物語る亀

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物語愛好者の雑文

『DEVILMAN crybaby』感想 泣き虫デビルマンに湯浅政明が込めた願いと祈りに涙が溢れる

 Netflixで配信されているデビルマンの感想を書いていこうと思うのだが、あまりの衝撃に言葉が出ない自分がいる。

 それほどまでの作品であり、この記事を書き始めた今、どのような記事になるのか、構成なども何も考えずに書き出している。

 

 そもそも、デビルマンを語るということはとても難しいことである。

 何せ、相手は漫画史に残る名作中の名作であり、漫画の神様である手塚治虫と並ぶほどの大巨匠、永井豪の代表作でもある。そして、おそらく100年経った後でも読み続けられるであろう、文学的価値の高い作品である。

 そのような作品を現代にリメイクしようという試みだけでも、ハードルが高くプレッシャーが強かったことだろう。

 しかも手掛けるのは世界的な評価の高い湯浅政明である。

 

 まず、最初に注意しておきたいのがデビルマンのアニメ化である。

 今作は人を選ぶ。

 そして、かなりのエログロの物語となっている。

 そのために、鑑賞する際はかなりの覚悟を持ってNetflixを覗いてほしい。決してテレビでは味わえない刺激、その先にある感動があなたを待っているはずだ。

 

 

 ネタバレ含みます!

 

 

 

 

 

DEVILMAN crybaby Original Soundtrack

 

 

1 デビルマンについて

 

 最初に白状しておくが、私はデビルマンの原作を読んだこともなければ、他のアニメ版を鑑賞したこともない。

 この作品がデビルマンの入門になっている。

 しかし、だからと言ってデビルマンについて何も知らないということはない。

 むしろアニメや漫画に興味がある人間であれば、誰もがあらすじやどのような作品か知る機会が多い作品なのではないだろうか?

 特に本作が映像化不可能と呼ばれていた、後半の先が一瞬たりとも見えてこない刺激的な展開に関してはもはや伝説であり、そして『魔法少女まどか☆マギカ』の論評など多くの場面で引用される作品でもあり、私などのように物語作品について多く触れることもある者であれば知らずにいる方が難しいほどの作品である。

 言ってしまえば『読んでいなくても誰もが知る作品』であり、それを人は古典という。

  

 

 2018年の現在においてNetflixという配信限定でこの作品を公開した意味とはなんだろうか?

 その理由の1つが、この刺激的なエログロに満ちた物語である。

 本作の過激さはテレビでは放送が難しいほどの衝撃に満ちており、特にグロテスクに関してはかなり激しいものになっている。

 それは1話からすでに発揮されて、血と死体の多く飛び散る作品になっており、多くの人にそのグロテスクさで衝撃を残した『BLOOD-C』の悪趣味な惨殺パレードがずっと続くようなものである。

 正直、1話の時点でそれなりにきつい。

 

 では、本作の売りとはそのエロとグロしかないのだろうか?

 そんな話はない。

 この作品を手掛けるのは、他でもない湯浅政明である。 

 

だれもしらないフシギな世界 -湯浅政明スケッチワークス-

湯浅政明が多く用いるのがこの絵である

 

悪魔のデザイン

 

 今作で悪魔のデザインを担当したのは『フリップフラッパーズ』で監督を務め『スペースダンディ』でも多くの宇宙人のキャラクターをデザインした押山清高である。そして過去作において、日本でも有数の特徴的な絵作りをしてきた湯浅政明が監督を務めたことにより、その刺激的なデザインが動き出し、強い衝撃を与えることに成功している。

 それは単なる血や暴力で表現されやすいグロテスク描写に、生理的に嫌悪感やアニメーションとしての快感を与える効果を発揮している。そして何よりも『人間と根本的に違う』ということを表している。

 

 本作における悪魔とは一体何か?

