今回の記事は映画の感想文とはちょっと違う。
いつも以上に個人の感情が乗っただけの、文章の羅列になることだろう。
それもまた一興、ということで、ご容赦願いたい。
amazarashiと『青の帰り道』という映画、そして私が藤井道人という監督に寄せる気持ちに対する、取り止めのない文章だ。
amazarashiについて
音楽の原体験
自分が音楽に興味をもったのは小学校高学年くらいの頃だった。
まだ100万枚以上のセールを記録するヒットソングが乱立し、街には音楽が流れ続けていた頃だ。だが、自分は世の中にある音楽の多くが良いものだとは思えなかった。
愛、恋、希望、夢、桜、花火……そんなものに、価値を見出せず、『何が日本の未来はWowだよ』と毒づくような少年だった。そこは今も、あまり変わらない。
そんな時、テレビのモノマネ番組で山口智充がさだまさしの『防人の詩』のモノマネをしているところを観た。
それまで、歌というのは個人のどうでも良い悩み事や、愛や恋だののことばかり考えていると思っていた自分にとって『愛は死にますか?』という哲学的な歌詞は、とても心に響いた。思えば、この頃から自分にとって音楽とは言葉であり、何を語るのかを重要視していたのかもしれない。
だから、自分にとって音楽の原体験はさだまさしで、中学生の頃は70年代フォークソングばかりを聞いていた。
それは坂本真綾との出会いによって、ようやく現代に戻ってくる。
amazarashiとの出会い
そんな人間だからか、amazarashiを初めて聴いた時の衝撃は大きかった。
どうしてもアニソンに偏りがちだったから、幅を広げようという意味もあって、若い頃はそれなりに新しい音楽を発掘しようとしていた時期もあった。ライブハウスに通ったり、路上演奏を聞いたり、阿部真央や大橋トリオがまだファーストアルバム(といっていいのかはわからないけれど)を発売した頃に注目しては、周囲にオススメしていた時期があった。とはいっても、阿部真央などはデビュー時から注目度は高かったから、そこまで熱烈に音楽に詳しいわけではないけれど。
その日もYouTubeにて自分が知らない音楽を探していた頃だった。
『つじつま合わせに生まれた僕等』
衝撃だった。
つじつま合わせ〜で語られていた物語は、まさしく自分があの頃の流行りの楽曲に抱いていた違和感に対するものだった。
『正義で殺される人 悪意で飯にありつける人 傍観して救われる命』
『誰もが転がる石なのに みんなが特別だと思うから 選ばれなかった少年は ナイフを握り締めて立っていた』
そんな”言葉”たちが自分を突き刺した。
そこには語るのも憚れるほど、切実な、叫ぶしかない怒りと哀しみ、言葉と祈りがあった。
寺山修司の革命
amazarashiのボーカルである秋田ひろむは青森県出身者だ。
太宰治と寺山修司を愛し、多大な影響を受けたと語っている。
自分も太宰と同じ無頼派である坂口安吾、そして寺山修司に多大な影響を受けているから、そのシンパシーを感じたのかも知れない。
不思議と、自分も好きになる作家などのアーティストは、北の地など雪深い地域に住む人が多い。おそらく深い雪に閉ざされた中で育つ孤独が、自分と合うのかも知れない。
まあ、今となっては県民性なんてほとんどなくなってしまったけれど。
寺山は”言葉”で革命を志した。
政治闘争を終えた後、演劇からの革命を目指して天井桟敷を立ち上げるとともに、詩・エッセイ・映画などと幅広い分野で活躍した偉大な人物だ。その彼の文章は、自分に言わせるとキレがいい文章で、市井の人々に対する深い洞察と愛で満ちている。
秋田ひろむも”言葉”で戦う詩人だ。
アルバムの中には詩の朗読が収録されており、切実な叫びが込められている。
最新アルバムである『ボイコット』もまた、言葉であることを強調していると感じられる。
寺山の精神というべきものが、秋田ひろむにもあると思っている。
歌詞で革命を果たす者たち
”Rockとは反抗である”
そんな言葉をよく聞く。その言葉自体に異論はなく、そのような魅力があることもわかる。
だけれど、今はいつの間にかRockが最もメジャーな音楽ジャンルの1つとなり、反抗の象徴だったものが市民権を得て、若者が誰もが憧れる存在となった時点で、Rockは多数派となり反抗されるべきものとなってしまった。総理大臣がロックバンドの楽曲を自身のテーマ曲のように扱った時点で、彼らは反抗の象徴であることが難しくなってしまったのだ。
それはフォークも同じだった。
さだまさしから始まった自分にとって、音楽とは風刺であり、言葉だ。
それは本当の意味で音楽が好きな人の態度ではないのだろうけれど。
だけれど、いつの間にかフォークも多数派のために愛や友情や希望など、薄っぺらなものを語るものになってしまった。それは時代とともに堕落した、などというつもりはなく、変容しただけであり、取り立てて怒ることでも嘆くことでもないけれど、やっぱりどこかしらで違和感があった。
その中でも……時には社会と戦う若者たちは出てきたけれど、やはり多数派のための恋愛ソングを歌う(歌わされる?)ようになってしまう。
