今回は『グリード2』の上映もありますので、アメリカを代表するボクシング映画『ロッキー』のお話をしていきましょう
改めて見直してみるとすごい映画だよねぇ
カエルくん(以下カエル)
「ロッキーシリーズは詳しいの?」
主
「全く。
1は遠い昔に見たことあるけれど、やっぱり時代が違うとういうこともあるのかそこまで熱中しなかった。それにさ、シリーズが6作あったから、正直言って観るのが辛いところがあるし」
カエル「全6本観て、さらにグリードもあるって考えると今から追うのは難しいところがあるよねぇ。
スターウォーズやアベンジャーズもそうだし、人気のシリーズゆえの悩みかなぁ」
主「でもさ、昔とは見方が変わったから、改めて鑑賞すると『ここまで政治的で象徴的な映画だったのか……』と驚きがあった。
もちろん、多くの論評があり、公開されて40年以上過ぎてそのあとの時代を知っているけれど、アメリカの歴史を語る上でも欠かせない映画だということを改めて痛感した。
そしてロッキーを語ることは今のハリウッド映画界、さらには全く関係ないようだけれど、実は巨匠イーストウッドを語る際でも重要な作品なんだよ。
今回はそのような目線でロッキーを語っていこうかな」
カエル「それでは、ロッキーの考察記事のスタートです!」
感想
じゃあ、まずは感想からはいるけれど……
まずはロッキー1
— 井中カエル@物語るカメ/映画・アニメ系VTuber(初書籍発売中!) (@monogatarukame) 2019年1月7日
本当に久々に鑑賞も思った以上に政治的で驚いた
これは色々な意味で興味深い
やっぱり4まででは1番面白い
改めて思うがエイドリアンは地味ながらもめっちゃ可愛いヒロインで1が一番魅力的に見える
全体的に熱さ以上にうまさを感じる作品 pic.twitter.com/5c48DGjHtr
改めて見直すと、今の映画のテンポからすると展開は遅めだよねぇ
カエル「まあ、古い映画だしね。
すごく腐っていた期間が長くてそこをしっかりと時間をかけて撮るからこそ、ロッキーに感情移入することができるとはいえ、試合が決まるまでのシーンも確かに長いかなぁ。
意外と試合シーンも少なくて、序盤のボクシングとラストしかないんだよね。
今だったら、中盤くらいに1つ試合のシーンを入れるけれど……」
主「その意味では、ちょっと冗長に見えるシーンもあった。まあ、これは時代だよね、今の映画がどれだけテンポよく展開していくかわかる話かな。
その分、単なる娯楽ボクシング映画の域を超えて、文芸映画のようなある種の重さというか、情緒的な魅力を獲得している。
もしかしたら試合シーンの迫力で魅了するのではない、という意味では異色のボクシング映画といえるのかもしれないな」
カエル「もちろん試合シーンも素晴らしいけれど、全体を考えると試合に至る過程がいいよね。
情緒があって、惹かれるシーンも多くて……あの街中で歌ったりたむろっている若者も当時の街中の情景がわかって、今観ると若者文化を語る上でも有効な作品になっているんじゃないかな?」
主「それがロッキーの不遇な状況と重なり、リアルタイムで観た人は特に応援したいキャラクター像になっているだろうな」
ロッキーを語る上で重要な3つの視点
今回はロッキーをどのように語るの?