 それは『根源的に違うもの』であり『被差別者』ということができる。彼らにある強い欲求は性衝動と人に対する暴力であり、それは多くの人間が根源的に抱えている野性でもある。それを普通の人たちは抑えているのだが、それを抑えられなくなって暴れ始めるのが悪魔であり、そして多くの人間に危害を加える。

 だが、悪魔というのはまた悲しい存在でもある。

 神や天使であるのならば厳かな顔でもして人間に近づき、自らを拒否する人間には罰を与え、見所があるものには試練を与える。そしてどのような大虐殺であっても『神が行う事』には意味があり、誠実で敬虔と呼ばれる人であるほど、その存在を疑わない。

 

 しかし悪魔は最初から拒否される存在である。どんなに笑顔で近づき、人のために動いたところで彼らが悪魔であるというだけで嫌悪され、唾棄され、そして最後は負けることが確定している者たちと考えると、なんとも哀れな存在でもある。

 そんな『悪魔』と『人間』の中間である者……それがデビルマンの正体である。

 

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押山の監督作品。特徴的な作風が話題に

 

本作の欠点について

 

 では、この作品は何1つとして文句のない、欠点の見当たらない作品なのだろうか?

 残念ながらそういうことはない。

 そもそもデビルマンという作品自体が後半のトンデモナイ展開が伝説となっているものの、永井豪の自体が最初からガチッと物語を組んで計算して作るようなタイプの作家ではない。むしろ、その序盤自体はそこまで突飛なものではなく、さらに言えば原作の誕生から40年以上過ぎた現代社会においては、少し退屈に思ってしまう部分もあるのではないだろうか?

 

 また、この作品は原作5巻分をアニメ化していることもあり、その尺の短さというのは若干気になる部分もある。

 特に中盤に関しては相当走った部分があり、もっとタメが必要とされるシーンでおいても、それがなくて惜しい思いをしたこともあった。

 最初の方などはかなりのエログロなどで視聴者を引き込むのだが、序盤はそれ以外はそこまで特徴的なことは少ない。圧倒的なカタルシスがあまりなく、仮に本作がテレビアニメであった場合を考えたら、実は3話ほどで多くの人が脱落するかもしれない。

 湯浅政明とデビルマンという名前がなければ、これほどの作品であっても観る人は減ってしまうかもしれない。

 

 その意味ではテレビアニメの延長戦で考えるよりも、映画として考えたい。本作は1話20分として、約3時間ほどの上映時間を持つ映画と考えると納得がいくことも多い。

 では、そのような構成にしてまで描きたかったものは何なのか?

 それは紛れもなく後半に……特に終盤3話に込められている。

 

以下ネタバレあり

 

 

 

2 本作が描き出したもの

 

 湯浅政明の作家性とは何か?

 もちろん、あの特徴的な絵作りが1番だろう。アニメーションで勝負する以上、最も求められる資質は絵の作り方であり、キャラクターデザインや動きによってかなり特徴的な作品が多い。

 ではその物語性に特徴はなんだろうか?

 私は『誰よりも優しい物語』だと考える。

 

 2017年は湯浅政明がその存在感を強く発揮した年であった。『夜明け告げるルーの唄』『夜は短し歩けよ乙女』などの意欲的な作品を多く発表し、世界的な名声を獲得した年でもあった。

 そして近年では『ピンポン』『四畳半神話体系』などのテレビアニメを手掛けており『マインドゲーム』は今でも伝説となって語り継がれているほどである。

 もちろん、原作付きの作品も多くあり、その物語の全てが湯浅政明の作家性が発揮されているとは言わない。しかし、映像化するにあたってどのように改変したのか? という部分に目を向けていくと湯浅政明が何を考えていたのかわかる。

 

 例えば『ピンポン』は原作である漫画は当然のこととして、映画、アニメも傑作という稀有な作品である。尺の限られた映画は主人公たちによりスポットを当てて物語をスリムなものにしていたが、尺に余裕ができたアニメ版はさらに脇役にスポットライトを浴びせている。

 本来ならば負けてしまうかもしれない存在、忘れ去られてしまう、モブと称されるような人間たちに救いを与えているのだ。

 

 それは他の作品も同じであり、森見登美彦が描くモテナイちょっとダメな男の恋愛劇を愛を込めて描いた2作品や、人生の落伍者の救済と成長を描いた『マインドゲーム』に『キックハート』もダメな男が主人公の物語である。

 では、そんな湯浅政明が手がけたデビルマンはどのような作品なのだろうか?