そんな中で、フォークソングで戦う人がいる。
秋田ひろむと、高橋優は、あの頃の自分が愛したフォークソングを歌い続けるアーティストだと思っている。
『青の帰り道』
ようやく、『青の帰り道』の話に入ろう。
今回は、ネタバレが大いにあるので注意してほしい。
そんな自分だからこそ、amazarashiがエンディングテーマを歌った本作は、前々から注目はしていた。ただ、残念ながら自分の都合が合わずに劇場で鑑賞することができなくなってしまい、DVDにて鑑賞した。
そこには、思春期にもがき続ける姿が映っていた。
制服の着こなし方というのは、最も時代性が出るものだろう。男子の捲り上げたズボン、前を大きく開けたYシャツ、女子の紺のハイソックス、そして田舎道を蛇行しながら走る学生たち……まだスマホもない時代の青春が、そこに描かれていた。
自分は冴えないオタク学生だったけれど、こんな日常は嫌というほどに見つめていた。
残る者と、出ていく者
小さな社会で生きるのが正しいのか、迷ってしまうのは若者の性だ。
歌手になる夢を見て東京へ出ていく少女、カナを演じたのは真野恵里菜だ。ここに、本作の残酷なキャスティングが見え隠れする。今やグループ売りをするアイドルが全盛の時代において、ハロプロにてソロ活動で活躍した最後の大物と言えるであろう、真野恵里菜。そんな彼女に与えられた役は”大人の都合によって振り回され、個人としてボロボロになっていく歌手”というものだった。
本来やりたかったことができずに、大人の論理の上に売れるように着ぐるみを着せられ、消費され、ボロボロになった時に捨てられる。そんな役を、アイドルが演じていた。それまで可愛らしい女の子の役ばかりであったのに、そこにはこれが真野恵里菜の本当の姿ではないか? と思ってしまうような迫真の演技があった。
大人になっていく中で、取り残されているような気になる時もある。その焦りから、極端な行動に走るリョウの姿からは、その後の『デイアンドナイト』にも繋がるものがあった。
そしてタツオの選択は、大人からすると”なぜ”という言葉がつきまとうだろう。だが、それが若さだとしか言いようがないものだ。
大人たちの語るあるべき姿、自分たちのやりたいこと、できること、翻弄されていく人生……それらに立ち向かう若者たちの話が、ここにあった。
amazarashiの映画
『青の帰り道』は紛れもなく、amazarashiの映画だ。
本作の中で、どうしようもなく許せなくなるような、クズが現れる。彼は多くの女性たちに最低の行為を働く。
だけれど、ある瞬間呟くのだ。
「昔は本当だったのにな」と。
作中ではタツオと共に作り上げた、大事な楽曲がある。
amazarashiの『パーフェクトライフ』だ。
この歌を大事に大事に歌うのだが、ある日、あまりのショックな出来事が襲う。明らかにももクロをイメージしたと思われるアイドルたちが、パーフェクトライフを歌い踊るのだ。
これには、まいった。
これ以上の屈辱はなかった。
勘違いしないで欲しいのは、私はももクロが嫌いなわけではない。作中でも、ももクロをイメージしたと”思われる”だけであり、決して彼女たちを悪し様に描いていない。
ただ、秋田ひろむの歌詞を歌うのに、これほど真逆なアーティストもいない。”頑張れ”という声に打ちひしがれ、倒れ、涙を浮かべもがき、「amazarashiは暗い、負け犬の音楽だ」という世間の声に反感抱き、叫びつつけてきた者たちの音楽だ。
その言葉を、思いを踏みにじられた気がした。
カナの気持ちがよくわかる、最悪の展開であり、映画としてはとてもよくできた演出だった。
人生において、価値も負けもない
これは誤字ではない。
人生において、価値などない。
負けもない。
『なんもねえ人生』だ。
作中で登場する7人の中で、誰が勝ち、誰が負けたのか?
町を出て行った者、町に残った者、夢に敗れた者、人生を辞めた者……誰が勝ったのか?
答えなんて、あるはずがない。
”あなたの人生に価値がある”
”生きている意味がある”
そうかもしれない。
だけれど、そんな言葉に苦しみ、足掻いてきた者もいる。
不要不急と連呼されても、最も不要なものが自分の人生というのは、笑い話にもなりはしないか。
藤井監督は、この映画の中で明確な勝ち負けを作らなかった。
残った者も、失敗した者も、亡くなった者も、全員を同じように見つめていた。
だからこそ、これほどまでに響いたのだ。
藤井監督について
映画とは同時代的なものである
映画とは同時代的なものである。
最近、特にそれを痛切に感じることが多くなった。別に過去の名作たちにケチを付けるつもりは一切ないが、自分と同じ時代を生きた他者が撮る映画たちには、過去の名匠たちのフィルムとは違う”何か”が含まれていることが多い。
リリアン・ギッシュの笑みの衝撃を。
『自転車泥棒』の時代性を。
ゴダールやヌーヴェルバーグの新しい波を。
アメリカンニューシネマの革命を。
本当の意味で、当時の人と同じように感じることができるだろうか?
