それでは、今回は『アンパンマン』映画作品から見るヒーロー論の記事となります!
アンパンマンを通して見た、ヒーロー論といったところかな
カエルくん(以下カエル)
「国民的人気シリーズながらも、あまり大人は語らない作品かもねぇ」
主
「すごく根源的で、大事なことを描いているんだけれどね」
カエル「それでは、大人向けのアンパンマン論、早速スタートです!」
アンパンマン映画作品の特徴
アンパンマンの基本構造
まずは、アンパンマン映画の基本的な構造についてのお話です!
基本の形はすごくしっかりとしているんだ
カエル「まず、パターンとして多いのは以下の点かなぁ。
- ゲストキャラクターの登場
- 問題発生→バイキンマンが何かを企む
- ゲストキャラクターの葛藤描写
- 大きな敵が登場・アンパンマンのピンチ
- ゲストの活躍・アンパンマンの勝利
この流れが非常に強固で、約50分前後の作品の流れをうまくまとめているよね」
主「もちろん長編には長編の、短編には短編の難しさがあるだろうけれど、この流れは完成されている。
おそらく、このフォーマットに沿って物語を作れば、どの作品も一定以上の面白さは保証されるのではないだろうか。
だからこそ、アンパンマン映画というのは安定してレベルが高い。
作品ごとの面白さはあるにしろ、自分が見た限りだと極端に変な作品はあまりなくて、どれも……そうだな、5つ星満点のレビュー方式だと、どれも3〜4以内には収まるのではないだろうか。
一方で、欠点もあって、それは逸脱しないこと。
キャラクタームービーとして強固だからこそ、どの作品もそのフォーマットに沿いすぎているようにも見えて来る」
カエル「この辺りは本当にワガママな話だよね〜。
この作品らしさとフォーマットの関係性でいうと、それこそ『クレヨンしんちゃん』シリーズなんかは、キャラクタームービーとしては珍しいほどの自由な作品だよね。むしろ、その自由さが作品らしさというか。
毎回テーマも変えて、作風も変わって……本来は『オトナ帝国』『アッパレ戦国』なんて、キャラクタームービーとしては反則だと思うけれど、それすらも許してしまう自由さがあるというか。
逆に『ドラえもん』シリーズなんかは、教育的な配慮もされていて優等生な印象かなぁ……」
主「アンパンマンは、乳幼児向けという事もあって、あんまりやりすぎることはできないという事情もあるだろうけれど、その強固なフォーマットが根底にあるということが大事なんだ」
ヒーローのアンパンマン、悪のバイキンマンの構造
アンパンマンとバイキンマンの関係性について考えていきましょう
アンパンマンはなぜ正義のヒーローとして存在できるんだろうか?
カエル「簡単にまとめると、以下のように解釈することができます」
- アンパンマン(みんなのために行動する)→公の存在、奉仕
- バイキンマン(私のために行動する)→私の存在、利己
カエル「とても当たり前のようですが、この視点が今回の記事のポイントとなっていきます」
主「アンパンマンというヒーローが特殊なのは、”一切の自己がない”ということだ。
ヒーロー活動をおこなう上において、彼の目的は”困っている人を助けたい””みんなを笑顔にしたい”という点だ。
とても当たり前なように思えるけれど、ここに異常性が宿っている。
本来であれば……例えばお金が欲しい、チヤホヤされたい、有名になりたい、感謝されたい、そういった自己の欲望、利己的な部分があってしかるべきなんだ。
しかし、そういった理由が一切ない。
つまり”他人のため”というのが、その行動原理となっている」
カエル「ふむふむ……その反対のバイキンマンは?」
主「バイキンマンはその真逆なんだよ。
その目的は『アンパンマンを”俺”が倒す』などのように、自分の感情に従うものだ。
『俺が楽しくやりたい』
『俺が気に食わない』
そういった我の強さ、自己中心的な考え方がとても多い。
だからこそ、2人は絶対に対立する。”公のため、みんなのため”に行動するアンパンマンと、”私のため”に行動するバイキンマンがあい入れることは少ない』
……あの世界の住人はみんな素直で善良だけれど、アンパンマンは仮に誰にも感謝されなくても、人を助け続けるのだろうね
見返りを求めてしまう、人を助けたことで自分が幸せになるという考え方とは遠い場所にいるヒーローなんだ
カエル「……なんか、それを聞くと異常な部分もあるね」
主「だから、自分はよくいうけれど”ヒーローとは異常な存在”なんだよ。
今作は幼児向け作品だから成立する部分もあるほど、純粋性を獲得している。
登場人物もはっきりと分けられていて、ジャムおじさんなどのアンパンマンサイドは比較的善良なんだけれど、その善良性とはみんなのために行動できる、公の存在としての側面が強いからだ。
一方でバイキンマンサイド……ドキンちゃんなどは、比較的自分勝手。だから自分の欲望に忠実に動いている。
このような物語構造のもとに成立している作品なんだ」
公と私の対立……人間の心理構造に直結した物語
その構造が非常に強固ということを、もっと説明するとどうなるの?
