今回は『劇場版 RE:cycle of the PENGUINDRUM 後編 僕は君を愛してる』のレビュー記事……というか、個人的ピンドラ論になります!
今回は相当癖が強い記事になったねぇ
カエルくん(以下カエル)
先に言っておくと映像や音楽の感想でもなければ『あのシーンはこういう意味で〜りんごは〜』というメタファー解説などの考察でもありません
主
人によっては、全く意味がない記事になるかもね
カエル「ある意味、ピンドラを語る上では正しいのかもしれませんが……色々と癖が強い記事になっているので、そこを承知でご覧ください」
主「それでは、記事のスタートです!」
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感想
それでは、Twitterの短評です!
#劇場版ピンドラ
— 井中カエル@物語るカメ/映画・アニメ系VTuber(初書籍発売中!) (@monogatarukame) 2022年7月25日
やはり難しい…ボクにとってピンドラは娯楽作ではなく2010年前後の社会の空気感を切り取った社会派作品だとさらに実感しました。面白いとか、エンタメとかそういう次元にない作品
一方で現代社会(2022年)にこの作品が描いた精神性が当時より強いかと言われると…正直否、ですかね pic.twitter.com/bZf1kLsgk8
この映画に関しては、感想とか解説みたいなことは、一切不要だと感じているんだよね
カエル「え?
いきなり映画感想ブログを否定するの?」
主「もちろん、映像表現が〜とか、音楽が〜みたいなエンタメ作品と同列に語ることはできるよ。それで言えば、幾原邦彦のアヴァンギャルドな、一種の寺山修司的な映像表現が楽しめるし、それを少女漫画的に落とし込むことは、やはり天才的。
でも……それって、この作品を語る際にエンタメとしての完成度を語る意味を自分は感じていないんだよね」
カエル「作品が楽しいか否か語る意味を感じないの?」
主「もちろんキャラクターが好きとか、そういうことを語ってもいい。
そもそもキャッチーで、キャラクターたちがとても面白いしね。
でも、自分が重要視するのは
- 『輪るピングドラム』という作品を観て、何を感じたか
という、ただその1点のみ。この作品に限らないけれど、幾原作品というのは非常に重層的で多様だから、この作品の語り口はいくらでもあるんだよ」
確かにピンドラとか幾原作品って、そのヒット度合いと比較して熱い感想や考察が多すぎるような気もしてくるかなぁ
これがエヴァぐらいの社会現象ならともかく、幾原作品はせいぜいアニメファン層にヒットしたミドルヒット級の作品なのに、語る人はあまりにも多いわけだ
カエル「もちろんウテナとかは大ヒットと言えるだろうけれど、ファンの熱さはそれこそ庵野監督に等しいものがあるかもしれないね。
うちも語ることがとても怖いなぁ」
主「幾原作品というのは『その作品に何を見出すか?』ということが大事なのであって、レビュアーには
- どう感じたのか
- 何を引用するのか
- どの視点から語るのか?
を引き出すことを要求してくる。
そして自分にとってピンドラとは、社会派作品なんだ。
ピンドラ論とはひいては2010年前後の日本社会を語ることにつながる。
だから、他のエンタメ作品のように物語が〜とか映像演出が〜キャラが〜ということは、一切語れないし、今からは語るつもりがないとは、先に言っておきます」
ピンドラを語る際に引用したかった作品
そういえば、鑑賞後にこんなTweetをしているよね
自分なりのピンドラ論を再構築するために
— 井中カエル@物語るカメ/映画・アニメ系VTuber(初書籍発売中!) (@monogatarukame) 2022年7月25日
○宮沢賢治「銀河鉄道の夜」(マストですね)
○村上春樹「アンダーグラウンド」「1Q84」
○加藤智大「解」「解+」
を読む必要があると感じますがめんどくさすぎるので多分やらないです
本当にピンドラを語ろうと思ったら、自分にとっては、この辺りは必須になるのかもしれない
主「でも、まあ面倒くさいから多分『銀河鉄道の夜』くらいは青空文庫で読むかもしれないけれど、それ以外はね。特に春樹の作品なんて、長いし。
『アンダーグラウンド』とか、700P以上あるんだから!」
でも、本当に考察しようとしたら、これくらいは最低限読んでおくべきなのかもしれないね……
今作を構成する要素だからね
主「それでいうと、本作は
- 銀河鉄道の夜(宮沢賢治の世界)
- 村上春樹
- オウム真理教を巡る事件・報道
この3つが複雑に絡み合い、そこに幾原流のアレンジがなされているわけだ。
そこに自分は加藤智大死刑囚を……2008年に発生した秋葉原無差別通り魔事件を引き起こしたけれど、その供述や手記を引用する。おそらく、この作品のカウンターとして最も効果的で社会的な意味合いをもたらすものだと考えているからだ。
でも、ここまでいくともうブログの域を超えてしまうし……実際には、多分そこまではやらないと思うけれどね」
微妙に噛み合わない幾原邦彦と主
そういえば、幾原監督は演出面では寺山修司に影響を受けているけれど、同じ寺山ファンとして、そのあたりでシンパシーとかないの?
