今回は『アリスとテレスのまぼろし工場』のネタバレ感想・考察記事になります!
こちらはかなり主観バリバリの暴走記事になっています
カエルくん(以下カエル)
もう1つの記事は客観重視というか、作品内容に沿って語っているので、こちらは主観バリバリで語っていっています
主
どちらの方が面白いのかは、人によるところかな
カエル「それでは、早速ですが、記事のスタートです!」
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ネタバレなしの紹介記事はこちら
作品の描写から考察した記事はこちら
作品評価を語る前に
作者と受け手の相互誤解
ではでは、まずは何から語っていくの?
結論から言えば、自分はこの映画を120%理解しているんだよ
カエル「……え、いきなり大言壮語から始まるの?」
主「最近、たまに言っているけれどさ、物語表現というのは『作者と受け手の”相互誤解”の元に成り立つ』というのが、今の自分の基本理念なんだよね。
作者は『こうすれば受け手(読者・観客)に伝わるはずだ』という誤解。
受け手は『作者はこう考えていたに違いない』という誤解。
その誤解と誤解がぶつかり合って、解釈が生まれ、物語表現は熟成されていく」
もしかしたら、受け手が感動した描写に込めた思いは、作者が全く意図していなかった受け止め方をされている可能性もあるという話だよね
だけれど同時に『誤解だとしても感動した事実は揺るがない』んだよ
主「さらに言ってしまえば、作者は100%意識して制作しているとは限らない。
手癖みたいなものもあるし、無意識の思想もあるだろう。受け手の感想・評論というのは時に作者の無意識にも言及し、作者がそれに感銘を受けて納得する場合もある。本当に100%理解し、言語化できるならば、物語表現にする必要もないだろうしね。
もちろん、受け手の誤解に作者が反発する場合もあるだろうし、うちなんかは好き勝手に誤った解釈を垂れ流しているとも言える」
ふむふむ……それはあるだろうけれど、それがなんなの?
自分が『この映画を120%理解した』と語るのは、まさに大言壮語だ
主「数回しか映画を観ていないのに、監督をはじめとした製作陣の思考というものがわかるはずがない。
だけれど、自分はそれを理解したと”錯覚・誤解”している……そう思わせるほどに、この映画の描き出した感情が理解できるし、納得もするし、感銘を受けている。
だから自分は『この映画を120%理解している』ということの意味を……つまり、自分の独自解釈をこれから滔々と語っていくわけです」
自分を出さないと語れない物語
なんでそんな説明から入るの?
それを説明するために、岡田麿里の自伝である『学校へ行けなかった私が「あの花」「ここさけ」を書くまで』から、この文章を引用しよう
下谷さんが勧めてくれる本は、性同一性障害を扱った小説や、他者との関係性に苦悩する女性現代詩人のエッセイなど、たいていが「自分という存在について女性が葛藤する」作品ばかりだった。感想文の山場には、自分と作者とが重なる部分を書きつけることが必要となる。そこで、私は下谷さんの本の選択の凄さに驚いた。自分自身について包み隠さずに書かなければ、感想文としては成立しないような作品ばっかりだったからだ。
P 117
岡田麿里が高校時代の担任である下谷さんと、課題のやり取りをするシーンだね
カエル「感想文を書くことで、登校拒否気味でも進級できるように、と配慮されたことを回想しているシーンです」
主「まさしく『アリスとテレスのまぼろし工場』という作品は、自分にとってそのような作品となった。
この作品について語るときは、自分の思想……というほど大それたものではないけれど、思いを紐解かないといけない。それくらいに、自分の思いと密接に繋がってしまう。
