物語る亀

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物語愛好者の雑文

映画『羅生門』感想・考察&解説 小説の原作を映画に脚色するということ

 

……最近、また更新が止まってしまったねぇ

 

語ることがないからねぇ

 

羅生門 デジタル完全版

 

カエルくん(以下カエル)

いつも通りやる気の問題もあるけれど、語りたくなる新作が少ないというのもあるのかなぁ

 

こういう時は、旧作を扱うべきなんだろうけれどね

 

カエル「そうなると、何について語るの?

 やっぱりアニメ?」

 

主「そうだなぁ……割と語りたいのは洋画ならばチャップリンとビリー・ワイルダー、邦画ならば黒澤明だけれど、これらの大御所は今更自分が語ってもなぁ……という気持ちはあるのも事実。

 じゃあ……”脚色”という観点から、黒澤明の『羅生門』について語ってみようか」

 

 

 

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映画『羅生門』は最高の”脚色”の教科書

 

脚色とは?

 

そもそも、脚色って何? 脚本と何が違うの?

 

小説とか、漫画とか……そういう他媒体で表現されたものを、映像や舞台の脚本として構成することだよ

 

  1. 小説や事件などを舞台・映画・放送で上演できるように脚本にすること。「自伝を—したテレビドラマ」

  2. 事実をおもしろく伝えるために粉飾を加えること。「話に多少—した部分もある」

 

dictionary.goo.ne.jp

 

言うなれば”脚本”にするための前段階になるのかなぁ

 

カエル「つまり小説や漫画などの各表現媒体は、その表現媒体にあった表現をされているけれど、舞台や映画などに合うように再フォーマット化することを脚色、というわけだね」

 

主「日本の映画やアニメは、その半分以上が何らかの原作を持つわけだ。となると、実は脚本そのものも重要だけれど、それ以前の過程である脚色も極めて重要ということになる。

 更に言えば日本は脚色が蔑ろにされてしまっているのでは? と思うこともあるくらいだね。

 これが小説や漫画ならば、オリジナルが多くて原作がある作品は『ノベル化』『コミカライズ』などのように扱われ、漫画のオリジナル作品とは区別されることもあるから、ここは媒体による特徴の差だと言えるかもしれない」

 

 

 

 

原作そのままは良い脚色?

 

この辺りって、近年映像化作品、特にアニメだと「原作そのままにしろ!」という声もあるよね?

 

それも1つの方法であることは認めつつ、ただ原作そのままが良い脚色かは議論の余地があるし、自分は懐疑的だな

 

カエル「原作そのままを映像化するのは、あまり良くないの?」

 

主「良い悪いというか……単純に、表現媒体が違うからそのまま映像化やコミカライズ化はできないというかさ。

 例えば漫画→アニメだって、基本的には漫画のコマ割りと映像表現のカメラアングルは異なるわけだ。週刊・月刊連載のテンポとTVアニメのテンポと、映画のテンポも異なる。更に音声などの音響効果、色なども付くわけ。

 そうなると、全く同じは不可能だよね。そもそも全く同じというならば、映像化する必要性だって皆無なわけだし」

 

”原作に忠実”は、実は全く忠実じゃない可能性があるわけなんだね

 

その忠実という言葉が物語とか、セリフを指しているならばまだわかる

 

主「だけれど……例えば『鬼滅の刃』が原作に忠実かというと、どこが忠実なんだ? って話じゃない?

 だって原作はアニメのように無限城がグルグル動いたりもしないし、エフェクトがバリバリしない。物語や絵柄や構図などは似ているとしても、映像的には、特にアクションで似ているところなんて、ほとんどない。

 つまり漫画の原作を基としながらも、映像を脚色してより派手にして、だからこそ大きく売れたということにもなるわけだよね

 

ここで大事なのは”脚色そのものが良い悪いと語る対象ではない”ということだ

 

カエル「一部では原作者の意向を無視した脚色があったことによって『原作を守れ』という話にもなるけれど……」

 

主「それらの人間関係の問題と脚色の出来不出来は全くの別の問題。

 どこの会社も人間関係があって……例えば営業部署と製造部署の意見の相違などはあるだろうし、そこに人間関係のいざこざはあるだろう。だけれど、意見を一致させることが重要なわけだ。

