物語る亀

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物語愛好者の雑文

『クレイジー・リッチ!』がアジア人のための映画だという主張に対して、大いに異議を唱えたい

 

 

 今回はタイトル通りの内容であり、映画の内容について脚本や演出がどうのと語ることはありません。

 また、作品そのものに対して否定的な記事になるので、本作を愛する人は読まないほうがいいと思います。

 

 ただ、これだけはどうしても言っておかないいけないのではないか? という思いがあったので、筆をとりました。

 

 

 

 

感想

 

 

 今回は真面目に話をさせてもらいたい。

 本作がアメリカで高く評価されているとするならば、それはかなり問題だと言わせてもらいたい。

 

 もちろん、今作自体は娯楽映画であり、その出来自体が悪いというわけではない。プロデューサーや監督、役者たちに対する個人的なヘイト感情もない。

 また、アメリカにおけるアジア系の苦難が続き、人種差別が原因で主役級の役を張ることができないというのは、確かに重要な問題である。

 そこに対して異議を申し立て、このような作品が作られたことに対しては、支持する。

 

 だが、それだけの強い思いがあってなお、生まれた作品が本作だというのであれば、私はその潜在的な意識を強く非難する必要があると感じている。

 そして、アメリカ社会が今作を高く評価するのであれば、遠く日本から異議を申し立てたい。

 

 私は、本作が”アジア人のための映画”のように語られることに対して、強い憤りと危機意識を抱いている。

 

 

 

クレイジーリッチから”Asians”が外されたことについて

 

 なぜそれほどまでに強い懸念を表明するのかといえば、それは今作のタイトルを見て欲しい。

 英語では”Crazy Rich Asians”であるが、邦題ではアジアンズが外されている。その件について、いろいろな意見があるだろうが、私はこの日本側の判断を強く支持する。

 この映画は”アジア人”の映画ではない

 中国系の映画である。

 

 本作の主な舞台となっているのは、シンガポールである。シンガポールはアメリカに負けず多民族国家である。確かに中華系が74パーセントと比較的多いが、マレー系やインド系なども入り混じっている。

 ちなみに、アメリカにおいて白人の割合は78パーセントということなので、ほぼアメリカにおける白人と同じ割合が中華系という計算になる。

 公用語はマレー語であるが、英語、中国語などが入り乱れる結果となっている。文化的にも非常に多様な国だ。

 

 では、なぜそれほど多様性がある国を舞台にしておきながら、本作は中華系ばかりしか出てこないのだろうか?

 

 アジアは実に広い。色々な定義があり複雑な面もあるが、日本や韓国、中国も当然アジアに含まれるし、シンガポールなどの東南アジア、インド、パキスタンなどの南アジアから、西はイスラエルなどの中東諸国も含まれている。

 一言に”アジアの文化”と言っても実に多様であり、宗教もイスラム教、仏教、ヒンドゥー教、キリスト教など、民間信仰も含めれば、数え切れないほど多彩だ。

 

 しかし、この映画では中国系しか出てこない。

 アジアと括りながらも、その多様性が反映されているとは全く言えない作品である。

 

 

 

NYタイムスの記事に怒りも

 

 私がなぜここまで強く憤りを表明しているのかというと、このような記事を発見したからだ。

 

courrier.jp

 

 こちらはNYタイムスの記事を日本語に翻訳したようだ。クレイジーリッチがどれほど進歩的な存在なのか、その志の高さについて語られている。

 確かにホワイトウォッシュ問題はアメリカの現地で暮らす、非白人種にとっては、日本でのうのうと暮らす私などでは想像もできない重要な問題だろう。

 

 記事の中には、今作で恋人であるニックを演じたヘンリー・ゴールディングの選考で、ゴタゴタがあったことを明かしている。

 

 

 だが、彼のキャスティングが発表されると、女優のジェイミー・チャンをはじめ多くの人々が、それを批判した。韓国系米国人で、チュウ監督から「レイチェル役には中国系米国人しか使えない」と言われた彼女にとって、半分白人の俳優をニックにするのは裏切りのように思えたのだ。

〜中略〜

 だが、チャンは、自身のコメントをすぐに撤回した。
「今年の始めに私がした無知なコメントについて、心から申し訳なく思っています」と彼女はツイートし、ゴールディングに謝った。

 

 

 これほどの意義がある作品でも、白人の血が半分流れているというだけで差別的な言動があったことが明かされている。

 もちろん、それについては反省し、謝罪をしている以上、これ以上追求することは必要ないだろう。

 

 だが、私が疑問に思うのが、なぜ『マレーシアのイバン族の母親と、英国人の父親を持つ。マレーシアで生まれ、ロンドンで育ち』だったヘンリーが、中国系の役を与えられたのだろうか? 

 先ほども語ったように、シンガポールは多民族国家である。

 ということは、ヘンリーは他のアジアの民族を演じることができたのではないか? という疑問も根強くある。

 

 

アジア人はアメリカに何を求めている?

 

 さらに記事ではこのような記述がある。

 

 

さらに、アジア人俳優にも、誰もが知るような主人公役を与えるべきだとして広まった、ソーシャルムーブメント「#StarringJohnCho」で、ジョン・チョウが注目されるようになってから2年。ついに2018年8月24日から主演のスリラー映画『Searching』が公開された。

 

 私は、いちアジア人として言わせて欲しい。

 

 ふざけるな、アメリカ!