この記事では、作品の描写に関するお話は、あまりしません。
だけれど、作品について語らないのに、よりこの作品の本質に迫っている……そんな記事になってくれたら、と思っているよ」
岡田麿里監督の半生について
記事を始める前に、前提として岡田麿里監督がどういう人か知らない方にも、簡単に説明しましょう
作家性などについては、前回の記事で語ったので、今回はその半生について語っていこう
カエル「岡田監督は自伝も発表しているし、批評雑誌の『ユリイカ』で特集を組まれるなど、その過去に関しても積極的に発信している脚本家だよね。
アニメの脚本家ってやっぱり裏方さんだから、その人生観などの思いに触れる機会が作品のインタビューなどに限られる中で、自伝や特集雑誌が生まれること自体が、やっぱり異色な方と言えるのかな」
主「岡田監督を語る上で重要なのは、以下の点だ」
- 埼玉県秩父市出身
- 引きこもり・不登校経験あり
- 母子家庭で母親との仲が良くない
- 谷崎の文学などを愛好していた
カエル「1つずつ解説すると、秩父市出身というのも本人としては大きいようで……秩父って盆地が多い埼玉県に位置するけれど、ほぼ山の中にあるんですよね。そこで山に囲まれた生活に閉塞感を抱いていた、と語っています」
主「そこで引きこもり・不登校になっており、80年代〜90年代前半に思春期を迎えているから、今よりも不登校児に対する社会の視線は厳しいものがあった。
元々母子家庭であり、そのような難しい娘を抱えた母親の葛藤もあったとは思うけれど、母親の彼氏がDV男だったりと大変な家庭状況で親子関係が悪かった。
そんな中で谷崎などの書籍を愛好していた少女時代を過ごしている」
これは結構、ハードな子ども時代を送ってきたサバイバーなんだね
その中で谷崎を愛読していたというのは、なんか納得がいったかな
カエル「谷崎潤一郎は主に昭和期に活躍した小説家です。その作風としてよく語られてるのが、女性や性の耽美的な魅力といいますか……すごく直球にいっちゃえばエロいことを書いていた作家ですね」
主「自分は谷崎はそこまで通ってきていないから詳しくは語れないけれど、岡田麿里脚本の特徴である生々しい性の描き方というのは、この谷崎に影響を受けたところから来ているのではないだろうか。
特に本作でも女子の足に興奮する描写があるが……耽美さはないけれど、足フェチとして有名な谷崎の影響を考えたら、自分は納得がいく描写だね。
このような半生を送ってきた監督である、ということを前提に、ここからの話を聞いてほしい」
今作が描いた青春
青春期は輝いているか?
最初はどこから語るの?
まず”青春は素晴らしい”という概念そのものが共通幻想なんだよ
カエル「青春作品といえばポカリスエットのCMとか、あるいは甲子園の高校球児のようなキラキラとしているものを思い浮かべるかなぁ。
でもこの映画の描いた青春は、全く違うよね?」
主「もちろん、そういった青春があるのも理解はするけれど……でも、若者は純粋でキラキラしているというのは、大人が勝手に作り上げた幻想でしかない。実際の若者は……少なくとも若者だった自分は、キラキラしたものが反吐が出るほど嫌いだったし、なんならいつも死んでいるのと同じような、生きている実感のない存在だった。
それはもちろん『お前が特殊なんだ』という意見もあるだろうし、あるいは診断されていないけれど鬱とか、そういう精神的な疾患を抱えていた可能性もあるけれど……でもさ、そういう若者・学生は、間違いなくいるよね」
いわゆる隠キャと呼ばれる人はいつの時代もいることは間違いないよね
自分の場合は、大人たちが作り上げた若者像の共同幻想に反発していた気がする
カエル「夏休みが終わっていって9月1日が近づくと自殺を意識する子どもたちは多いと聞くし、学校や人間間関係が問題なくても、苦しんでしまう思考に悩む子どもは絶対にいるわけだしね」
