少し遅くなりましたが『空の青さを知る人よ』の考察の記事になります
もっと早くにあげられたらよかったな……って毎日言っている気がする
カエルくん(以下カエル)
「なお、この記事はネタバレ全開になりますので、ネタバレなしの感想などが知りたい方は以下のリンクを参考にしてください」
主
「あとは、まあまあ長いので心して読んでくださいってことで……記事のスタート!」
(C)2019 SORAAO PROJECT
#空の青さを知る人よ#空青
— 井中カエル@物語るカメ/映画・アニメ系VTuber(初書籍発売中!) (@monogatarukame) 2019年10月5日
あの花トリオの最新作として文句なしに"正しい"作品に感じた
3人の作家性がいかんなく発揮され、大きな魅力を与えている上に過去作の上の本作となると感慨深さも
楽器演奏シーンは鳥肌モノの作画力!
芸能人声優が嫌だ?
そんな言葉言えなくなるほど最高の演技だよ! pic.twitter.com/2W7lNNxGCc
作品考察
3人の映画として
ここからネタバレありで語っていきます!
この映画は誰の映画か? ってところから考えていこうか
カエル「え? それはもちろんあの花トリオの映画でしょ?」
主「それはそうなんだけれど……自分が面白いな、って感じたのが、今作がちゃんと”3人の映画”になっていることかな。
もちろんあいみょんだったり、先ほど語ったキャストの力もあるだろうし、自分があまり知らないセクションの人々の尽力もあるだろう。
でも、最後はやっぱりこの3人の映画になっているのが面白いんだよね」
カエル「……どういうこと?」
主「この3人がここ数年間の持ち味ってものを強く発揮していると感じたんだよ。
この映画はもちろん監督である長井龍雪の映画でもあり、またキャラクターデザインや総作画監督の田中将賀の映画でもあり、岡田麿里の映画でもある。
自分は作画オタクではないから田中将賀に関しては詳しく語れない部分もあるけれど、それでも細かい日常の動きの数々であったり、逆に快感の強い派手な演技などの味をしっかりと見せつけていると感じた」
カエル「でもさ、アニメという総合芸術において、その色々な人の力が感じられるっていうのは当たり前なんじゃないの?」
主「それはそうだし、外部からだとわからないことも多い。
それでも……もちろん有名で何作も公開している実力のあるスタッフだということもあるけれど、それぞれの作家性を強く感じるというのは、アニメや映画という総合芸術においける理想の1つなのではないだろうか?」
オルフェンズの後の”正しい”物語として
そういえば、短評では”正しい”という言葉を使っていたけれど、どういう意味なの?
秩父三部作の1つという捉え方もあるけれど、オルフェンズの後の作品、と捉えることもできるわけだ
カエル「分割2クールで放送されたガンダムシリーズの1つ『鉄血のオルフェンズ』ですが、うちではテレビシリーズのガンダムの中でトップクラスに好きな作品だと公言しています」
主「賛否が割れるのもわかるけれどね。
『オルフェンズ』という作品は”未来のない子供たちの反抗”を描いている。大人たちや社会の強者たちに蹂躙され、食い物にされ、それでも歯を食いしばるしかない子供たちが立ち上がり、そして散っていく物語だ。
この3人の作品としては前作でそのような作品を作り、その次の作品でリアルな世界を舞台に、少年少女たちが夢を持って立ち上がる作品を描いているわけじゃない?」
カエル「世界観があまりにも違うから単純には比べられないけれどね」
主「岡田の作品の多くは”親”という存在と対立する子供が出てくることが多いし『オルフェンズ』もその文脈にあると言える。
だけれど、今作は親……とまでは言わないけれど、大人の苦悩も描いている。
そして大人の悩み、子供の悩みをイコールに近い形で描くことで、対立させることなく物語を展開しているわけだ」
カエル「それが”正しい”ってこと?」
主「そうだね。
オルフェンズしかり、それまでずっと対立してきたものの違う見方で語り尽くす。それは”正しい成長”なんじゃないかな?
今作ってすごく大人な映画になっていると感じたんだよ。過去作はどれも作品としての青さ、若さが感じられた。
その分、少年の勢いに近いものがあった。
今作は青年ぐらいに成長しているんじゃないかな? それがバランス感覚の良さにつながっているとは思う」
成長したことで生まれた? 不満点
その成長っていいことなんだよね?
