カエルくん(以下カエル)
「今回はいよいよ『涼宮ハルヒの消失』について語っていきます。
近年のアニメ映画を語る上では絶対に外せない作品だよね」
ブログ主(以下主)
「これで京アニの名声が固定化されたような気もするな。
今回もまた語ることが多いから、さっさと始めようか」
カエル「はいはい。ちなみに旧作ということもあって全編ネタバレありで語っていきますので、そこのところはご了承下さい。
で、今回はどんな風に語っていくの?」
主「今回語るのは3つの視点からで……
- 消失の物語について(エンドレスエイトとの比較など)
- 京アニ作品としての消失
- 社会的、アニメ界としての消失
ということに着目しながら語っていきます。
あと便宜上、わかりやすくするために『宇宙人の長門有希=長門』であり『消失世界の気弱な文学少女=ゆきちゃん』と称していきます」
カエル「というわけで、伝説的なアニメ映画である涼宮ハルヒの消失についての記事をスタートです!」
作品紹介・あらすじ
テレビシリーズでも人気を博した谷川流原作の『涼宮ハルヒの憂鬱』京都アニメーションが映画化した作品。アニメ映画としては異例の2時間40分という長尺や小規模な公開規模でありながらも、興行収入8億円を記録するなど深夜アニメの劇場版作品として異例のヒットを記録した。
総監督に石原立也、監督には武本康弘が担当し、テレビアニメをさらに盛り上げる内容となっている。
12月の下旬、相変わらず騒がしい毎日を過ごしているSOS団は涼宮ハルヒによってクリスマスパーティーを行うことが決定した。嫌々ながらも仕方なく参加することにしたキョンであるが、次の日に学校へ向かうと、一転して校内では風邪が流行していた。
記憶と違う言動をするクラスメイトに違和感を覚えるキョン。そして本来後ろの席に座っているはずのハルヒの姿はなく、代わりに姿を見せたのがかつてキョンの命を狙った朝倉涼子であった……
1 感想
カエル「では、まずはざっくりとした感想から始めるけれど……結構長いよね」
主「2時間40分はさすがにやりすぎ!
この長さでアニメ映画を公開したのって、何部作とかではなく、単独作品ではもしかしたら史上最長なのではないか? と思うほどだよ。
何せ、アニメって制作するだけでもすごく大変で……日本にいると気がつきにくいけれど、普通は2時間を切るどころか、長編作品でも90分前後であることが多いわけだ。
大脱走やブレードランナー2049クラスのとんでもない長尺の作品でもある」
カエル「その意味では暴走と言っても過言ではないかもしれないね……」
主「しかもさ、これはアニメ映画の問題点としてどうしても上がるだろうけれど、本作はテレビアニメ版のハルヒの鑑賞は前提の作品でもあり……少なくともアニメ版のうち、いくつかのエピソードは観ておかないと理解できない物語になっている。
しかも公開当初は全国で24館くらいと非常に小規模な公開規模であり、当然のようにこれだけの長いと回転数も悪くなる。
この手の作品は熱いファンによるリピーターが重要視されるけれど、それもこの長尺だとハードルが高いし……と考えると、まあかなりの暴走映画だと言える」
カエル「エンドレスエイトほどではないにしろ、相当挑戦しているよね……」
主「無謀だよ、本当に。
常識外の行動に出まくっている作品だと言える。
それでも最終的には8億円とこの公開規模では異常とも言える興行成績を残し、そのクオリティも非常に高いという、まさしくファン映画においてお手本となるような存在でもあるわけだ」
今作の長門(ゆきちゃん)の魅力にやられっぱなしです!
