今回は再上映もあり、記事リクエストもあった『もののけ姫』を扱っていきます
実はこのブログで宮崎駿作品について語るのは初めてなんだよな
カエルくん(以下カエル)
「実は、うちは世間ほど宮崎駿を絶対視していないというか……アニメーション技術に関してはもちろん天下一品と思いつつ、脚本とかは甘くない? と思っています」
主
「脚本家としての宮崎駿の天才性は、実はあまり脚本でも絵の力でなんとかしちゃうところ。そこが本当に天才だね」
カエル「あと、うちの映画評は基本的に宮さんのライバルとも呼ばれる押井さんの影響を多大に受けているので、その影響もあるかもね……」
主「うちの記事を読むより、押井さんの著作を読んだ方が100倍役に立ちますよ、とは最初に語っておきます。
今回もそこそこボリューミーでした。
それでは、記事のスタートです!」
感想
それでは、Twitterの短評からスタートです!
#もののけ姫
— 井中カエル@物語るカメ/映画・アニメ系VTuber(初書籍発売中!) (@monogatarukame) 2020年6月28日
宮崎駿作品の中でも映像・テーマなどの密度がとても高くて濃い、その意味では最高峰の作品といえるだろう
日本を代表するクリエイターに莫大な予算をつけるといかに素晴らしい作品が出来上がるか、よくわかる
日本の語られざる歴史を語ろうとする試みもあるが子供には苦しいか pic.twitter.com/j2ZvIGMeSm
宮崎駿作品の中でも、屈指の出来であり最高傑作ではないでしょか
カエル「もちろん、スタジオジブリ作品、特に宮崎駿監督の作品は人によってベストが異なると思います。
うちとしても、宮崎作品で1番好きなのは『紅の豚』ではありますが……
でも、やっぱり冷静な目線で見ると最高傑作はもののけ姫になるのではないでしょうか?」
主「宮崎駿のピークだとおもうんだよ。
それくらい映像の緻密さ、テーマ性などの要素が深くて密度がある。密度がありすぎて、観ていて疲れるほどで……みんなジブリ作品だから観て高い評価をしているけれど、この作品は子供向けアニメ映画としては成立していない」
カエル「……多分、記憶にあるうちでは子供の頃に初めて観たのは『もののけ姫』だったんじゃないかなぁ。
でもあの当時、この作品が理解できましたか? と問われると、何もわからなかった気がする……」
主「Twitterでも話題になったけれど”鈴木敏夫がアメリカで配給する際に、カットを求める声に反対した”という話があるけれど、個人的にはアメリカ側の言い分もよく分かる。
子供の頃に観たとき、腕が飛んだり首が飛んだりする描写が普通に出てくるじゃない?
あそこまでグロテスクな描写を子供に見せるのは、議論の余地があるのではないだろうか」
そして何と言っても、本作はジブリ作品最後のセル画アニメと言われています!
おそらく、セル画アニメとしては世界最高峰の技術力を結集であり、ある種の文化の集大成と言っても過言ではないかもしれない
カエル「一部ではデジタル配色なども使われているようですが、基本的にはセル画などで使われています。14万枚にも及ぶ驚異的な作画枚数を誇る作品でもあります」
主「これは言葉にならないんだけれど、セル画とデジタルって何が違うの? と言われると難しい部分があるけれど、味わいというか、感覚が異なるんだよねぇ……これを説明するのができないんだけれど。
自分も今回映画館で鑑賞した時に、何度も観ているはずなのに冒頭のアシタカがヤックルと共に森を駆け、村に辿り着いたシーンでも思わず『うめぇ……』と呟いたほど上手かったんだよ。
それほどまでの完成度。森林の濃さ、文化の描き方なども含めて、全てにおいてパーフェクト。
本当にすごいよね、作画力を疑う人はいないんじゃないかなぁ……」
失われた歴史を語りなおす
もののけ姫の物語を簡単にまとめると、どのような意見になるの?
日本の隠れた、あるいは失われた歴史を描こうという意図だろう
カエル「えっと……失われた歴史というと、ここからは少し差別的な用語も出てくるかもしれませんが、あくまで学術的な意図や描いていることを解説するためであり、決して差別的な意図があるものではありません」
主「我々が普段、学校で歴史を学んだものというのは、実は歴史の一部でしかない。それは天皇を中心とした大和政権の歴史であって、それが全てではないし、それ以外にも様々な歴史があった。
日本は特に歴史を示す資料……例えば文字で書かれた歴史書、思想書などが多いと言われている。
だけれど、それは中国から輸入した言語を持っており、それを基にした日本語が今でも一般的に使われているけれど、実はそのような言語とは無縁の民族や歴史というのもあるわけだ」
カエル「それを語りなおそうという話だと?
