物語る亀

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物語愛好者の雑文

映画『もみの家』と引き込もりの問題〜映画などの物語表現の評価の難しさについて〜

 

今回は『もみの家』の感想記事になります

 

 

どちらかというと、社会論が中心かなぁ

 

カエルくん(以下カエル)

「もみの家という作品を通して、映画を評価するということについて考えていこう、という趣旨の記事の方が近いのかな」

 

「物事を評価するというのは、とても難しいことでもあるからね。

 多分、ドーデもいいやと思われるかもしれないけれど……とても大事なことだから、あげておこうと思います」

 

カエル「では、記事のスタートです!」

 

 

 

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映画『もみの家』予告編

 

 

 

感想

 

それでは、Twitterの感想からスタートです!

 

 

映画としての良し悪し以前の部分が気になってしまったかな

 

カエル「坂本欣弘監督の作品では前作の『真白の恋』がとても良く、年間ランキングでも上位を記録しました。今作も同じく北川亜矢子が脚本を務めるほか、撮影の山田笑子、音楽の未知瑠などなど、多くのスタッフがそのまま続投しています。

 坂本監督自身も30代半ばの若い方であり、今後の活躍が一層楽しみな監督でもあります

 

真白の恋

blog.monogatarukame.net

 

主「今作も前作に引き続いてオール富山県で製作されている。その雪深いイメージも強いけれど、春夏秋冬と1年を通して季節が移り変わっていく姿を描いており、その雄大な自然の美しさも楽しめる。

 特に中盤から後半にかけての雪のシーンは圧巻。

 物語としても重要な意味合いを持つだけに、やはり今後も着目すべき監督だと感じた」

 

カエル「物語そのものも……うちが合わなかっただけで、決定的におかしなことがあるわけではないしね。

 多分、高評価する人は結構多いんじゃないかな?」

主「評判も決して悪くないし、この映画が合わなかったのは個人的な思いによるものがある。

 この映画を高く評価する人はおかしいというつもりはないし、スタッフの何かが悪かったわけでもない。

 輪廻転生というか、人の営み、生きること、死ぬことに向き合ったテーマが心に響く人も多いだろう。

 その点において、小規模公開映画だけれど、遠出してでも観に行く価値がある作品だと思う」

 

特に主人公を演じた南沙良は、やっぱり今後が楽しみな女優だよね

 

陰の魅力がある子だよね

 

カエル「これは悪口のように聞こえてしまうかもしませんが、そうではなくて……人には陽気な魅力と陰気な魅力があるとすれば、南沙良は少し影がある役の方が印象に残るのではないでしょうか?

 特に『志乃ちゃんは自分の名前が言えない』なども似たような陰のある役であり、その魅力が発揮されています」

 

志乃ちゃんは自分の名前が言えない

 

主「少し朴訥とした印象があるのかなぁ。

 女優さんには悪口のような言葉が並んでしまっているようだけれど、そうじゃない。この魅力を持つ女優さんも……特に若手となると、稀有な存在と言えるのではないだろうか。

 この独特の雰囲気があるからこそ、さらに多くの人を魅了することができる女優さんになるのではないだろうか

 

 

 

 

映画の評価と個人のスタンス

 

じゃあ、何がそんなに合わなかったのか? という話になっていくけれど……

 

物事の評価について、個人のスタンスはどうしても反映されてしまうものだろう

 

カエル「本当は、理想を言えば……例えば政治や社会へのスタンスと映画などの評価は別、というのが求められる態度だとは思うけれど、必ずしもそういうわけにはいかないのかなぁ。

 例えば日本において中国や北朝鮮の社会主義を賞賛する映画を見せられてしまうと、そのメッセージに違和感を持つな、という方が難しいわけで……」

主「自分が本作の前に見たドキュメンタリー映画で『いただきます ここは発酵の楽園』という作品がある」

 

 

主「作品としては、この名称でもわかるように食事に迫ったドキュメンタリーなんだけれど、無農薬・有機栽培の農法を賞賛する内容だった。

 もちろん、それが悪いとは言わない。だけれど、親戚が農業をやっている程度ではあるけれど関わったことがある身としては、それは1つの理想だとしても、決して誰でもできるものではないし、農薬や化学肥料が悪だとも思っていない。

 だからこの映画で描かれていることは、1つの理想だとしても、それに同調するほどのことはなかった

 

農薬などがないと安定した大規模農業などは現実的ではなくて、難しい部分もあるよね……

 

もちろん、今後の研究次第では農薬や化学肥料が不必要な時代が来るかもしれない

 

カエル「子供たちには無農薬・有機農法の野菜などを食べさせたいという気持ちもわかるし、だけれどそれをみんなが享受できるわけでもない、と」

主「これはあくまでも一例だ。

 映画や物語の評価というのは、そのメッセージや描き方に対する個人のスタンスがどうしても出てくる。

 その例としてこの映画を出したし……どちらも”農と人”に迫ったという点でも、ドキュメンタリーと劇映画の違いなどもあるものの、そこまで大きくかけ離れているとは思わないからあげたんだよね」

 

 

 

子供の問題の描き方〜引きこもりは悪なのか?〜

 

では、話を『もみの家』に戻しましょう

 

そもそも論として、引きこもりは悪なのだろうか?