日常描写の衝撃
カエル「劇場で初見時、どのように思ったの?」
主「自分は上映時間を見ずに映画館に行ったから、ちょっと長いような気がするなぁ……と思いつつ楽しんで見ていた。
で、終わって気がついたら予告編込みで約3時間過ぎていたから『そんな長いの!?』って驚いた記憶がある。
そこまでの長さは感じなかったかなぁ……同じ時間でも大脱走とかはもっと長く感じた。この辺りはアニメが好きということも大きいかもしれないけれどね
内容としては、この圧倒的な『日常描写』について衝撃を受けたんだよ」
カエル「音から何から日常描写やそれぞれのキャラクターの動きがリアルなものになっているもんね」
主「それもそうなんだけれど、学校生活がここまでリアルに描かれているアニメってこれまでなかったように思う。
例えば、小さなことでは女子がスカートの下にジャージを履いているんだよね。それがまたダサいんだけれどさ、この着方をしているアニメ作品って初めて見た気がする。
そしてモブの動きの1つ1つも『モブらしい動き』ではなくて、すごく柔らかくてその前後の流れを感じさせるようなものであって、会話も自然なものでさ。ここまでこだわり抜いたアニメの衝撃は大きかった」
カエル「例えば、その例としてあげるのが『靴を履くキョンの動き』らしいけれど、これってどういうことなの?」
主「世界が入れ替わった後の下駄箱のシーンで、キョンが上履きをポイと投げるんだよ。そして、それを手で拾わずに足でひっくり返したりしながら横着に履いていく。手はポケットに入れながらね。
この動きって寒い日の横着な男子生徒ならよくある動きなんだけれど、わざわざこんなシーンを入れてきたこと、ここに衝撃があった。
本作はこの『日常の描写』がとても重要な意味を持ってくる作品だからね」
話の構成について
カエル「では、ここでこの構成についてちょっと話をしていこうか」
主「この作品は長いけれど、その長さを感じさせないような構成がきちんとできている。このことについて考えていこう。
大体2時間40分の作品のうち、どの時間でどのような物語があるのか、ということについて考えいくと……」
物語開始
20分 時間軸の移動(キョンは気がつかず)
40分(1/4) ゆきちゃんと部室で出会う
60分 ゆきちゃんの部屋へ
1時間20分(1/2) ハルヒとの再会
1時間40分 プログラム起動、元の時間軸へ
2時間(3/4) 長門部屋で真実を知る
2時間20分 朝倉の乱〜キョンの目覚め
物語終了
カエル「こうやってみると印象に残るシーンが約20分おきに起こっていることがわかるね」
主「この構成が結構計算されていて、あまり飽きさせないように工夫されている。
これを見てもわかるように、当たり前だけれど石原総監督や武本監督はいたずらに長くしたわけじゃない。原作やハルヒの物語を考えた上で、最も重要と思われる部分を取捨選択していた結果がこの長さになったわけだ」
カエル「確かにどの部分もこの映画の核になる部分ばかりだもんね」
主「例えば本作のちょうど中間、綺麗に1時間20分のところでハルヒとキョンが出会うけれど、やはりこの物語は『キョンとハルヒの物語』ということもできる。
と、同時にこの作品は『長門の物語』でもあるわけで、1/4、3/4の部分で長門が重要な立ち位置にいるなどの厚遇を受けているわけでもある」
カエル「60分のところでゆきちゃんの部屋へ行く、というのも、彼女がどれほど可愛らしい存在なのかという大事なアピールだよね。キョンがどのような選択を下すにせよ、こんな可愛い存在との決別であり、同時に長門がどのようにありたかったのかわかる描写でもあって……」
主「この映画において長門の人気は決定的なものになった感もあるくらいだしね」
演出について
カエル「演出としてはどのような部分が気になった?」
主「基本的には、今作って結構暗めなんだよ。
特に中盤までのキョンが別の時間線で戸惑っているシーンなどは、音楽も少なめになっていたりしていて……ここは別の世界線……ハルヒの力が失われた世界線に対して戸惑うキョンの気持ちなどを効果的に表現している。
本作は明らかに最初の20分と後半20分を除いた……つまり元々のハルヒのいる世界と、そのあとのハルヒが消失した世界の描き方は違うようになっているんだ」
カエル「それが重苦しい印象を与えているわけだ……」
主「本作が地味なように感じられるのは当たり前かもしれないね。
もっと派手に、煽るような方法で……例えば爆発させたりさ、ロボットを出して戦闘シーンなどがあると、この長さでもあまり気にならなくなるかもしれないけれど、ハルヒの話は基本的にはそういう展開がほぼないわけじゃない?
特に消失は神人も出てこないし、派手な見せ場というと……キョンと朝倉の描写くらいしかないのかな?