 

 『誰もが知るような主人公役を”与える”という、上から目線のお慰みが欲しいわけではないでしょう。もちろん、これは翻訳のミスということも考えられるために、ここで激しく激昂するのは間違いなのかもしれないが…こんなことが解決になるのだろうか?

 

 欲しいのは”誰もが知る主人公役”ではなく、誰もが知る主人公役に”挑戦できる権利”ではないのか?

 

 私が仮にアメリカに暮らすアジア人であったとしたら、この記事を破り捨て、すぐに『この意識こそが差別ではないのか?』と怒鳴り散らすだろう。

 

また、別の記事ではこのようなことが書かれていた。

 

www.huffingtonpost.jp

 

 こちらの記事では、ハフポストUS版のキンバリーヤムさんが(中国系のアメリカ人)が、差別的な行為を受けていた幼少期を思い返し、本作を観て涙を流したという話が載っている。

 確かに差別感情を晴らしてくれる今作に対する思いはひとしおだろう。

 

 だが、この記事で何度も書かれているのは、このような言葉だ。

 

中国人でなんかいたくない。

『中国人で本当に幸せだ』

 

 結局のところ、この映画は”中国系のための作品”以外の何者でないということではないか?

 なぜそれをアジア人という大きな括りで語られてしまうのか、それが全く理解できない。

 

 

 

アジア映画が見せてくれる”多様性のある社会”

 

 では、アジアの映画は今何を描いているのか?

 特に本作を語る上で最も重要な作品と思われるのが、こちらだ。

 

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blog.monogatarukame.net

 

 マレーシア映画のタレンタイムである。

 この作品は他民族社会であり、言葉も習慣も違う若者たちが学校で行われる音楽祭”タレンタイム”に向けて練習し、民族や文化を超えた思いをつなげていくという作品である。

 小規模公開映画なので鑑賞した方は少ないだろうが、多様性を描いた作品として一級品の価値を獲得している。

 

 また、最近公開された作品ではレバノン映画の『判決、ふたつの希望』という映画もある。

 

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 こちらはキリスト教徒であるレバノン人男性とパレスチナ難民の男性の、口論が発端となった裁判を描き、同じ中東に暮らす人でも複雑な歴史もあり、どうしても拭いきれない偏見と、そこからの希望を描いた作品である。

 

 そして、中国からはこちらの映画を紹介したい。

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blog.monogatarukame.net

 

 『閃光少女』は伝統楽器を学ぶ少女たちが、何かと優遇される西洋音楽との対立を続けながらも、魅力的な音楽を奏でるという物語である。

 日本で言うところのアイドル映画のようでもあり、娯楽作である。

 

 この作品では日本のオタク文化にはまる若者が描かれ、日本の文化へのリスペクトを大いに感じる作品だ。

 さらに伝統的な楽器がピアノやバイオリンなどの西洋音楽に劣るものとして見られる現状を描きながらも、中国古来の伝統と、西洋の文化、日本のオタク文化という多様な文化をミックスし、その先を描くことに成功している。

 

 他にも韓国などの多くの国からも、多様な映画はたくさん生まれているのだ。

 

 

 

クレイジーリッチは果たして”多様的な映画”なのか?

 

 では、クレイジーリッチに話を戻そう。

 

 もしかしたら、アメリカにいたら中国人も日本人も、それどころかインドネシアや中東すらも同じ”アジア”という括りになってしまうのかもしれない。

 だが、本作の描いたものは、結局のところ『ホワイトウォッシュ』から『チャイニーズウォッシュ』への流れを作っただけなのではないか? という違和感はどうしても拭えないのだ。

 

 私からしたら、この作品はアジア人を馬鹿にしている映画だと言わざるをえない。

 そもそも多様性をアピールするために作られた映画が、金持ちの中国人というオールドタイプの人物像であり、そんな一部の金持ちだけにスポットライトを当てている時点で、もはや多様性なんて別にいらない、と語っているようで乾いた笑いしかない。

 逆に、これが白人のセレブたちだけが出てくる映画だとしたら、アメリカ人はどんな反応をするのか、ぜひ観たいものだ。

 

 金持ちの道楽で、好きだの嫌いだのと中国系の金持ちがやっているだけの映画を『アジア人のための映画』と大きな括りにして欲しくない。

 それは同じアジア人としての、意地でもある。

 

 

最後に〜ここまで威勢のいいことを言ったけれど……〜

 

 

はい、じゃあ落ち着きましたか?

 

 

 

だいたい言いたいことは語り尽くしたよ

 

カエル「まあ、でも本作がアメリカで起こした功績が大きいのも事実だしね」

主「……そもそも、黒人や白人のスターがほとんどいなくて、出てくるのもハーフばかりという日本よりははるかに進歩的だし、大事な行動だよなぁ……

 ここまで大いに怒りをぶつけたけれど、じゃあ日本はどうなんですか? と聞かれてら……恥ずかしくなるわ」

 

カエル「残念だけれど、多様性なんて語れるの国じゃないからねぇ。基本的にはガラパゴス化しているし」

主「……それを思うと、なんでこんなに怒ったんだろう? って気分になってきた……