※今回はいつもと趣向を変えています。
内容はTwitterでの1人語りで話したことを文章にまとめて、少しアレンジしたものとなっています。
映画『ジョーカー』が爆発的なヒットを記録している。
映画興行収入では連休もありながらも公開2週目も1位を獲得する見通しであり、今後の公開スケジュールから想像すると、おそらく今後しばらくはこのヒットが続くと思われる。
では、今作が描いたことは何だったのか?
それを我々がどのように受け止めることができるのか?
その点について考えていきたい。
なお、この記事はネタバレありで語っていきますのであしからず。
映画の感想・レビューを読みたい人は以下のリンクからよろしくお願いします。
”信頼できない語り部による一人称の映画”
まず、最初にこの映画に対する自分の捉え方を説明しておきたい。
この映画は”信頼できない語り部による一人称の映画”である。
作中で語られたことは何1つとして信頼できる情報はなく、何もかもが嘘にまみれている可能性すらある。
もしかしたらゴッサムシティやジョーカーという人物は1人の人間の妄想であり、そもそもバットマンという物語の世界観すら否定している可能性すらあり得る作品だ。
本作のアーサーは精神的な病気を抱えており、カウンセリングに通っている。その症状が映画内では描かれているのだが、どうにもそれが胡散臭い。アーサーは”病気で笑ってしまう”と語っており、その言葉に嘘はないようにも思えるが、職場にて同僚を”病気によって”笑っていたが上司に呼ばれた際にはピタリと笑いが止まっていた。
この現象にも色々な解釈ができるだろう。
アーサーは上司に呼ばれた際にこれから起こるであろう会話を想像し、それまでと気分が一新したために笑いが止まった。あるいは病的なものであるために制御できず、笑い終わるタイミングが偶然そのタイミングだった、などの多くの解釈が成り立つ。
そのどれが正解なのかは作品、あるいは製作者は現時点において明らかになっておらず、おそらくこのまま語らずに観客の想像に任せることが最善策だろう。
他にも映画内では多くの描写があるものの、そのどれもが『妄想だった』でも片付いてしまう。
それはこの映画最大の仕掛けであり、その結果、解釈を無限大に生んでしまった。
本作はアーサーへの感情移入を促すように作られており、そのホアキン・フェニックスの一挙手一投足に圧倒され、そこに自分の過去を見つけ出してしまう人もいるだろう。それは制作側の意図した通りの結果ではないだろうか。
観客の心の中に”ジョーカー”という怪物が生まれた瞬間である。
ラストの描き方の意図としては、夏に悪い意味で話題となったゲームを基にした大作アニメ映画と対して変わらないのだが、ジョーカーという稀代の口先ばかりの悪党だからこそできる、恐ろしいまでに悪意に満ちた(もちろん褒め言葉)映画だからこその映画に仕上がっている。
ちなみに鑑賞直後の自分のラストの解釈について話しておくと
山場の事件が発生
↓
警察に逮捕される(描写なし)
↓
精神病院送り
だと思っており、作中に起きたことはすべてアーサーに実際に起きたことだと解釈していた。だからこそ、この映画の”信頼できない語り部”の作り方に疑問を覚え、なんと不誠実で曖昧な映画だと苦笑いしてしまった。
今作を語る上で参考にしたい作品①
では、今作を語る上で参考にしたい作品はなんだろうか?