そんな限られた中でも飽きずに鑑賞してもらうために、上記のような構成であったり、あるいは長門などのキャラクターのかわいらしさ(萌え)や演出などでカバーしている」
カエル「そう考えると中々難しいことをやっている作品なのかもね……」
2 消失という物語について
カエル「じゃあ、今度は消失という物語について考えていくけれど……この物語って簡単に言うとどういう話なわけ?」
主「キョンの選択の物語だよね。
この作品がハルヒシリーズの1つの転換点であり、そしてある意味でも最も重要な話でもある。
キョンって典型的な『巻き込まれ型』の『やれやれ系主人公』だったわけだよ。だけれど、それが変化したのがこの作品でもある」
カエル「つまり簡単にまとめると以下のようになるわけだね。
ハルヒの消失した世界=日常の世界(キョンが望む世界)
いつものハルヒの世界=異常の世界(キョンが巻き込まれている世界)
キョンが自分の望む日常の世界へと行き、それを否定していつもの世界線へと戻って来る物語ということだけれど……」
主「それは序盤とラストの対比でも現れていて、キョンの日常の中ではすでにSOS団の部室に向かうことは組み込まれている。その生活スタイル自体はこの作品を経た後でも何1つとして変わらないんだけれど、そこに向かうまでの心持ちが全く違う。
その『巻き込まれ型主人公』だったキョンが、変化して『自発的な主人公』になる物語こそが、この消失である」
カエル「そう考えると、ハルヒの映像化作品ってこの映画で実質的に終わっているような状況だけれど……本当はもっと続いていないといけないんじゃないの?」
主「もちろん!
原作もそうだけれど、この物語からハルヒとという物語は大きく変化していくことになるし、なんでもありの魔法使いのようだった長門の能力を制限させられて、そしてキョンがより能動的になっていく。
だからこの作品でハルヒの映像化作品が終わってしまっていることは、とても残念なことでもあるね」
このシーンで涙腺が緩んだ人も多いのではないでしょうか?
エンドレスエイトと消失
カエル「以前、この消失に触れるにはエンドレスエイトについて触れなければいけない、ということを語っていたけれど……それはどういう点について語るの?」
主「消失の物語に1番近いハルヒの物語って、自分はエンドレスエイトだと思っている。
それはもちろん長門がどのようなストレスを抱えていたのか、そしてそのエラーをなぜ起こしたのか? という点でも重要なんだけれど、演出などでもそれはわかるようになっているんだ。
例えばこの作品の注目ポイントがスタートなんだよ。目覚まし時計のベルが鳴り、それを止めるキョン。ここでは『時計』に注目されている。
この時計というのはエンドレスエイトの5話、石原総監督が演出を務めた回でも重要な役回りを見せていた」
カエル「エンドレスエイトの物語が終わる時に時計に注目して、繰り返す日常ということを演出している回だったね」
主「消失という物語もループものと言えるわけだ。それまでハルヒの物語がたどってきた物語を再び振り返り、繰り返し、そしてそれを更新する物語。
そしてその根幹にあるものも同じ。エンドレスエイトが『永遠に繰り返す日常からの脱却』を描いたことに対して、この消失は『日常の世界から異常の世界への変化』を描いている」
カエル「どちらも『日常の否定』という意味では同じなのかなぁ……」
主「日常系作品とそこからの脱却というのは、実は京アニが描いてきたことにも繋がってくるんだけれど、それは後述するとして……こういう風に見ると、エンドレスエイトと消失って実は結構繋がっている物語だと自分は思っている。
どちらもある意味では『京アニの暴走』の物語だけれど、その暴走もまた必然だったわけ。
なぜエンドレスエイトがあのような物語になったのか? それはこの消失の物語に繋がると重要視した結果じゃないかな?」
やっぱりポニテハルヒは可愛いなぁ……と思った瞬間
真冬でも半袖なのはすごい……
消失世界からわかるキャラクター像
カエル「この消失の物語があるからこそ、深まったキャラクター像もたくさんあるよね。小泉って素であんな態度をとるいい人なんだ……とかさ、その裏にある思いとかも感じることができて、意外な発見があったりして……」
主「普段のハルヒの世界ってハルヒがそう望んだから生まれた世界ということになっている。