それって、結構大変なんじゃないの?」
主「めっちゃ大変だよ!
そもそも、アニメって映像を全て設計しなければいけない。しかも、この映画が凄まじいのは”知られざる歴史を描きなおす”という点であり、それらは歴史的資料が豊富なわけではない。その中でも、文化や生活を調べあげ、中には想像し、それを蘇らせる……
場合によっては差別的だと言われるかもしれない。自分もこの記事を書くのは結構ドキドキなんだけれど、それをしっかりと描きつつ、自分のテーマを表現しきった。
さすがは日本を代表する、本物のリベラルだよ」
この試みを解き明かす時に重要な発言が『ファンタスティック・プラネット』の宮崎駿評にあった『土着的なものを描く必要がある』というものでしょう
その意味では、初めて”日本という国”を描こうとした宮崎駿作品じゃないかなぁ
カエル「『カリオストロの城』『ナウシカ』『ラピュタ』『魔女の宅急便』『紅の豚』などは、やっぱりヨーロッパ的な世界を基にしているよね……
一応『となりのトトロ』が日本的な舞台と言えるけれど……」
主「もちろん、トトロはちゃんと日本的な部分や生活を描いているけれど、あのレベルであれば『ゲゲゲの鬼太郎』などもあるわけだ。それこそ高畑さんの『ジャリンこちえ』とかさ。
そういうレベルではない、もっともっと土着的な……つまり日本の文化や歴史に根ざした作品となると、この映画が突出しているだろう。
日本文化を描いたというと、その後に作る高畑さんの『かぐや姫の物語』などもあるけれど、エンタメ性も兼ね備えた今作もとても素晴らしい。
その意味においても特別な作品であり、日本の歴史をしっかりと語りきった点も含めて、傑出した作品なのは間違いないな」
声優問題について
ちなみに、本作から本格的に声優陣が顔出し役者ばかりになったんだよね
ほとんど本業声優が使われなくなったんだよなぁ
カエル「ここに関しても色々な意見があるでしょうが、改めて鑑賞してどう思った?」
主「意外と思っていたよりは悪くはないよなぁ……
だけれど、やっぱり本業声優を使った方がいい場合もあるねって印象。
特にエボシ役の田中裕子の演技は、あれだったら小山茉美か、もしくはまんまクシャナ様になるけれど榊原良子で良かったじゃんって。それくらい演技が似ている。参考にしたのかもしれないけれど。
それと、誰もが絶賛の美輪明宏の演技も評価が難しい部分がある」
カエル「”圧巻の演技!”という声も大きいけれど、同時に作品を壊しているという評価もあるよね」
主「あの演技が保ったのは、それこそ宮崎駿作品の絵の力があったからで、普通ならぶっ壊れている。それこそ榊原良子だったら、似たような迫力を出しつつ作品と調和する演技を披露できるだろう。
また、石田ゆり子はさすがに演技が不安定だったのが気になった。
彼女のもののけの姫としての姿と、人間の狭間で揺れている演技と評価することもできるけれど……
松田洋治、小林薫、西村雅彦などは良かった。
だから、芸能人だからどうこうということは中々言えない。結局、本業声優が良いって言う人の声だって、本業声優に詳しくて思い入れが強いからなんじゃないの? って時もある」
カエル「ちなみに、宮崎駿監督は本業声優について色々と語っていますが……」
主「本音は興行的な理由なんじゃないのかなぁ。
媚びすぎって言うならば、それは演技指導の問題だろう。
なんだかんだで日本のアニメって、制作もファンも求めるのが一面的な演技の場合も多く、幅広い役を演じる場が少ないから、似たような演技になってしまう。それをどうにかするのが監督・音響監督の仕事であり、それを演者の癖の責任にするのは違うんじゃないの? とは思うけれどね」
作品解説
日本の歴史書に残りづらい歴史〜アシタカの正体〜
では、ここからは作品解説になっていきます!