自分は難しいと思う。
映画とは同時代的なものであり『公開初日(あるいは公開から1ヶ月以内)に劇場で多くの人とその作品を観た』という経験こそが大事だと思っている。
(もちろん、逆もあるだろう。今だからこそ過去の名作を見直して、当時では得られなかったであろう大きな発見があるパターンもある)
もちろん、だからと言って、過去作を見なくてもいいという話ではないけれど。
同時代に、同世代で生きる者との出会い
しかし、この同時代性というのは難しい一面もある。
というのは、同じ時代に生きているからこそ、却って自意識が邪魔をしてしまって評価ができなくなるパターンもある。
例えば私は一時期小説が好きでよく読んでいたが、今の若手の作家(20代後半から30代前半)作品を読んで、愕然とすることがある。
影響を受けた(と思われる)作品が、自分と合致してしまうためだ。
だから、映画化された時に『おそらく原作は〇〇(作者、あるいは作品名)の物語構造を意識しているのだろう』ということがわかってしまう。自分が知らない作品に影響を受けたのであれば、そのような既視感は起こらない。しかし、作者が愛した作品と同じエッセンスというのは多くの作品の中に反映されてしまい、それが観客である自分と同じなのだ。その結果、その作品に向き合うというよりも、作者の思考を……しかも映画化の監督ではなく、映画化された作品の原作者の思考を読み取ってしまおうとするし、なんとなく理解できる気がしている。
もちろん、答え合わせなんてものに意味はないので、ただの妄想にすぎない。
本当に影響を受けたのかも、わからない。
でも読む人が読めば、自分のブログが押井守の映画論に多大な影響を受けているのは丸わかりになるのと同じことだ。
その結果、絶賛することもあれば、貶すことも醒めることもある。
作者がコントロールしきれない部分だろう。
同時代の作家がいることの奇跡
同世代の作家や映画監督、アーティストがいることは奇跡だと思う。
特に映画監督は総合芸術ということもあり、20代で名をあげることは少ない。30代でようやくメジャーな作品を監督できれば順調な方だろう。
だから、自分はずっと”年上のお兄さん、お父さん世代の作品”をずっと観てきたわけだ。
そんな時に、藤井道人という人を知った。
衝撃だった。
自分と同時代に生き、近い年代でこのような人がいるということが衝撃だった。
自分が愛したamazarashiの世界を、そしてこの世界の見方を、肌感覚で共有していると思える人に出会えたことが嬉しかった。
だからこそ、自分は『新聞記者』に失望した。
別に安倍政権を叩くことなんて、どうでもいい。映画は反権力的なものだ。
だけれど、自分の苦しみは政治如きで変わるものではなかった。
amazarashiの歌は、その政治運動からも見放され、そこに居場所がない人たちの歌だと思った。
むしろ、新たな政権が生まれれば、新たな苦しみを受ける。
『青の帰り道』の中でも、民主党政権などの社会の流れの変化が描かれていた。では、それが彼らの人生にどんな影響を与えたのか?
影響なんて、ない。
だからこそ、政治ではなく文化を、言葉を、物語を志向した。
そんな思いが、踏みにじられていき、『青の帰り道』の苦しみも全て政治のせいだと、都合のいい論理に利用されているような気がした。
観客なんて勝手なもので、そこに自分の意味を見つける。
勝手に希望を抱き、勝手に親近感を抱き、勝手に絶望する。
そんなものに付き合わされる方も大変だろうけれど、少なくとも、自分にはそんな思いがあった。
藤井監督が本当にamazarashiの世界を愛し、そこに深く立ち入り、表現しようと思ったことは、間違いない。
そしてそれは、100%成功している。なんの意味もないけれど、少なくとも、自分が保証する。
だけれど、それは、もしかしたら茨の道なのかもしれない。世間に見下されているように感じる自意識を歌いあげたamazarashiが成功してしまった瞬間に、彼らは成功者となる。
それまでは”勝てない人間の代弁者”だったのに、成功者になってしまった。
それは前述したRockやフォークのように、反体制が多数派の体制派になってしまう可能性と、それでも少数派のために歌い続けることで、富裕層が貧困層の代弁者を気取るような、嘘臭さが出てきてしまうかもしれない。
その思いに、いかに抗うのか。
それは藤井監督も同じで、『新聞記者』があれだけ成功したことにより、今後は”社会派の反政権の監督”になるかもしれない。そして、そんな監督では救いきれない、政治にも救われない思いを組み上げてきた監督だと思っている自分の認識は、変わってしまう可能性もある。
そして自分も大人となり、amazarashiや藤井道人監督の描いた叫びを「薄っぺらい」と笑うように変化するかもしれない。
だからこそ、自分は藤井道人という監督に、より注目しなければいけないと思ったのだ。
最後に1つだけ。
『青の帰り道』のEDがは『たられば』だったが、自分は『あんたへ』だとしたら、EDで泣いていました。
色々な事情があるとは思いますが、勝手なことを言わせてください。