その力が失われた後の世界=消失の世界との比較をすると、ハルヒが普段何を考えているのか? ということもよく分かると思う。
消失の世界では風邪が流行し、バタバタと人が倒れているような世界だった。だけれど、ハルヒ世界では風邪をひいている生徒はほとんどいない。これは、ハルヒがそういう世界を無意識下で望んだからとも言えるわけだよね」
カエル「そう考えると表向きはデンジャラスなようだけれど、根っこの部分はいい人なんだよね、ハルヒって……」
主「それと同時に長門がゆきちゃんのように変化したのも、あれは感情から生まれているストレスが巻き起こしたエラーだという話だけれど、それだけじゃないよね。あの変化が長門が望んでいた人間像であり、あのような女の子になりたい、と願っていたら……と考えると、この作品はまた違う見え方ができてくる」
カエル「やっぱりゆきちゃんの可愛らしさが1番の見所だもんね」
主「この作品で注目してほしいポイントの1つが『長門の表情や表現』なんだよね。
長門は基本的には無表情で変化が芳しくない人物像でもある。だけれど、この作品では『変わらない表情』の奥に多くの感情があるんだよ。その感情の表現を感じてほしい。
例えば、この映画のラストシーンは図書館で本を読む長門だけれど、このシーン自体は映画の物語にはほとんど関係なくて、抜いても意味は通じる。だけれど、わざわざラストにこのシーンを入れてきたということには意味がある。そこには分かりやすい感情表現だけでは表現できない『多くの感情』があるんだ。
その『描かれない感情』に注目をしてほしいね」
3 京アニと消失
カエル「続いて京都アニメーション作品としての消失の物語について考えていくけれど、この映画が作られること当然の流れだったという考えでいいんだよね?」
主「そうだね。
京アニは『日常描写』について多くのこだわりを持って制作してきた。それはオタクあるあるを詰め込んだ『らきすた』もそうだし、それこそ『けいおん!』なども日常系の代表作とされる作品でもある。
特にハルヒのエンドレスエイトは日常描写が非常に多かったし、さらに言えば初期アニメ版の1話にあたる『朝比奈ミクルの冒険』なども学生が撮った自主映画のあるあるを詰め込んだ内容でもあった」
カエル「結構日常やあるある描写が多かった印象だね」
主「これは今でも続いていて、それこそ『たまこマーケット』もそうだし、『Free!』や『響け! ユーフォニアム』でも日常的な描写やリアルな動き、生活などをフューチャーしている場面が多い。この後に制作される『氷菓』なんてまさしくそうで、あれはミステリーなのに人が誰も死ぬことがなく、日常的な作品になっている。
そんな京アニ作品の中でも、最も『日常と非日常』について意識的だった時代の象徴的作品と言えるかもしれない」
カエル「日常からの脱出と、変化のある日々へとびこんでいくという意味では『たまこラブストーリー』などと同じだもんね」
主「その美麗な絵の力などが話題になるけれど、この表現が時代と大きくマッチしたということなんだろう」
カエル「……時代と?」
本作に似ている物語
カエル「時代とマッチしたってどういうことなの?」
主「う〜ん……自分が今作に似ている作品ってどれですか? と問われたら、実は意外かもしれないけれどこの作品だと思う」
カエル「……え? スカイクロラなの?」
主「意外だろうけれど、スカイクロラってこの映画がやろうとしていることに似ているところがある気がしている。
簡単に説明するとスカイクロラって大人になれない子供達=キルドレたちが、ショーとしての戦争に興じるという物語なんだけれど、スカイクロラって自分に言わせてもらうと、日常系作品なんだよ」
カエル「詳しくは以前にも記事にしているけれど、永遠に成長しない、変化しないという日常に対して、主人公がどのような決断を下すのか? という物語だけれど……」
主「これはすごく長くなる話で、社会と物語の関係性にもつながってくるんだけれど……割愛しまくって簡単に説明すると、1995年の社会情勢、つまりオウム事件や阪神淡路大震災とエヴァが流行ったことは密接にリンクしている。
そのような不安な世の中だからこそ、その不安感を見事に表現したエヴァが流行した、という流れがある。
で、その後にセカイ系の流れが来て、そして日常系へと続く一連のブームメントがあるんだよ」
カエル「すごく大雑把に語っているけれど、その流れ自体が社会と物語の関係性を語る上では大事だって話だね」