歴史書に残りづらい歴史について語っていくことになるな
カエル「まずは、アシタカについて語っていきましょう」
主「これもよく語れているんだけれどさ……おそらくこの時代は鎌倉〜室町辺りだろう。武士の姿や戦い方などを観ても、戦国より前なのは間違いない。
で、アシタカたちはどういう人なのか? と言うと、アイヌとかの原型になった民族で、ヤマト政権に追放された人たちの末裔だろう」
カエル「蝦夷の一族という話もあるよね」
主「その辺りは専門家に任せるとするけれど、明らかに大和政権などとは文化が違うのは浮き彫りなわけだ。
ここで重要なのは、割と序盤に出てくる市のシーンだろう」
カエル「アシタカが米を買って、その代金に砂金を支払います。それに対して『銭は!?』と怒られますが、ジコ坊が間に入るシーンだね。
僕は昔観たとき……というか、割と最近まで”アシタカは無価値のものを代金がわりとして出し、ジコ坊はその詐欺の片棒を担いだため、市の人に追いかけられた”と解釈していました」
主「その可能性もあるけれどね。
おそらく、アシタカは本物の砂金を出した。
その価値も……ジコ坊が盛った可能性はあるけれど、それでも商人にとっては悪い話ではなかったはずだ」
あの時代って、貨幣制度が浸透しきってはいない時代でもあるんだよね
価値観が多様化すると、物々交換は成立しづらくなってしまうわけだ
カエル「昔は物々交換と言っても、ある程度物の価値って決まっていて……それこそ貝、布、米、砂金などが交換でよく使われるのかなぁ」
主「鎌倉、室町時代あたりは貨幣制度はあるんだけれど、それが浸透しきっていなくてまだ物々交換の文化があったんだよ。
だけれど、お金という共通の価値がある物がない場合、物々交換の価値を語るのは難しい。
それこそ今の時代も同じで……例えば高級車があったとしても、車の免許を持っていない人には車そのものの価値がない。だけれど、その車が例えば1000万円だとしたら、資産としての価値がお金を通してあることがお互いに理解できる。これが2万とかならば、単なる邪魔な大きな置き物になってしまう訳だ。
その貨幣制度がありつつも、浸透しきっていない時期ではあるわけだ。
ここで重要なのは”市”という場所だな」
カエル「つまり、アシタカは大和政権が生み出した貨幣制度に無縁の存在であることの強調だね」
主「そういうこと。
独自の価値観で動いていることを示唆しており、大和政権から外れた民族であることを強調しているんだ。同時に、ジコ坊の服や食器に比べると、明らかにアシタカが持つのは真っ赤な美しいものだった。
つまり失われた文化、技術が決して今の勉強で覚える大和政権の文化・歴史に劣るものではないことを示している。
ここだけでも、この映画の力強さや語ろうとしているものの重さが伝わってくるわけだ」
タタラ場の人々とモノノケの姫
次に語るのはエボシなどのタタラ場の人々だね
ここは日本の失われた歴史でもあり、もう1つのルーツとも呼ばれるサンカの人々が絡んでくる
カエル「色々と研究がされているものの、文献などが少ないことで色々な語り方をされる人々でもあります。
共通するのは定住する地を持たず、放浪する民で狩猟などで生計を立てていた人々という点でしょうか。
時には被差別民族の流れでも語れますが、今でも多くの作品で暗に示唆するものもあります。
タタラとサンカでいうと、桜庭一樹の『赤朽葉家の伝説』などは特に優れた小説だと思います!」
主「本当に色々な語られ方をしていて、自分が初めて知ったのはサンカはタタラも行っていたという話なんだよ。おそらく、もののけ姫の舞台は中国地方なんだろう、タタラ文化もあったし。
サンカのルーツは大和政権とは異なり、中国から朝鮮半島などを経由してやってきたとか、火を巧みに使い製鉄を得意としたなどの話を聞いたことがある」
文献が少ないということもあって色々な説があるようで、もっとちゃんと調べてみたい部分でもあるよね
当たり前のように描かれているけれど、戦国時代の鉄砲伝来以前の時代だと思われるのに鉄砲があるのは、彼らが特殊な製鉄技術を持っていたからだろう
カエル「劇中でも明の鉄砲は……みたいなことを語っていたし、サンカやタタラが中国大陸や明がルーツとされていたり、交流があったという話だよね」