う〜ん……難しいところだなぁ
主「これは長井監督がインタビューで、『物語の整合性を合わせるよりはキャラクターの感情の発露を優先』している、みたいなことを答えている。
これは監督の態度として正しくて、整合性のとれたつまらない物語よりも、整合性のない面白い物語の方が価値が上だと思うわけです。その代わり、細かい整合性や配慮が行き届いていないように感じられて気になる部分もある。
今作も後半の展開がすごく気になったんだよね」
カエル「急に地震が起きたり、物語の都合のために行われた印象もあるよね」
主「それと、ここまで音楽映画で押しているんだったらクライマックスに音楽シーンは入れて欲しかった。
そこを入れないから、肩透かしになった印象もあるし、物語の都合に合わせて作られている感もある。
でも、過去作もそういった部分はあったんだよ。
それを少年のようなまっすぐな思いで突き破って行った。
今作は……もちろんその力がないとは言わないし、快感も強いけれど、バランスが良い分もう1つ突き抜けて欲しかったという思いもどこかにある。
ただし、映像面や音楽面では100%の全力を描いていたから、これは無茶ぶりなのかもしれないけれどね」
岡田麿里の映画として
全世代に向けられた物語
じゃあ最初に本作の脚本を務めた岡田麿里の映画としての『空青』について語っていきましょう
ここは岡田の影響というよりは、座組みの良さとクリエイター陣の上手さが発揮された形だな
カエル「まずは、この映画の持つ”幅広い世代に向けられた物語”という点に着目しましょう」
主「多くのアニメは基本的には10代向けに作られている。近年では『SHIROBAKO』とか、ちょっと前だと『働きマン』のような20代以降の社会人向けの作品が増えてきたけれど、まだまだ中高生が主人公の作品は多い。
これは全世界的な傾向と言えるけれど、日本のアニメはまだ大人向けの作品に理解がある方だけれど、そんな状況だ」
カエル「今作もあおいの進路とか恋の悩みという点では、高校生を扱った作品としてはよくあるテーマとも言えるよね」
主「そこに30代の視点を入れることで『あの花』などを愛してきた人が成長し、それくらいの年齢になっていることを加味して製作されている。
同じ”進路(将来)への悩み”と言っても10代と30代では意味合いが大きく異なる。いうなれば、10代は”これから何者になるか?”という悩みだとすれば、30代は”見切りをつけ、何者になるという夢を諦める”年齢とも言える」
夢を諦める平均年齢って26歳くらいって記事も以前に読んだなぁ……特に30歳って一つの節目で社会の目も変わるから、色々と考えてしまうもんね……
この映画は10代よりもアラサーに伝わる物語となっている。
主「さらに言えば男女でもアラサーとなると悩みが異なるだろうけれど、男性の慎之介と女性のあかねの悩みを描き分けているほか、地元に残った側と出て行った側を描いている」
カエル「どちらかというと、しんのと慎之介の違いを描くことに力を入れていたと思うけれど高校生組でもあおい、しんので男女の違いも描いていたのかな」
主「そしてさらに小学生の正嗣の視点が入ることによって、さらに幼いからこその迷いのない視点が入る。
自分もあの感覚って覚えがあって……多分、一番迷いがなかったのって小学生くらいだと思うんだよね。スパッと物事を単純に考えられたというか、子供だからこそ見えるものがあって、実は一番大人だったというか。
それから物語ではコメディリリーフではあったけれど新戸部団吉の視点も感じられた。
『四十にして惑わず』というけれど、あそこまでいけばもう迷いはなくなっていくのかなぁ……なんて感じられたかな」
カエル「共感、という意味では違うだろうけれどね」
主「でもさ、あんな歌手としての生き方だってあるんだよ。
ご当地ソングを歌って、半分たかりのようになっているけれど、演歌なのにバンドのバックバンドを採用して、おそらくちゃんと給料も支払っている。
少なくとも慕われてはいるわけだ。
音楽の成功にも色々な形があることを示すこともできたんじゃないかなぁ」
過去の岡田脚本作品と比較して
岡田麿里の脚本の映画としてはどんな印象を抱いたの?
