今回は『スパイダーマン ノー・ウェイ・ホーム(NWH)』の考察記事になります!
辛口の感想記事はすでにアップ済みなので、気になる方は以下のリンクからどうぞ
カエルくん(以下カエル)
「今回は過去作を踏まえての考察記事になります!」
亀爺(以下亀)
「ネタバレありでやっていくので、そこは注意してくれ」
- サム・ライミ版スパイダーマン
- アメージング・スパイダーマン
- MCUホームスパイダーマン
カエル「ネタバレが嫌な方は、この記事を読まないことをお勧めします!
それでは、記事のスタートです!」
究極のヒーロー アンパンマン
いきなりスパイダーマンの話から逸れるの!?
これがとても大事な話なんじゃよ
カエル「これは以前にうちで話したことでもありますが、つまり”ヒーローとは何か?”という問題なんだよね。
そしてヒーローとは”公(他人)のために行動できる存在”という定義の下に、これから話していきます。詳しくはこちらの記事をどうぞ」
亀「基本的にはヒーロー映画は以下のような構図のものが多い」
カエル「つまり、個人としての思い……例えば、学校や会社があるとか、好きな子に振り向かれたいとか、チヤホヤされたいとかの私の思いがある。
一方で他人を救いたい、誰かを助けたいという公の葛藤があるという話だよね」
亀「ヒーローだと少しわかりづらいから……そうじゃな、現実的なところで警察官にするかの。
警察官は公、つまり公共のために治安維持をする存在じゃ。そこに私情を挟むのはあまりよろしくない。例えば賄賂を受け取ったから見逃す、あるいは犯人に同情したり、知人が犯人だったから逃してあげる、そういった個人的な感情を挟んでは、公共の治安維持はできない。
だからこそ法の基において、色々と個人的な感情を無くして活動をするわけじゃな」
それがアンパンマンとどうつながるの?
アンパンマンは、究極の公共の存在なんじゃよ
カエル「つまり『アンパンマンは怠けたいと思わない』ってところだね。
アンパンマンはみんなの幸せを守るために行動している。そこに個人の感情は入ってこないで、バイキンマンであろうとも困っていたら助けるというメンタルの元、みんなのために戦う”公共の存在”ということだね」
亀「そういうことじゃな。
幼児向け作品ということもあるが、アンパンマンは個人の悩みを持たない。怠けたいとか、誰かを愛する人を持たない、みんなに平等な存在じゃ。
だからこそ『愛と勇気だけが友達さ』ということじゃ。
それは究極的には個ではなく、単なる公共の福祉の象徴じゃからな。
そしてほとんどのヒーローはそうはなれない……個人の欲があるし、生活や愛する人がいる。その私と公の間の葛藤こそが、物語になる。
これを前提にここからの話を聞いてほしい」
考察① スパイダーマン3部作のテーマに沿ったNWHの展開
サム・ライミ版のスパイダーマンのテーマ
まずはスパイダーマン映画のテーマについて語っていくとしましょうか。スタートは当然サム・ライミ版だよね
このサム・ライミ版はとても大きな意味を持つわけじゃな
カエル「サム・ライミ監督が発表した『スパイダーマン』の3部作というのは、そもそも何が画期的だったのかといえば、以下の3点になると思います」
- ビルの間を抜けていくような爽快感のあるアクション
- 単にキャラクターが暴れるだけでなく、ピーター・パーカー個人の物語としての成長と青春を描く普遍的な青春物語へ
- 個人の中にある欲(私)と善性(公)の葛藤
まずは、映像的なことを先に述べるとしよう
亀「これは映画ファンの中でも語られておるが、映画の中で横のアクションを展開してスターになったのがブルース・リーであり、一方で縦のアクション……つまり高所から落ちるアクションでスターになったのがジャッキー・チェンであるという話がある。
映画の中で固定化されたセットだけでなく、カメラを横や縦に振ることで迫力を生み出した、ということじゃな。それは今では当たり前になっているが、当時の観客にしてみれば迫力が段違いじゃったろう。
スパイダーマンは……これが初とまでは言わないが、平面的な横、あるいは縦の移動だけでなく、立方的な体験を映画にもたらしたわけじゃな」
カエル「つまり、糸を使ってビルの間を抜けていくアクションを、一人称で描くことによって浮遊感のあるアクションを作り上げたこと、これが功績の1つってわけだね」
亀「映像的にはそこが最大の勝利じゃろうな」
もう1つ重要なのが、単なるキャラクター映画を脱したということじゃ
亀「これはアメコミに限らないが……今でも一部の作品はそうであろうが、スパイダーマンなどの人気のあるキャラクターは、まず観客は何を観に来るのか? という問題じゃな」
カエル「えっと……それは当然、スパイダーマンとか、スーパーマンとか、バットマンというキャラクターだよね?」
亀「うむ。つまり、その作品のキャラクターを観に来るわけじゃ。