主「同時に、タタラの民たち、特にエボシがこの時代では異例ともいえるほど神を恐れない人なのは以下の点からも分かる」
- シシガミの首を取ろうとする
- 女性に鉄鋼の仕事をさせる
- 帝からの手紙と理解しつつも、そこに価値を見出していない
- 疫病患者(ハンセン病)を手厚く保護する
カエル「もちろん、神であるシシガミを全く恐れないだけでなく、金屋子神は女神のために他の女性に嫉妬するため、信仰するタタラ場などの鍛冶場では、伝統的に女性は立ち入りが禁止されているんだよね。
だけれど、それを気にしないで女性である自らのみならず、他の女性たちに製鉄をさせているし……」
主「またさ、ジコ坊が帝からの手紙を持ってきた時、近くにいた娘に読ませて『よくわからない』と笑い飛ばされている。これって今でも伝わると思うけれど、天皇からの手紙を『理解できない〜♩』っとゲラゲラと笑い飛ばすって、けっこう大胆な表現だよ。
この手の描写から、エボシが神だけでなく、帝やその土地の支配者……武士すらも恐れず、疫病すらも恐れず、何も恐れないという豪胆を通り越して、もはや異常とすらいえる人間だということを示している。
だけれどそれは、エボシたちが大和政権などとは全く異なる文化をもち、鉄砲というあの時代において強力な兵器を有している実力のある勢力だったことが背景にある。
つまりタタラ場とは
- 大和政権と距離がある
- ハンセン病などの患者・遊女などを問わず受け入れる
などのような、サンカも含めて日本の文献や歴史に残らない人々のコミュニティとして成立しているわけだ」
ジコ坊、唐傘連
そしてジコ坊などの唐傘連とかって、どんな存在なの?
彼らは……帝などの命を受けて動く、特殊な人たちだ
カエル「いわゆる”非人”と呼ばれる人だよね。
”人に非ざる”というと、かなり強烈な印象を与える言葉だし、江戸時代以降は強烈な差別を受ける人々という印相もありますが、室町時代などはその意味合いは薄かったようです。
”人に非ざる”というのも、神や仏に事えるなどの意味もあり、人の世から離れた者という意味などもあったようです」
今回の参考文献はこちら
主「非人は、鎌倉、室町ごろは天皇や公家に事える人々であり、一種の職人や芸人などが該当していた。
確かに穢れという概念からすると、汚れ仕事をやっていたこともあって印象はよくないかもしれない。
芸能人に対する印象もそうで、ちょっと前まで芸人というのは、職業としては下等なものだと思われていた部分もある。上岡龍太郎などは『芸人はヤクザと一緒』なんて言っていたけれど、これは江戸時代以降の価値観に根付いているともいえるし、お笑い芸人はその地位向上のために特にここ数十年は動いてきた感もある」
カエル「作中でも”シシガミ退治”なんて、生き物を殺傷すること、さらに神を相手にすることで、最も穢れが多そうな仕事ではあるよね……やり方も非常に問題があるように見えるし……」
主「だけれど、当時はもう1つの考え方があって”穢れ”を扱うのだけれど、同時に”清目”るんだよ。例えば動物の皮などをなめすなどは、殺傷行為をもたらすから穢れているけれど、同時にそれらを清める行為でもある。
革製品は絶対に生活に必要なわけだしね」
汚れ仕事のようでありながら、帝や公家の口利きにより関所を通過する通行手形を受け取るなど、制度上の優遇措置を受けていたり、宗教的な尊敬を受けていたんだね
だからジコ坊もやんごとなきお方の手紙をもち、行動をしていたんだよ
カエル「一体、その目的はなんだんだろう?」
主「多分、以下の辺りじゃないないかなぁ……」
- 神や天上人として邪魔なシシガミを退治したかった
- アサノ氏と結託し、タタラ場の戦力を裂きタタラ場を制圧したかった
- 単なる大きな獣を討伐する命令
カエル「正確なことはなんとも言えないけれど、ジコ坊はとりあえず上の意向を聞き入れて、行動するという……まあ中間管理職みたいな立場なわけだ」
主「まあ、そんなところかなぁ。
ジコ坊はすごく人間臭いながらも、恐ろしい存在なのは目的のためならば手段を選ばない存在だから。
だけれど、お上の汚れ仕事をやるからこそ世間の面も裏も知り尽くしている。それが人間的で複雑な魅力を与えているわけだ」
シシガミのいた森〜都市と自然の対立〜
ここにシシガミやモロなどの山の主が結びついていくわけだね
この作品は結局は”都市と自然の対立”でまとめることができる