この”公と私の対立”というのは、人間の基本的な行動原則に基づくものなんだよ
カエル「例えば、人の根源的に持つ欲望というものがあります」
- お金を楽して稼ぎたい→盗みや強盗
- むかつくやつをぶっ飛ばしたい→暴力的行動
- 異性にふれたい→痴漢やストーカー
- 少し遠くに車を止めるのが面倒だ→駐禁違反
カエル「このように、人間の根源的な欲や怠け心などの”私”の部分が暴走してしまい、大きな犯罪に繋がってしまうという部分があります」
主「一方で、それに反対する考え方として
- そんなことをしたら被害者がかわいそうだ
- みんなが守るルールを守ろう
- 迷惑をかけてはいけない
- 刑務所などに入ったら大変だ
こういった、公に対する感情が働く。
この”私と公”の対立というのはいつも行われており、人間の行動を決定している」
カエル「それをアンパンマンに置き換えると
- 楽をしたい、自分勝手に行動したい私→バイキンマン
- みんなのために行動しよう、公の目を気にしよう→アンパンマン
ということになり、バイキンマンをアンパンマンがアンパンチで倒すというのは、私の部分を公の部分が性するということだね」
映画では、主にこの対立をゲストキャラクターが行っている
主「基本としては
- わがままを言うゲストキャラクターの登場(私の暴走)
- アンパンマンと出会い、公の存在を知る
- 敵キャラ(私の暴走)が起こり、ゲストキャラクターと共にアンパンマン(公)が倒す
- ゲストキャラクターが自分の使命に目覚める(公の存在に目覚める)
と言うことで成り立っている。
上記のように、この対立は人間の行動原理・生理的な感覚に基づいている。
だからこそ、社会性や常識などが芽生える前の子供たちにも理解できる上に、深いメッセージ性を内包させ、さらに教育的側面もある。
アンパンマンが子供たちに大人気で、みんなが必ずといっていいほど通る道なのは、このような理由があると考えられるわけだ」
人気ヒーローたちの”公”と”私”
MCUヒーロー、アイアンマンの場合
では、比較対象として、まずはMCUを代表するアイアンマンについて考えましょう
ある意味では、アンパンマンと真逆のヒーロー像と言えるだろう
カエル「うちではMCU作品をはじめとしてアメコミ映画について厳しい部分があるけれど、それはちゃんと理由があるもので……
”正義とは何か?”と言うことへの言及について、納得が行く時といかないときの差が激しい部分もあるんだよねぇ」
主「基本的に自分のMCUの描き方は『911、アフガン・イラク戦争以後のアメリカの正義の模索』だと思っている。
かつては……それこそ90年代は冷戦構造のもと、共産主義であるソ連に反抗するアメリカが正義だった。以前にも『ロッキー4』の記事でも語ったように、基本的には”感情のないロボット(のような存在)VS感情豊かな人間”という構図の作品も多い。
あるいは、感情を手に入れて改心するなどね。
だけれど冷戦構造が崩壊し、911、アフガン・イラク戦争以後でアメリカの正義そのものが揺らいだ。
その後の新しい正義を描こうという運動を果たした映画だという評価だ。そして、そのラストを飾る『アベンジャーズ エンドゲーム』には、全く納得がいっておらず、結局旧来のアメリカに都合のいい正義像になってしまっていることを批判しているけれど……それは、まあ今回は割愛します」
では、『アイアンマンシリーズ』ってどういう作品なの?