ないよ、ほとんどない
カエル「え?
でも同じ作家が好きでしょ? 寺山修司に多大な影響を受けたという意味では、あなたも幾原監督も似たようなものじゃないの?」
主「もちろん、思い入れの強さの違いとかもあるだろうし、幾原監督は自分なんかより遥かに寺山に詳しいだろうという前提があるのは、ここは一度置いておこう。
自分が寺山修司に影響を受けたのは詩人・エッセイストとしての一面であり、言葉の切れ味に痺れていただけだから……映像演出家、舞台人としての寺山にはほとんど興味がないんだよね」
こういった詩や言葉に、とびきり痺れてきたわけだ
主「この詩はピンドラ論を語る際にも有効な印象も、実はあるんだけれどね。
同じ寺山に傾倒したといっても、リアルタイムで傾倒したであろう幾原監督とはやはり違うよ。
それでいうと、自分は宮沢賢治は通ってはいるけれど、そこまで好きというほどでもないし、村上春樹は大の苦手。だから、それも引用するのに大きなハードルになってしまっていて……その点では、実は接点が少ないんだよね」
カエル「同じ寺山ファンでも被らもんなんだねぇ」
作品論評
子どもブロイラーとは何か〜隠れ強者だった高倉家〜
ではでは、いよいよ作品について語っていきましょう
実は高倉家って、隠れ強者だと感じるんだよね
カエル「……隠れ?
それは父親が犯罪組織の上の方で、お金もあって……ということ?」
主「いや、そうじゃなくて……それもあるけれど、彼らは擬似的とはいえ家族を形成しているじゃない?
その繋がりを……社会や他者との繋がりを持っているのは、とても大きいよなぁって。
そもそもこどもブロイラーってなんだったのだろう? ということから始めようか」
カエル「こどもブロイラーって、親がいらなくなった子どもを裁断して、透明な存在してしまうというものだよね……寓話的に語られているけれど、子どもを捨てる装置みたいなもので、そんな社会がまちがっている! と高倉家の父も語っていたような……」
主「あそこに送られてきた時点で、その子どもは、親からすると子どもとしての価値をなくしているわけだよね。
子どもというのは、基本的に親、あるいは家族に従属している。少なくとも、日本ではそのように思われているケースも多い」
これはあくまでも憲法草案だけれど、このような価値観はとても大きいわけだ
主「それこそ”こども庁”が”こども家庭庁”になったりね。
この案に賛成するか、反対するかはともかくとして『子どもは親の元で生まれ育つ』という価値観が根強くあり、それが子どもの幸せだと考えている風潮は、今も主流派であるのは間違いない。
だけれど、この作品の親子関係はどれも破綻しているんだ」
カエル「……それこそ、以下のような描かれ方がしているよね」
まともな親子関係が、全くないんだね
子どもの頃に親や庇護者と良好な関係を築けないというのは、とても大きな問題を抱えてしまう
主「上記のような問題を抱えて、中には子どもブロイラーに送られていくことになるわけだ。
ここで『高倉家が隠れ強者だ』といった理由につながるのだけれど……彼らは、擬似的ながらも友人、あるいは共に暮らす家族としてのつながりがあったわけだ。
だけれど、そのようなつながりがない人はどうなるのだろうか?」
『透明になった存在』とは〜ゲームオーバーのない現実〜
子どもブロイラーになってしまった子どもたちと、そこから脱することができた高倉家や多蕗との違い……
本当に悲惨な子どもたちとは、あそこで透明な存在になってしまった子どもなんだよ
カエル「親と良好な関係を作れず、社会とつながることもできず、透明になるだけの子どもたち……」
主「自分は西尾維新が好きだけれど、彼はこんな言葉を残している。
この言葉は、2000年代当時に「人生にはリセットボタンがないんだ!」と大人が子どもへしきりに言っていたことへの、厨二的な反論だろう
カエル「西尾維新がよくやる、それこそ戯言というか、言葉遊びの一環ではあるけれど、でもこれはこれで真理をついているというか……」
主「終わってしまった人生をゲームオーバーになれれば、これほど楽なことはない。
だけれど、実際は終わってしまった人生はゲームオーバーにならない。その先が必ずあるし、人生は続いていってしまう……それをどれほど否定しても。
そしてそこで自死を選ぶ人もいるだろうが、それを社会が許さない。となれば……その矛先を他者に向けて、自分の人生を終わらせることを選択するというのも、1つの考え方になってしまう」