主「だからさ、ニュースとかで『若者の自殺が問題です』とか言われても、そりゃ自殺ぐらいしたくなるよって、なんでこんなことであーだこーだと語っているのかがわからなかった。
若者・学生の闇! なんて言われていたけれど、そンなの普通だよなーって思っていたし。
そういうことをわかったふりして語るようなオトナが嫌いだったし、マスコミやジャーナリストの意見なんて、全く届いてなかった。何もわかってないアホしかいなかった。
そういう鬱屈した感情……それこそ言葉にしたら閉塞感とか、孤立感とか、思春期というのはそんな複雑な思いが交差する時代でもあるだろう」
鬱屈した感情と黒歴史
だいぶ自分語りモードに入ってきたけれど、もう少し客観性を持って語っていけるように頑張りましょうか
その鬱屈した感情を、どのように晴らすのか? ということだ
カエル「鬱屈した感情を晴らす……それこそ部活動に勤しんだり、あるいは友達と遊んだり、恋人を作ったりということになるのかな?」
主「それで晴らせる人はいいよね。
場合によってはセックスやドラッグ、あるいは悪い友達と暴走行為や喧嘩などの犯罪行為に走ったり……そういう後ろ暗い別の人との繋がりで、孤独感を癒すという手もある。
自分の学生時代の実体験で、印象に残っているのはスナッフビデオ。テロリストが人質を残虐に処刑する動画や、アメリカの有名な残虐なアニメーションをみて、ゲラゲラ笑うことでストレスを発散していたやつらもいた。
自分も1回連れて行かれて一緒に鑑賞したけれど、全くダメだったし、今でもゴア表現が苦手な理由はその体験からかもしれない」
……まさに若者の闇そのものじゃん
それらを推奨したり、褒めたりはしないけれど、そういう残虐な行為にも興味を抱くのが思春期なんだよ
主「そしてこれは、この映画にも、とても重要な指摘だと考えている」
生きている実感……匂いと寒さと痛み
それが描かれていたのが『匂い』と『寒さ』と『痛み』ということだけれど…
心臓が動いているだけでは、人は生きていると言えるのだろうか?
カエル「もちろん生物的には生きていると言えるけれど、それ以上の生きている実感みたいなものが欲しいという話だよね」
主「生きている実感とは何か……今作では失神ゲームのような痛みが、その1つだ。
作中の痛みを受けるという行為は、先ほど自分の体験したスナッフビデオ鑑賞と比較して、行為の加虐と被虐が入れ替わっているだけで同様のものと考える。
被虐ならば映画にはないけれど、リストカットが象徴的だ。下にリンクを貼るけれど、阪南病院によると中高生の約1割がリストカットを行なっており、中学・高校の養護教諭の98%以上が自傷行為に走る生徒に接したことがある。
また自傷行為には精神的な鎮痛作用があり、エンドルフィンという物質が上昇、それにより依存状態になると書かれている」
http://www.hannan.or.jp/jidoseishinka/pdf/120118_kohukata.pdf
まさにこの映画における気絶ゲームや、危険な遊戯が行き着く先の話だよね…
問題行動だけれど、思春期には決して珍しい行動ではない
主「映画では上履きを隠すとかの精神的な暴力、スカートを捲るとかの性的な興奮も含まれている。後ろ暗いこういった行為は問題行動ではあるけれど、生きている実感を感覚的に与えてくれる。
むしろ、そういった感覚でしか実感が得られない人の物語でもあるわけだ。
そしてそれが、中盤のキスシーンのセリフに行き着く」
「臭くないでしょ、まぼろしだから」
不意をつかれた政宗は、わずかに唇を噛んだ。たまらなく否定したいと思った。
「雪だから……匂いが、どんどん、吸い込まれて……消されてくから…」
「生きてないから、臭くないの」