いくらでも語る見方はあるけれど、特にこの記事では以下の3つの視点から考えていくことにする
- 当時のアメリカの状況とロッキー1
- イタリア系アメリカ人の物語
- キリスト教とロッキー
主「どれも目新しいものにはならないだろうけれど、ロッキーを語る上ではとても重要な目線なので、ここで語っておきたいね。
あとは、もう1つの見方として”シルベスタ・スタローンの物語としてのロッキー”も重要だけれど、これはシリーズ全体を通しての話になるから、これは後々の話、もしくはクリード2の時に語ろうか」
カエル「ふむふむ……今回はロッキー1のお話ということでいいのかな?」
主「ポイントポイントで後々のロッキーのお話もするけれど、基本はロッキー1から見えるテーマや政治性などについて考えていく。
ただ、後々のロッキーシリーズの根幹になる作品なのは間違いないし、それ以外でもスタローンの映画、ないしは脚本を書いた作品で共通する描き方はたくさんある。そこも含めて、語っていきましょうか」
当時のアメリカの状況とロッキー1
まずは、当時のアメリカの状況とロッキーの関係性について語ります
自分からするとロッキーとはボクシング映画ではなくて、プロパガンダ映画に見えるんだよ
カエル「かなり政治的な映画だ、と語るということは、社会情勢やプロパガンダのようなところがあるということだもんね……普通は娯楽ボクシング映画として観るのが当然のような気がするけれど……」
主「もちろん、その当時の時代背景やその後の流れを知っていることもあるし、文化的な影響力の強い作品ということもある。
そもそも、全ての物語はプロパガンダの面もあり、優れた作品ほどその色合いは強くなる。
最近の日本だと『シンゴジラ』の批評性や、アメリカだと『ブラックパンサー』など、特にディズニー作品は政治的なメッセージ性を強く抱えているだろう。
そして、それはロッキーも同じである」
カエル「ふむふむ……
ロッキーは1976年に公開された作品だね。この時代はアメリカの大きな変換期であるよね」
主「経済的な成長を遂げていた60年代と打って変わって、70年代はニクソンショックやオイルショックの影響もあって失業者が多く出てしまった時代でもある。さらにウォーターゲート事件やベトナム戦争の実質的敗北などもあり、アメリカ社会は決していい状況とは言えなかった。
その中で登場し、一気に話題を集めたのがこの作品だ」
カエル「よく言われるのが『アメリカの不屈の闘志と、再チャレンジができるアメリカンドリームを描いた作品だ』という言説だけれど、この記事もそこには異論はないの?」
主「全くないよ。
1970年後の混迷の時代、そしてどちらこというと退廃的でバットエンドが多かったアメリカンニューシネマの次に来る映画としてもやっぱりこの作品の影響力は大きい。
その後の1981年以降のレーガン政権の登場と”強いアメリカ”に至る流れを象徴する作品と言えるだろう」
白人と黒人の微妙な関係
この映画って、最初から”建国200年”とか、アメリカの歴史に言及しているよね?
アポロをどのようにとらえるかによって意味合いが変わるな
カエル「もちろん、アポロ自身は偉大なチャンピオンであるし実力も折り紙付きでそれも納得できるような描き方をされているけれど……」
主「本作では幾つかの描写に注目する。
まず、1つ目がロッキーが自分のロッカーをとられるところ。
ここでは黒人の若者に、ロッキーが長年使用していたロッカーを使用されてしまう。もちろんこれはトレーナーであるミッキーの指示であって、彼は何も悪くないけれどね。
そしてもう1つがアポロの存在であり、今作ではアポロは決して好意的には描かれていない。
ビジネス優先のチャンピオンとしても描かれているし、さらに言えばジョージワシントンの格好をして入場する際の撮り方は、どちらかと言えばお調子者でエンタメ性を意識しながらも小憎たらしいチャンピオンとして描かれている」
カエル「ふむふむ……」
主「長年にわたる黒人の運動によって差別は少しずつ解消されていき、1960年代は公民権運動も大きな盛り上がりを見せていた。その結果、差別的な制度は徐々に少なくなっていった。
1970年代にもなれば”差別はダメだ!”という意識はさらに強くなっただろう。
ただし、人々の心までが変化するには、まだまだ時間がかかるんだ」
驚異に対する反応として
……つまり、本作は黒人に対して否定的に描いていると?
というよりも”黒人の台頭によって居場所をなくしていく白人”という構図だよね
主「このあたりは初代キングコングも同じような構図であり、黒人をキングコングに見立てて大暴れさせることで、黒人は白人やアメリカにとって驚異的な存在になるのではないか? と描いた、ある種の差別的な作品とも言える。まあ、1930年代なんでそれもしょうがない部分はあるんだけれど。
日本で考えてみると、たとえば女性の活躍する社会を目指すことで女性や、あるいは外国籍の人やいわゆる在日2世などが社会で存在感を発揮している。それはもちろんいいことだけれど、日本人の男性からすると自分の椅子をとられるようで面白くない。
これってなんでもそうだけれど、それまで優位を保ってきた存在だったからこそ、その座をとられる驚異に敏感であり、時には差別的にも見える態度をとってしまう」
カエル「本人はその気が無くても?」
主「無くても。
それまで活躍していたマッチョな白人であるロッキーの居場所やアメリカという存在を黒人にとられることに、共感した観客はたくさんいたんじゃないかな?