カエル「いわゆる、無敵の人ってやつだね」
主「だからこのツイートに繋がる」
例えばボクにとっては今作で登場する『子どもブロイラー』などは秋葉原事件の加藤智大だと感じています。作中ではすり潰して透明になるけれど現実はそれでも存在する。そして冠葉、晶馬などのように繋がりを獲得”できなかった”人の末路が加藤智大につながる、少なくともそう解釈します
— 井中カエル@物語るカメ/映画・アニメ系VTuber(初書籍発売中!) (@monogatarukame) 2022年7月25日
つまり、子どもブロイラーとは加藤智大であり、無敵の人予備軍になってしまった人たちのこととも言えるわけだ
カエル「アニメだったら透明になるけれど、透明になった後も生き続けなければならず、親とのつながりも持てず、社会とも繋がれない人々ということか……」
主「だから高倉家を『隠れ強者』と呼ぶのは、本当の意味では孤独になり得ないからなんだよね。
高倉家やこの作品に登場する人は、擬似的に家族になり、友達もいる……時には恋だってする。大切に思える存在がいる。それは明確に、社会や他者と繋がっている。
だけれど、その他者と繋がれない人はたくさんいる。
秋葉原事件の加藤智大は直接的な事件の動機として『ネットを乗っ取られたから』と語っているけれど、これは唯一存在した社会に対する繋がりを失くしてしまい、本当に孤独になってしまったからだ、と解釈することができる。
また、黒子のバスケ脅迫事件の被告は<『浮遊霊』だった自分が『生霊』と化して、この世に仇を成した>と述べている。
そして『生きる屍』……つまり、喜びなどの感情を失い、ただ生き続けている人がいる。
その子どもブロイラー化してしまう人々を救うにはどうすればいいのかというと……結局は愛であり、社会や他者とのつながりなんだというのが、この作品の結論部にあたるわけだ」
宮沢賢治と幾原邦彦〜法華経と自己犠牲〜
幾原監督の愛というと、自己犠牲が良く言われているよね。ただ『さらざんまい』では『自己犠牲なんてダセェことをするな』ともいっていたけれど……
この考え方が宮沢賢治と深く結びつくのではないだろうか
カエル「それこそこの作品でもそうだし『銀河鉄道の夜』でもそうだけれど、蠍の火が象徴的だよね」
この精神性こそが、宮沢賢治らしさと言えるだろう
カエル「宮沢賢治は法華経の熱心な信者として知られており、法華経には『百福荘厳の臂を然すこと七万二千歳にして以て供養す(薬王菩薩本事品)』という教えもあるね。
上記の言葉は『自分の腕を七万二千年燃やし尽くすことで供養した』という意味だけれど、全体の幸福のためには自己犠牲も時には重要であるというような教えを残したともされています。
ここは、銀河鉄道の夜と同じなのかな」
主「その結果が衆生済度……つまり、迷い苦しむ人たちを救うという考え方に基づく。『グスコーブドリの伝記』などもそうだけれど、宮沢賢治の作品というのは、そのような法華経の考え方に即したものがとても大きい。
そしてそれが幾原作品と結びつき……もちろんベースとなった『銀河鉄道の夜』も、カンパネルラの最期のことを考えると、その精神性はピンドラでも受け継がれている」
でも、この映画では最後は自己犠牲だけではなかったようにも感じるかなぁ
最後に2人が走り出すシーンを考えれば『銀河鉄道の夜』のジョパンニが1人で走り出したことの対比として考えると、象徴的かもしれない
カエル「つまり、自己犠牲を無条件で肯定しているわけではない、ということなのかな」
主「そうなるのかもしれないね。
『みんなの幸』のために自己犠牲になることを是とした宮沢賢治の世界からの脱却とも受け取られるし、そのみんなの中には自己犠牲をした人も含まれるべきなのではないか? ということもある。
これは今の時代の空気感とも言えるものであり、新海誠監督が『天気の子』で自己犠牲を否定したように……セカイ系がどこか自己犠牲的だったこともあって、その反動もありここ5年ほどのトレンドになりつつあるのかもしれない。
まとめると劇場版ピンドラは以下のことについて語っているわけだ」
結論部
時代を捉えたピンドラが現代に問いかけるもの〜筆者の思いとの乖離〜
ここまではピンドラという作品が持つテーマについて、社会と共に語ってきたけれど、じゃあ現代でこの映画が作られた意義はあったと思う?