主「そうそう。
若者はいつの世も不満で、若者向けの物語を見ると結構その時代の価値観がわかるものだけれど……95年から、そうだなぁ、2010年くらいまでの間って若者にとっては絶望の時代だったと思う。社会や景気は全く良くなることもなく、変化をしようにもその方法がほとんどない。
そんなどうあがいても変わらない日常に閉じ込められた時、あがきや暴走として生まれたのがエヴェであり、オウム事件だった。
この辺りはもしかしたらいつか詳しくやるかもしれない」
セカイ系から日常系へ
カエル「そのあとはセカイ系という……定義も難しい概念が幅を利かせた時代が訪れた、さらに日常系へとブームメントが始まっていくということだけれど……」
主「エヴァもセカイ系なんだろうけれど、セカイ系って簡単にいえば『普通の男の子が特殊な女の子と出会い、世界を揺るがす大事件に巻き込まれる』ということだと言える。
で、自分なりの言葉で言わせてもらうと『主人公の日常の変化=世界の変化』という描き方をしたのがセカイ系作品なわけ。
若者の抱えている退屈な日常への鬱屈と、その変化への渇望が、最も過激な形で表現されたのがセカイ系だと考えている」
カエル「う〜ん……言葉にすると難しい話だよねぇ」
主「でも、このセカイ系作品の後に生まれたのが『日常系作品』なんだよ。つまり、退屈に見えるかもしれないけれど、その日常にもまた変化はあり、それはそれで重要なんだ! という日常の肯定が行われた作品たち。
そしてハルヒっていうのはセカイ系でもありながらも、日常系の要素を宿している。
確かにキョンたちの毎日はセカイ系らしく、そのセカイを揺るがすほどの大事件である。だけれど、ハルヒはそのことに気がついていないし、何なら日々の日常を生きていると自覚している。心の奥底では宇宙人や未来人なんていないと理解している節もある。
だけれど、そんな退屈な日常を変えたい! というハルヒの願いがあのような形になったのが、涼宮ハルヒの憂鬱というシリーズなわけだ」
カエル「ハルヒ視点からすると日常の物語だけれど、キョン目線からするとセカイ系の物語でもあるって話だね」
退屈な日常からの変化
主「で、実際はキョンは最初の方は退屈な日常を望んでいた。だけれど、この作品において日常から脱却し、刺激的な異常の方を選ぶ。
これってスカイクロラが表現したことと似ていると思うんだよね。ただし、その結末や語ることが全く違うものだけれど」
カエル「180度違うけれど、それは神様(ハルヒ)がいない世界って事なのかなぁ」
主「実は京アニ作品というのは、その多くの作品が最後は『日常からの脱却』になっているように思う。それまでの関係性を破って新しい関係になっていったり、学校生活からの卒業を迎えたり、というね。
日常描写が上手いアニメ会社だけれど、実は日常描写からの変化を描いている。
京アニがなぜここまで流行ったのか? という点に関して、評論家風に回答するならば日常描写を丹念に描くことによって『日常の肯定』を成し遂げただけでなく、さらにそこから脱却することで『日常からの変化』を描いたということになるかもしれない」
カエル「単に美麗な作品を多く作ったから、というだけではないんだ」
主「もちろん、レベルの高い作画や面白い物語を作ることは最も大切なことでもあるけれど、それだけで流行するほど簡単な話ではない。
そういった社会的な状況に思い悩むアニメファンである若者層を見事に取り込みんだからこそ、ハルヒシリーズは多くの人に受け入れられるようになったんじゃないかなぁ?」
最後に
カエル「では、最後だけれど……」
主「どうなんだろう? 結構時間を費やして書いたけれど、語り尽くしたという感じもないんだよねぇ。結構難しい物語でもあってさ、語り口がもっとスマートになったんじゃないか? って思いもある」
カエル「まあ、でもこれで京アニ作品の劇場版は一通り語った事になるのかな?」
主「京アニ作品ばかりこれだけ語ったのは、もちろん自分が大好きだということもあるけれど、それだけ今のアニメ界で重要な立ち位置にいると思っているからなんだよね。
もちろん、賛否はあるだろうけれど……京アニは今後もアニメ業界でかなり注目を集める場所にいるであろうことは間違いなだろう」
カエル「これからも要注目のアニメ制作会社だね」
主「とりあえずこれで一旦京アニ作品を語るのは終わりかなぁ……あとは新作ばかりになるかもね」