今回は湯浅政明監督の最新作『日本沈没2020』の感想記事になります!
少し合間があいてしまいました
カエルくん
「ご存知の方も多いでしょうが、現在書籍発売に向けての執筆活動もあり、映画館に行く時間もあまりとれませんので、ご了承ください」
主
「……今からでも断りたくなってくるよなぁ」
カエル「プレッシャーに押しつぶされそうになっているね」
主「それでも現代を代表する名監督にして、世界も注目する才能の湯浅作品はちゃんと観たいから、この記事も書いて、また原稿も書いてと頑張っていきますよ〜っと。
それでは、感想記事を早速スタートです!」
感想
それでは、Twitterの短評からスタートです!
#日本沈没2020
— 井中カエル@物語るカメ/映画・アニメ系VTuber(初書籍発売中!) (@monogatarukame) 2020年7月14日
良いところと悪いところがはっきりと出てしまっている
1.9.10話以外はなかなか鑑賞に辛い部分もあり全体的にはプラマイゼロといったところか
しかしルーやデビルマンなど近年の湯浅イズムはしっかりと感じる
作画・脚本に思うところはあるがコロナショックもある中では仕方なしか pic.twitter.com/5J78ZAkq2y
いいところと悪いところがはっきりと出た作品ではあるね
カエル「正直、これって本当に湯浅作品か? と思うほどに作画などが荒れたけれど……でもさ、今回はそこを語るのは無しにした方がいいよね。
『映像研には手を出すな!』と同時並行だったこともあるけれど、コロナ騒動もあって予定とは大幅に異なったことも想像できるし……
特に前半はまだ普通かな、と思っていたら、後半に結構ガタ付きが感じられたけれど、特に今作の場合は中国系、あるいは韓国系の名前も多いから、制作にはそれなりに影響があったんじゃないかなぁ」
主「多分、作画に関してはOPがベストだった。
それくらいいいOPだったろう。
全体的にはいい部分と悪い部分が特に出てしまったし、かなりB級感が目に付く作品になってしまった。
一方でテーマやメッセージ性は流石にラストはとても良かったけれど、中盤のグダグダ具合を考えると、プラマイゼロってところかな」
湯浅監督作品で、ここまで全体のバランスが崩れている作品も珍しいよね
忙しいというのもあるんだろうけれど、色々と疑問符は出てくる作品ではあるのかな
カエル「なんか、色々な要素が喧嘩してしまっているなって印象もあったかなぁ。
特にそれが目立ったのが牛尾憲輔の音楽で、湯浅作品としては『ピンポン THE ANIMATION』や『DEVILMAN crybaby』も手がけてはいるんだけれど、今回は牛尾音楽らしい……『リズを青い鳥』のような音楽だったじゃない。電子系っていうのかな?
それが作品とイマイチマッチしていないというか、ラスト以外は喧嘩しているんだよな……」
主「あとは今作の脚本は吉高寿男が書いているけれど、主に舞台の脚本やバラエティの台本などを書いているようで、アニメに関しては『サザエさん』などはある模様だけれど、1作丸々担当するのは今回が初らしい。
その危うさが出てしまったのではないだろうか……全体の構成などがイマイチだし、しかも会話や物語の展開の唐突さ、ダサさなどがはっきりと出てしまった。
さらに言えば、テーマなども語りすぎ&コロコロ提示しすぎのような気がして、渋滞を起こしている。その影響がかなり大きかった」
カエル「あと、1つだけ疑問なのは湯浅監督作品なんだけれど、シリーズディレクターの許平康がいるんだよね。監督とシリーズディレクターって、立場としては同じようなものではないかな? って思いも……」
主「『夜は短し歩けよ乙女』などの湯浅作品にも参加しているだけに、変ではないのだけれど……少しだけ首を傾げる部分があるかな。細かい違いなどもあるんだろうけれどね」
震災を描くということ
今回は、おそらく多くの人が311の震災の姿などを、作中の模様に連想すると思うんだよね
……ここいらへんの描き方が、かなり疑問があったのも事実かな
主「ここ最近思っているのが、かつては戦争が大きな国家的な危機として存在した。それこそ日本沈没の頃はまだ戦争の記憶が残っている時代であり、多くの国民が共有する共通体験でもあったわけだろう。
だけれど、すでに戦争を知る日本人はほとんどいなくなった。
その代わりに、多くの人が共有する体験として震災というものが出てきた。
