあるとのことだけれど……

 

今作が”アウシュビッツの隣の家”という設定を知っているか? というポイントじゃな

 

カエル「今作を観に行かれる方は映画を普段から愛好している方が多くなりそうなので、この設定は知っている人も多そうだね」

 

亀「わしは、正直に言えばこの設定を知らない方がいいのでは? と思った。

 確かにその設定を知っていた方が、冒頭の描写も含めて理解が深まるような気がする。しかし、それではこの映画で本来意図したかもしれない『なんか変だぞ?』という違和感が、一切なくなってしまうかもしれん。

 『変な映画だなぁ……』から始まり『なぜ悲鳴が?』となり、そして積荷などの会話から『もしかして……』となり、最後に『うわ、今までの描写って……』となるのが、本来の狙いなのかしれん。

 そこを知ってしまっていたからこそ……つまり”知識”と”経験”の違いというか、知識が先行してしまったことにより、経験するチャンスを逃してしまったのかもしれんな」

 

今作が語りかけたこと

 

あとで主が適当なことをいうけれどだ、亀爺は今作が語りかけたことをどう解釈するの?

 

ワシは……そうじゃな、やはり関心領域ということになるかもしれん

 

カエル「関心領域? タイトルそのままだよね?」

 

亀「今作の評価が割れているようじゃし、Xではその感想も揉めていると聞いている。ワシはよくわからんが……それこそがまさに、関心領域じゃろう。

 この映画を面白いと思った人は、この映画が語りかけることに関心がある。

 逆につまらないと感じた人は、この映画が語りかけることに関心がない。

 単純にそれでいいとすら思っている。

 実際、映画としては劇的なことが起こらないので、それをつまらない称するならば、今作は面白くない映画じゃしの」

 

 

以下ネタバレあり

 

 

 

 

懐疑主義・冷笑主義者による作品考察

 

コーヒーブレイク

 

さて、ここからは主の感想というか、考察というか、うがった作品評価という話なんだけれど……

 

その前に、缶コーヒーだけれど飲む?

 

カエル「あれ、主……どうしたの急に?

 コーヒーなんて珍しい。

 せっかくだし、もらおうかな」

 

主「コンビニのキャンペーンでプレゼントされたんだけれどさ、コーヒー飲むと眠れなくなるから飲めないんだよね」

 

カエル「カフェインがダメなの?

 あれ、でもお茶はガブガブ飲んでいるような……」

 

主「自分でもよくわからないけれど、お茶のカフェインはいくらでもいいんだけれど、コーヒーがダメでさ、だから誰かに飲んでもらいたくて。

 ちなみに自分はチョコでも食べてブレイクするよ」

 

……いや、たまにはゆっくりするのもいいんだけれど、この会話は何? しかも冒頭に”懐疑主義・冷笑主義”なんて自虐もつけて

 

まあ、この映画を語るときに色々な視点から語ってみたいと思ってさ

 

ちなみに……今、うちらが弱者に対する加害行為をしているという意識はある?

 

……何言っているの?

 

コーヒーやチョコに対する”関心領域”

 

コーヒーやチョコを飲んだだけで、弱者に対する加害行為ってどういうこと?

 

だって原料のコーヒー豆やカカオ豆って、生産者を過酷な環境に追い込んで先進国が利益を独占している象徴的な商品・原料だよね

 

カエル「……確かに、言われてみれば、そんな話を聞いたことがあるかも……」

 

主「コーヒーやチョコの原料は発展途上国で栽培されているけれど、かなりの安値で買われているのが現状だ。児童労働や女性の搾取も含めて、様々な問題の温床と言われている。

 そしてそれを防ぐためにフェアトレードという制度があり、生産者を守ろうという動きもある」

 

ethical-leaf.com

 

ということは、このコーヒーやチョコもフェアトレードの製品?

 

いや、適当にコンビニで買った&貰ったから、そこは全く重視していない

 

カエル「え、何が言いたいの?」

 

主「つまり、普段我々の生活の関心領域っていうのは、その程度だってこと。

 この問題を知ったら、あるいは今言われて『フェアトレードの商品を買おう!』と思う善良な人もいるかもしれない。だけれど、それが習慣化する前に、もっと安いものを求めるようになるかもしれない。

 今あなたが”安い!”と思っているもの、その裏では弱者である生産者がないているかもしれませんよ、と言っても……まあ、ほとんどの人にとっては『知らん!』て反応になるんじゃないかな」

 

関心領域という映画の悲劇性に気がつける理由

 

えっと、それがどう映画につながってくるの?

 

関心領域という映画の悲劇性に、なぜ気がつけるのか? という話だよね

 

カエル「そんなの、アウシュビッツのユダヤ人への蛮行に気がつけば、当然わかるよね?」

 

主「それはアウシュビッツという……まあ洋画を愛好する人であれば誰でも知っている人道的な大虐殺だからでしょ? って話。

 じゃあ、塀の奥がさっきのコーヒー豆の生産農家だったら?

 日本国内に限定したら、原料が上がっているけれど値上げができないと苦しむもやし生産者だったら?

 

命に関することと経済の問題はまた違うんじゃ

 

それはそうだね。じゃあ、ソマリアの現状は?

 

主「日本からは絶対に行くなと言われているほど凄惨な環境で、内紛や爆破テロが発生している環境下で暮らしている人々に、どれだけ常日頃から気を向けることができるのか?

 中南米の麻薬戦争でカルテルに苦しむ人々を、どれだけ想像することができるのか?

 世界中で起きている苦悩は、ガザやウクライナだけではないというのは誰もがわかっていながらも、日本で安寧と生活している現状があるわけだね」

 

その中で『今作に注目しなければいけない』と言える理由……それはアウシュビッツという、わかりやすい悲劇が扱われているからではないか? ということが言いたいんだ

 

 

 

 

我々が関心を向けることができる領域

 

……結局、何が言いたいの?

