今回は『アリスとテレスのまぼろし工場』のネタバレ感想・考察記事になります!
こちらは少し客観性を持って、作品を引き合いにしながら語っていこうかな
カエルくん(以下カエル)
もう1つの記事は主観バリバリの暴走記事なので、こちらは少し暴走を抑えめで語っています
主
どちらの方が面白いのかは、人によるところかな
カエル「それでは、早速ですが、記事のスタートです!」
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ネタバレなしの紹介記事はこちら
映像が示す今作の力
背景美術について
まずは映像表現から話していきましょう!
最初に背景美術について考えていこうか
カエル「美術監督を務めた東地和生のポストを見ても、とても手間暇かかっているのに数秒で終わりとかもあって、改めて現代のアニメって贅沢なんだなぁ……と思ったかな」
今作のアニメーション表現の凄まじさを感じるな
主「背景美術について語るときは、このまぼろし工場がある世界について規定する必要があるのだけれど……自分はこの世界は、以下のような意味があると考えている」
- 人々を閉じ込める土地の象徴
- 岡田麿里監督の故郷である秩父
- 物語・空想の世界
ふむふむ……それ1つ1つは後ほど語るとして、共通するのは”閉じた世界”ということだね
主「そうだね。
岡田監督は故郷の秩父の山に対して、閉じ込められているような感覚があったと語っている。
それを基に時代・場所が複合し誰もがイメージしやすい閉じた環境の雰囲気を、見事に美しく表現した美術だった。世界を見せる映画でもあるから、この美術がないと成立しないし、2023年で最もリッチな背景美術だったといってもいいだろう。
下に挙げる背景美術は、特にこの寂れた町を取り囲む山という閉塞感を表していて、登場人物たちの気持ちが伝わってくるようなものだった」
サビだらけの工場とかも、廃墟フェチみたいな人じゃなくても、たまらない良さを放っていたよね
主「東地和生美術監督は岡田麿里が脚本を務めた作品にも多く参加しているし、この作品が抱える感覚を見事に表現していたのではないか。背景美術の力がとても強く発揮された作品の1つだったことは、疑いようがないな」
キャラクターの作画などについて
次の映像面としては、キャラクターの作画についてだね
ここも石井百合子作画監督を始めたとした、作画スタッフ陣の意地が見えたような作品だった
カエル「あんまり語りすぎると、作画について詳しくないのがバレちゃうし、詳しい解説は他の方にお任せするとして……今作の作画で面白かった部分はどこ?」
主「もちろん、キャラクターの演技がどこも素晴らしく良かった。
特に……キャラクターが変化する瞬間だよね。特に睦実がそうだけれど、学校ではペルソナを被るように大人しい少女だったのが、一瞬で妖艶に変貌する姿とか、本当に素晴らしかった。
自分は紹介記事でも語ったけれど、睦実が屋上で上履きを履きながら登場するシーンでとてもつもなく惹かれてしまって、あそこで全部ノックアウトされたような気分になった。
そこから先も人物描写や芝居がとても良かったのではないだろうか」
今作の場合は、他の映画に比べるとちょっと芝居が難しいのでは? と思う部分もあるかな
典型的な美少女・イケメン演技をしていればいいというわけではないからね
カエル「それこそアニメが作り上げてきた美少女の動きとか、あるいは漫画的・記号的な表現もあるけれど、そらとは違うような芝居のつけ方で作品の魅力を発揮していた印象だね」
主「リアルな演技、という言葉にも色々あるだろうけれど……今作の場合は各キャラクターが、一種のダウナーな一面を見せている箇所が多い。それを考えると、アニメ界全体でも今作のような芝居のアニメが特別多いわけではない、と推察できるから、難しい部分があったのではないだろうか。
特に岡田麿里監督のダウナーな世界に合わせた少年少女・人物像となっているし、作画面に関しても、高く評価される作品に仕上がっている。
美術・作画面に関しては、かなり見所が多い作品になっているな」
感銘を受けた場面について
この映画の魅力や作品を象徴するなぁってシーンは、どこになるの?
