今回は変則的な記事になります
小規模映画の2作品レビュー+映像演出ってなんだろう? みたいな話だね
カエルくん(以下カエル)
「かなり抽象的な話にもなるので、ご容赦ください」
主
「今回紹介する『ゴースト・ストーリー』と『エンジュル、見えない恋人』の両方を見ている人って相当限られるのかなぁ」
カエル「どちらも小規模な上映だからね。
意義は深いと思うけれど……万人ウケするものではないし」
主「どっちも90分ほどと短くてサクッと観れるので、機会があれば是非とも観てほしいかなぁ。
どちらも独特だし、見たことがあまりない表現に溢れています。
あと、この記事は若干ネタバレありなので、ご了承ください……
ということで記事のスタート!」
感想を始める前に
えー、まずは感想を始める前に語ることがあるという話だけれど?
世界で1番最初に生まれた映画の話をしようか
カエル「……それはこの後の話につながってくるんだよね?」
主「もちろん!
映画を発明したとされる人物はトーマス・エジソンとルミエール兄弟の2つの説がある。実はこのあたりの話は色々とキナ臭いこともあってややこしいけれど、世界初の映画というと、一般的にはルミエール兄弟の『工場の出口』を指す。
では、ここで著作権もとっくに切れているので、動画サイトで大手を振って鑑賞できるので観てみようか」
The first film ever "Exiting the Factory" (1895)
カエル「何の変哲も無い、工場から出て行く人たちを映した場面だね。まあ、世界で一番最初の映画というと、こんなものなのかな?」
主「甘い!
実は、この作品は一見するとなんてことのない、日常を捉えたドキュメンタリーのような作品にも思える。
しかし、実際はかなり映画的な演出がなされているという見方が強い。
- 本来ならばもっと女給はカメラを眺めたり寄ってきたりするはずなのに、見向きもせずに右か左の道へと別れていく
- 前面には大きな空間(スペース)が空いている
- ある程度人が出て行った後に自転車に乗った男が出てくる
- 最後に大きな馬車が出てくる。
これが定点的にカメラを置いた場合、都合よくこのようになるだろうか?
人がバラバラに出て行ってしまい規則性がなかったり、あるいは馬車が出てこなかったりするだろう」
カエル「ただ人が出てくる様子を映しただけでなく、そこに自転車や馬車が出てくることで映像に変化をもたらしているんだね……」
主「これが世界で最初に生まれた映像演出な訳だ。おそらく、リテイクを重ねたんだろうと言われている。仕込みとかやらせという話でもないし。
そして、今回紹介する2作品は、このような”映像演出”の要素が非常に強い。
というわけで、この話を踏まえた感想記事を始めようか」
ゴースト・ストーリーについて
作品紹介・あらすじ
デビッド・ロウリー監督がメガホンを取り、「セインツ 約束の果て」の監督&主演コンビが再結集。
「マンチェスター・バイ・ザ・シー」のケイシー・アフレックと「キャロル」のルーニー・マーラの共演で、幽霊となった男が残された妻を見守る切ない姿を描いたファンタジードラマ。
田舎町の一軒家で若い夫婦が幸せに暮らしてたが、ある日夫が交通事故に遭い、突然の死を迎える。病院で夫の死体を確認した妻は、遺体にシーツを被せて病院をあとにする。しかし、死んだはずの夫はシーツを被った状態の幽霊となり、妻が待つ自宅へと戻ってきてしまう。
感想
まずはTwitterの短評はこのようになっています
A GHOST STORY ア・ゴースト・ストーリー
— 井中カエル@物語るカメ/映画・アニメ系VTuber(初書籍発売中!) (@monogatarukame) 2018年12月1日
なるほど…極めて『映画的な』映画だった
カメラと登場人物の間にゴーストという存在が入ることにより映画が多層的な構造に
さらに時間、空間を飛び越えた哲学的な表現へ
ただちょっと退屈な感は否めないかなぁ… pic.twitter.com/mFyiIOdADT
かなり実験的で面白い映像作品だな
カエル「まあ、ちょっと退屈なシーンがないわけではないけれど……でも”映像を楽しむ”という意味では、これ以上なく映画的な作品だよね」
主「今作を語るのに、まず引き合いに出す作品がある。
それは2018年を代表する大傑作の1つ『リズと青い鳥』だ」
カエル「テレビアニメの劇場版作品ながらも単独の作品としても成立しており、京アニらしいリアルな作風が高く評価されているね。ちなみに、うちでも上半期の映画ランキングで2位に選ばせていただいています」
主「この作品は山田尚子監督が『壁からそっと覗き見るように』というコメントを発表している。つまり、2人の様子をただ捉えるのではなくて、ある種の隠し撮りをするような視点で作られているわけだ。
これはアニメだから、実写だからという話ではないけれど”カメラと登場人物”の関係性とも言える」
カエル「……カメラと人物?」
主「普通に考えれば、人はカメラに対して何らかの反応をする。
少し横目で見たり、ピースをしたり、怪訝そうな顔を浮かべたりとね。だけれど、一般的な映像作品では当然のことながら、カメラは存在しないように役者たちは振る舞うわけだ。ここでカメラを意識すると、物語という仮想の作品にはならない。
先ほどの『工場の出口』と同じだよね。
つまり”カメラを無視する登場人物”という1つの層ができるわけ。
そこを逆転の発想で作られたのが、今年を代表する邦画作品のこちらです」
カエル「ご存じの方も多いでしょう、もはや社会現象と言っても過言ではない大ヒットを記録した『カメラを止めるな!』だね」
主「カメ止めには明らかに役者がカメラを意識したシーンがある。
ちょっと意識してみると、それだけでこの作品がどのような作品か分かってしまい、だからこそ自分は乗れない部分もあった」
定点的なカメラ
ふむふむ……それがゴーストストーリーとどうつながってくるの?