それを実写化する際に、そのまま漫画のようなキャラクターを描いてしまうことがある。しかしそれだと、実写映画としては……言葉は悪いが”子供騙し”のように感じられてしまうこともあるわけじゃな。
つまり、キャラクターとしては優れていても、”人間”として優れていない。
俗にいう『人間を描けていない』という状況に陥るわけじゃ」
ふむふむ……
サム・ライミ版が優れておったのは、これがスパイダーマン(ピーター・パーカー)の物語でなくても、普遍的な青年の成長劇としても観れるように制作されているからじゃな
カエル「確かに、スパイダーマンであることはとても大事だけれど『冴えない少年が特別な能力や才能に目覚めて周りを圧倒していく』という物語そのものが、とても成長劇として魅力的だもんね」
亀「そうじゃな。
『スパイダーマン2』は、仕事(公)に追われて自分の時間(私)を持てない青年の葛藤劇という意味にもとれるし、あるいは『スパイダーマン3』は強大な力……これは権威でもお金でもいいが、それを手にした結果暴走する自分をいかに抑えるのか、というものを描いている。
つまり力によって暴走する”私”と、それと相対する公共の存在、ヒーローとしての”公”の対立を描いているのが、スパイダーマンシリーズであるわけじゃな」
『スパイダーマン3』のラストバトルの意味
そう考えると、世間的には賛否がある『スパイダーマン3』の展開も、スッキリとわかるということだね
あれは明確に”私”と”公”の対立を描いているわけじゃな
カエル「なぜ『スパイダーマン3』の敵がヴェノムになったのかといえば、それはスパイダーマンの写し鏡となる敵だから、ということだよね」
今だったら、YouTuberなんかがそうかもしれんな
亀「例えばYouTuberというのは、元々は普通の人だったわけじゃ。しかし強大なチャンネル登録者数という知名度とお金を得たことによって、次第にいろいろな欲に駆られてしまい失敗するシーンも時折観られる。
それでいうとHIKAKINは公の英雄、スパイダーマン側なわけじゃな。彼は羽目を外すことなく、いつも公共の正義のために行動する。もちろん、人間だから完璧ではないとしても、の」
カエル「大きな力を得たから復讐したい、暴れまわりたい! という私の暴走(ヴェノム)に対して、抗うという意味だね」
亀「うむ。
そしてサム・ライミ版のスパイダーマンの大きなテーマがここにあり、ノーマン・オズボーンも、オットー・オクトビアスも、ハリー・オズボーンやサンドマンも、私の持つ欲求が暴走してしまったわけじゃな。
しかし、それでも公共の存在として、自分のメンタルを強く持つことで、英雄としてやり直すこともできる。
だから最終戦はピーターもハリーもマスクが壊れて、素顔で戦う。
あれはスパイダーマン、あるいはグリーンゴブリンとして戦うのではなく、私を乗り越えた公の存在の融合したピーター・パーカー、そしてハリー・オズボーンとして戦うことを意味しているわけじゃな。
つまり私の暴走を乗り越えて、真なるヒーローへとなった瞬間であり、サンドマンとのラストはピーターパーカーの私の暴走がなくなったという、明確な成長描写である」
ふむふむ……
余談じゃが、この構造はとても強くてMCU製作陣も影響を受けているのか、『アイアンマン』シリーズなどはほとんどこの構図を採用しているの
カエル「アイアンマン(トニー・スターク)は公と私の存在として葛藤するけれど、キャプテン・アメリカ(スティーブ・ロジャース)は私を持たないから葛藤しない、って話だね」
亀「その葛藤こそが人間くささを呼ぶ。
トニー・スタークがピーター・パーカーの師匠格になったのはむしろ必然で、ヒーロー像としては……少なくともMCUの中では、描かれ方が共通しているわけじゃな」
アメージング・スパイダーマンのテーマ
じゃあ、今度はアメスパの方になるよね
このヒーローの葛藤を取り入れつつも、描いたのは科学の暴走であったの
- 爽快感を増したアクション
- 科学技術の発展と問題(倫理的な問題)
カエル「もちろん、ヒーローとしての葛藤描写はあるけれど、サム・ライミ版ほど多くはないって印象かな。まあ、続編が制作されていたら違ったかもしれないけれど……」
亀「アクション面ではよりスタイリッシュになっておるし、映像面はさすがというばかりに強化されておる。エモいシーンは特に、映画館で見ていないのにも関わらずジーンと来るものがあったしの。
一方でより強固になったのは”科学技術に対する向き合い方”じゃな。
それはアメスパ1、2共にそうで、科学の発展や人類の進化のために暴走する人がヴィランとして描かれている。その暴走を危惧したのがピーターの両親であったの」
カエル「つまり科学という強大な力に対して公のために使うつもりが、それが暴走してしまい私のものになってしまう暴走と、それを止める戦いを描いたということだね」