画像が公開されている中では、1つ目はこのシーンだ
確か序盤だったと記憶しているけれど、睦実を見上げているシーンだね
ここだけで正宗が睦実に向けた感情が伝わってくる
主「ここで正宗が見ているのが睦実の影であって、実像ではない。
まだ本物の睦実を見ることができていない、という解釈もできるシーンだよね。
さらにここで見上げているということから、手に触れられる存在のようには考えていない、という解釈も可能なのではないだろうか」
あとはこのシーンも触れておきたいとのことですが……
この映画を象徴するようなシーンの1つだよね
主「先ほども語ったように、美術が田舎の町の寂れた感覚を与えつつも、光が強めの処理が施されていて、ここで革命的な出来事が起こることを示唆してくれている。
このシーンからの一連の流れは、やはり2023年のアニメシーンを語る上で、重要な場面になったのではないだろうか。
こういったシーン1つ1つが、正宗達、登場人物たちの心情にとても寄り添っていた。この点も含めて、絶賛したくなる場面だったね」
ストーリー面について
セクシー漫画のような情動
この映画を観た時の感想を付け加えたいということだけれど……
なんだか、良質なエ○漫画を読んだ後のような気分だったんだよね
カエル「……え、エ○漫画?
一応、うちの記事は全年齢向けコンテンツなので、ちょっと誤魔化しながら語ってください‼️」
主「まあ、岡田麿里論としては、正確には谷崎潤一郎っぽいと言った方がいいのだろうけれどね。
とりあえずムフフ漫画と称しますが、この手のジャンルってなかなか表に出ることがないというか、やっぱりアングラな世界だよね。だからこそ表現できることがあるし、もちろん、何でもかんでも表舞台にあげていいわけではないし、現代の価値観では問題がある描写がある作品も多いのも理解している。
一般的には男性が読んで自慰をするための、男性に都合の良い妄想しかない漫画と思われているだろうけれど……もちろん、そういう用途に特化した作品が一定以上多いことも否定しないけれど、同時に”情動”を描いた作品もたくさんあるんだよね」
ポルノ映画も含めて、そういう描写があるから描ける感情というのもあるのかなぁ
どうだろう……フランス書院はあんまり読まないからわからないけれど、かつての谷崎とか団鬼六とかの世界が継承されているのは、意外とムフフ漫画な気もするけれどね
カエル「ピュアな恋愛ではなくて、そういう体の関係が入るからこそ描ける感情があるってことだね」
主「自分が連想した作品で具体的に言ってしまえば、名仁川るいの『見つめなくて良いから。』だったり、あるいは昨年では全表現の中でNo1の衝撃があった、ぴょん吉の『私のきらいな人』などが、それにあたる」
申し訳ありませんが、大人の人しか見れない作品だし、ちょっとリンクを貼ることすら憚られるのですが、興味がある方はぜひ読んでみてください
それこそ谷崎潤一郎とかサドとか、そういった情欲を通した人間を描いた作家たちだよね
主「そういう、一種のアングラなものだからこそ描ける情感というのも目指していたようにも感じるし、それはとてもよく表現されていたのではないか。
本作のエロティシズムな表現に眉を潜める人は、それはそれで正しいと思う。むしろ後ろ暗いのは、それを支持しているこちらかもしれない。
だけれど今の時代に……谷崎的なエロティックだったり、あるいは自分が好きな坂口安吾で言えば『白痴』のような知的障害者との恋愛作品を発表できるような余裕が、果たして大作邦画にあるのか、とても疑問があるかな。