「でも。すごい、心臓動いてる。はやい」
「生きているのとは、関係ない」
……生きている実感を、匂いで表現しているんだね
ただ心臓が動いているだけで、人は生きるわけではない
カエル「人間は社会的な生き物でもあるから、社会との関係性の中でも成長していくわけで……それこそ、うちのようにブログを書いて発表するとかも含めて、そういった活動が外の世界と繋がって、充足感たり得るのだろうけれど、作中の世界は途絶しているわけで……」
主「あの閉鎖空間では匂いもなければ、寒さを感じることもない。感覚的に遮断されているからこそ、他の生きる実感を求めることで……痛みや性的なものに興味がさらにいってしまうということだろう。
あのキスシーンは映像表現としても良かったけれど、同時に”生きている感覚”を伝えると意味でも素晴らしかった。それでしか繋がれない、相手を求める思いと実感というものがよく表現されていた。
これらの問題行動について、大人は眉を顰めるけれど、それで晴らせる人は、まだいいと思う。
問題はその先……他人と繋がれない人なんだよ」
創作行為がなければ死んでしまう人たち
他人と繋がれない……ずっと孤独に生きる人だね
もちろん、交友関係的な意味もあれば、精神的な意味合いも含めてね
主「そのような人々を救うもの……それが物語であり、創作活動なんだよ。
多分、オタクと呼ばれるほどに物語文化を愛している人には感覚的に理解できる部分もあると思うけれど、どうしても死にたい、苦しいと思った時に『でも来月に好きな作品の新刊が発売するしな』ということで、生きる希望を抱いた人もいるのではないか」
カエル「昔、TVのニュースで『コミケのために生きてます』と言っていたコスプレイヤーさんや売り子さんを観たけれど、誇張はありつつも、そういう気持ちを抱えた人がいることも間違いないよね」
主「そして物語表現を愛する中で創作を始める人が出てくる。今回は岡田麿里監督について語るから、創作の中でも物語文化……つまり小説や漫画を中心に語るけれど、表現という意味では詩や絵画、バンドなどの音楽でもなんでもいい。
それらの学生時代の表現物は黒歴史とも言われているけれど……自身のモヤモヤとした感覚、生きづらさを昇華させるために必要な通過儀礼でもある。
だから正宗は成長しない世界でも、ずっと絵を描いていた。
それは誰かに見せるわけでもなく、意味があるわけでもなく……ただの衝動だったかもしれないね」
もちろん、楽しいから創るという人もいることは全く否定しません
中には、自分の生きづらさを晴らすために創作活動を行う人もいるという話だ
主「その創作物というのは、経験の浅さや才能の問題などもあり、痛いもの……黒歴史と言われるだろう。それを言ったら、自分が過去に公開したブログ記事や小説なんて……特に開設当初の記事は、まさに黒歴史と言ってもいいくらい、お粗末なものばかりだ。
だけれど、黒歴史は通過儀礼として絶対に必要だったんだよ」
『アリスとテレス』が示すもの
そういえば、試写の段階からアリスもテレスも登場していないのに『アリスとテレスの』という題名の意味がよくわからない、という意見が散見されたね
ここが今作の肝だけれど、試写の段階では分からなくて当然なんだよ
カエル「岡田監督はこのように語っています」
子供の頃に哲学者のアリストテレスという名前を、アリスとテレスという2人組の名前だと勘違いしていたことを思い出して。自分なりに生きることについてつきつめて考えていきたかったのもあって、『狼少女のアリスとテレス』という仮タイトルで原稿を書き進めていました
カエル「つまり、本作は時期はわからないけれど元々小説で描かれていたネタが原案なんだよね。
さらに試写会のプレスシートを読みましたが、岡田監督は本タイトルをつけるときにスタッフから『アリスとテレスを残したい』と言われた、とのことです」