面白いけれど、正直ちょっと物足りない
カエル「え〜? 世間的にも評判がいいのに?」
主「自分は岡田麿里作品の性的描写の扱い方に感銘すら受けてきたんだよね。
岡田麿里脚本作品の最高傑作は『放浪息子』だってずっと言ってきているけれど、もちろん志村貴子の原作が非常にすぐれていることも当然あるけれど、岡田の持ち味である性を描く姿勢や、現代劇……特に昼ドラ的なドロドロした感覚が見事に合致した作品だったと思う」
主「 オリジナルでは……特に秩父三部作では『ここさけ』が岡田の味を知るには適しているんじゃないかな?」
カエル「もちろんテレビシリーズが元でほぼ総集編の『あの花』の映画は別枠とするけれど『ここさけ』が高い評価なんだね」
主「あのスタートは脚本の上手さが光るんだよ。
以前にも書いたけれど”山の上のお城=ラブホテル”という着眼点は天才的だとすら思った。大人と子供で受け取り方が全然違うし、捉え方が違うことによってドラマが生まれている上に、全く特殊ではなく我々一般の感覚にも近くて、さらにちょっとコメディ要素もある。
スタートで観客を引き込む脚本として、惚れ惚れするほどだった。
また、確かに賛否はあるだろうけれどあの気持ち悪いくらいのどうしようもないドロドロ具合なんかが好きだかったから……今作はその味があまりなくなっていたのは、残念だったね」
じゃあ、今作のスタートはあまり良くないの?
いやいや、別のやり方で観客を引き込んでいるんだよ
主「これは岡田云々ではないけれど、スタートからして自然描写と演奏描写が圧倒的に優れていた。
この映像的な快感で観客を圧倒し、自分たちの作品の魅力を誇示しているわけじゃないですか?
その点を考えると、映画としてはむしろ順当に進化したと言えるのかもしれない。
あとはやっぱりキャラクター描写や会話の面白さがよかったね」
カエル「他にも語りたいことといえば『親との確執』の点ですが、こちらはリアルサウンドの方で詳しく語っているので、そちらをお読みください」
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卓越した音楽描写で観客に技術力を見せつけて作品に引き込んでいる
秩父の描き方
今回は”秩父”を舞台にした3部作の3作目になるけれど、そこについてはどんな印象?
秩父に対する捉え方が変わったかn
カエル「過去の2作は秩父というか、田舎の苦しさってものをもっと描いていたよね。
それに比べると、だいぶ明るいというか……秩父や田舎をそこまで悪いように描いているとは思わなかったかな」
主「この3作って秩父でないと絶対に描けないものがあるか? というと、それはないんだよ。別に他の町でも成り立つし、背景や地元のお祭りだって他のもので代替不可ってわけじゃない。
それでも秩父を選んできたのは、やっぱり岡田の出身地だったということが大きいと思うわけですよ」
カエル「まぁ、そんなことを語っている記事も多いし自伝本の『学校へ行けなかった私が「あの花」「ここさけ」を書くまで』でも、『あの花』で秩父を舞台にする予定はなくて最後まで岡田は反対したって記述もあるんだよね」
主「すごく故郷に関して複雑な印象を抱いているのも伝わってくるんだけれど、その思いが物語に出ている。
だけれど、今回は……まるでP.A.Works作品か? と思うくらい地方の魅力をアピールしているんだよね」
カエル「岡田はP.Aと縁が深い人ではあるけれど、今回は関係ないよね?」
主「ここまでストレートに『町を盛り上げよう!』と描いていた作品は岡田作品で過去にあったっけな? という印象もある。
そこも含めて岡田成分が薄まっているとも言えるし、その分バランスが良くなっていると思うけれど……ここも岡田の思いの変化ってものがあったんじゃないかな?」
『さよ朝』が大きな転換点いるんじゃないか? って話だね
だいぶ岡田自身のモヤモヤが消化されているのかなぁ
主「自分は『さよ朝』ってあんまり評価できていない部分があって、もちろん映像面はリッチだけれど、色々と思う部分がある。そもそも、岡田麿里の真骨頂が現代劇にだというのは多くの人が納得すると思うし、例えば冲方丁などとは違ってファンタジーやSFが得意なタイプとは思わない。
その点ではアニメ脚本家としては異色かもしれない。
でもさ『さよ朝』や『オルフェンズ』を描いたことによって、色々な思いが消化されたされた、その先を見せてくれたような気がしている。
親との確執、あるいは地元や田舎への堅苦しさ、風習などへの疑問、そういったものがほとんど吹き飛んでいるようにも感じるんだよねぇ」
カエル「そこが川村元気のマジックの結果なのか、それとも心境の変化なのかは、今後の作品の注目ってところだね」
長井龍雪監督作品として
長井監督の魅力って?