その意味ではその世界をこの規模のアニメ映画で表現しようとしたことは、高く評価されることだと思うね」
恋愛という情欲
岡田監督は試写会の舞台挨拶の場で、今作を「恋の物語」と呼んでいたよね
その恋というのは、果たして綺麗な感情なのだろうか
カエル「ここ最近はアニメ映画も大ヒットを記録していて『君の名は。』をはじめ爽やかな恋愛作品が多く発表されているけれど、この作品はそうじゃないよね」
主「アニメ映画でいったら『劇場版 魔法少女まどか☆マギカ 新編 叛逆の物語』が、その感覚を描いている。終盤のネタバレになるから詳しくは言えないけれど、ほむらの痺れるような愛の言葉だ。
恋愛というものは『好き、結婚したい、一生大切にする』というポジティブで綺麗な感情も含まれているけれど、もっともっと情念としての恋愛……相手を束縛したい、傷つけたいというような、ネガティブな感情も含まれている」
アニメオタク的な用語で言えばヤンデレとかが近いのかな
相手を徹底的に管理したい、自分のものにしたいという気持ちだよね
カエル「でも、この作品の中には、爽やかな恋の情動も描かれているよね?」
主「もちろん、そうだね。
だから全部が全部そうだとは言わないけれど、やはり正宗と睦実の恋愛関係は、情念がたっぷりあるものだった。近年のアニメでは珍しいのかなぁ……でも岡田麿里は、そういう情念を描いてきた脚本家でもあるわけで。
それが今作にはとても強く発揮されていたし、だからこそ個性がある作品になった
その個性の1つとしては、やはり恋愛の一種の暗い情動を捉えてアニメートしたというところにあるのだろう。
それと同時に、今作の肝は”まぼろし世界”と”現実”を対比させたとき、必ずしも現実が素晴らしいと描いていないことにあると考えている」
まぼろし工場世界と現実
ふむふむ……まぼろし工場世界と現実、ね
今作を『日本社会の縮図』と語る人もいるようだけれど、自分はそのようなことは全く感じなかった
カエル「もちろん、色々な解釈があるからこそ物語文化は熟成されていくものですが、うちは社会論じみたところは、全く採用しないということだね」
主「とてもさりげないセリフだけれど、今作を象徴すると感じているセリフを小説版から引用しよう」
「うちの生姜焼きって、生姜入ってない。にんにく焼きじゃん」
とりあえずの疑問に、美里は手をひらひらと振りながら、
「見た目が『おんなじよう』なら、本物と対して変わらないよ」
この言葉が、この映画を象徴していると考えている
カエル「ふむふむ……つまり、生姜焼きとにんにく焼きが同じよう、ということを通して、まぼろし世界も現実も同じようなのではないか? ということを、描いたという評価なんだね」
主「今作は必ずしも、この世界が悪いとは描いていない。近年の作品ではヴァーチャルな世界を舞台にした作品もあるが、その多くが『現実も大事にしよう』という意見に終着するように見受けられる。
だけれど、今作はそういう作品とも言い難い。
五実すらあの世界にいることを最初は選択したように、あの世界から帰すことを選択したのは、本物の世界で父と母として五実/沙希の帰りを呆然と待つこと知る正宗と睦実だけと言えるかもしれない。
他は、まぼろし世界を存続させるために力を発揮している。
このまぼろしの世界というのは……先にも語ったように、岡田麿里論でいえば秩父でもあるし、同時に物語・妄想ワールドでもあり、引きこもりの世界ということでもあるんだ」
佐上衛とは何者だったのか?