……正直自分の感覚とは合っていないと考えているけれど、その理由は以下のツイートの通りだ
ボクは平成から令和になって、今の時代は『僕は君に出会えなかったし、愛せなかった』時代だと感じるんですよね
— 井中カエル@物語るカメ/映画・アニメ系VTuber(初書籍発売中!) (@monogatarukame) 2022年7月25日
その意味ではこのテーマや描き方の時代は過ぎ去ってしまっているのではないか…という思いもあります
…やっぱり今作はアニメ表現や音楽云々以外の社会論を語りたくなりますね
結局のところ、この映画って一種の強者の作品なんだよね
カエル「強者……つまり高倉家を『隠れ強者』と呼ぶように、誰かと繋がりを持てる人のことだね」
主「平成後期というのは……それこそ311の時の”絆”の大連呼のように、世間とのつながりがとても重要になっていた。まあ、自分はこの絆ブームも大嫌いだったんだけれど。
希薄化してしまう人間関係、共同体に対する個人に対してどのようにアプローチをしていくのかが叫ばれた時代だ。
それはポップカルチャーでも同じで、自分が大好きなamazarashiの秋田ひろむなんかは、その希薄化してしまい社会の中で1人で苦しむ若者の心情を歌って武道館ライブまで行った」
当時の一部の若者の気持ちを代弁した強烈な歌詞が書かれている『ラブソング』
でも、もう時代は変わって……さらに孤立化することが当たり前になったんじゃないかなぁ
カエル「それは『絆が生まれて孤立がなくなりました!』ではなくて、もっと悪化して孤立していることが当たり前になったということ?」
主「そう。
孤立していることがマイナスではなくなってきている。それこそ『おひとり様』なんて言われているし、生涯結婚しないという選択肢も年々普通になってきている。
この間発表されていた『令和4年度 男女共同参画白書』では、婚姻件数は最も少なく、20代以上の単身世代は増加傾向。
20代の女性の約半数、男性の7割が『配偶者、恋人はいない』と回答している」
これまでデートした人数0人が、男性20代40%、30代が35%、女性は20、30代ともに25%ほどという、衝撃のデータも出た統計だよね……
もうさ『絆』とか『僕は君を愛してる』って時代ですらないんじゃないかなって思うわけ
カエル「独身であり、配偶者がいないことが当たり前であり、シングルであることが当然の社会へ……」
主「もちろん独身でも楽しいです、友達もいます、家族を愛していますって人もたくさんいるよ。
だけれど同時に、社会と繋がりを持てないと犯罪をするというほどの悲惨な状況からも、かなり変わってきている。共同体に属さないことが前提であり、孤独であることが前提になると仮定するならば、無敵の人だ、ジョーカーだって価値観そのものが、すでに古いのかもしれない。
もう、今の時代は何者にもならなくていいんだよ。
確かに幾原監督ってずっと愛を描いてきて、その愛は同性愛にも賛成で、他者と繋がりを持とうというようなものだった。
でも、その社会がすでに変わってきていて……自分なんかは『誰も愛さなくてもいいし、孤独に個人で生きてもいい』ということを声高に語らなければいけない時代に入ったのではないか? という思いがかなり強い」
amazarashiを出したから、同じように音楽で出すと、自分は『Blessing』って曲の方に反応してしまう
自分が知ったきっかけのホロライブ(ねぽらぼ)ver
この曲にはこんな歌詞があります
愛することを強要しない姿勢もまた、とても大事なことだと自分は感じてしまうんだよ
幾原監督との考え方の違い
ここまでいくと、その人がどのような家族観や、人との繋がりを求めているかによるよね…
自分は誰とも付き合わない孤独に生きる選択肢ってのも、しっかりと認めるべきだと思う
カエル「それはそれで、孤独に強い人の……隠れ強者の意見かもしれないけれど」
主「でもそうじゃない?