この作品は冒頭からしばらく”定点的なカメラワーク”を駆使するんだよ
カエル「……定点的なカメラワーク?」
主「『リズと青い鳥』と同じようなカメラワークだ。
普通、映像作品というのは役者をカメラが追いかける。だけれど、本作はカメラを固定化し、そこを役者が動き回る姿を捉えている。
ここの関係性を整理すると、以下のようになる」
- 登場人物がカメラを意識する層(カメラを止めるな)
- 登場人物がカメラを意識せず、カメラが役者を追いかける層(一般的な映像作品)
- 登場人物がカメラを意識せず、カメラも定点的な層(リズ、本作の序盤)
カエル「便宜的に1層、2層、3層と呼びます」
主「カメラというのは観客の視点でもあるわけだ。
1層の場合、カメラに語りかける場合は観客にも語りかけている。
例えば……プリキュアで言えば『劇場にいるみんな! ライトを振ってプリキュアを応援してな!』というのも、劇場にいる観客をカメラを通して意識している1層にあたるわけだ。
2層は通常の映画と同じで、登場人物に感情移入しつつも、登場人物たちはカメラの存在=観客の存在には気がつかない。
3層はさらに離れていき、観客はある種のドキュメンタリーを覗き見るような感覚になる。
例えば、テレビの企画で『楽屋裏を覗き見!』などの企画なども、天井にある固定カメラなどを通して定点的に観測することで、よりリアリティを演出しているわけだ。
工場の出口もここに該当すると思う。
かなりリアリティはありつつ、だけれど演出はなされている」
カエル「……読者の方がついてこれているかなぁ?」
主「そして、今作は序盤は3層の演出が目立つわけ。
外から家の様子を何も変わらないのに長回ししたりね。
だけれど、ゴーストが登場するとカメラは3層と2層を行ったり来たりする。
それはなぜか? という問題だよ」
ゴーストという仲介者
ゴーストは普通の人には見えないという設定だよね
特別なアクションを起こさない限り、その存在を感知できるのはカメラ=観客だけなんだ
カエル「中盤くらいである特徴的なことをするものの、それ以外は特にゴーストを見えるような行動をとる人はいないもんね」
主「この辺りは割と謎設定ではあるんだけれど……自動ドアレベルは感知するのかとか、人とすれ違ったらぶつかった感触はあるのか? という細かい疑問はとりあえずおく。
今作ではゴーストになることにより、3層のドキュメンタリータッチの世界の、生きた人間の世界から2層の世界へと向かう。
だからカメラもゴーストに寄り添うようには撮るんだけれど、相変わらず生きている人間にはあまり寄り添うような撮り方はしない。
ここを説明すると……
- 序盤 カメラ(観客)→登場人物
- 中盤以降 カメラ(観客)→ゴースト→登場人物
という風に1層入り込む。
この瞬間、ゴーストは登場人物ともかけ離れた存在となる。
物語世界の物理法則などを飛び越えている上に、当然カメラの向こうの世界ともかけ離れているわけで、物語世界の時間、空間、その他多くの原理原則を無視する存在となる。
いうなれば2,5層の住人だ。
だけれど、その一方で現実の観客のも、物語世界の登場人物にも直接的に関与することはできない。できても、せいぜいポルターガイスト現象を引き起こすのみだ。
その結果、ゴーストは時間を超えることも空間を飛び越えることも可能であり、様々な現象をカメラ=観客に見せることになるけれど、彼自身はほとんど変化することがないという、ある種の永遠の牢獄の中へと閉じ込められてしまうわけだ」
カエル「……その描き方が面白いの?」
主「めちゃくちゃ面白いよ!