-
佐上衛の正義
今回特別に語りたいキャラクターとして、佐上衛が挙がるということなので、ここについて説明していきましょう
佐上衛はこの映画における最大のキーパーソンであると考えている
カエル「1番エキセントリックな人物だけれど、コメディ担当でもあって、変な人だよね。敵役なのは間違い無いけれど……」
主「個人的には佐上衛がやろうとしたことは、感覚的に理解できる。
まず、前提条件としてこの世界は岡田麿里ワールドであり、岡田麿里が衝動で書いていた小説である『アリスとテレス』の世界……作者の生み出した作中世界であるとする。そして外の世界に出られない、というのは、そのまんま引き込もりの状態なんだよね
じゃあ、佐上衛はどういう人だったのか? ということだ」
作中では事故が起こる前までは変わり者として有名で、友達もいなくて煙たがられていて、睦実の母親をはじめ女性にも一向に興味がないということで、内向的な人であることは感じるよね
自分の解釈としては精神的な引きこもりだったのだろうと考えている
主「神社の後継者で、工場という仕事もあるから、この町の社会では引きこもりではない。だけれど精神的にはその日常に全く合わなくて……自分の世界に逃げ込んでいたであろう人。
そして、今回の爆発事故を経て、自分の世界が顕在化してしまった。
あの世界については佐上衛自身もなにもわかっていなくて、説明役のようでいて実際はなに1つ説明になっていないのが特徴的だけれど、その空想力を活かして人々を先導したんだよ。
つまり、自分の妄想が具現化した究極の引きこもりだ」
キャラクターの対比関係
それはなんだか、救いようがないねぇ
そしてこの映画は、男性陣に関しては一部対比関係が用いられている
佐上衛(創作) ⇔ 父・菊入昭宗(現実)
主「正宗とは名前も似ていてわかりづらいから、父・昭宗と表記するけれど、佐上衛と父・昭宗の対比は描写としては少ないけれど重要なポイントだ。
五実を巡って議論になるシーンがあるけれど、父・昭宗は現実に戻すことを提案し、佐上衛は妄想・創作の世界であるまぼろし工場を変化させないことを選んだ」
カエル「考え方が途中まで一緒だったのに、結論が変わってしまったんだね」
主「つまりこの2人は、現実に戻ることを志向するのか、想像・妄想の世界に入り浸るのかの対比関係となっている。そして結果的には佐上衛の意見が通った形となり、父・昭宗は姿を消してしまう。
そして子どもである政宗は、そのどちらを選ぶのか? というのが、この物語の終盤の展開となってきているわけだ」
佐上衛の苦悩
ふむふむ……だけれど、佐上衛は父・昭宗に執着していたようにも見えたけれど……
そこもあって、自分は佐上衛をなんだか憎めないところがあるんだよね
主「というかさ、同じ状況になったら佐上衛を支持する人、同じような行動をする人って、それなりに多いのではないか? と思うんだよ」
カエル「え? どういうこと」
主「佐上衛という人は、現実では一切の他者とのつながりがもてなかった。
就職も結婚も全てをお膳立てされた、完全にレールの上の人生で、なにも選択肢がなかったんじゃないかな。女性とも縁がなく、友人もいなくて、多分家族ともそんなに上手くいっていなかったと想像できる。
だから睦実のお母さんと結婚しても、猜疑心の塊だから悪口1つ言われていないのに、その存在を否定してしまう。
そんな中でどこにも居場所がないから、精神的な引きこもりになり、自分の妄想の世界へと突入する。
そして、その妄想の世界が現実のものとなってしまったら……ようやく与えられた自分の居場所が生まれたら、そこを死守したいと願い行動するのは、異常なのだろうか」
結局、ボクたちは政宗の立場から映画を見ているから、佐上衛が悪役に見えるけれど……彼が主役だったら、感情移入しちゃうのかもしれないね
そう考えるとさ、父・昭宗を『友人だと言ったのか?』と問い詰めるシーンって、とても大切なんだ
主「町において他者と精神的なつながりが持てない中で、唯一同じことに興味を抱いてもらい、友人になれそうだったのが父・昭宗だった。そして彼が友人だと語ってくれたと聞いた時……その時、初めて佐上衛は他者に理解され、つながった実感を得ることができたのではないだろうか」
カエル「生きる実感……政宗たちの気絶ゲームのような痛みだったり、睦実の語る匂いだったりするものだね」
主「その意味では生きる実感が得られなかったのは、佐上衛も一緒なんだよ。
ただ、その解消方法が違う。
自分の妄想の世界に入り、そこの世界を維持すること……それこそが佐上衛の生きている実感であり、ようやく辿り着いた充足の世界だった。
それ自体は…もしかしたら秩父を出ていない岡田監督のIFなのかもしれない。間違いなくブログを書き始めていない自分は佐上と同じような存在になっていただろう。あるいは、今、現在、まさに全く同じ存在になっているとも言える。
その行動・思想そのものは……自分はとても理解できてしまうかな」
現実と想像 どちらを選択するか?