 もちろん原作者の権利を守るというのも重要。一方で、だからといって『脚色は一切許さず、原作のまま忠実に!』というのも違う。それならば原作者や権利者はオリジナルを重視して、映像化などの他のメディア化そのものを許可するべきではないという、極端なやり取りになってしまう。

 実際、そういう原作者もいると話も聞くしね。

 その物語や表現をどのように活かしながら、原作を尊重しつつ、映像スタッフの作家性を活かしつつ映像化するのか。

 その難しいポイントを目指すのが脚色なわけだ」

 

 

 

 

映画と小説の大きな違い

 

小説『羅生門』と『藪の中』

 

その見事な脚色とは何か、ということを理解するための参考として映画『羅生門』を挙げていく、というのが今回の趣旨ですね

 

じゃあ、まずは原作となる小説について振り返ろう

 

カエル「もちろん有名な文豪である芥川龍之介の『羅生門』が基になっている作品ですが、この映画版はむしろ、同じく芥川龍之介の『藪の中』が物語の中心になっているのは、広く知られているでしょう。

 『羅生門』は学校の授業でも読むことが多いでしょうが、『藪の中』も芥川の代表的な作品です」

 

羅生門・鼻 (新潮文庫)

 

まずは『藪の中』を読んでみてほしい

 

主「すごく短い話で、多分読書に慣れている人は10分ほどで読み終わるし、今ならば青空文庫にあるのですぐに読めます」

 

www.aozora.gr.jp

 

ここで小説の解説をすると、重要なのは”視点の問題”

 

カエル「視点の問題、つまり小説が一人称で書かれているということだね」

 

主「『藪の中』は1つの事件を様々な登場人々の視点から語られ、何が起きたのかを読者が推察する話だ。どの人々も自分の一人称でしか物事を語らないというのが、この話をより難しく、そして面白くしている。

 重要なのは小説は”一人称の視点”ということだ」

 

小説とカメラの人称の違い

 

この作品をどのように映像化するのか、という話だね

 

ここで問題となるのが表現媒体としての、小説と映画の特性の違いだ

 

カエル「小説は文字で構成されているから、文字の配列などの視覚的な要素はあるけれど、重要なのは言葉の持つ意味とか、そのリズム感だよね。

 一方で映像表現である映画は、視覚的な部分がとても大きくて、しかも音声もつく。文字表現もできるけれど、それも字幕を例外としたら少なくて、基本は映像で語るメディアだね」

 

主「もしかしたら、真逆と言っても良いかもしれないくらいの違いがある

 繰り返すが、ここで重要なのは”人称”の問題だ。

 基本的に映画はカメラがあって、登場人物を映す。

 つまりカメラという客観があり、そこで登場人物を眺めるという構図で構成されている。つまり、客観であり、三人称視点が多い媒体ということになる

 

もちろん、主観的な一人称の視点も可能ではあるけれど、それを映画全てでやるのは制約が多いよね

 

探せばいくつも一人称視点の作品の例はあるだろうが、それらが特殊である可能性が圧倒的に高いよね

 

主「ではここで改めて問題となる。

 この『藪の中』を映像化しようとした時に、どのように行うべきか?」

 

カエル「……それが、映像としても、物語としても脚色の問題として登場してくるわけだね。

 じゃあ、ここからはその答えをどのように映画は示したのか、具体的に見ていきましょう」

 

 

 

 

映画『羅生門』が果たした見事な脚色の具体例

 

3つの場面で構成された映画

 

まずは何から語っていこうか

 

前提条件として、今作は3つの場面から構成されているという話からしよう

 

カエル「3つの場面を挙げると、以下のようになります」

 

 

ポイント!
  • 羅生門での3人の男の話 → 小説『羅生門』の世界
  • 各登場人物の視点・回想 
  • 検非違使(取り締まる役人)の視点 → 小説『藪の中』の視点

 

 

大きく分けると上記のようになっているわけだね

 

カエル「簡単に説明すると、羅生門で3人の男によって話が展開する場面は、そのまま小説『羅生門』に近い場面だよね。有名な下人も老婆も出てこないけれど、羅生門という舞台は一致しています。

 一方で物語の中心となるのが各登場人物の視点・回想です。

 そして取り締まる役人の検非違使が各登場人物から事情を聞いているのは、まさに小説の『藪の中』の視点だよね」

 