登場人物たちをタイムトラベルさせるようなSFやファンタジーではなく、あくまでも日常的な描写である。ただそこにゴーストという存在を入れることにより、どこにも属すことができない存在が生まれている。
彼をいかにして撮影するのか……それが本作の要であり、映像表現としての魅力だからね」
監督の前作はファンタジー色全開の作品でした
仏教的な映画
なんていうか……キリスト教圏で生まれたとは信じられない映画でもあるかなぁ
仏教的な教えが多い作品かもね
カエル「ある種の成仏みたいなものも描いていたし、輪廻転生……ではないかもしれないけれど、繰り返す姿があったりとか……
中盤の男が長ゼリフで説明する『生きた証を残すことは無意味だ』というセリフも、なんだか仏教的だよね」
主「『色即是空、空即是色』だな。
この言葉の解釈は様々だけれど……自分は色は”物質的なものや、過去や未来などの観念的なもの”と捉えている。
空は無意味……あるいは現実的、自然なものとでも説明するかな。
つまり、あの男が語った『すべてのことは無意味だ』という論調は”色即是空”に近い。
すべての物事は宇宙の崩壊と同時に終わってしまうし、それが宇宙の理、つまり自然の流れでもある。それを考えると、確かに音楽なんて無意味だ。
だけれど、仏教では同時に”空即是色”と続く。
これはそうだな……”空”つまり自然なものにも”色”につながる。
ものすごく大雑把に言えば”色即是空、空即是色”って『価値のあるものに意味はない。意味のないものに価値はある』という考えだと思うわけですよ。
まあ、こういう言い方をすると今後は『意味ってなんだ?』という話になっちゃうんですけれど」
カエル「……説明がややこしいなぁ」
主「つまりさ、あの男の論調で語れば『音楽(何かを残すこと)は無意味』なんだよ。
だけれど、ゴーストの悟ったように『無意味なことなんて何一つない』ということにもつながる。
その音楽には思い出などもあるわけだしね。
言葉にすると矛盾しているようだけれど、概念としては矛盾しているわけではない。その難しいバランスをしっかりと描いていた作品だったんじゃないかな」
ロングカットの映像的な美学
あとは、何と言ってもパイを食べるだけのロングカットが印象的だったなぁ
映像表現の魅力を十二分に発揮したね
カエル「最初は意味がわからなかったけれど、ある瞬間にハッとなってね。
ゴーストって時間を飛んでいたわけで、奥さんは夫が亡くなる日の朝に先に帰ってくる夫のためにパイを作り『先に食べてね』という書き置きをする。だけれど夫は帰ってくることなく、そのパイを一人で自分で食べることになるというシーンだね……」
主「ここはぐっと来たなぁ。
いつも語るけれど、映像表現に限らず”食”というのは重要な意味を持つ。
同じ食卓を囲んでいたら同じ共同体に属する仲間という儀式だし、食べるという行為はそのまま生命活動に直結する。食べないで生きていられる人はいないわけだしね。
愛する人が死んだ直後に、自分は泣きながら食事を摂る……ここでは残酷なまでの人間描写がしっかりと描かれていた」
カエル「そのあとで吐きにいってしまうのも……」
主「自分の体(胃袋の限界)がセーブできないほど憔悴しているとも言えるし、吐くというのは食に反対する動作なので『生きることを拒否している』とも受け取られる。
これは多くの映画に見習ってほしいシーンだよね。
ワンワン泣いたり、悲しいと言葉にしたりするのが映像表現じゃない。確かに勇気のいる数分間のロングカットではあるけれど、何よりも彼女が直面している悲しみに寄り添っているわけだからね」
エンジェル〜見えない恋人について
作品紹介・あらすじ
製作は「神様メール」「トト・ザ・ヒーロー」のジャコ・バン・ドルマル。監督は俳優としてドルマル作品などに出演し、多くのテレビシリーズなども手がけているハリー・クレフェン。
目に見えない存在として生まれた青年と盲目の少女の愛の姿を描いたラブロマンス。
パートナーの突然の失踪により、絶望を味わったルーズは精神病院に収容され、誰に知られることなく、1人の男の子を出産する。エンジェルと名づけられたその子どもは、目に見えない存在であるという、特別な特性をもっていた。そんなエンジェルを、ルイーズは世間との接触を絶ち、施設の中で育てていった。そしてある日、エンジェルは盲目のマドレーヌという少女と出会う。目が見えないマドレーヌはエンジェルの秘密に気がつくことはなく、2人は次第に惹かれあい、愛を育んでいくが、ある時、マドレーヌが視力を取り戻すため目の手術を受けることになり……。
感想
次は『エンジェル〜見えない恋人』ついて触れます!