おそらく、一定の年齢以上で阪神淡路大震災、東日本大震災などの日本各地で起きた震災を全く体験したことがない、という人はいないのではないだろうか」
カエル「昭和の高度経済成長って、もちろん自然災害はあったけれど大規模な震災があまりなかったんだよね。
だけれど、平成になってから、それこそ10年に1回ほどの頻度で大震災が発生していて、いつでも何かが起きても不思議じゃない状況にあるというか…」
主「その感覚をリアルに捉えようという試みそのものは、良かったと思う。
一方で、湯浅監督は震災体験とエンタメ性の両立を目指したと語っている。
この”エンタメ性”が問題だった」
本作を見ているときに連想した作品が実写邦画の『サバイバルファミリー』と、『迷家-マヨイガ』や『巨蟲列島』などのB級サバイバルアクションアニメでした
多分、サバイバルアクションの描き方を間違えたんだと思う
カエル「もちろん、作中では過酷な状況ではありますが、次々とみんなが旅に出ていく姿や、サバイバルと重ねていく……特に2話の姿って、それこそ『サバイバルファミリー』なんだよね。
『サバイバルファミリー』の場合は日本中の電気が止まるという極限状態にありながらも、だけれど日本列島がどうたらって話ではないから、それだけ悠長なことをやっていても問題がないんだけれど、震災以後でそこまで元気に動けるかな? って……」
主「なんか、視聴者が求めているものとの感覚の違いがものすごく大きいと思っている。
そうだな、それこそ『バトルロワイアル』以降に流行している、バトルロイアルものがある。近年はむしろB級ホラーバイオレンスアクションの代名詞になっている部分もあるけれど、これって擬似的な戦争状態なんだよ」
主「1930年生まれの深作欣二監督は戦争を知っているから、その感覚を見事に捉えていた。
だけれど、近年はただのバイオレンスなだけのデスゲームに成り下がっている。
もちろん、エンタメとしてはそれでいいのかもしれないけれど、今作ではそれはやっちゃダメなわけだ。
しかもサバイバルホラーとしては、所々えげつない部分もきっちりと描いているけれど、その描写の1つ1つがご都合主義にまみれている。
それらはエンタメ描写であることを超えてしまっており、単なる悪趣味な描写になっている」
最大の失敗〜生命の描き方〜
この作品の最大の失敗点ってどこだと思う?
やっぱり、生命軽視の描き方なんじゃない?
カエル「次々と人が死ぬことで、ドラマを作り出そうとしていたけれど……」
主「そのやり方が本当にB級バイオレンスって感じだからね。
本作が”リアリティとエンタメの境目を目指す”というのであれば、1番やってはいけないのは生命の軽視だろう。
もちろん日本沈没という題材だから、画面に映らない人が何千万人も亡くなるのは仕方ない。
だけれど、その死を軽く描くことは、リアリティとの両立を目指すのであれば、実際の存在した犠牲者の死を軽く扱うことにもなりかねないわけだ」
カエル「特に2、3話において重要であるはずの人があっさりと亡くなるというのは、正直信じられなかったよね……ここで『あ、このアニメはB級なんだ』と思った部分もある……」
日本沈没は最初シンゴジラかと思ったらサバイバルファミリーで、さらにマヨイガなんだね
— 井中カエル@物語るカメ/映画・アニメ系VTuber(初書籍発売中!) (@monogatarukame) 2020年7月14日
さらに巨蟲列島であると
なるほど、わかった
残念ながら『迷家』も『巨蟲列島』も、作品そのものは決して褒められたものではない。それと同じように、サバイバルやホラー要素を”消費”する作品になってしまっている
主「あとは、先にも語ったけれどシリーズ構成の失敗もあるだろう。
4話からあの施設に行くのはわかるけれど、話としてはそこまで膨らんだ印象もなかった。また、既存の……初期からいるキャラクターを深く掘り下げることができなかった。
大体、あの中盤の施設を入れるならば……そうだな『ラスト・オブ・アス』や『ヘレディタリー』くらい、狂った集団になってしまったとまでやっても良かったんじゃないか。やりたいことはわかるけれど、でもそれがより迷子感を強めてしまった。
最後まで見ると多くの身近な人が亡くなる描写が重要だというのはわかる。
だけれど、それが効果を発揮する9話、10話までは、正直見るのも辛いような面白くなさがあった」
以下ネタバレあり
作品考察
1話で思い出した311の記憶
ここからはネタバレありで語っていきますが、1話はとても良かったんじゃないかな?