もちろん、本作が白人の差別観点から作られているというつもりはない。当然のように、あのラストを見ればわかるけれど、ロッキー(白人)はアポロ(黒人)に勝てるわけではない。
それでも同等であるし、決してどちらかが劣る存在ではないということを描いている。
本作はアメリカの復活を描くとともに、さらに言えば苦境に立ち始めた白人の復活を描いているんだ」
しかし現実は過酷なもので……
へぇ……そう考えるとかなり政治的なだね
ただし、この後の時代を見ると少し思うところもあるけれどね
カエル「白人と黒人は手を取り合ってめでたしめでたし……ではないからね」
主「むしろ、ロッキーのような腐った思いを抱く白人はさらに増えていく。
一時期は良かったかもしれないけれど、自分はこの流れの先にいるのがクリント・イーストウッドだと思っていて、たとえば『グラントリノ』なんてロッキーの別の人生みたいじゃない。典型的なブルーカラーの労働者階級の白人男性を描いた映画だし。
さらに言えば『アメリカン・スナイパー』なんて、本来はアメリカで英雄とさえる人物の苦悩を描いていて、これもロッキーに対するアンチテーゼのようなところがある。
もちろん、イーストウッドは意識していないだろうけれど」
カエル「1970年代のアメリカは白人の英雄を望み、2010年代のアメリカは白人の英雄を拒んだ、と言えるのかなぁ」
主「結局さ、この数十年間白人たちは徐々に苦境に立たされている。まあ、それ以前の横暴が過ぎたという見方もできるけれどね。
その理由で黒人は使えない……彼らは同じアメリカ人だからだ。そこでモヤモヤしていたところで、メキシコの問題や移民問題が勃発し、それがトランプ現象につながった。
元々原住民を追い出して移民でできた国が、新たな移民に対して文句を言うんだから皮肉なものだな」
カエル「でもさ、ロッキーは話を進めるごとにアポロと親友になるじゃない?」
主「時代が進むからね。
ロッキー3の有名なパンツを交換するシーンは、それこそ白人と黒人が手を取りあって、新しい時代を作ろうという象徴的なシーンとも言えるな。
だから、ものすごく微妙な時代なんだよ。
白人としては拭いきれない特権意識があるし、黒人はまだまだ差別されている意識もあっただろうしさ。
その微妙な関係を描いた映画でもある」
イタリア系アメリカ人の映画
なぜロッキー3でハルク・ホーガンが登場したのか?
次に語るのが”イタリア系アメリカ人の映画”ということだけれど……
本作は明確にイタリア系アメリカ人のための映画でもある
カエル「……イタリア系に限定するの?」
主「当然。
急な話だけれど、なぜロッキー3でハルク・ホーガンが登場したのか考えてみよう。
このヒントはホーガンの本名にある」
カエル「ホーガンの本名って……テリー・ボレア?
そういえば、ボレアの名前をバルボアって訳している記事も見たことあるなぁ……あれ、バルボアってロッキーと同じ?」
主「スタローンも父親はイタリア系アメリカ人だし、ホーガンもイタリア系なんだよ。特に肉体で魅せる仕事をしている、アメリカを代表するスターという共通点もある。
そしてロッキーは当然”イタリアの種馬”であるから、イタリア系だしそこを強く打ち出していく。
ロッキーってイタリア系アメリカ人の映画として成立している。
実はこの時代はイタリア系アメリカ人をテーマにした映画も作られていて、例えば『ゴットファーザー』なんてその典型でしょう。
では、なぜイタリア系に限定したのか?
これはイタリア系に縁があるスタローンが脚本を担当していることもあるだろうけれど、それだけではないと思うんだよね」
イタリア系アメリカ人のイメージ
イタリア系アメリカ人のイメージとなると、やっぱりマフィアの印象が強いかなぁ
アメリカの白人の中でもとりわけ差別され、下に見られていた人種だからね
カエル「なんでそんなにイタリア系って差別されていたの?
元々はアメリカの移民としては比較的早い時期に来たんだよね?」
主「いろいろな事情もあるけれど、元々イタリア系は保守的であり、男性社会でもある。
さらに言えば家族や同胞を大切にするけれど、国家意識などの大きな共同体に対する意識は希薄だと言われている。
だから”イタリア人”というよりも”フィレンツェ人”などのように、さらに地元意識が強いとされている。あと、比較的イタリア系は白人の中でも割合が少ないと言われているのも原因の1つかな」
カエル「ふむふむ……
父権的でありながらも、息子は母親を大事にすることで有名だよね。以前に何かで読んだけれど、夫がマザコンなのをイタリア人妻は許容するのは、自分の息子がマザコンになって母親である自分を大事にすることを知っているからだ、という話もあったかな」
主「だからこそ、子どもを学校に通わせないで働かせたりとした例もあったようだね。
そして貧民になると団結するんだけれど……その結果がマフィアとなる。
その負のイメージはこびりつき、偏見を持たれやすくなってしまいその環境からも出にくいという悪循環になってしまうわけだ」
カエル「ハァ……難しい問題だね」
主「日本だって似たようなものだけれどね。