家族もいらない、恋人もいらない、友達もたまに会うだけでいい、なんなら誰とも会わなくてもいい。それを認めてあげることも大事だと思うんだよね。
幾原監督はインタビューで以下のように答えているんだ」
自分は、もう捉え方が真逆なんだよね
カエル「まあ、あなたは坂口安吾にも傾倒して『親があっても子は育つ(意訳・親は子の成長の邪魔でしかない)』という言葉に傾倒している人でもあるけれど……」
主「その意味では孤独に強い1つの強者なのかもしれないけれど……それこそタイムリーに、あんな事件が起きて、家族関係のマイナス面っていうのがはっきりと出てしまうわけじゃない。
だったら誰も愛さないで、家族も持たないで、孤独に1人で生きるというのは、決して間違いじゃないし、今後はさらに増える……それこそ多様な生き方の一環だと思うわけですよ。
家族は捨てろ!
親はいらない!」
……いや、それはそれで過激だし、強者の意見だけれどさ
それこそ寺山修司は「家出のすすめ」で「若者はひとりだちできる自信がついたら、まず親を捨てましょう」と言っているんだから!
カエル「……その寺山も亡くなるまで親と同居していたって話もありますけれどね」
寺山の言葉は感心しても信用するな!
メチャクチャだよ!
主「それは冗談としても、でも愛さない……愛せない、という選択肢も、今は十分出てきて然るべき時代に入ったと思う。
あるいは、ネット上での繋がり……リアルとは違う繋がり。
つまり家族や愛ではなく、推しを持つことで満たされる思いというのもある。
名前も顔も知らないけれど、どこかに存在しているネット上の繋がりの相互フォロワーとツイキャスとか、ツイッターライブとかをして楽しく過ごして満足する……それは現実世界で見れば孤独かもしれないけれど、精神が充足する行為なのかもしれない」
もう個人には愛や家族という共同体が必要という幻想から脱却する時代に入ったんだよ。
「ちょっと寺山とかの言葉に引っ張られすぎて『家族はいらない!』と言いすぎた感もあるけれど、それだけじゃない。家族を持てない人、愛する人を見つけられない人もたくさんいるし、ネット上の付き合いで満足する人は増えてくる時代だよ。
だから2022年に、リアルにおいて『愛してる』は……確かに今でも多数派には届くけれど、でも自分みたいなのには届く言葉ではないし、時代にもあっているとは思えない。
結局、ピンドラは2010年代を的確に捉えた作品ではあっても、2022年には……映像表現や音楽表現を除いて、その精神性が自分には届かない作品になってしまった、というのが自分の結論だ」
最後に
というわけで、長くて癖の強いピンドラ論でした
ほとんどピンドラと関係ない話ばかりかもしれないけれどね
カエル「最後に言っておきたいことは?」
主「……そういえば、Twitterでも書いたんだよね」
あとは、気になったのはラストで『あ、幾原監督は庵野さんの真エヴァと同じところに辿り着いたんだな』と感じたところでしょうか
— 井中カエル@物語るカメ/映画・アニメ系VTuber(初書籍発売中!) (@monogatarukame) 2022年7月25日
主「シンエヴァを誤字しているけれど、それは置いといて……
結局庵野さんと幾原さんがたどり着いたところは、同じなんだろうなって印象。
シンエヴァのラストと、この映画のラストって実は同じなんだよ。
この辺りも徹底して仲がいいというか、価値観が似ている2人なんだろうね」
カエル「というわけで、ピンドラ論でした!」