自分はこの1話を高く評価したい
カエル「突っ込みどころが0だったわけではないけれど、それでもしっかりと震災を扱った作品としての恐ろしさも描けていたよね」
主「311の日の状況を描けていたと思うよ。
特に自分が深く共感したのは、あれだけ悲惨な状況になっていても、太陽はいつもと同じように沈んで綺麗だったこと。自分は関東住まいだから震災の被害そのものはあまりなかったけれど、それでも街中が停電していたり、道路が大渋滞を起こしていた。それでも、あの日はすんごく晴れていて、歩いて帰っているときに真っ赤な夕日がはっきりと見えたんだよね。
東北を中心にあんな大きな被害が出ているなんて知らなかった。
その時の感覚が蘇ってきたし、結局人間社会の混乱なんて、自然には一切影響ないってことが感じさせられた」
カエル「苦しんでいる仲間を置いて逃げてしまうとか、そういう”生き残ってしまった側の苦しみ”も出ていたよね。
あの状況ならば逃げても仕方ない、だけれどその罪悪感はずっと残ってしまう。だからこそ、他の人を見捨てることができない、とかさ」
主「一部では『震災の時に助け合うことができていた』ということで怒る人もいるけれど、それはあくまでも社会機能がまだ残っていたからだろう。救急車もパトカーも動かない、社会情勢がどうなっているのかもわからないよな状況では、あのような喧騒が起こるのも納得する部分がある。
ただし、やはり1話の段階でも説教くささというか、物語のためのセリフは感じさせられた。
特にコンビニの店長の冷静な視点は、やっぱり冷静に物語を作る製作者だからこその視点だろう。社会的な視野を取り入れたいというのはわかるが、それが作品世界にマッチするようにはなっていない。
今作はそういった部分がとても多いわけだ」
2話から8話までについて
で、問題の2話から8話だけれど……もう、大体語ったからいいかなって気もするかなぁ
ここが本当に退屈なんだよなぁ……生命軽視と感じられてしまうし
カエル「一部では大きな問題視されているような描写を含んでいるね」
主「いいんじゃない?
7話において、ああいう行動をする人たちというのは一定数いるよ。イライラするのは、痛いところをつかれたんじゃないのかね。
今作において面白いのはさ、あの時助けなかった差別的な人たちも、助けてくれた漁師さんも、どちらもギャグのように亡くなっていることだ。
ここは非常に生命軽視を感じる部分ではあるけれど、人を助けるとか、あるいは見捨てるなどの状況に関係なく、人は亡くなっていくということだ。
ただ、それが作業的にも感じられるし、ギャグになってしまっているのが痛いところではあるけれど」
この辺りでやろうとしていることって、どんなことだったの?
基本的には”日本人ってなんだろうね?”ってことだろう
カエル「それは原作の日本沈没が描こうとしたテーマに近いものがあるってことかなぁ」
主「例えばさ、あのお母さんはフィリピンから来たと語られているけれど、でも彼女が日本人なのか? と問われると、言葉に困るんだよ。
おそらく国籍はフィリピンのままかもしれない、でも日本文化に馴染んでいるし、善人で、日本人と結婚している。
他にもあの弟くんは日本人なのか? って問題だよ。英語混じりで話していて……なんで日本に暮らしていた、しかも家族全員が日本語で意思疎通しているのに英語混じりなのかは全くの謎なんだけれど、彼はそこ以外は日本人と何が違うのだろう? という問題。
家族とか、国籍とか、あるいはオカルトとか……そういう枠組みとか、イメージみたいなものをぶっ壊そうという意識は感じる。
で、それに壮大に失敗した。
できていれば圧巻の作品だったろうけれどね」
9、10話に見る湯浅監督の作家性
でも、これだけダメダメでも9話と10話は、少なくともプラマイゼロにするくらいには盛り上がるんだよね
湯浅監督が描いてきたことが、ここでも出てくるからな
カエル「うちでは湯浅監督は徹底して優しい監督だという評価だけれど、今作でもそれは続いています」
主「本当にラップが大好きな監督だよね。
本音を吐き出すための装置としてラップを用いている。
あの3人の日本に対するラップというのは、今の日本の状況を表している。
- 武藤剛=日本に対して疑問がある人、リベラル寄り