主「自分はこの判断を、100%支持するし、アリスとテレスが含まれていないと、この映画の本質は歪むとすら考えている。
それこそ、この映画のキャッチコピーにもある”衝動”なんだよ。
さらにいえば”初期衝動”の映画なんだよ。
若い頃の表現は黒歴史と称されイタイ、未熟な創作活動というイメージもあるし、それ自体は間違いじゃない。だけれど、世に出すか否かは別として……さらにいえば創作として優れているか否かもどうでもよくて、ただ”書かなければいけない”という衝動がある。
そして、その自己表現を行わないと、自分自身を精神衛生的に守ることができないということは、往々にして起こるんだ」
各時代の作品が描いてきた時代感覚と衝動
他の作品を引用して時代感覚を語る
ふむふむ……その初期衝動の中で、一種の暗い思いを抱えていたものを、現代に甦らせたんだね
実は若者の閉塞感を描いた作品は、いくらでもあるでしょう
カエル「その中で、設定ややりたいことで近いのでは? というのが、押井守監督の『スカイ・クロラ The Sky Crawlers』ということだけれど」
この作品の設定と描こうとしたことは、かなり近いと感じている
主「『スカイ・クロラ』は老いない子どもたちが主人公で、見せ物としての戦争を義務付けられているという、かなり特殊な設定だ。その中で、酒を飲んだり、時にはセックスをしたりと、子どもがやるべきではないとされる行動をとっている。
若者の閉塞感と、それを打破するための行動が、かなり似ているように感じられる。もちろん、作品としての性質は全く異なるけれどね」
その他にも似ている作品は山ほどあるというね
特に若者、あるいは時代の閉塞感を描いた作品なんて枚挙にいとまがない
カエル「前回の記事であげたBUMP OF CHICKENやamazarashi、あるいは西尾維新の戯言シリーズや桜庭一樹、浅野いにおなどの名前を挙げていましたが、他には?」
主「実写邦画でいったら『桐島、部活やめるってよ』も、その中に入るよね。
アニメでは、そういえばと思い出したけれど幾原邦彦の『輪るピングドラム』もあるね。象徴的な”きっと何者にもなれないお前たちに告げる”というセリフは、まさに似たような感覚を示したのではないか。
またエヴァだって、当時の鬱屈とした感情を反映した作品と言っていいだろう。
さらには新海誠の『秒速5センチメートル』も恋愛の話だけれど、広く解釈すれば大人になった時に理想の自分との差に戸惑った心境を描いた作品でもある」
他にも、いろいろな作品があるね
主「近年の小説家では、辻村深月の名前を挙げたい。デビュー作の『冷たい校舎の時は止まる』から、最近の『かがみの孤城』に至るまで、思春期の鬱屈とした感情を書いてきた作家と自分は評価する。それこそ、この映画が描いたことは『スロウハイツの神様』と核は同じだろう。
作風は違うけれど、作家性の核の部分はかなり岡田麿里と近いのではないか?
小説では太宰治なんて、もちろん現代とは形は違うけれど共感性の強い苦悩を書いた典型的な存在だ。
2003年には綿谷りさの『蹴りたい背中』が思春期の感覚を生々しく、瑞々しい文体で描写して芥川賞も最年少受賞している。
昭和の音楽ではさだまさし、中島みゆきもそうじゃない?
現代音楽では初音ミクなどで発表したカンザキイオリも、生きづらさを歌っている。
若者の……いや、若者だけじゃない。
閉塞感や孤独感を抱える人々がいて、それを共感して救うための表現はいつの時代もあるんだよ」
表現しなければ生きていけない人の作品
さらに引用したい作品が別にあるということですが……
これもアニメ映画という括りでしか繋がってないと思われるかもしれないけれど『冴えない彼女の育てかた Fin』と『映画大好きポンポさん』なんだよ
