今回はクリント・イーストウッドの最新作である『クライ・マッチョ』の感想記事になります!
イーストウッドもまだまだ現役だなぁ
カエルくん(以下カエル)
「今作で映画監督キャリアも50年を超え、お歳も91歳という大レジェンドの新作とだけあって、注目する方も多いのではないでしょうか」
主
「ちなみに公開日の金曜夜の回は100%男性、しかもおじさんばかりだったよ。
それが今のイーストウッド映画の評価になるのかもね」
カエル「では、そんな映画界のレジェンドの新作はどうだったのか、レビューの始まり始まり〜!」
○男の生き方の象徴+時代を表現してきたイーストウッド
○おじいちゃんの理想を描いた”終活”映画
感想
それでは、Twitterの短評からスタートです!
#クライマッチョ
— 井中カエル@物語るカメ/映画・アニメ系VTuber(初書籍発売中!) (@monogatarukame) 2022年1月14日
男の生き方を語ってきたクリント・イーストウッドの最新作は枯れた男を描き出した本作からは「本当の強さ」なんて謳い文句から離れて90を超えて衰えゆく自分の体力や気力を見つめ直しでいく様にさすがに大巨匠の老いと終活を感じてしまいました
それにしても眠くなります… pic.twitter.com/tUvzpHnVha
これは……なかなか評価がわれるだろうな
カエル「早撮りの大巨匠と言われているように、ほぼ毎年のように新作映画が公開しているイーストウッドですが、今回は近年の作品の中でも……なんというか、眠くなる作品だったよねぇ」
主「やはりクリント・イーストウッドという大巨匠の新作であり、しかも往年の大スターが主演も務めているだけあって、色々な意味や一定の語る価値みたいなものはあるのかもしれない。
だけれど……これはイーストウッドだから許されている部分や、メッセージ性が宿っているとも言える。
これが仮に他の新人監督や、あまり名前の知られていない役者が主演だった場合、この作品はどういう評価を受けるのかというと……おそらく、全く相手にされない。
その意味では”イーストウッド”としては、有りなんだけれど、映画としては無しという評価になるだろう。少なくとも……もう何十本とあるイーストウッド作品の中だけでなく、近年の作品と比較しても、この作品が取り立ててクオリティが高いとは言えないというのが本音だ」
ストーリー的には全く盛り上がりがないのがびっくりしたよね
映像・ストーリー、音楽……それらが強く主張してこないというかね
主「エンタメとしても、映画の魅力を発揮する映画としても、やはり語ることはない。
今作で語るべきは……そうだなぁ、やっぱり”クリント・イーストウッド”という、ただ1点のみなんだよ。
つまりイーストウッドの過去を探り、イーストウッドの現在を探り、その変化を感じる……それだけの映画といえば、それだけの映画なのかもしれない。
だから、エンタメとして楽しみに行こうとかではなくて……もっともっと、親戚のおじいちゃんちに行くかのような、そんな気分で見るべき作品なのだろうな」
クリント・イーストウッドという存在
ではでは、毎回語っているような気もしますがイーストウッドってどんな人なのかを簡単におさらいしましょう!
もう映画ファンでは語るまでもない、レジェンド中のレジェンドだよね
カエル「元々大スター俳優でもあり、今作で映画監督歴も50年を超えるという、まさに時代を作ってきた大長老にして、現代映画界の至宝というべき人物でしょう」
主「やっぱり、イーストウッドは映画を通して”時代を作り、時代に愛された男”でもあるよね。
70年代ごろの……それこそマッチョな、無骨な男がかっこいいとされた時代に大スターとなり、その後に製作する映画も警察ものや西部劇などのような男らしい作品も多い。
そんな”男の中の男”というイメージがある一方で、そんな無骨な人間も老いてリタイアしていく様子も捉えてきた。それこそ『許されざる者』であったり、また『グラン・トリノ』という作品は、イーストウッドという人間の変化を語る上でも欠かせない作品だろう。
それは同時に、アメリカにおける男の価値観の変化を表す歴史の話にもなっていくわけだ」
現代では、あんまりマッチョな男というのも……一時期に比べるとあまり受けなくなってきているのかなぁ
もちろんロック様などのマッチョ像もいるけれど、それが一昔前よりは、あまり好まれなくなってきているね
カエル「日本でも高倉健とかのような男! と言いたくなるような男性像が人気の時代もあったけれど、今ではより中性的な……ジャニーズなんかがそうだけれど、可愛らしいとか、そういう要素もある人物がイケメンと言われる時代になったよね。
男らしい男というのは昭和の……アメリカだから昭和ってないけれどさ、それでも00年にはすでに滅び始めた価値観なんだろうね」
主「そういった時代と共に活躍し、そして時代と共に変化していった男の象徴こそがクリント・イーストウッドなんだよ。
それは今作でも同じなのかなぁ」
以下ネタバレあります
今作で描き出した”マッチョな男の末路”
今作の場合は、どういう評価なの?