 それはもちろん『誰よりも優しい物語』である。

 

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キリスト教の影響

 

 本作の根幹にあるものはキリスト教の考え方である。そもそも、悪魔と呼ばれるような存在を描くのであれば、キリスト教の影響は避けられないものになっている。もちろん、現代社会ではすっかり確立した概念ということもあり、キリスト教の影響が全くない作品も多く描かれてはいる。

 だが、本作は明らかにキリスト教の概念を元に描かれて居る。そもそも不動明の暮らす牧村家はキリシタンであり、4話の食事のシーンでは最後の晩餐が後ろに描かれている。さらに後半では荒廃する社会において宗教に狂った男も登場する上に、その終盤の戦いというのは世界の終末について描き、サタンが軍団を率いて神や天使と戦うというヨハネの黙示録をモチーフにしていることは、今更語るまでもないだろう。

 

 では、湯浅政明はなぜそのキリスト教の影響を色濃く残したのだろうか?

 それは本作における『悪魔』に複合的な意味合いをもたらすためである。

 前述したように、悪魔というのは負けることが決定している存在でもある。人間が根幹に抱えている欲、性欲であったり食欲だったりといった獣性に忠実な存在である悪魔が、理性を獲得して人間らしさを兼ね備えた存在。それこそがデビルマンである。

 

 そしてこれもまた言うまでもないことであるが、現代社会は『悪魔』との戦いであるとも言える。

 この悪魔をISとはじめとした過激なテロリストと呼び換えてもいいし、自分と相容れない思想を抱く存在だと言ってもいい。日本だって他人事ではなく、いつ北の国から黙示録のラッパの轟音が響き渡ってもおかしくはない状況でもある。

 

 しかし、永井豪や湯浅政明はこの悪魔を断罪するということはなかった。

 特に本作の中盤では悪魔であるはずのシレーヌが不動明を打ち負かす一歩手前までいっている。ここで発揮されているのは『愛』の力である。この『愛』というのは神の使徒であるキリスト教徒がよく使う言葉であり、その意味の1つにはアガペー、つまり神への愛を示すことからも、かなり宗教色の強い言葉であることがうかがえる。

 その愛を悪魔が発揮する……それはデビルマン、不動明もまた同じである。この描き方ができるのは、おそらく世界中でも日本人だけなのではないだろうか?

 

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悪と称される存在への祝福

 

 悪魔というはその名の通り、悪である。

 

 悪魔という存在が現実に存在するのであれば、それは紛れもなく正義の敵であり、全世界の人間が唾棄し、憎しみを持つに足る存在であろう。本作の中の人間たちはある意味では正しいのだ。悪を討伐する、それは誰だって納得することだろう。

 

 しかし、永井豪は、湯浅政明はそのような描き方をしなかった。

 本作は明らかにキリスト教の考え方を基にしておきながらも、その中で哀れな存在である悪魔に対する同情や救いを描いている。

 そして最終話の10話において、その愛は究極の悪であるはずの飛鳥了にも……悪魔の親玉たる存在にも理解された。

 バトンは繋がったのだ。

 

 

 牧村美樹は異端者であり、悪魔崇拝者であり、呪われても仕方のない存在である。しかしその可憐な容姿とは異なり10代の女の子に対する2つ名が魔女というのは若干強烈な印象を受ける。

 だが、魔女というのは悪魔と契約を交わすものだ。

 つまり『人間』である女性が唯一悪魔とつながることのできる存在でもある。

 最後まで自分が魔女であることを否定しなかったこと、それが牧村美樹が、不動明に対する最大の愛情なのではないだろうか?