次に、長井監督監督作品としてどうだったのか、語っていきましょう!
ぶっちゃけ、長井監督の味がなんなのか、まだ理解できていない部分もある
カエル「あれ? でも大ヒットメーカーだし、長井監督ってだけで見るくらいには好きな監督なんだよね?」
主「そうだね。
でもさ、長井監督の味ってなんだろう? と具体的に考えるとわからなくなる。
『とらドラ!』などもそうだけれど、それって岡田麿里の魅力なんじゃない? と思うこともあるし、『とある科学の超電磁砲』などのように、原作付きの場合は原作の魅力なんじゃないの? ってこともあって……
オリジナルであの花トリオの誰も関わっていない作品って『あの夏で待ってる』ぐらいになるんじゃないかなぁ……。
映像的な特徴って、自分が疎いのもあるけれどよくわからないんだよ」
カエル「『アイドルマスター XENOGLOSSIA』なんかもあるけれど……」
主「あれはあれで特殊だからなんとも言えない。
でも、そんな中で長井作品に共通するかな? って自分が感じるのは以下の3点なんだ」
- 芯の通った物語
- 日常的な描写を多く描く
- バランスの良さ
カエル「まず、芯の通った物語ってどういうこと?」
主「なんというか、物語としての軸がしっかりと定まっている印象を受ける。
どの作品ではも何を描くか、何は余計なのかということがわかっているから、オリジナル作品でも話が迷子になることはあまりないような印象だ。
先にも語ったことだけれど、整合性を合わせようとして迷子になる作品もあるんだけれど、長井監督作品って無理に整合性を合わせない代わりに、作品の核となるもの、テーマやキャラクター描写をしっかりと意識して描いている印象があるんだ」
リアル感にこだわった作風
ふむふむ……あとは日常的なお話が多いよね
リアル感にこだわっているんじゃないかなぁ?
カエル「リアル感というとちょっと言葉が伝わらないだろうけれど……」
主「近年では日常劇の物語が増えたけれど、アニメって本来は……本来という言い方は語弊があるか。でもファンタジーやSFが多いものじゃない。日常劇もコメディやギャグ、学園ものなどに分類されるだろうけれど……長井監督作品って、もちろんその手の要素も含まれるけれど、もっと大きな日常的な物語を描こうとしている印象がある」
カエル「突飛な設定などは1つくらいにとどめておいて、異世界などをあまり出さないとかって説明すればいいのかなぁ?
日常系ともまた違う作風だよね。
もちろん、原作付きの作品もあるので全てが当てはまるわけではありませんが……」
主「例えば『オルフェンズ』もそうでさ、爽快感があまりない物語だと思うんだよね。ラストも賛否割れる形だし、重要キャラクターが亡くなるシーンも華々しく散らない。
でもそれって当然といえば当然なんだよ。
だって人が亡くなるシーンって『俺に構わず行け! 未来のために!』とかいうほど劇的なものばかりのように思うけれど、現実はあっけなく散る。
戦場で散ると思っていたけれど、なんてことはなく事故や日常の中で亡くなることもある。
そういうリアルな部分を描こうとしていたのかな、って思う訳」
カエル「それが作風として他の作品でも現れていると」
主「現実の土地を入念に調べて描くって、今では聖地巡礼などでどこでもやっているようだけれど、長井監督も比較的早くから取り組んでいるじゃない?
『アニメだから非日常なものを』という、ある種の常識化されていそうな思い込みから脱するために、それでいながらもアニメ的な快楽を得られる作品を作るために、バランスを見ながら描いている印象だな。
それが最後に挙げた”バランスの良さ”にもつながってくるわけ」
今作の絵コンテ上の工夫
今作では監督と絵コンテを手がけているけれど、どんな印象を抱いたの?