現実と想像の対比……現実が本当に素晴らしいのか?
そしてそれが、先に語った『豚の生姜焼き にんにくバージョン』につながると
この会話がこの物語の核なんだよ
カエル「『見た目が『おんなじよう』なら、本物と対して変わんないよ』のセリフだね」
主「この世界は”見た目がおんなじならば、本物と変わらない”世界なんだよ。変化しないし、窮屈だけれど……でも、じゃあ本当に本物が、現実の世界が幸福か?
そうじゃないのは、現代人が1番知っているんじゃない?」
カエル「小説版では崩壊していく世界の中で、大人たちが酒盛りをするシーンがあります。
そしてテレビドラマの犯人が安直であることに文句を抱きます。
「なぁんだ。私が予想してた犯人の方が、ずっと面白かった」
「現実ってのは、この世界よりだんぜんつまんねぇかもなぁ」
主「現実は楽園じゃないんだ。むしろ、変わらない社会の方が楽園かもしれない。
妄想だとしても、創作だとしても、自分の世界の方が、はるかに現実よりも面白いのでは? と考える人だっているだろう。
この映画の、この作品のキモは”現実の方が幻想よりも素晴らしい”ではなく、”現実も幻想も同じようなもの”と描いたことにある」
岡田麿里の世界と誕生
そして終盤の感動シーンに入っていくわけだね
ここが、本当に、素晴らしかった
カエル「一応メタファー論としては列車や線路は運命のメタファーとして機能していて、だからこの映画は列車が1度横転する=人生に失敗する、列車で帰る=人生をやり直す、という解釈も可能だけれど……」
主「いつもならばそういう解釈もしたけれど、そもそもこの世界そのものが全て岡田麿里ワールドなんだよね。
創作上の世界でもあり、同時に登場人物たちは全員岡田麿里ということもできる。それは極端だとしても……睦実と五実は、まさに学生時代の岡田麿里の象徴だとも感じられた。
外の世界に出るのは、決して楽しいばかりじゃない。
変化するというのは、どうなるかわからない不確定性に身を置くということであり、それよりは安定性をとった方がいいという選択もあるだろう。特に地方都市では、一生をその町で終える人だっているし、それが悪いとは到底いえない。
だけれど、五実が外の世界に出て行った時……自分の引きこもりだった世界を抜けた時、大きな声で泣き叫ぶ。
それこそが、岡田麿里という人生の誕生であり、再び生まれたということだろう。ここは久野美咲の渾身の演技でもあって、素晴らしいシーンに仕上がっていた」
岡田麿里論
『ユリイカ』での過去のインタビュー記事より
ここで最後に岡田麿里論に入る前に、批評雑誌である『ユリイカ』にて岡田麿里特集が組まれた際に、篠原俊哉が語っていたインタビューを引用します
これは岡田さんが自分でよく言っていたことですが、自分は決してメジャーな人間ではない。むしろマイナーな人間なんだと。これは悪い意味ではなく、自分もそう思うんですね。メジャーになりうる爽快感だったり、心地良さだったりをメインに据える方ではなくて、最終的には深く沈み込んでいったところに溜まっている何かを掬い上げるような人。
P92
この言葉が、まさにこの映画にぴったり当てはまるのではないだろうか
カエル「岡田麿里という脚本家の作風は、決して大ヒットするような明るいものではない、と?」
主「むしろ、爽快感や作品としての爆発力というのは長井龍雪監督の手腕が大きかったのではないか? ということを、今回改めて実感した。
個人的には長井監督って、原作の魅力とかも活かしたとても優れたヒットメーカーだと評価しているけれど、演出面はともかく、その物語の作家性というのが見当たらなくて……
でも、それが当たり前だったのかもしれない。
岡田麿里という、深く沈んでいく脚本家の泥の中に埋まっていた感情を、多くの人に届きやすく爽やかな作風にしてくれていたのではないか?」