 

我々が関心を向けることができる領域とは、やはり劇的なものでしかない、ということだね

 

カエル「……劇的なものでしかない」

 

主「そう。

 最後に映された現代の映像があったけれど、あれは確かに衝撃的だった。そこにある確かに存在した人々の証に対して、明らかにそれを伝えるために展示しているのにも関わらず、清掃員はそこに関心を向けずに掃除を続ける。

 でも、それは当然と言えば当然だ。

 なぜならば、そこにいる人にはそれが日常だから」

 

人間は、そこにある悲劇性に目を向けなければ、無関心になることができる

 

主「例えば原爆ドームがあるけれど、そこだって日常的にいく場所ではない。そういう人もいるだろうけれど、多くの人は修学旅行などで人生で1回行くか行かないかって場所なのではないか。

 つまり、わかりやすい悲劇を体験する場所であり、それは日常ではなく非日常だからこそ注目できる」

 

それが日常だったら、その悲劇性にもそこまで心を奪われないかもってこと?

 

歴史の悲劇性を伝えるという行為は日常というよりは非日常的な行為だからね

 

主「つまり、悲劇性も日常であれば、人は簡単に慣れてしまう。人間は悲劇の日常もそういうものだと慣れることができるんだ。

 こうした出来事や映画に憤ることができるのも、それが非日常の出来事が強調されて描かれているからではないか?」

 

前提が簡単に崩れていく政治の一面

 

なんか話を聞いていると、ユダヤ人に非道なことをしたアウシュビッツのナチスドイツを擁護しているように聞こえるような……

 

もちろん擁護はしないけれど、これを単純に非難することが正義だと思うのであれば、そこには警鐘を鳴らしたい

 

カエル「……どういうこと?」

 

主「国家が理由を持って人を殺すという意味では、死刑もまたそうだろう。そして日本は刑法で死刑がある国であり、世界ではそれを非難する声も大きいが、日本国内の世論調査では死刑維持を支持する人の方が多数派だ」

 

罪を犯した死刑囚と、何の罪もないユダヤ人を一緒にしちゃダメだよ

 

だから、そこがこの映画が語る”関心領域”の1つなのではないか? ということ

 

主「日本人の多くは……自分も含めて”重犯罪に手を染めたら、司法の手によって死刑は仕方ない”という感覚があり、一定のコンセンサスがある。

 その『死刑囚であれば〜』がナチスドイツであれば”ユダヤ人であれば〜”になり、国家による残虐な行為という意味ではポルポトを例に挙げると”知識人は〜”ということになる。

 社会や政治が変わればその理由が入れ変わり、該当する人物を無下に扱っていいとなる可能性がある。

 そして、民衆は”なぜもっと早く執行しないんだ?”ということを、簡単に言うようになる。『なぜ死刑をもっと早く執行しないんだ?』と言うように、ね」

 

あの家族や母親の姿に、我々がならないと……今まさになっていないと、なぜ言えるのだろうか?

 

主「アーレントの『悪の凡庸性』の言葉が取り沙汰されているが、アイヒマンは裁判で悪を行おう!と思っていたわけでも、ユダヤ人が憎かったわけでもなく、ただただシステムとして行なっていたことが明らかになっている。

 そして一般大衆もユダヤ人を告発することが社会正義となった。

 我々がいつか、そうなる可能性がないと、なぜ言えるのだろうか?

 その可能性にも目を向けるべきなのではないのか

 

 

 

 

映画の感想と誤読

 

……じゃあ、ボク達はどのように関心領域を広げて生きるべきだというの?

 

そんなの、個々人が適当に決めていけばいいんじゃない?

 

カエル「……なんか、適当なじゃない?」

 

主「これも最近よく語るけれど、映画に限らず表現とは”作り手と受け手の相互誤解によって成立”する物なんだよ。監督がどのような意図で今作を作ったかに関わらず、そしてその想定する観客に日本人が含まれていようとなかろうと、今作は公開された。

 今作を見てもっと世界を知ろう、アウシュビッツを許せないと考える人もいる。

 一方で映画としてつまらない、この問題に全く関心がないという人もいる。

 もしかしたら、その両方とも作り手の意図からしたら誤読かもしれないけれど、でもそれでいいんじゃないのって話」

 

むしろ、この映画を観て”この映画の感想が理解できないやつは〇〇だ!!!”みたいになったら、その方が危ない

 

主「その一体感は確かに気持ちよく、誰もが正しいと思うことに個人も身を委ねることはいいことと思うかもしれない。だけれどバーリンが語ったように、一元論ではなく多元論が重要なのではないか」

 

自分としては、今作の感想はその人の関心領域を示すだけでいいんじゃないかって思っている

 

主「この映画を観て『ナチスのことをもっと知ろう、世界を知ろう!』と語るのもいいし、それを啓蒙するのもいい。

 一方でこの映画で語ったことだって真実を元にしているとはいえ、全部フィクションなんだって割り切ることもできる。

 つまんないって言ってもいいし、自分は何ならば寝息が響いた映画館を愛するし、帰り道にアイスを食べながら歩いて帰ったんだよね。

 それはこの映画が語ったことに対して冷笑的な態度に見えるかもしれないけれど、それはそれでいいんじゃないかって。

 自分の関心領域がどこにあって、どのようなものなかを確認できれば、この映画を観た意義があるってものなじゃないの?

 

そしてある時にコーヒーを買うときにフェアトレードの商品を選ぶ……それこそが関心領域が広がったことであり、この映画を語ったこの記事が存在する価値になるんじゃないかね