 

 そして湯浅政明はそのような存在に対する救済を描いた。それは今まで人生の落伍者、恋に積極的にいけない者、敗北者、そして夢を追えない若者に対して向けてきた目とまったく同じものである。

 その圧倒的な優しさの目により、神すらも見放し、戦う存在となるべき悪魔や魔女に対する『赦しと愛』を描ききった本作というのは、まさしく湯浅政明のフィルモグラフィーとしてまったく違和感のないものとなっており、そしてその究極の作品となっているのではないだろうか?

 

 

 

 

3 実写版デビルマンと本作

 

 さて、ここからは少しだけおかしなことをしてみよう。

 私はこの作品がデビルマンの入門であり、原作はまだ読めていない。買いに本屋に3軒ほど回ってみたものの、置いていなかったり、1巻はすでに売れていて2巻からということもあった。やはりこの作品の影響もあってか、注目を集めているのだろう。

 

 なので、Netflixで配信していた実写版のデビルマンを鑑賞したのだ。つまり、私は湯浅版デビルマン→実写版デビルマン→原作デビルマンという順序でデビルマンを楽しむという、中々稀有な人間になるだろう。

 実写版デビルマンは、邦画史上最も叩かれている駄作の1つと言っても過言ではない。確かにその出来については否が多く並ぶのもわかる上に、原作ファンも、そうでない人も誰もが納得のいかないものなのかもしれない。

 しかし、中には見どころがある描写もある。

 

 例えば、本作のデーモンを狩るシーンというのはオウム真理教に対する弾圧を連想させる。

 2000年代前半の日本はまだまだオウム事件の余波が残っており、この時代で悪魔といえば狂信的な宗教だろう。これが現代であれば、おそらくテロリズムになる。

 オウムは確かに問題の多いにある宗教であるが、それに対する恐れのあまり、まっとうな宗教集団に対する弾圧が始まり、人間が人間を裁き始める……そういうことを裏のテーマとして描こうとしたのではないだろうか?

 

 しかし、ここである問題が生じる。もちろん、本作が相当難易度の高い作品であることもあるが、那須博之監督はこのデビルマン発表から1年ほどした後に肝臓癌で亡くなっている。おそらく、実写版制作中にそのことを知っていたのではないだろうか? 

 そして、その死期が近いこともあって、相当な焦りなどもあったのではないだろうか?

 この実写版の脚本を書いたのは那須博之の妻である那須真知子である。

 牧村家が襲撃された時、全く意味不明なシーンとして妻から夫に対して

 

 妻『浮気をしたことある?

 夫『浮気したことないよ』

 

 という会話がある。

 これは、おそらく死に向かう夫に対する、妻からの……夫婦の本音の詰まった会話なのではないだろうか?

 そう考えるとラストにある『私たちだけでも生きるのよ』というのは、愛する人を失い行く妻や家族が、その喪失感にどうなるかわからない心境を荒廃する大地として描き、その先にある人生に対する希望を……それでも生きるという決意すらも滲ませているようにも思える。

 

 そのようなプライベートな感情をデビルマンの映画に乗せるな! というお叱りも最もだが、この思いが作家性でもあり、私はそれを否定し、断罪することはできない。

 

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実写版の影響

 

 なぜ実写版まで鑑賞したのか? 

 それはTwitterで他の方の感想を見ていた際に『実写版デビルマンの影響がある!』という指摘の声を発見したからだ。

 そして鑑賞した結果……私は驚愕し、感動した。

 

 まず、オリジナルの設定としてよく挙げられている陸上部の設定は実写版で存在しており、他にも感動的な9話のラストのバイクのシーンというのも、実写版の序盤でも2人乗りで海岸沿いを疾走している場面がある。

 またパパラッチの長崎であるが、本作の元になった存在と思われるストーカー? は実写版にも登場している。

 そして偶然かもしれないが作中ではラップも登場しており、おそらく湯浅は冗長になる可能性も考慮した上で、そこからラップの演出を取り入れたのではないだろうか?