世間では『タクシードライバー』などのM・スコセッシの作品が挙がっており、製作陣が意識したと明言したこと、また多くのシーンで引用が見受けられることからもそれらの語り方が支配的となっている。
ただ、アニメ・漫画のオタクである自分は本作鑑賞中に想像したのは以下の作品だった。
人気漫画、ブラックラグーンである。
『この世界の片隅に』でも監督を務めた片渕須直の元でテレビアニメ化も果たしており、ご存知の方も多いだろうが、ここで紹介しておこう。
物語の舞台であるロアナプラはマフィアの巣窟であり、人の命が極めて安く警察も腐敗しきっているような、まさしくゴッサムタウンのような街である。そこに訳あって暮らすことになった日本人のロックと、その相棒であるレヴィが巻き起こす騒動やB級ガンアクション映画のようなセリフや展開などが多くのファンを獲得している。
2巻を紹介しているのは意図があってのことであり、2巻から3巻にかけて展開される『双子編』は本作の中でもとりわけ人気の高いエピソードとなっている。
小学生くらいの男女の双子が、現実では取り扱うことのできないような銃器を振り回してマフィア達に喧嘩を売っていく、という内容だ。
(余談だがアジア系、黒人、ユダヤ系白人と組み合わせといい、現代のアメリカで実写化しても面白そうな作品だよな、といつも思う)
なお、ここから先は双子編のラストのネタバレもあるのでご注意を。
ジョーカーを見終わった後の観客の態度
双子(通称ヘンゼルとグレーテル)は社会が生んだ悪魔である。
2人はルーマニア出身なのだが、かつてルーマニアでは独裁者であったニコラエ・チャウシェスクによる人口増加のために避妊具や堕胎の禁止を法令で決めた。そのために人口や子供は爆発的に増加したのだが、養いきれない親が子供を捨てる事態にまで発展、国の養護施設などが面倒を見てきたが政変により経営が成り立たなくなり、路上生活を余儀なくされ、マンホールの中などで生活している。
その結果ドラッグやエイズが蔓延するなどの治安悪化の一途をたどり、社会問題となっている。
作中ではヘンゼルとグレーテルもそのような境遇の子供達であり、マフィアや超弩級の変態どものおもちゃにされてしまった、という設定になっているが、おそらく現実においてもそんな目にあった子供もいたかもしれない。
社会が産み出したモンスターのキャラクターという意味では、アーサーと同じ存在である。
その双子編のラスト付近において『ジョーカー』にも繋がる1シーンがある。
ジョーカーを観た後に思い浮かんだ pic.twitter.com/arkK2eZAAZ
— 井中カエル@物語るカメ/映画・アニメ系VTuber(初書籍発売中!) (@monogatarukame) 2019年10月5日
(ブラックラグーン 3巻より引用)
ネクタイをしたスーツ姿の主人公、ロックは一般的な日本人でもあるためにその境遇を知り、助けたいと願う。しかし、すでにこの街や社会の闇の現実を知るアロハシャツ姿のベニーは『ああいう存在を直視するな』と告げた後に、上記のシーンとなる。
誰も救わなかったことを恨み、助けたいと思う善良なロック
社会や自分の限界を思い、何も見なかったことにするベニー
おそらく、ジョーカーを見終わった後の観客も、このどちらかの態度をとるか迫られるのではないだろうか?
そして私は、間違いなくベニーと同じような態度をとる。
今作を語る上で参考にしたい作品②
本作は”無敵の人”の物語と言えるだろう。
この無敵の人という言葉は2008年にひろゆきがネットで公表し、2013年に黒子のバスケ脅迫事件の受刑囚がその言葉を使って話題となった。私は一時期この黒子のバスケ事件に大きな興味があり、雑誌や手記などを読んでいたことがある。
”無敵の人”というと、何をやっても親や金、権力がもみ消してくれる人、のようにイメージをされるかもしれないが、この言葉が指し示す意味はむしろ真逆だ。
何も失うものがない、家族も職も貯金も自己の尊厳すらもほとんどない。だから何をやっても自分へのダメージがない。
だからこそ、何でもできてしまう。
黒子のバスケ事件の手記で印象的だったのは『対象は何でもよくて、黒子のバスケを脅迫したのは、ただその時に思いついたからだった』という文章だ。つまりこの事件では経済的な被害や作者や出版社、ファンへの心の被害は甚大なものとなったものの、誰1人として亡くなってはいない。しかし、思いついた行動が異なる場合大きな事件に発展していた可能性もあり得る。
ここで2作目の作品を紹介しよう。
秋葉原通り魔事件を引き起こした加藤智大による手記である。
ジョーカーという映画を語るのに最も適した書籍の1つだと自分は考えている。
この本の中では加藤の過酷な境遇が描かれいるのだが、中にはなんと勝手なことか! と憤慨したくなるような供述もある。また一部報道によるとこの中で明かされたことが裁判による客観的な目から見た状況と乖離しており、だいぶ加藤にとって都合のいいように描かれている、という指摘もある。
(この点においては手記というのはそのような一面もあるために、加藤が一方的に卑怯者であるため、と断罪することを自分はしない)
我々はジョーカーという知名度も高い”キャラクター”を通して見ている。
これはフィクションの強みでもあり、新海誠監督も『天気の子』で語っているようにフィクションだからこそできる語り方、というものがある。もちろんその意味においても一級品の作品であり、一定の節度を守りながらも社会的な側面とエンタメ性を確保しているため、作品を非難するようなことは一切ない。
しかし、だからこそアーサーに対して同情的になることはどのような意味を持つのだろう? という疑問がある。
マレーは悪人だったのか?
