物語る亀

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物語愛好者の雑文

クリエイター論をつなぐもの〜『ルックバック』『数分間のエールを』『響け!ユーフォニアム3』〜

 

今回はコラム的な記事になります

 

さすがに何も書かないで生産性もない日々に飽きてきたからね…

 

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カエルくん(以下カエル)

そう思うなら書くべき作品はいくらでもあるんじゃないの?

 

こっちも色々あるの、いやただの怠惰だけれど

 

カエル「それで、今回は『ルックバック』『数分間のエールを』『響け!ユーフォニアム3』の3つを繋げて色々と考えてみよう、という企画です。

 前者2つはクリエイター論としてわかるけれど、そこにユーフォが入るのが、多分意外と言われるんじゃないかなぁ」

 

主「そこに関しても色々と語っていこうと思うので、まあそこまで長くない記事で頑張るよ」

 

 

 

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クリエイター論としての3作

 

正反対の『ルックバック』『数分間のエールを』

 

まずは『ルックバック』『数分間のエールを』について語っていきましょう

 

この2作がクリエイター論を扱った作品という意見に、否定する人はかなり少ないのではないだろうか

 

カエル「どちらがより好みかは置いておくとしても、両者ともにクリエイターの苦悩などを扱った作品と捉えることが一般的だし、うちもそれが正しいという考え方だね」

 

主「ただし、両者が描いたものは180度異なるものだ。

 ここで簡単にまとめると、以下のようになる」

 

  • ルックバック → 成功した・才能あふれるクリエイターの物語
  • 数分間のエールを → 成功できない、才能が評価されないクリエイターの物語

 

この両者は似ているようで、描いていることは180度違うわけだ

 

ポスター画像

(C)藤本タツキ/集英社 (C)2024「ルックバック」製作委員会

 

カエル「ふむふむ……この辺りは両者の個別記事で語りたいところでもあるのかなぁ」

 

主「『ルックバック』をクリエイター論として語るのは間違いだとは思わないけれど、自分としてはあまり好きなタイプではない。なぜならば『ルックバック』は成功した、そして天才の物語なんだよね。

 もちろん子供時代に挫折を経験しているとかの指摘はあるだろうけれど、社会に出てからはとんとん拍子で成功している。そしてジャンプをモチーフにした漫画雑誌で連載して、1位も獲得して……って誰が見ても大成功しているだろう。

 そんなの、漫画家志望の中でも1%も……いや、何万人いても1人2人ってレベルの大成功、野球で言えばメジャーで総年俸100億円超え、日本でもレジェンドって言われるレベルの成功だ

 

そこまでに辿り着くのに努力もあったのもわかるけれど、それでここまでうまくいくわけではないってのは、誰でもわかるよね

 

一方で『数分間にエールを』は、プロまでも辿り着けない人の話

 

ポスター画像

(C)「数分間のエールを」製作委員会

 

主「いってしまえば、プロとアマチュアの壁すらも突破できない人。

 もちろん、その壁は分厚くて大きい。だけれど、そこから先がさらに厳しい。

 野球で言えば育成枠でもプロに入団できる人、なんならばノンプロ最高峰の社会人野球でプレイし続ける人だって競技人口からすればほんの一握り。そこにいくことすらできない……行けるか分からない人の物語。

 だからこの2作は同じクリエイター論を語っているようで、実は真逆の性質を持っているというのが、自分の分析だ

 

 

 

 

クリエイター論としてのユーフォ

 

その間にあるのが『響け!ユーフォニアム3』だという事だね

 

この選択が意外に思われそうだけれど、ちょっと説明してみよう

 

カエル「ユーフォは予想通り途中で各話感想も止まったけれど、全話鑑賞した作品でもあります」

 

 

 

Xに投稿した感想

ユーフォ3期感想
おそらくTVアニメとしては2024年屈指の作品になることは間違いなく、技術的な面でTOPであり現在のアニメシーンにおける最高の作品であることは疑いようがないでしょう
また2015年から10年弱の年月を総決算し、京都アニメーションというスタジオが辿った歴史と進化を見せてくれたことに関しても感無量です

その最大の強みは丁寧さだというのはアニメファンに共通するものではないでしょうか

 

ただしTVアニメーションとしてみた場合、その丁寧さが最も弱点でもあるな、と感じました

 

物語というのは作為的です

現実的、と言い出したら主人公がラスボスを倒したり、弱小高校が3年間で全国金や全国制覇を果たすことはかなり難しく無理がある
しかしその”あり得ない”が起こるからこそフィクションは面白い

 

ユーフォはその点において作為をなるべく排除し、丁寧に現実的な物語を追求しながらも終盤にかけて一気に物語性を強くしていった印象です
そのために5〜8話くらいの中盤が中弛みしてしまったのではないか、という思いもあります

 

一方でその丁寧さがあるからこそ最後の感動にも繋がるわけであり、そこはバランスの難しさですね
何かがダメだったというわけではなく、長所は短所、短所は長所という言葉通りならば京アニの強みと弱みが両方、しかも同じところで出てしまったという印象です

 

直接の感想は以上だけにして、ここでは”クリエイター論”としてのユーフォに着目しよう

 

カエル「ユーフォってクリエイターの物語なの?」

 

主「そこは色々な意見がありそうだけれど、少なくとも実演する演奏家としての側面は強調されている作品だよね。

 そして自分の意見として、ユーフォシリーズは……というか、京アニ作品の多くは”クリエイターとは何か、全体で製作するとは何か、アニメ制作とは何か”という側面があると解釈している。