スパイダーマンNWHが描いた、この2作に対する答え
そしていよいよスパイダーマンNWHの話になりますが……
この過去2作に対する言及がされている作品じゃな
カエル「確かに、結構な尺を使ってヴィランを救う研究をしているシーンとかも入れられていたよね」
亀「あの辺りはアメスパに対する回答じゃと、わしは考えておる。
先の記事では主が『ヴィランよりも先に助けるべき存在(ベンおじさんなど)がいるじゃん』と語っておったが、ここはヴィランを助けなければいけないわけじゃな。なぜならば、その”私”(ヴィラン)が暴走した存在に対して”公”(ヒーロー)が手を差し伸べることによって、救うということがこのMCU版に求められている帰結じゃからの」
カエル「つまり、あのラストのトムホピーターの葛藤こそがサム・ライミ版で描かれたトビーピーターの『私の暴走を止めて、公の存在になる』ということを描き、そして科学技術の発展とそれに対するケアによってアンドリューピーターとアメスパが描いてきたことの答えになると」
その意味では、今作もまた大きな括りの三部作であったわけじゃな
-
- スパイダーマンシリーズの入門&1部作目→サム・ライミ版
- スパイダーマンシリーズの発展系→アメージング
- スパイダーマンシリーズの完結編→MCUホームスパイダーマン
カエル「つまりサム・ライミ版、アメージングのテーマなど全て内包した上で、生まれたMCU版であり、NWHであるわけだね」
亀「その意味では……先に記事では『魔法があまりにもご都合主義すぎる』と主が批判しておったが、そうならざるを得ないわけじゃな。このテーマを接続するときに、問題がある部分は全て魔法によるものとすることで、カバーしておる。それ以外に答えは、確かにないかもしれんがの。
その意味では単なるお祭り映画というだけでなく、しっかりとスパイダーマンシリーズを締めるという意志もあった作品であり、レベルは高いということになるのではないかの」
考察② なぜあのようなラストになったのか
でもさ、そう考えるとなんであんなラストになったのさ?
あれはヒーローの宿命とも言えるものであるな
カエル「スパイダーマンシリーズって最後はお墓で終えるのが多いけれど、それが喪失感や物悲しさにつながるけれど、なんで今回のNWHではあそこまでやらなくてはいけなかったの?」
亀「単純に言えば『レベルの高いヒーローになったから』じゃよ。
先に挙げた記事にも書いたが、ヒーローがヒーローを辞めるには2つの道しかない。
- ヒーローとして死を迎える
- 公の存在であることをやめ、私の人生を生きる
つまり、エンドゲームで迎えた象徴的な2人の最後ってことだね
亀「わしがアンパンマンを『究極のヒーロー』と呼ぶのも、ここに理由がある。
アンパンマンは他の誰も必要としていない。より具体的に言えば、みんなに平等であり、みんなに優しい。それは逆転して言えば特別な人など誰もいない……究極的に個がない、公のみの存在である。だから『愛と勇気だけが友達』になる。
そして英雄が英雄で居続ける限り、私というものは邪魔になっていってしまう……なぜならばヒーローとは、公のものじゃからな。
いくらスパイダーマンとはいえ、MJとの結婚式のために人助けをしないという選択肢はない。それをしないから公の存在……ヒーローであり続けるわけじゃ」
カエル「……さっきの警察官の例えで言ったら、個人の事情を重視して犯罪者を見逃してはいけない、というのと同じだ」
亀「警察官にも私生活があるから、そこは何人もの人で交代して治安を守ればいいが、スパイダーマンは1人だからの。誰かと交代もできない。
だから公のヒーローであり続けるためには、私の部分は徹底的に削ぎ落とす必要がある……今回はそのための儀式だったのじゃろう。
普通の青年であるスパイダーマンがヒーローになることを選択するというのは、そういうことじゃ。
綺麗事ではなく、誰かのために行動するというのは、自分のために行動しないということ。
その意味では、今作でトムホピーターはヒーローとしての代償を払い、完全なヒーローになった。
完結したわけじゃな。
だからこそ、あのようなラストが必要だったのじゃろうな……」
最後に
というわけで、今回の考察記事はここまでとなります!
まあ、どうせ物語はまた始まるんじゃがな
カエル「完璧なヒーローになったけれど、また物語は始まるというのがMCUの長所でもあり、欠点でもあるのかなぁ。ここで締めれば綺麗は綺麗だけれど、スパイダーマンがここで終わるはずがないしね」
亀「まあ、それも興行じゃからの。これでいいのではないかの。
観客がピーターの活躍を覚えている……それが最大のエモポイントなのかもしれんな」
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