主「ここで人称の話をすると、このようにまとめられる」

 

ポイント!
  • 羅生門のシーン → 現在進行形の物語
  • 各登場人物の視点 → 一人称・主観視点
  • 検非違使の視点 → 三人称・徹底した客観

 

 

なぜこのようになるのか、説明しよう

 

 

 

徹底した三人称・客観した視点の検非違使

 

1番わかりやすいところになるのが、検非違使の視点という話だけれど……

 

ここは映画やカメラが持つ客観的な視点が徹底している

 

 

ここの視点って、基本的にカメラが固定されているんだよね

 

カエル「それで各登場人物の語りと動きをじっと目詰めるということが徹底されています」

 

主「つまりこれが三人称・客観の視点という意味だ。

 ここでカメラを固定化し、登場人物に寄っていかないことによって、冷静な視点が描かれる。同時に、物語としては”彼らは本当のことを語っているのだろうか?”という疑問符が浮かぶようにできている。

 さらに言えばこの客観の視点というのは、観客の視点とも重なる。カメラに向けて視点を送ったりする役者と、じっと眺めるカメラの映像を眺めることで、観客もその視点と一致しているわけだ。

 最後の侍の霊を呼び出すところはカメラが動くけれど、それ以外は基本的に動きは極めて少ないんだ」

 

一人称・主観となる各人の回想

 

そして次に挙げるのは各人の回想ということだけれど……

 

ここが映像では難しい一人称・主観のカットとなる

 

 

カエル「ここが1番わかりやすいかもしれないので、妻の真砂視点を例に挙げます」

 

主「各人の視点で映像が構成されているけれど、ここで重要なのはこれらの回想で語れているのは、例えば真砂の視点であれば、”真砂の心境”であって、”真砂の一人称”ではないということ。

 つまり上記の場面では、手込めにされてしまった真砂を見つめる夫の金沢武弘の背中越しに撮影しているけれど、これは金沢武弘の一人称ではなく、あくまでも真砂に注目を集める撮影方法である、ということだ」

 

つまり単純にカメラを一人称にするのではなく、夫の背中越しに撮影することで”哀れな娘である真砂”を撮影している

 

そして重要なのは、それを語っているのは真砂であるということだ

 

主「だから、この場面はあくまでも真砂の回想であり、主観なんだ。それは他の2人も……いや、3人か。3人も同じでさ、みんな自分に都合のいい回想を語っているけれど、カメラは基本的に主観になるように語っている」

 

 

 

 

目撃した男の証言は真実か?

 

そうなると、最後に目撃した男の証言があって、真実が明らかになる構成だよね

 

いや、それすらも真実とは限らない

 

 

え? あれって第三者という意味で客観的な人の暴いた真実ってことじゃないの?

 

いや、違うと自分は解釈する

 

主「確かに物売りの男の視点は藪の中から撮影されていて、彼の視点であることは疑いようがない。また、確かにあの男は第三者で関係者ではないから、その分客観的だとも言えるかもしれない。

 だけれど……最後で語れた通り、あの男は見事な宝剣を持ち逃げしている。そしてその場面は、回想場面では出てこない。

 つまり、あのシーンすらも物売りの回想でしかないということになるわけだ

 

羅生門の場面の視点

 

そうなると……今作の真実ってなんなの?

 

それは誰にもわからないよね

 

カエル「じゃあ、あの羅生門で語られたことも含めて、この映画は全て嘘だということ?」

 

主「いや、嘘ではない。

 例えば3つの場面のうち、検非違使の場面は明らかに客観であるため、これは疑う必要のない真実だろう。

 そして……羅生門の場面もまた、真実と見ていい。これは主観や客観とはまた異なる……なんというか、現在進行形の物語であるためだ」

 

つまり普通の視点というか、誰かの視点でも回想ではない物語ってことだね

 

いうなれば神の視点ということになるのかなぁ

 

カエル「そうなると、それぞれの回想の場面は主観が大きくなってしまい真実性が疑われるけれど、それ以外の場面は基本的に真実として扱ってもいいんだ」

 

主「そうだね。

 小説との比較で語ると、原作『羅生門』は三人称になっており、まさに映画と同様の視点。そして『藪の中』は一人称の語りを眺めるという意味では映画では検非違使の視点であり、1人称の語りの内容を描くという意味では回想シーンも同様になる。

 このように、人称の違う原作をどのように映像化するのか? という点において、映画というメディアと原作小説の違いを重視しながら、見事に構築されているわけだ

 

 

 

 

なぜ今作は『羅生門』なのか?