 今作に関しても黒江真由を実力のある外部からきたクリエイターと解釈し、その人物が作品制作において重要なポジションにつくとき……つまり外部出身のクリエイターが作画監督や、それこそ監督になるということが、京アニ作品の中でありうるのか? というテーマを言外に語っていると思うし、全国金=いい作品のためにはありうるということを語った作品だと解釈する

 

だから12話の外部から来た人=黒江真由の例の展開は必然だったという解釈だね

 

むしろ京アニの”クリエイター論・アニメスタジオ論”を下敷きにすれば、その選択以外はあり得ないといってもいい

 

主「ここがファンの中で原作と違うから揉めたと聞いているけれど、少なくとも物語としては一貫していると感じた。

 それが面白いのか否か、というのはまた別の問題だけれど、少なくとも物語としては明確なメッセージ性があると思うよ」

 

 

 

 

両者をつなぐユーフォ

 

それがどうして『ルックバック』と『数分間のエールを』に繋がるの?

 

この両者の才能の違い、というものを暗に、そして偶然取り扱ったのがユーフォだからだ

 

カエル「それは以下のようになるんだね」

 

  • 高坂麗奈 → 成功した・才能あふれるクリエイターの象徴
  • 黄前久美子 → 成功できない、才能が評価されないクリエイターの物語

 

少し言葉が強いけれど、あえて『ルックバック』と『数分間のエールを』とリンクさせるように、右側の文章は弄らないでいる

 

カエル「つまり、麗奈が音楽家、実演家としてプロになれる存在、久美子がプロにはなれない存在としての対比であると」

 

主「ここで部活動ものという1つの強みが出ている。

 高校の部活動レベルだと全員が才能があるわけではないし、全国金賞だからといって一生それで食べていくわけではない。多分ユーフォシリーズだと……音大にいった先輩の鎧塚みぞれと、アメリカ留学した高坂麗奈くらいしか明言されていないのではないか。あとは描写的に実力者や先生に一目置かれていたクラリネット組、特にソロの高久ちえり辺りも音大進学してプロになる可能性がありそうなのかな。

 川島緑輝も実力は十分だろうけれど、最終話で社会に出たと言っていたから、多分プロの演奏家ではなさそうかな。

 まあ、でも何十人もいる中で音大進学時点でほんの一握りだよね

 

誰もが成功するわけではない、という当たり前の現状だよね

 

だけれど、プロになるだけが全てではないということだよね

 

主「その意味では久美子は上記では”才能が評価されないクリエイター(演奏家)”と表記しているけれど、プロになるだけがクリエイターの評価ではないということだよね。

 音大出身者だって全員がプロの演奏家になるわけじゃなくて、音楽教室の先生とか、色々な選択肢がある。そして久美子のように学校の先生になって、専門は音楽じゃない可能性もあるけれど吹奏楽部に顧問として接することもできる」

 

 

 

 

才能に対してどのように向き合うのか

 

そうなると、麗奈が12話で下した決断というのは、久美子の一生を左右するものなんだね

 

あれは麗奈が久美子に対して”プロになる、この先まで一緒にいられる才能まではない”ということだからね

 

カエル「言葉は強いけれど……それが重要だと」

 

主「話を映画の2作に戻すと『ルックバック』で語られたような才能の世界というのは、かなり極端な実力主義の世界だ。才能がないと誰も助けてくれない、チャンスもくれない、しかも才能や能力があったところで売れるのは運が必要な世界という究極の実力主義社会で生き抜いてきた、生き抜くことができる世界の人のクリエイター論であり、麗奈の世界だ。

 一方で『数分間のエールを』はそこの世界に行けないけれど、世界に対して自分の表現を届けたい。だけれどそのための才能・能力がない、あるいはあってもそれを届ける手段や運に恵まれない人の話である。

 だけれど、その表現が大好きで、諦めたくなくて、なんとか関わって行きたくて、その中でどのように生きるかという久美子の世界の話。

 ちなみに自分が惹かれるのは後者だ」

 

そのある種別れてしまう2つの考え方を統合し、同じ舞台で語ったのがユーフォであるという解釈なんだね

 

これって、とても重要なことだと思うんだよ

 

主「自分が『ルックバック』のクリエイター論に対してピンときていないのだけれど、この麗奈の価値観や指導についていける人、プロになれる人なんて超極一部なわけだ。

 もっとはっきりと言ってしまえば、ほとんどの人は『ルックバック』の中では藤野が編集に文句を言ってクビを切られそうになるアシスタント……いや、それでもプロだから、そこまですらいかない。

 99%の人はプロになれないし……そしてその中で鈍器を振り回したり、SNSなどで脅迫する人が出てくる」

 

『ルックバック』と『数分間のエールを』のクリエイター論は交わらないものなんだ

 

主「だからユーフォの物語が下した決断っていうのはとても大きいことでさ。

 久美子の将来を才能がある側の麗奈が宣告して、麗奈が特別であり続けながらも、その選択を久美子も受け入れるというのが大事なわけでさ。

 クリエイターのゴールはプロになることだけではない、としめす。

 これが『ルックバック』も『数分間のエールを』も示せなかったユーフォの着地点だし、この3作を比較すると見えてくるものなのではないかな」

 

原作改変だけが重要なのではなく、なぜその改変が行われたのか? ということを考えると、そこに込められたメッセージ性がなんとなく見えてくるのではないだろうか