”力のあり方はどこにあるべきか?”というヒーロー像と、複雑な内面性が魅力だね
カエル「MCUはそれぞれのシリーズごとに異なるテーマがあるように感じられるけれど、アイアンマンが、もしかしたら最も大事なテーマなのかもしれないね」
主「アイアンマンの主題は”力はどのようにあるべきか?”という問題について考えている。
天才科学者の社長、トニー・スタークが手にした技術であるアイアンマンは、強力すぎて使えない兵器である核よりも、もしかしたら力のある兵器かもしれない。
その兵器を個人が所有すべきか、あるいは軍や公的な機関に預けるべきか……その葛藤を描いている作品だ。
そしてそこに恋人・家族の問題や、あるいは自身の病気の問題などの私的な問題が絡んできてしまう」
カエル「つまり公的なるヒーローとしての姿と、自身の問題である私的な問題に悩み続ける主人公なんだね……」
主「トニー・スタークというのは、実はヒーローとしての資質がそんなにある人ではない。
確かに天才であり、超絶金持ちではあるものの、その実は多くの葛藤を抱える非常に人間臭いキャラクターなわけだ。だからこそ、人間的な魅力が宿る人物だ。
これは弟子のような存在であるスパイダーマンも同じだ。彼も学校や友人との私的な関係性と、ヒーローとしての公的な関係性に迷ってしまう。
だからこの2人が師匠と弟子のような関係になるのは、必然であったとも言えるわけだ」
キャプテン・アメリカの場合
では、アイアンマンと対となる関係であるキャプテンアメリカの場合は?
彼はトニー・スタークと真逆であり、アンパンマンに近い存在と言える
カエル「明確な意思を持って行動する存在だもんね……」
主「キャップは逆に、私的な問題というのをほとんど抱えない。
もちろん0ではないものの、時代を超えてしまっていることもあり、私の部分を捨てており、公的なもののために……つまりアメリカのために行動する存在だ。
その最大の敵であるヒドラはアメリカ政権中枢に入り込んでおり、その排除は難しい。しかし確固たる意思を持って排除していくヒーロー像となっている」
カエル「『シビル・ウォー キャプテンアメリカ』などを見るとわかるけれど、トニー・スタークは公的な機関のもとで力を制御することを選ぶヒーローなのに対して、キャップはあくまでも個人の行動の基に動くヒーローだもんね……」
主「ただし、キャップのやり方でないと除けない悪もある。
例えば政権や国家の中枢に深く侵入してしまった悪は、むしろ公的機関そのものが悪となっている可能性もある。だけれど、トニーのやり方ではその公的機関の元に行動するのだから、その悪を除くところか、悪を助長することになる。
そこで個人としてのヒーローを貫き通すキャップのような存在が必要となる」
明確な意思を持って戦うというのは、公的な機関だろうが関係なく悪を倒すということだもんね……
ただし、とても難しい問題を内包している
カエル「それって……一歩間違えれば、公的権力を攻撃するテロリズムに直結しかねないという問題だね」
主「例え悪逆非道の大統領であっても、それが選挙で選ばれた存在であれば暴力や力で排除することは非難されることだろう」
カエル「それがたとえヒトラーやポルポトであっても……?」
主「とても難しい問題だね。だからこそ、色々なヒーロー像が生まれてくる。
確かに悪逆非道の存在に戦うとすればレジスタンス活動が必要となるときもあるだろう。
時には暴力も有効な手段になるし、共産主義による革命、あるいは三島由紀夫も革命のための暴力は否定していない。しかしそれは一方で、テロリズムやイスラム過激派のような存在を認めることにもなりかねない危険性も秘めている。
その意味では、キャップが自分の信条をもとに行動する”個の存在”と見るか、あるいはアメリカなどの全体のために行動する”公的なる存在”と見るかは、意見が割れるのではないだろうか。
正義とはエゴイズムと隣り合わせなのか……それは自分も大好きな『ガンダムUC』のEP4のダイナーのシーンで語られているが、考える必要がある部分だね。
ともかく、個人の問題と公の問題のバランスに苦慮するアイアンマンと、極端に偏ることでその問題を発生しないキャップは、その意味でも真逆の存在と言える」
ワンピース・ルフィの場合
そして、アンパンマンが大好きな人というと尾田栄一郎がいると思うけれど……
ワンピース、そしてルフィってその観点からするとヒーローたりえないんだよ
カエル「考えてみると、ルフィっていわゆる正義のヒーローと言っていいのか難しい存在だよね……世界のお尋ね者であり、海賊なわけで自信が正義だとは全く思っていないわけでしょ?