どちらもクリエイターの話ではあるけれど、さえかのはオタク向け萌えアニメだし、ポンポさんも今作とは毛色は違うよね
でも描いている内面は全く一緒じゃないかな
主「どちらも”クリエイトしないと生きていない”人のことを描いている。
『冴えかの』と『ポンポさん』で、とても好きなセリフがあるから、それを引用しよう」
『お前の文章はクソだ! だけれど精錬されたクソになるな!』
『オナニーしろ、少年』
この言葉を思い返すだけで涙が出てくるね
カエル「言葉が下ネタでだいぶキツくて、拒否反応が出そうだけれど……」
主「でも、この言葉は本物だよ。
先ほどの黒歴史と同じで、稚拙な文章かもしれないけれど、それが味だってこともある。
岡田脚本でいえば、下ネタ表現がキツいという意見だってあるだろうけれど、それがなくなったら味気ないものになってしまう。
もちろん、プロの脚本だからクソだとは思わないけれどね。
オナニーという言葉もキツいけれど、個人クリエイトの場合は自分が思い描き、自分が納得するものを出すことも大事なわけで、それが作家性に繋がる。それがない作品は……それこそ精錬された、面白みもないクソでしかない」
そして『ポンポさん』からはこの言葉を引用します
『僕が映画に救われたように、僕の映画をみて誰かが救われるように。
そうしたら見えてきたんだ。この映画はあの日の僕に向けた映画なんだって』
この言葉もまた『アリスとテレスの〜』と直結するセリフかもね
カエル「そういえば上記の辻村深月も、インタビューで『想定する読者は過去の自分自身』と語っているよね」
主「特に『ポンポさん』の主役のジーン君は、表現だけが自分の存在意義だと考えているタイプなわけだ。
今回はアニメ作品を中心に語ったけれど、洋画ならば『ゴーストランドの惨劇』もゴア要素の強いホラー映画のようでいながら、実は表現について語った作品なんだ。このような表現は、古今東西問わず、どこにでもあるんだよ」
主「もちろん、岡田監督が過去の自分に向けて、と思っているかはわからない。
だけれど過去の自分書き上げられなかった小説を引っ張り出してきたということは、それだけで特別な意味を持つ。
過去の自分の思い……その初期衝動、突き動かすもの。それを描くのが本作であるわけで、120%の岡田麿里という人が出ているんだよ」
初期騒動の先の世界へ
衝動を晴らした先にあるもの
初期衝動が、この映画では大事なんだね
だけれど、この初期衝動はいつまでも続かない
カエル「先の記事でも語ったけれど、いつまでも自傷や問題行動をしているわけでもなく、誰もがいずれ成長してしまい、生活の中の不満を抱き、思春期の切実な初期衝動を忘れてしまうんだね」
主「人は忘れてしまうし、救われてしまうからね。
岡田麿里という人は、オリジナル作品や時には原作あり作品でも、その生きづらさや閉塞感をとらえていた。そして家族……特に母と娘の関係性を中心に描いてきたけれど、それは一種のセラピーみたいなもので、思春期に抱いた感覚は弱くなってしまう。
切実だったはずの感情が社会と触れることで変化していき、時には欠落感となってそれを抱えて生きることになる。
作り手側もすれば、受け手側も成長する。
悩みも変化し、そのままではいられない。
『秒速5センチメートル』風に言えば、遠野貴樹の『かつてあれほど切実だった思いが綺麗に失われていることに気がつく』し、桜庭一樹の『砂糖菓子の弾丸は撃ち抜けない』風に言えば『暴力も喪失も痛みもなにもなかったふりをしてつらっとしてある日大人になるだろう。』ということ。
そして秒速では遠野貴樹はその喪失感に耐えられなくて会社を辞めるけれど、さらに歳をとるとそんなことすら忘れて、何にも感じずに生きることができる場合があるんだ」
厳しい言葉という救い
この話はどこに着地するの?