空間的な配置というかな? 限られたスペースでの強調がすごく印象にのこる
カエル「そこいら辺を詳しくお願いします」
主 「この映画で誰でも気がつく空間的な工夫の1つが”しんのは神社から出られない”という設定だよね。
空間的な制約がついている。彼が外に出てしまうと色々と片付いてしまうからという物語の都合もあるけれどね。
そしてそれは映像的にもよく出ているんだよ」
カエル「では、こちらのシーンをご覧ください」
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カエル「このシーンなんかは、特に枠組みが印象的なシーンだね」
主「こういうのを自分は”結界の演出”なんてよんだりしているんだけれど、今作の場合は”強調”として活用されていると感じる。
例えば、上記のシーンではしんのが色々なものに囚われていることを強調しているわけだ。
それは現在の慎之介にも通じていて、慎之介のモヤモヤした感情の正体は”高校時代の自分の思いに捕らわれている”ためだという解釈だって可能なわけ」
カエル「では、次にいくつかの画像をご覧ください。
なお、予告編からお借りしたものもあります」
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主「こちらも空間的な配置がされているけれど、この場合は”2人でいることを強調する”という意味がある。
あおいとあかねは決して仲が悪いわけではない。むしろ、すごくいい関係性だ。この”2人”ということを強調すると同時に、この次に挙げるシーンへの伏線にもなっている」
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カエル「あかねの弱さが描かれたシーンだね」
主「この映画の中であかねが泣いたこと、彼女の弱さを知るのは慎之介としんのの2人しかいない。
で、ここで重要なのはあかねが1人でいるように描写されていること。
また、扉で彼女の孤独を強調しているでしょ?
このシーンはあかねは1人では苦しみを背負った人間だけれど、誰かといるとそれを絶対に見せないことを強調している。
そして、それを結果的に知る慎之介やしんのだけが、その思いを知る特別な人間であることを強調しているわけ」
カエル「さらに言えば上記の場面はクローズな空間だけれど、下記は外に出ているから”押し込めた思いが外に出てしまった”という意味合いを感じるね」
主「これらの演出が全て伏線となって解放されるのが、当然このシーンだ」
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この2つのシーンでは”何の枠組みもない”というのが大事なわけ
主「それまで多くの強調によって各人の抱える苦しみってものを描いてきたけれど、それが何もない。
まっさらな空間で、それまでの苦悩を全て解放しているわけだ。
ここが作画としても快感が強いけれど、既に絵コンテ段階でも開放感を絶対的に与えるように強調しているわけ。
だからかなり物語としては無理筋なんだけれど、わざわざ地震を起こしてあかねを閉じ込めるような形にしたんじゃないかな?
全てはこのシーンのための伏線として機能していたわけだよ」
秩父三部作の中で今作が描いたこと
じゃあ、最後に秩父三部作の中で今作ってどんな立ち位置になると思う?
やっぱり”解放”ということになるんじゃないかな?
カエル「解放ねぇ……
この3部作で描かれていることって、結局は同じなわけだよね?
悲恋というか、初恋の相手との別れであったり……あるいは過去の自分の存在とのケリをつける物語というか」
- あの花→子供時代の心残り(めんま)との別れ
- ここさけ→自らの過ちを認めて乗り越える物語
- ここさけ→縛り付けてしまった姉を解放
主「簡単に言えば上記のことを描いていて、やっていることは”失恋”と”自分の過去とケリをつける”という意味ではそんなに変わらない。
でも、どんどん物語は明るいものになっている。
その解放のスケールというのかな、それが同じ個人の物語だとしてもすごく大きいわけ」
カエル「ふむふむ……」
主「そう考えると、岡田麿里の変化としても捉えることができるわけだ。
それまでの岡田の過去、引きこもりやら親との関係やらを乗り越えて、故郷である秩父への思いも乗り越えて、親とまではいかないけれど親代わりの姉の感情を描き、それを叶えさせてあげて、ここまでの爽快な物語を描けるまで昇華した岡田の思いを見事に映像として捉えた、ということだってできる」
そう考えると秩父三部作って岡田麿里の半自伝的な要素が強いよね
それを狙っている部分もあるでしょうね
主「その意味でもこの映画ってすごく真っ当で正解なんだよ。
色々なものを乗り越えた、あるいは描いてきた過去の2作のさらに先にあるもの、つまり『過去の自分が、未来の自分や想い人を助けてくれる』って物語とも受け取れるわけなんだからさ。色々な過去を肯定している。
そして囚われている過去が現在の自分や、これから旅たつ人に大きな力を与えることだってあると描いている。
これだって1つの”願いと祈り”なわけであって、この3部作が壮大なでありながらも個人的な物語として見事な完成を果たした、ということなのではなるのではないか? ってのが自分の考察のまとめです」
まとめ
では、この記事のまとめです!
- メインスタッフ3人の魅力がよく出ている作品へ!
- 岡田麿里の癖は減り、個性が発揮されている作品
- 長井龍雪監督の絵コンテ上の伏線などが見事!
- 3部作の締めとして真っ当で正しい物語へ!
是非とも劇場での鑑賞をオススメします!