 

小説『羅生門』のテーマと映画『羅生門』のテーマ

 

ふむふむ……最後になるけれどさ、よく言われるけれどなんで今作って『羅生門』なんだろう?むしろ『藪の中』の方が適切じゃない?

 

色々と理由はありそうだけれど、自分は『羅生門』の要素もかなり強いと感じている

 

カエル「え、でも下人も老婆も出てこないじゃない?」

 

主「それは”物語”という視点でしょ?

 そうではなく、テーマや今作が表現したいものという視点で見ると、実はほぼ小説の『羅生門』に近い。原作は色々な解釈があるだろうけれど、基本的には人間の生への執着だったり、あるいは生きるということの浅ましさ、そして何をしてでも得を手にしようという卑しい感情が描かれている。

 それはこの映画にも共通しているものではないか」

 

つまり、みんな自分のことを都合のいいのように見せようとして、嘘もつくし、浅ましいところがあるってことだね

 

そのテーマは『羅生門』にも『藪の中』にも共通するものではないだろうか

 

主「『藪の中』を読んだ時の印象として……これは現代の自分の感覚だからこそだろうが、むしろミステリーのような”何が真実でしょうか?”ということを楽しむような印象を受け取った。

 映画のような人間の浅ましさとか、そういった感情はないとは言わないまでも、そこまで生々しいものだとは抱かなかったかな。

 一方で映画はその人間の浅ましさ、どうしようもない執着を描いている。その点において、下人や老婆が出てこなくても、芥川龍之介が描いたこと……まあ芥川も今昔物語集から引用していることが明らかになっているけれど、その引用をしても自分なりに描きたかったことを、映画は捉えているとも言えるのではないだろうか」

 

映画のラストについて

 

あのラストは原作にもないものだよね?

 

あれがあるから、この映画は娯楽作として成立しているとも言える

 

 

カエル「完全なネタバレですが、もう70年以上前の名作なので言っちゃいますと、物売りの男は赤子を抱いて羅生門を後にします」

 

主「あれはこの混迷する時代であり、人間の浅ましさがある中でも赤子という未来の象徴であり、最も明るいものを抱えて育てるという意識があるという意味で、明るい気持ちになるエンディングでもある。

 だからこそ、今作は娯楽作として素直に楽しむことがある」

 

あのラストがあるかないかで、だいぶ印象は変わるよね

 

ただし、よくよく考えると、あのラストが本当に明るいものかはわからない

 

主「物売りの男の話を信じていいのかはわからないし、赤子を奴隷商人に売っちまって金にするかもしれない。そこまでいかなくても、一時の気持ちとして育てると言っていたけれど、そのあとで捨ててしまうかもしれない。

 その本当の気持ちは誰にもわからないよ。なんなら、男にもわからないし、お坊さんも疑っているかもしれない。だけれど……このラストがあるのとないのとでは、全く観客の気持ちが異なる。

 その意味において、娯楽作としても考えさせる映画としても見事なラストだった」

 

 

 

 

まとめ〜見事な脚色とそれ以外の魅力〜

 

最後に、今作の脚色の部分に話を戻して、まとめてみましょう

 

  • 人称の問題の回答
  • 『羅生門』と『藪の中』という異なる作品の解釈と混ぜ込み方

 

この2点だけでも、まさに見事だ

 

カエル「”原作をそのまま映像化しろ”という話では、全くできない映像表現に仕上がっていたわけだね」

 

主「小説という人称が選択できる表現と、映画というカメラの存在がある表現への転移。

 そして異なる小説のテーマを捉えつつ、もう片方の物語と混ぜ込む。

 この2点においても、脚色が見事であると言える。

 もちろん役者の芝居や、衣装などの美術の見事さ、あるいは宮川一夫のカメラワークなど語る視点は山ほどある名作だけに、色々な語り口ができるという意味でも見事な作品だよね」