自分が感銘を受けたセリフの1つがここなんだ
『受験なんてもうやだ。誰か助けて、死にそう』
すると政宗は「……ぷっ」と思わず噴き出した。
「あはは、そうかよ。だったら、勝手に死ね!」
笑って叫ぶ政宗に、五実もつられて嬉しそうに「しねー!」と叫び、睦実がまるで母親のように「こら、物騒だよ!」と嗜める。
「死ぬってことの意味もわかってねぇくせに。気軽に口にすんじゃねよ!」
「私達だって、わかってないでしょ」
「ああ! わかってたまるか!」
終盤のシーンだけれど、この会話が書けるということに、感銘を受けた
主「ともすればただの物騒な言葉でしかないんだけれど、それまでに、生きる実感が湧かない少年少女たちをあれだけ描写して、その感情を表していた中で、このセリフを書いたということは、自分のこの数年の思いが晴れた。
特に、引きこもりにもなって、自伝の中で『「岡田は人間失格じゃなくて、人間失敗だよね」』という言葉すら紡いだ人が、このセリフを書いたということに、どうしようもなく感動した。
この言葉は、過去の自分に言っている。
そして同時に、自分の過去を肯定して、それでも前に進もうという作家でないと出てこない描写だから」
だけれど「死ね」という言葉は、かなり過激で本気で悩んでいる人にはキツく感じるんじゃ……
ここは言葉が難しいけれど……むしろ、救いになることもあると考えている
主「これが青春はキラキラしていると考えている人が言うのであれば、届かないだろうし、言われた方は傷つくだろう。
だけれど本当に悩んできた人の真剣な言葉は、それが救いになる。amazarashiの秋田ひろむの『僕が死のうと思ったのは』や、カンザキイオリの『命に嫌われている』に、どれだけの人が救われてきたか。
中島みゆきはそういう言葉はあまり使わない印象だけれど、それでも生きるのが苦しい人に寄り添ってどれだけ歌詞で救ってきたか。そういう人の言葉は、例えマイナスなイメージの強い単語を使ったとしても、魂はしっかりと伝わる。
簡単に”生きなきゃダメだよ”とか”死にたいなんて言うなよ”という言葉こそが、無責任だ。それに比べたら今作の”死ね”という言葉の方が、むしろその相手のことを考えているし、少なくとも自分は上記のセリフには強く救われた気がしたね」
創作の先の世界へ
そして、エンドロール前の最終盤へと話は飛びます
沙希/五実のあの表情……作画の芝居も含めて、まさに見事なシーンだった
カエル「最後は成長した沙希/五実が工場に行って、絵を発見するというものだけれど……」
主「まぼろし工場の世界は、やっぱり秩父だったんだと思う。もちろん現実の秩父ではなくて、岡田麿里の故郷であり、因縁の地という意味での秩父であり、それぞれの人の故郷を思い浮かべればいい。
同時に、あの世界は岡田麿里の創作世界でもあり、アリスとテレスの世界でもあった。
初期衝動の世界だよね。
この色々な思いが混じり合って、最後の絵を見た時の沙希/五実の作画の芝居が、ものすごく良かった
主「多分、あのまぼろし工場の出来事は忘れたわけではないだろうけれど、その思いは大きく変容しているはずだ。だけれど、実際の人生の後ろ暗い苦しい経験も、そして自分の作り上げてきた”黒歴史”的な初期衝動の作品たちも眺めて、それを受け入れて昇華して、そして今の世界を生きようという、見事な成長劇だった。
それが岡田麿里という監督の人生と一致し、観客であるボク自身の感覚と一致してしまったから……これは、もう、自分自身のことを語ってくれた映画ということにもなるね」
この映画は物語を愛して、物語があることで生きてきた人の映画なんだよ
最後に
長い記事となりましたが、最後にもう少しだけ語っておきましょう
多くの人の心に、アリスとテレスの世界ってあるのではないだろうか
主「最近、Xで『ライターってクリエイターになれなかった奴らがなるものだよね』という言葉を見て……ライターはクリエイターじゃないのか? という疑問は置いといて、まあ、確かにそうかもなって思いがあった。
少なくとも自分の場合はそうだし、才能も、何よりも根気がなかったから、人様の作品をあーだこーだと語るライター・ブロガーに、結果的とはいえなったという指摘は、まあ間違いではない。それで本も出せたしね。
でも。
同時に。
それでも、物語にしがみついたということだけは、他ならぬ自分自身が評価しなければいけない」
自分の心にも『アリスとテレス』は存在するんだ
主「心の中にいる衝動を、あの頃出してあげられなかった思いを、言葉を、彼らという存在を、この映画は一緒に出してくれたような気がする。
多分自分は今後、趣味としてはともかく、小説家というクリエイターになることはないけれど……それでもライター・ブロガーという半端な立ち位置の、夕闇の中から、ボクの中のアリスとテレスと共に、物語を愛していきたい。
そう強く願うような作品だったね」
物語は願いであり、祈りである
物語る亀、全編書き下ろし書籍がKADOKAWAより発売です!
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