もっともっとドロドロとしそうなところを、綺麗にまとめてくれていたんだね
だけれど、同時に爽やかにしすぎていたのかもしれない
主「とてもバランスは良かったと思う。
自分はあの花トリオの最高傑作は、やっぱり『とらドラ!』だと思うし、あれは原作があるとはいえ岡田麿里の個性も感じられたし、長井・田中の映像面もとても堪能できる作品だった。
今作と比較すると同じオリジナルアニメ映画でも『空の青さを知る人よ』の方が、いろんな意味で上手いよ。
やっぱり”上手い”を提供してくれる監督だなぁ、と感じている」
うまい、より大切なこと
ここまで語ってきて、結論部分になると思いますが……
うまい映画ではないんだよ
カエル「これだけ感銘を受けていて、うまい映画とは言わないんだ」
主「もちろん、映像クオリティは高い。先の述べたように、石井百合子をはじめとした作画チームの力や、東地和生をはじめとした美術チームの力は絶賛だ。横山克の音楽も作品を一層盛り上げていた。
だけれど……やっぱり物語としては歪。
多くの人が突っ込むであろう、SFとしての描写の甘さは強く感じるし、甘いところはところん甘い。その辺りが映画としての上手さを感じない部分もある」
でも、歪であることはとても重要なんだ
主「これが上手い映画だったら、ここまで感情が揺り動かされてなかったかもね。
上手いが先行する映画になっていたかも。
拙いかもしれないけれど、上手さを……SFとしての整合性とかも含めたものを捨てて、感情を表現しようとしたからこそ、今作はこれだけ語りたい作品になったのではないだろうか。
岡田麿里という人の歪さがとても出ているし、だからこそ力強い作品になっている。」
先にも紹介した2018年に発売された岡田麿里を特集した『ユリイカ 2018年臨時増刊号』では、以下のように発言しています
岡田 海外のアニメイベントで「どんな作品を作っていきたいですか」と訊かれた時、とっさに「その人のトラウマになって、一生その作品を引きずるような作品」って答えたんですよ。良い意味でも悪い意味でも……できれば良い意味のほうで(笑)。
P31
この言葉にあるような作品に、今作はなっているのではないか
主「人によっては、本当に一生を引きずるような作品になったのではないか。
それこそ自分にとっては……もう1つの記事で書いたような感情が渦巻いたし、とても伝わるものが多い作品になった。
もちろん、今作が描いたものがわからない人だってたくさんいるだろう。
それでも10人に1人……100人に1人だとしても、とても強く響くような作品になっているし、今作の品質上の勝利と言ってほしいね」
本作で岡田麿里の全身全霊のストレートを浴びたよ
最後に
というわけで、約2記事、合計2万文字越えとなりましたね
貴重な体験だったなぁ
カエル「そういえば、試写会で今作を見た後、映画を1作を見てないよね?」
主「映画どころか、多分TVアニメも見たかどうか忘れているくらいかな。
事情があって映画を見れなかったり、アニメを見る気分ではなかったこともあるけれど、だからこそ今作について、約一月弱くらいかな、かけて考えることができた。だからこそ、個人的にも思い入れが深い作品になった。
本当は物語の感想を書くならば、それくらい置いて深く考えた方がいいのだろうけれど……ブロガーというのは、速さ勝負になるから、あまりよろしくないね」
カエル「もしかしたら、こういう記事は2度と書けないかもしれないね」
主「今回はとにかく疲れたなぁ。
少しゆっくりして、改めてこの作品の完成版を劇場で観て、ゆっくりと考えたいかな」
物語る亀、全編書き下ろし書籍がKADOKAWAより発売です!
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