むしろ、この話によるところだとほとんど自分のために行動する、超絶自分勝手な個の存在であることは明確なわけで……」
主「まあ、多くの国が救われたというのも結果論だよね。
それこそルフィだけの責任ではないとはいえ、司法の島や海軍への攻撃、重要犯罪人の逃亡にも手を貸しているわけだし、どちらかといわなくても極悪党なわけだ。
そして最もその正義性を象徴するのがこのシーンだ」
ギャグ調だけれど、明確にアンパンマンを意識しているよね……
だから、ルフィは正義の味方ではない
カエル「そもそも初期は明確に正義を標榜する海軍が腐り果ててしまっていて、敵のことも多かったわけだし……クロコダイルなどは海軍が手を出せない悪であり、海賊だからこそ倒すことができる存在であるわけで……
それこそ、天竜人なども同じような存在として描かれているんじゃないかなぁ」
主「もう1つ、ワンピースの正義を語る上で大事なのはこの名シーンだ」
もしかしたら、明確に正義について語られたワンピースで唯一のシーンと言えるかもしれない
カエル「それを考えると、やっぱりワンピースって悪党の物語として描かれているんじゃないかなぁ……」
主「尾田栄一郎は明らかに任侠モノの作品が好きな人じゃない?
多分、正義というものに対して色々な思いがある人なのではないだろうか。どちらかというと、批判的な。
賞金首としての懸賞金はその人物の力を数値化する意味合いがあるけれど、それと同時に悪党の物語としての側面を強めているだろう。
そして何よりも、ルフィの行動原理は”個”によるものなのは明らかだ。
少年ジャンプの代表的な主人公であろうとも、必ずしも正義の味方というわけではないというのが面白い現象だね」
アンパンマンの正義の欠点と終わらない宿命
アンパンマンの構造的な欠点
それでは、話をアンパンマンに戻しましょう
アンパンマンって上記のように”公の存在”として完成されているからこそ、大きな欠点があるんだ
カエル「欠点?」
主「キャラクターとしての葛藤が生まれないんだよ。
例えばアイアンマンや、スパイダーマンというのは自分のあり方に葛藤を抱く。その個の問題と、公の自分のあり方に迷いを生じており、時にはヒーローとしてありえない行動をしてしまうかもしれない。
だけれどそれを乗り越えて成長する……その結果、人間的な魅力を兼ね添えているわけだ」
カエル「ダメな部分があるからこそ、葛藤と成長こそが生まれてキャラクターとしての魅力に繋がっていくわけだね」
主「一方で、アンパンマンは公共の存在として、全体のために行動するヒーローとして完成されている。自分の顔を分け与えて、自己犠牲精神も兼ね添えている、悪であるバイキンマンにも手を差し伸べる、完璧と言える存在だろう。
だからこそ、アンパンマンは間違えることがない。
個としての自分が存在しないからこそ……例えば『めんどくさいから行きたくない』とか、あるいは『家族の問題で行けない』ということがない。
その結果、葛藤が生まれずに、成長がない。
アンパンマン映画においてアンパンマンは主人公であるけれど、葛藤を迎えて成長する主役にはなりえない。
それの役割はゲストキャラクターが果たす。
これが、アンパンマンの構造上の欠点である」
人の気持ちを理解することが難しいアンパンマン
そして、キャラクターとしてのアンパンマンの欠点というのは?
公の存在だからこそ、個の気持ちによって発生する感情が理解できないんだよ
カエル「えっと……つまり『怠けたい』とか『どんなにやっても無駄だ!』という気持ちが理解できないってこと?」
主「そういうこと。
先ほどから語るように、個の問題というのは公との葛藤が生まれる。すごく単純に話すと……使命としてやらなければ行けないことがあるけれど、『もっと遊びたい』などの理由で自分勝手な行動をしてしまう。
この点を説明するために『よみがえれバナナ島』を挙げよう」
カエル「2012年に公開された作品であり、震災もあり復興について語った三部作の一作目です。
バナナが名産品のバナナ島のお祭りに招待されますが、問題が発生してバナナが次々枯れていきます。アンパンマンとバナナ島の女王であるバンナは問題を調査するのだけれど、衝突を繰り返してしまい……というあらすじの作品です」
主「バンナのわがまま放題の言動に対して、アンパンマンサイドのキャラクターは困るけれど、正論しか返すことができない。
だけれど、正論では個の問題には届かない。
アンパンマンは特にそうなんだけれど、個の葛藤を抱えないから、なんでそんなに我がまま放題なのか理解ができない。
だけれど、個の問題を抱えるバイキンマンはその気持ちが理解出来る……いや、理解できなくても、バンナの心に響くことが言えるんだ。
つまり、アンパンマンは”良心・正論・常識・協調”を。
バイキンマンは”いたずら心、怠け心、わがままな心”に寄り添うことができる。
この2つは絶対に人間の心にあるものだが、アンパンマンにもバイキンマンにも片方しかない。だけれど、この2人がそれぞれの気持ちに寄り添えるからこそ、物語にも大きな幅が生まれるんだ」
ロールパンナの苦難……”無敵の人”を生まないために
この”公の視点”がなくなって”私”が暴走してしまうと、どうなるの?