 

 前述のように、湯浅政明は『誰よりも優しい』監督である。

 そして同時にその作品に対する敬意も多く持っており、過去の原作付き作品において、その世界観を全否定したり覆すこともなく、原作を生かした上で自分の作家性を発揮していった監督でもある。これは当然のことのようで、実は難しいものだ。

 しかも、実写版のデビルマンというのは否定したところで誰も文句はないどころか、それを大いに喜ぶものであろう。

 しかし、湯浅はその実写版の要素を取り入れている。

 

 

 実写版デビルマンというのは『デーモン』である。

 どれだけ馬鹿にしても、叩いても文句の出ない存在であり、むしろ称賛する側が馬鹿にされるような作品かもしれない。そんな存在に暴言という名の石をを投げつけて、晒し者にしているのが観客であり、ネット民である。

 しかし牧村美樹は……湯浅政明は、その『デーモン』に対する愛を示し、それすらも内包し、バトンを受け取り、昇華して次へと引き渡すという偉業を成し遂げている。

 湯浅政明はデーモンと合体することを選んだ『デビルマン』であり、『牧村美樹』でもあるのだ。

 

 だから、私もこれだけは言わせて欲しい。

 実写版デビルマンは確かに酷い作品かもしれないが、本作を鑑賞し終えた後に1度だけでも鑑賞してください。

 那須監督が何をやりたかったのか、湯浅政明がどこに注目したのか、笑うだけではなくて、ちょっとだけ考えると見えてくるものがあるのではないでしょうか?

 それが、本作に感動した一人の視聴者ができる最大限の感謝でもあると思います。

 

 

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あの名台詞がカットされた理由について

 

 感想を一通り眺めていると、やはり不満点として多いのは『これが人間の正体か!』という名台詞をカットしたことである。私は前述のように原作を読んではいないが、さすがにこれだけの名台詞は当然のように知っているし、それだけ不満を持たれるほど力を持つセリフであることも重々承知しているつもりである。

 だが、それでも私は思う。

 この作品に、そのセリフは不釣り合いなのではないか? と。

 

 その前において、美樹は人の可能性を信じた。その愛を、世界が変わる瞬間を望んだ。そしてそれもまた『愛』であり、『人間』の行いなのだ。

 悪魔のような所業を起こすのも、平和を祈り誰かを愛するのも、人を信じるのも、その全てが人間らしい行動なのである。

 

 この作品を作る際に、当然のようにセリフの取捨選択はしたはずである。そしてこの名台詞を入れるかどうかは、考えたに違いない。

 しかし、それでも湯浅はこのセリフをカットした。

 それは『人間を信じたから』からではないだろうか?

 

 

 

 

4 インターネット配信で公開される意義

 

 私が本作を高く評価する理由の1つとして『インターネットでの配信作品』ということがある。

 もちろん、これはNetflixオリジナルだから、という意味ではない。進歩的な表現であったり、新しい表現方法、発信手段を考えている湯浅政明らしい発想ではあるし、この試みもこれから先の日本アニメ界を語る上では重要になってくるであろうが、ここでは社会的、収益の面では語らない。

 

 作中で牧村美樹はネットで多くの愛を告げている。

 これは現代におけるインターネットの影響力を考えるとあって当然のもののように思えるかもしれないが、私は9話のこのシーンで涙を浮かべた。そしてその後の展開で、多くのゴチャ混ぜとなった感情を抱いた。

 なぜあのSNSのシーンがあれだけの長い尺で、感動的に描かれたのか?

 それは湯浅政明が最もそのシーンを伝えたかったからであり、この作品の本質はそこにあると考えたからではないのだろうか?