本作の中に登場する、アーサーが憧れるコメディアンであるマレーについて考えたい。
(C)2019 Warner Bros. Ent. All Rights Reserved TM & (C) DC Comics
ネット上の評を見ると、アーサーに対してひどい扱いをした富裕層の象徴の1人であり、彼は唾棄すべき存在であると語られているものが多いように感じられた。
だが、本当にそうだろうか?
私はその評価に対して大きな疑念がある。
マレーの行動について改めて考えてみよう。
- 観客だったアーサーを舞台に上げて多くの拍手を与えた
- 舞台に上がったアーサーの動画をテレビで放送し笑い者にした
- アーサーを番組に呼んだ。
まず、①に関しては問題がないだろう。
観客であるアーサーを喜ばせ、他の観客たちも大きな拍手を送り、おそらく視聴者も不満はない。スタッフは予定外の行動に苦笑いをしているだろうが、1流のコメディアン、あるいは司会者らしく誰も不幸にならない選択をしている。
問題は②だ。
ここが私の意見が他と大きく異なる。
まずアーサーを笑い者にした! というのだが、マレーがアーサーの病気を知るタイミングは1つとしてなかった。マレーはただ”舞台に上がったコメディアンのアーサー”を知っているだけであり、ましてや舞台の上にいる以上はそういう芸だと解釈した可能性もある。
確かに無断で放送することは問題があるだろう。しかし、それで笑いを取りつつ、その後に大きな番組にゲストで呼ぶという大きなチャンスを与えている。
日本でもそのようなチャンスを欲しがり頑張っているお笑い芸人は山ほどいるだろうが、あの舞台に立っている者はそのチャンスを狙っているのだ。
そして③の描写では『政治的な意図がありそうだからダメだ、出演時間を減らそう』と語るスタッフを説得し、笑顔で近づいてそのまま通常通りの放送時間にしようと語っている。
上記のように解釈した場合、マレーに何の問題があるのか? ということになるのではないだろうか。
さらに言えば、マレーがどれだけ関与したのかもわからない。スタッフが勝手に舞台の映像を流した可能性も、スタッフが勝手にアーサーを呼んだ可能性もある。マレーはただ、プロのコメディアン司会者として番組を盛り上げようとしたにすぎないのだ。
それだけ大好きだったものを、ある種の逆恨みにより壊してしまう。
ポスターを貼り、賞に応募するほどまでに意識していた相手を壊してしまう。
そんな事件を我々は、たった数ヶ月前に知ったはずだ。
フィクションの力〜ジョーカーだからこそ我々は感情移入する〜
ここで描かれているのがジョーカーというキャラクターではなくて、実際の事件の犯人であった場合、我々はどう思うのだろう?
もちろん、同じ感情の人もいるだろう。
中にはアーサーに向けた想いとは異なる人もいるのではないだろうか?
では隣の部屋や同じ職場にアーサーがいた場合、我々は何ができるのだろう?
中には優しく語りかける人もいるだろう。
しかし、もしかしたら仲良くなってしまったがために勝手に家に上がりこまれたり、最悪の場合マレーとなってしまうかもしれない。
そこまで考えると、自分はベニーの態度を取るしかない、と考えてしまう。
ジョーカーはフィクションである。
どこにもそんな存在はいない。
バットマンも現実には存在しない。
だからこそ、我々は”バットマンのいないゴッサムシティ”を生きる時代に来ているのかもしれない。
ただし、社会的な側面は大いに認めるし、映像演出や役者の演技は満点だと思うものの、ジョーカーという魅力的な悪党が生まれた理由などを表現した場合、今作は手垢がつきすぎている物語のようにも感じられてしまった。
ブラックラグーンの双子編も00年代前半に発売されているくらい、昔から語れている悪オチではお決まりのパターンの1つでもある。
またいくらでも解釈できる余地を残したのも評価するというよりは、個人的にはアメコミヴィランのエピソード0を描くことから逃げの一手という印象も受けたので、そこで苦言を呈したい。
最後に言わせて欲しいのだが、映画の論評は自由だと思っている。ましてや、この作品は解釈がいくらでもあるし、受け取り方も自由自在だ。
だからこそ『この映画にハマれなかったお前は幸せ者だな』などと言わないほうがいい。
映画1本の感想だけで理解できるほど軽い人生を送っている人などいないのだから。