ちょっと長くなってきたから、手短に語ろう
カエル「だいぶ前ですが、Twitterではこのように語っています」
#エンジェル見えない恋人
— 井中カエル@物語るカメ/映画・アニメ系VTuber(初書籍発売中!) (@monogatarukame) 2018年10月13日
あ〜好き!
姿の見えない彼を描くために工夫された映像実験の数々が映画をより色濃いものにしていく
映像に込められた情報量と登場人物の表情や感情がダイレクトに伝わってくる純文学ならぬ純映画作品
フランス版シェイプオブウォーターともいうべき美麗な映像に震えた pic.twitter.com/lobB0uIyO8
※フランス→ベルギーでした
主「この作品が面白いのはさ”見えないものを映像でどのように描くか”というポイントなんだよ。
つまり、先ほどから述べているカメラと登場人物の関係性で語ると、この映画はカメラは主人公のエンジェルを捉えることはできないわけだ」
カエル「まあ、透明人間を映像でとらえろってのは不可能だもんね」
主「観客はエンジェルの存在を知っている。
だけれど、登場人物はエンジェルの存在を知ることができない……透明だからね。
つまり、ゴーストストーリーでいうところのゴーストと同じような、ある種の2,5層の住人であるわけだ。
ヒロインのマドリーヌは目が見えないからこそ、視覚に惑わされることなくエンジェルの存在を感じ取ることができる。ある意味では神と交信できるものでもあり、それこそエンジェルと考えたら神の言葉の通訳者=預言者のような少女でもあるわけ」
見える体と見えない体
…かなり風呂敷を広げているね
とりあえず広げるだけ広げてハッタリを効かせようかな、と思って
主「本作はマドリーヌの美しい裸体であったり、あるいはセックス描写があるけれど、素晴らしいのは”エンジェルは見えない”という部分だよ。つまり、セックス描写があるんだけれど、男の姿は映らない」
カエル「それだけ聞くとアブノーマルなAVの話のようにも……」
主「だから違うって!
ここでカメラがとらえるのはマドリーヌの裸体である。
つまり”目に視える物”なんだよ。
何度も語るようにエンジェルの姿は見えない。だけれど、確かに”そこにある”という意識は働いている。観客はエンジュルが作中世界に存在する少年、あるいは青年であることを知っているわけだ。
この”視える、視えない”の境界線を美しく描いている。
これを映像表現で行ってしまうのだから、大したものだよ」
カエル「なんとなく『シェイプ・オブ・ウォーター』を連想する作品だったよね」
主「たとえ見ることができなくても水の中では体の輪郭が生まれて触れ合うことができる。
今年の面白い流れでもあるけれど、アメリカは『半魚人と聾啞の女性』の恋愛を描き、一方でベルギーは『見えない恋人と盲目の女性』の恋愛を描いている。
現代では恋愛における壁が生み出しにくくなっているけれど、そこを描き方を工夫することにより、美しい恋愛作品としての一面と、さらに人種や宗教などのさらにレベルの上の壁を描き、融和を描くという社会性の強い作品が生まれているとも言えるかな」
まとめ
では、長くなったのでこの記事のまとめです!
- カメラ(観客)と登場人物の距離感を利用した巧みな2作!
- 映像表現の限界に挑戦するような、純文学的な試みも感じる
- どちらの描く相手を思う愛も美しい作品
ちょっと退屈な感もあるけれど、セットで見て欲しい2作です
カエル「かなり難しい、観念的な話が続いてしまったけれど、それだけ思うところがあった作品ということで」
主「例えばエンジェルだったら冒頭の描写が抜群にうまい!
ここは映像的な演出が際立っていて、エンジェルが生まれた所以などもしっかりと描かれている。観客には母親の想像妊娠なのか? という謎も残るんだけれど、でもしっかりとエンジェルは存在している。
その描き方がとても映像表現として優れているし、多くの映画がお手本とするべきものだよ。その意味でも、退屈な部分はあるけれど、みる価値はある作品だね」