- 古賀春生=日本に対して愛着がある人。保守寄り
これは、今の日本を取り巻く言論の環境と言えるだろう」
カエル「それに対して、歩はそのどちらとも違う考えを発するわけだね」
主「あれが基本的に、近年の湯浅作品で描いてきたことなんだよ。
『夜明け告げるルーのうた』では、魚人と人間の対立を描きながらもその先の融和を示した。
『DEVILMAN crybaby』でも、悪魔だからと正義感で攻撃する一般市民の暴虐ぶりを描き、その先に天使と悪魔の融和の可能性を描いた。
その意味では、湯浅イズムというのがとても発揮されている。
その意味ではナショナリズムの作品でありながらも、同時にそこからの開放を訴えている」
また、ネットやYouTuberに対しても好意的だよね
今、インターネットで世界と繋がれるお手軽なサービスだからね
カエル「それこそ『DEVILMAN crybaby』でも、インターネットを通して世界中に訴えかける重要な感動シーンがあったね」
主「この感覚はすごく理解できる。
例えばインド映画でも、インターネット・YouTubeが主人公たちの苦境を救うという展開の作品も多いけれど、これはカースト制度などの旧来の文化が根強く生き残っている中で、状況を打破してくれるであろうアイテムということもある。
またネットには境界線はない。
言語の壁などはあるけれど、基本的には世界中で繋がることができる。
自分は最近Vtuberにハマっているけれど、これも新時代の画期的なアイディアだと思っている。
人種、国籍、性別、年齢、障害の有無などを超えていくことができる。ナショナリズムとは真逆のものではないだろうか」
カエル「あのラストの”たまたま生まれ、たまたま生き延びた”というセリフなどを考えると、決して生命を馬鹿にするのではなくて、過去に自分たちに生命のバトンを繋げてくれた人がいるから、自分がここにいることができるという、とても当たり前なことだよね」
主「ここがリベラルな人たちが引っかかるのはわかるけれど、同時にナショナリズムからの開放の描写でもあるんだけれどね」
カエル「この作品のテーマって、ラストのテーマソングが語っているように思えるんだよね。
『カテゴリーって言葉が もはや呪いのようだ
正しさを証明できるはずなのに』という歌詞があるけれど、この言葉は本当に今の世界情勢に言えると思うんだよ」
ホワイトだ、ブラックだ、男だ、女だ、ってカテゴリーにばっかり気が入ってしまいる現場を批判し、そこから打破するメッセージを打ち出している作品だよね
それでいて、そのカテゴリーを超えた先にある何か、場合によっては選択の先にあるであろう、日本が沈没した後にも残った”日本人らしさ”というものを描く。
主「最後に障害を抱えながらもしっかりと走り、”日出る国”とか”日は沈み、また昇る”というのは、やはり日本人として最後に残る何かのことを差すだろう。
議論になるからあんまり使いたくない言葉であるけれど、それが国体と言うものなのかもしれない。
その意味では、今作は今の世界情勢を考えても重要で真っ当な、しかも日本を上げも落としもしないメッセージなんだよ。
自分はすごく高く評価するし、その意見が好き。
もちろん、何度も言う通りこのラストを持ってして、全てがチャラになるわけではない。
中盤はあまりにも酷い。
だけれど、単なるイデオロギーで否定するのはもったいないし、そうすればそうするほど、この作品が否定したはずの日本の悪しき姿を証明しているだけなんだけれどね」
最後に
では、この記事のラストになりますが……
なんかさ、最近、表現がどんどんつまらなくなるんだよねー
主「『Fukushima50』も思ったし、今のアメリカの状況を見ても思うけれど、政治的な思想の正しさの評価するように見えているんだよねぇ。それってすんごくつまんないことになるような気がしているんだよね。
別に表現は政治的に間違っていてもいい。ましてや、『Fukushima50』も本作も、どちらの意見も取り入れようとしている、どちらから見ても引っかかる部分があると言う意味では、中庸的な作品だと思うよ。
その政治的な正しさだけで表現を評価する態度というのは、単なる表現を貶めるだけだと思うけれどなぁ」