……老いたなぁ、イーストウッドって感じかな
カエル「まあ、もう91歳だしね。この映画を撮影時も90歳くらいでしょう?
むしろ映画を自ら主演して撮影できていることが、すでに奇跡的というか……」
主「それもそうなんだけれどさ……割と最近まで『この爺さんは後10作映画を撮るのではないか?』と思うほどのヴァイタリティが感じられたんだよ。置いてなおパワフルで、それは『運び屋』などでも感じられたわけ。
今回は全くの別物。
もう、本当に枯れ果てて……枯れて、枯れて、若々しさも皆無。
いや、90代と考えたらまだまだ元気でパワフルなんだろうけれど……あ、これもう10作は撮らないなって思っちゃった」
カエル「それは演技面で?
それとも映像?」
主「両方かなぁ。
例えば、映像面からしても乾いた荒野、特にメキシコが舞台の大半なんだけれどさ、西部劇とかであるようなギラギラとした感じがないわけ。太陽のギラギラ感というかさ。
時々敵とのぶつかり合いもあるけれど、そこもすんごいあっさり。ちょっと殴ったり、あるいは銃を突きつけたりでおしまいで銃撃戦にはならない。映像的には全くパッとしない作品なんだよね。
もしかしたら……西部劇という1つのジャンルの終焉を描いているという可能性もある。
現代的なジャンルではないし、どうしても名作も何十年前の作品ばかりが思い浮かぶし。
その意味では”マッチョ・イーストウッド・西部劇”という3つのジャンルというか、象徴的な存在が老い衰え、枯れていく様を描く映画だということもできる」
一応ポスターでは”本当の強さ”なんて言う風に喧伝されていたりもしますが……
そんな話じゃないよ、むしろ真逆じゃない?
主「なんだか、強さの象徴みたいに言われ続けるイーストウッドが哀れとも思えてきてしまった。
この映画ってすごい簡単に言えば『昔はバリバリやっていたけれどスターだった俺のことを忘れて、メキシコという新しい地でいい女とよろしくのんびり暮らしていきたい』って、ただそれだけの映画なんだよね。
しかもいい女ってのが、ボンキュボンといういわゆるアメリカ的価値観のいい女じゃなくて……田舎の普通の女性。派手な人じゃなくて、地味なタイプの普通の女性。
それをイーストウッドが演じているから”強さがどう”みたいな話になるけれど、そんな要素は皆無。
むしろ、男らしさってものを全否定。
往年のイーストウッドファンならば激怒してもおかしくないくらい、映像にも物語にも演技にも力がなくて、全部枯れ果てている」
カエル「それだけ枯れ果てているものを出すのも、すごいことなのかもしれないけれどね」
主「だから、この映画で感じるのは現代において男のつよさってなんの意味もないんだなってことだよ。
少なくともその強さの象徴だった人も実質的にリタイア宣言してさ、もうあんな風にギラギラできない。マッチョではいられないって、そんな話。
今はガールズエンパワーの時代で、女性の力強さが語られるけれど、じゃあ”男はどうやって生きればいいのか?”ということに対して誰も答えを出せていない時代。そこに対してかつてのマッチョの象徴は『俺はゆっくりと田舎で女とよろしくやるぜ』って答えたという、なんてことのない映画だよ。
その意味で紛れもなく終活映画。
グッバイ宣言ですよ」
子供が母親の元を離れて、父親の元へ行くというロードムービーに批評性が宿るかもしれないけれど……
まあ、強いて言えばそこなのかもね
主「だから、この映画を”つまんない”とか”眠くなる”ってのは、むしろ当然の反応でさ。だってただのおじいちゃんのお話だもんね。
若者や、今を生きる現役世代には一切関係ない、日本だったら定年後に田舎で野菜作りとか、蕎麦職人になって店を開くとか、そういう系統の話。一汁一菜なんかしゃらくせえ、俺はまだまだ肉を山盛りで食うぜ! って若者にはなんの価値もない。まあ、年食えば意味が出るだろうけれどさ。
もう歴史すらも語り終えて、自分がやるべきことを完全にやり終えて、それでも映画を作るという目的を持ったときに出てきたのが……単なる終活映画だったというのは、イーストウッド論としては非常に面白いけれど、そこに興味が持たなければ何1つとして興味が湧くところがない作品になったんじゃないの? って感想かな」
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