暴力団員に被差別部落出身者や、在日外国人が多いと言われているけれど、これは彼らが差別ゆえに団結せざるをえなかったことに由来する。そして、その負のイメージは今でも続くっていうね。
これも”元々力を持つ人たち”と”新しく力を持ち始めた人たち”の軋轢と言える」
イタリア系が勝ち上がる物語
それを考えると、ロッキーの仕事も最初はマフィアの下っ端として借金の取り立てだもんね……
優しい性格であるとともに、イタリア系に対するイメージを語るシーンだ
主「肉体労働で稼いでいるけれど、それだってあまりうまくいかない。
ボクシングで殴り合っても手に入るのはわずか50ドルもいかない安いお金……命をかけてそれだからね。
このあたりはチャップリンの『街の灯』などもそうだけれど、昔からボクシングは成り上がりの手段であるのと同時に、安い賃金で苦境に立つ肉体労働の典型でもあるわけだ」
カエル「作中でも”これからは頭脳労働の時代だ!”と言われて、ロッキーが呆然とそのテレビを見ているシーンもあるよね」
主「決してロッキーは馬鹿ではないけれど、どうしても学がないから舐められるし。
しかもサウスポーだから他のボクサーからも倦厭されてしまう……このあたりはイタリア系という苦境も相まって、生まれではどうしようもない現実を描いていると言える。
そんな差別され、黒人の台頭によって肉体労働ですら居場所がなくなっていったイタリア系アメリカ人の苦境と、そこから立ち上がる姿を描いた映画としてみると、さらに見え方が変わってくるんじゃないかな?」
キリスト教とロッキー
敬虔なカトリックであるロッキー
そしてキリスト教の映画でもあるという話だけれど……
もう冒頭からはっきりとキリスト教の影響が強いよね
カエル「本作の冒頭はキリストの絵画のアップから始まり、さらにカメラがリングに向かって下がっていって、始まるもんね」
主「そしてロッキーは何度も神に対して祈りを捧げる。
これはイタリア系アメリカ人が差別されてきた理由の1つとされているけれど、イタリア系はカトリックが多い。けれど、アメリカは伝統的にプロテスタントの国なんだ。
歴代大統領でもプロテスタント以外の……カトリックを信仰する人物はケネディのみ。それ以外はみんなプロテスタント。
『アメリカは多様性の国だ!』なんて言っているけれど、実際はそうでもなくて、多様性を重要視しないと成長を続けられないからそっちの道を選んだ国なんだよ」
カエル「スタローンも敬虔なクリスチャンだよね。だからこそ、自分の脚本・主演作品でお祈りのシーンを入れたとも言えるけれど……」
主「2でもそうだけれど、神様にお祈りをしてもらったから勝てたという描写とも受け取れる。
この時代はキリスト教の力が今よりも強かった時代だけれど、実はロッキー公開の1976年はカーター大統領が『ボーンアゲイン』の宣言をして宗教保守である福音派の支持を獲得して当選しているわけだ」
もっとも政治的な映画”ロッキー4”
もうロッキー4なんてただのプロパガンダ映画だよね……
レーガン政権の”強いアメリカ”を象徴する作品だからね
カエル「元々スタローンとシュワルツェネッガーは、ローガン政権下の共和党が掲げる”強いアメリカ”とともにスターになった役者だけれど、ここまでいくとちょっと引いちゃうというか……」
主「ソ連の機械的な敵であるドラゴとロッキーが戦う映画だけれど、ここで注目するのが本作がクリスマス映画だということ。
試合はクリスマスに行われており、最後には息子にメリークリスマスと告げている。
これこそ”神の国アメリカ”を象徴する映画といえるだろう」
カエル「なんていうか”君も変われるんだ”というメッセージを発してソ連も変われるという一見リベラルにも見えるけれど、ロッキーやアメリカ側が変わろうという気はさらさら感じない映画でもあるよね……
それがシリーズ屈指の大ヒットをするからなんとも言えないけれど……時代かなぁ」
主「共産主義は基本的に宗教をあまり好意的にみていない。
だからこそ、その相手となるアメリカは神の国という言葉や考え方を重要視したし、今でもしている。この辺りは宗教に関して関心が低い日本人とはまったく違う考え方だ。
このように、ロッキーという作品は宗教論でも語ることができるシリーズである」
まとめ
では、この記事のまとめです
- ロッキーシリーズはアメリカの歴史、文化を語る際にとても重要な作品
- 黒人に対する白人の微妙な思いを描いている
- スタローンのルーツでもあるイタリア系アメリカ人の映画
- 宗教論の視点でみても多くの発見がある作品
これでも、まだ4までしか見ていないからね
カエル「こうやってみるとロッキーの印象ってちょっと違うものになるんじゃないかな?」
主「さらにこの流れはクリードにまで続いていく。
しかも今度のクリード2はスタローンが脚本を書いているから、そこを考えると相当いろいろな思いが詰め込まれている映画でしょう。
強いアメリカを象徴する映画が、今の時代でどうなるのか……6の時点でも結構象徴t系なシーンが多かったけれど、そこを含めてもものすごく楽しみにしています」
カエル「というわけで、ロッキー論でした!」