 

 この時の牧村美樹というのは、今の湯浅政明と同じなのだ。

 世界中に湯浅政明は語りかけている。

『デビルマンを信じることはできませんか?』と。

 しかし、牧村美樹はその後にどうなるのだろうか?

 世界では本作が描いたことが受け入れらない国もあるのだ。

 この言葉を世界中に向けて、同時に発信した時に、もしかしたらとてつもなく悪意のある言葉や行動が返ってくるかもしれない。それでも、それを恐れずにこの物語を発信したこと、その意義を思うと、私は涙が溢れてくる。今日には、明日には、もしかしたら辛い反応があるかもしれない。

 日本だけであるば、反応は違うかもしれない。

 それでも、湯浅は世界同時配信でデビルマンを描いた。

  

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走ること、その意義

 

 『走るシーンのある作品は名作になりやすい』ということはよく語られており、青春映画の場合はアニメ、実写に問わず走るシーンは多い。しかし、そのような技術的なものではなく、本作には走るシーンを描く必然的理由があった。

 本作は走るシーンが非常に魅力的に描かれている。人間とデーモン、そしてデビルマンの違いを表すのにも『走る』シーンが多用されている。

 牧村美樹は度重なる暴力に対して、逃げることを選択した。立ち向かうでもなく、戦うかでもなく、逃げる。ただただ走って逃げることを選択した。そしてその先にある思いを、バトンを不動明に渡すことを選んだ。

 

 

 これは湯浅政明の思いそのものではないだろうか。

 その先がまるで希望のない地獄だとしても、それでも走り続ける。そのバトンを渡す、希望を伝え続ける。それこそが表現であり、本当に伝えたいものなのではないだろうか?

 

 あの神回という言葉すらも軽く思える圧倒的な思いを伝えてきた9話において、湯浅政明や音楽の牛尾憲輔、そして永井豪のクレジットがある。私はどの群衆が彼らなのかはわからないが、おそらくあのシーンであろうな、というのはなんとなく想像できる。

 EDクレジットロールにある、演出、作画監督、サブキャラクターデザインだけでなく、一人しか名前のない原画担当である小島崇史。

 この回において1986年生まれの、まだ30と少しという非常に若い才能に対して、湯浅政明や永井豪は表現者の先輩として、そのバトンを引き渡したのではないだろうか?

 もちろん、それは小島だけではない。押山清高や倉島亜由美、4話で一人原画で仕上げた霜山朋久などの本作に関わった、これからさらなる傑作を作り上げるであろうスタッフたちに対する思いが、この作品には溢れているのではないだろうか?

 

 

 

最後に

 

 私がいつも口癖のように書く言葉が『物語とは祈りであり、願いである』ということだ。

 こうなって欲しいという願い、彼らが救われて欲しいという祈り、そしてこんな世の中になって欲しい、こんな世の中を変えて欲しいという思い……それらが物語となり、多くの人の心に響く。

 湯浅政明の作品には、その祈りや願いが溢れている。もちろん、その卓越した表現手段が大好きで注目している人も多いだろうが、私などはそれ以上に、ごく単純に湯浅の描く物語が大好きなのだ。

 

 1つ言っておきたいのは、この作品が今後高い評価を受けたとしても、それはNetflixが自由にエログロを描かせてくれたからではない、ということ。あの9話は確かにトラウマになるほどの衝撃があったのだが、それでも私はそこに救いすら感じた。

 EDやスタッフロールはいつも飛ばせるNetflixにおいて、スキップされないように特殊エンディングを入れた意味を考えて欲しい。あの最後の、2人がバイクに乗って、太陽に向かって走り行く中、静かに目を瞑る美樹の表情を見て欲しい。その思いを考えて欲しい。

 

 本作の魅力はエログロではない。

 それはあくまで表現手段でしかない。

 その奥にある、願いと祈りに、湯浅政明の思いに目を向けて欲しいと祈りながらこの記事を書き終えるとする。

 

 

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