それがいわゆる無敵の人だろう
カエル「無敵の人は守るべきものがなくなり、どんな非道な行動もできる凶悪な犯罪者ということだけれど、それはいわばアンパンマンがいなくなってしまって暴走するバイキンマンを止めることができない状態、ということもできるわけだね」
主「それを象徴するのがロールパンナだ。
彼女がとても魅力的なのは、アンパンマンのキャラクターでは数少ない”良心(公)と悪(私)の葛藤”があるキャラクターだからだ。しかも頭もいい、強キャラというね。
ロールパンナは生まれが特殊なこともあり、正義の心と悪の心を持っている。そのため、アンパンマンが絡むとブラック化して、対立してしまうこともある。その時は強力な敵となってしまう。
だけれど、そんな彼女には妹であるメロンパンナの言葉だけは届くんだ」
カエル「……私の部分の暴走に対して、誰かの真摯な声が届くわけだね」
主「私の暴走した時に『そんなことをしてはダメだ』という公の視点が止めてくれるという話をした。だけれど、その公が何もない……失うものの、助けてくれる家族も友人もいない、何も持たない人間はただただ暴走するしかない。
だけれど、誰か他人がいるだけで、その人は公共の1人になることができる。
それがとても大切だということ、ロールパンナとメロンパンナの絆が教えてくれる物語にもなっているわけだ」
ヒーローがヒーローをやめるとき
じゃあさ……ヒーローってどうやって辞められるの?
方法はわずか2つだろう
主「例えば倒すべき悪が滅びるというのもその方法の1つだけれど、基本的に悪が滅びることがない。問題は次々と生まれてくる。
その中でヒーローをやめるには以下の2つだろう。
- 死を迎える
- 公の存在であることをやめて、私の存在となる
つまり、公の存在のまま英雄として死を迎えるか、あるいは公の存在であることをやめて、私の存在となるか、この2つしかないと自分は考えている」
カエル「……あれ、それってエンドゲームと」
主「その通り。
エンドゲームがあのようになったのは、英雄が英雄の座を降りるのは、この方法しかなかったからだ。
だけれど、アンパンマンは死ぬことがないだろう。
そして、個というものを持たない。
彼は孤独な存在なんだ」
カエル「仲間はいるかもしれないけれど、本当の意味で友人と言えるのは誰もいないのかなぁ……
『愛と勇気だけが友達さ』というのは、あながち間違いじゃないのかも……」
主「結局、個がないから私がないということは、大切な人も持てないんだよね。その意味で、アンパンマンというのは真の意味で孤独な存在だ。
むしろ……真逆な存在だからこそ、私が強いからこそアンパンマンに執着するバイキンマンが1番のアンパンマンの理解者かもしれない。
私がないから、アンパンマンは公共の存在であることをやめることができない。死ぬこともない。
永遠にヒーローであり続けることが宿命づけられた存在こそがアンパンマンであり……だからこそ、完成されており、孤独で、完璧なヒーローなんだ」
最後に
というわけで、アンパンマンのヒーロー論でした
ヒーローとして完成されているからこそ、異常で孤独な存在なんだよなぁ
カエル「実は深い作品なんだね……」
主「ただ、そのフォーマットが強すぎて近年の作品になればなるほど、少し飽きている部分もあるかなぁ。
むしろフォーマットが完成していない初期作の方が、新鮮な眼差しがある。
あとは自己犠牲精神が強すぎるかなぁ……特に自分は個人主義の部分が強いからかもしれないけれどさ」
カエル「だからこそヒーローが苦手なのかもねぇ」