カエル「ここでの都市というのは、少し皆さんが思うものと違うかもしれません」
主「都市とは”大和政権の考え方、価値観”のことを指す。
実はこの映画に出てくるものは、全て自然や田舎の存在なんだよ。
- 大和政権に追い出されたアシタカの一族
- タタラ場の伝統とサンカ、ハンセン病などの伝染病患者
- ”穢れ”を扱うジコ坊
- 深い自然の森と主、山の神
これらのものは、実は日本の失われてしまった歴史、語られざる日本の姿である。
その意味でこの映画に出てくるほぼすべての要素は、自然、あるいは田舎と考える。
そこに近代に繋がる考え方の源流を持つ大和政権……アサノ氏や帝が襲来し、それらの全てを壊していく。
だけれど、日本にはこんなに素晴らしい歴史があったんだ、と語るリベラルな知識人らしさ全開の作品であり、宮崎駿や高畑勲などが持つスタジオジブリの根本的な理念の1つである、自然賛歌に溢れた作品でもあるわけ」
言葉はあれだけれど、宮崎駿監督とかの自然称賛の考え方ってグレタちゃんみたいなところがあるよね……
何回もいうけれど市での物々交換のシーンというのは、とても象徴的なんだよ
主「つまりさ、貨幣制度という現代に繋がる制度が一般化してくるのが室町時代だと言われている。そう言った都市的ともいえる近代的な価値観では説明されないと砂金の価値を理解しないように、日本の古来から持っていた価値観の多くを葬り去った。
タタラ場やジコ坊も確かに都市の存在に近いものがある。
自分は半都市的だとも思う。
だけれど、彼らもまた歴史の中で差別されていってしまう存在になっていく。
そしてアシタカは半都市であるタタラ場に残り、失われていく自然に残るサンと微妙な関係で終わる……それが『もののけ姫』が語った日本の失われた歴史と自然の物語の決着だ」
宮崎駿の自意識?
本作は”アシタカ聶記”というタイトルにしたかったという宮崎駿の話もあるよね。鈴木敏夫が最後までもののけ姫で通したというさ
いや、絶対に”もののけ姫”の方がいいタイトルでしょう……
主「天下の大監督にこんなこと言うのはなんだけれど、本当にアニメーション以外の部分だと実は結構ダサいよね……
時代が違うから仕方ないのかもしれないけれどさ」
カエル「ズバッと言い切るね……で、長くなったこの記事でどうしても語りたかった、このパートって何を話すの?」
主「結局さ……この話ってアシタカが超絶イケメンムーブをかまさないと成立しないよなぁって」
カエル「冒頭の婚約者との関係といい、サンとの関係といい、割と港港に女ありって感じのイケメンムーブをかましているよね」
主「ぶっちゃけ、タタラ場を襲撃したサンをアシタカが救う理由も訳わからんのだよ。
別にあの時にサンには顔を見ただけだし、別にその後のことを考えると殺さず主人公でもない。
あれを解釈するならば……一目惚れしたいい女とよろしくやりたいから助けました、というのが一番納得する」
助けた理由を提示しないで、絵だけで納得させるのはさすが天才という感じもあるけれど……
自分の感覚としては、宮崎駿があそこまで完璧なイケメンをだしたのって初めてじゃない?
カエル「『ルパン三世』『未来少年コナン』も主人公気質ではあるけれど、イケメンとは違うよね……
しいているならば『ナウシカ』のユパ様だけれど、おじいちゃんだし……『紅の豚』も、結局は豚だしね。超イケメンだけれど」
主「なんかさ、宮崎駿作品は男主人公の場合自分を投影している気がするんだけれど、『紅の豚』以降はある程度かっこ悪い面、コミカルな面もあったのが一気にその意識が外れていったような気がする。
そう考えると、実はなろう系主人公に近いような、自己の理想を投影するものがあって、オタク的な感性がある。
恋愛感情を知らないピュアなお姫様に好かれる自分、みたいなさ。ピュアっピュアな恋愛観。
だけれど、当然アニメーションに対して深い知識と洞察力があるから、それが目立たなくなっている。
高畑さんは本当に先生みたいな人だから、全部理詰めでそういう意図は感じない。特にジブリ作品はそう。
だけれど宮さんの場合、やっぱり自分の意識の投影があって、その辺りが芸術性とオタク的な娯楽性を兼ね備えている。
簡単にまとめると、聖なる感覚と俗な感覚が同居しているとうかさ。
それが人気の秘訣なのだろうね」