 

カエル「あ、そこから始めるの?」

主「もう大もとだよね。

 この映画では南沙良が演じる本田彩花が引きこもりになってしまい、もみの家に引き取られていくところから物語は始まる。

 つまり、引きこもりを問題として課題に設定し、そこにどのように向き合うのか? ということをテーマとしている。そこで農業や人との関わり方、あるいは生老病死について向き合っていくわけだ。

 では、そもそもの問題……”引きこもりは悪なのか?”ということから考えよう」

 

カエル「まあ、なんというか、褒められたものではないよね?」

主「映画の予告でも『自分の殻に閉じこもる』とあるけれど、誰かと共有することなく考え込むことで、人間としての考え方が熟成されていき、より物事を深く考え、辿りつける結論というのもあるのではないだろうか?

 吉本隆明は『ひきこもれ』という著作の中で、引きこもってものを考えることの重要性を説いていている」

 

ひきこもれ―ひとりの時間をもつということ (だいわ文庫)

 

主「また、大人だって同じように疲れ果てて会社も辞めて引きこもることはあるじゃない。

 そんな時、大人はどのような対応をするのか?

 まずは病院に行って、うつ病などの検査をしないのかな?

 カウンセラーに話を聞いてもらうのではないかな?

 学校に行けないからと、どこかの施設に本人が嫌がるのに無理やり連れて行かれる……こんなことが、人権侵害以外の何物でもないのに、当たり前のことのように描かれていることがとても怖い

 

そのあたりはひきこもりの専門家でもある、心療内科医の斎藤環先生が繰り返し批判している部分だよね

 

もちろん、もみの家自体は善良な業者だと思うよ

 

主「だけれど、世の中には同じような手段でひきこもりの人を無理やり連れて行き、半ば監禁するような悪徳業者もいる。しかも親公認だから、誰にも助けを呼べない……自宅に帰っても連れ戻されて、どこにも居場所がない。そんなことがまかり通っている。

 つまり、そもそもの前提条件として”もみの家に無理やり連れていく”という部分が、自分にとっては違和感しかなかった。

 例えば、この連れて行かれた業者が宗教団体だったらどうよ?

 洗脳されたけれど、明るくなって引き篭もらなくなって全部ハッピー❤️ ってならないでしょ?」

 

カエル「……え、じゃあ、不登校にはどうすればいいの?」

主「少なくとも、”学校に行くことは当たり前だ”という社会を変える必要性があると感じている。

 それこそ、自分に言わせて貰えば学校というシステムが異常なんだよ。同じ地区に生まれたというだけで、学力も性格も考慮されずに公立の小学校・中学校に集められる。そりゃいじめだって起こるし、合わない子は出てくるよ。でも、そこから外れた時のセーフティーネットが少ない。

 それこそ学ぶだけならば大検を受けたりさ、自宅学習や塾、通信教育だってある。

 何なら、このコロナ騒ぎでわかったけれど、リモートで家にいても授業をうけられる形を充実させるべきだろう。

 体育などは難しいかもしれないけれど、勉強を学ぶことはできる。

 自分は学校に行かなくてもいいと思う。何ならば、多感な時期に人間関係などで心がボロボロになってしまう可能性を考えれば、学校に行かない選択肢がもっと一般的になるべきだと考えている。

 ただし、学び続けては欲しい。人生は学び続けるものだと自分は考えているから。それは学問だけでなく、例えばプログラミングとか、農業とか、何ならYouTuberになってもいいから、とにかく学び続けることが大事」

 

……色々と反論がありそうなことだね

 

絵本作家の五味太郎とか、坂口安吾に影響を受けているからかもね

 

大人問題 (講談社文庫)

 

主「もちろん、選択の結果は選んだ本人が受けるべきだろう。

 だから、ゆたぼんだろうが何だろうが、自分の人生だから好き勝手に生きればいいと思うよ。自分は学校もある程度出て、新卒で入った会社に未だにいるんだけれど、その結果安定した生活が送れているかもしれないけれど、もしかしたらありえたかもしれない可能性を潰しているんじゃないかと、今でも毎日考える。

 何かを選択しないということは、同時に”選択しない”ということを選択しているんだ。

 流されるままに学校に行った責任も、目的を持って学校をやめる責任も自分が支払うことになる。

 少なくとも”学校に行けない”ということを課題として、問題視して、そして”学校に行く”ということを成長といて描く……それは自分には全く受け入れらないものだった。

 それこそ、農家には学歴がないとなれないものじゃないし、作家でもなんでもなれるんだよ。弁護士や税理士などになりたかったら、勉強して高卒認定試験を受けて大学に行けばいい。

 そんな考え方の人間には、そもそも根本的に異なるので、受け入れることが難しかったね」

 

 

 

最後に

 

というわけで、この記事を終えますが……

 

多分、自分が言ったことに違和感を抱く人も多いと思うよ

 

カエル「一般論とは違うということを頭に入れて語っている自覚はありますが……それでも、反感はありそうな記事かな」

主「正直に言えば、自分だって”この人政治信条でしか映画を評価することができてないな”と思う評論家やライターもいるよ。それに憤ることもあるだろうし、逆に自分の物言いに違和感を抱く人もいるだろう。

 本当はその信条と分けて考えるのが大事なのだけれど、それは難しいのが実情だ。

 この映画そのものは決して悪くないどころか、相当いい映画なのだろうけれど、自分がそれを評価することができなかった。

 その事実だけを言う記事になっている。

 でも、この観点は読み手(受け手)側も自覚しておく必要があるのではないかなぁ……と言うこと。

 逆に信条に沿っているから大絶賛することもあるだろうし。それは評価する上でとても大事な部分だよ、というお話でした」