今回は『しん次元!クレヨンしんちゃんTHE MOVIE 超能力大決戦 とべとべ手巻き寿司』の感想記事になります!
公開からだいぶ空いての記事になるな
カエルくん(以下カエル)
実は公開初日に観に行きましたが、今まで記事がアップできずにいました
主
書いてから今まで寝かせてしまい、約1年かかりましたがアップします
カエル「……何で置いておいたのかは、端的にいうと後半がしんちゃん映画とは、全く関係なくなってしまったからですね」
主「これはいらないかなぁ…と思いつつ、今回は完全版としてそのままアップします」
まあ、それはそれとして、結構レビュー評価が荒れていた作品ではあるよね
公開初日の初回に観たときはここまで荒れるとは思っていなかったかなぁ
主「白組の国民的アニメの映像化って、荒れやすい印象があるけれど今作もそうなっちゃったね。
この記事は全体的に擁護記事になるので、酷評記事が読みたい方は他の方の感想を読んだ方がいいです。
自分はそこまで悪いとは思っていないので」
カエル「では、早速記事をスタートしましょう!」
感想
それでは、Xの短評からスタートです!
#しん次元しんちゃん
— 井中カエル@物語るカメ/映画・アニメ系VTuber(初書籍発売中!) (@monogatarukame) 2023年8月4日
うん、良かった
予告で見せたテーマをそのままにしんちゃんワールドを展開しながらもちゃんと大根仁の映画になっていました
劇場内のちびっ子の笑い声も響いていたし初めてのCG作品としては白組効果もあり十分満足できる作品です pic.twitter.com/6fMF4Sb2Ki
まさか、ここまで非難轟々になるとは……!
カエル「初の3DCGということで注目を集めている作品ではありますが……これがなかなか賛否両論の作品になっているというね!
特に物語面や後半のメッセージ性について、言われている印象が強いかなぁ」
主「う〜ん……自分としては可もなく不可もなく、といった評価なので、ここまで荒れるとは思わなかったかなぁ。手堅いというとニュアンスが異なるけれど”まあそうなるよね”ってレベルに収まっていると感じた。
コメディ描写に関しては相性もあるから、滑っている部分もあったけれど……でも、ファミリーで楽しむということはできる作品に仕上がっていたと感じただけに、世間評判の悪さは正直、意外な評価だったかな」
物語については、これからかなり語っていくことになるね
たださ、実は色々と配慮はされている作品なんだよ
カエル「クレヨンしんちゃんって、やっぱり児童虐待とかセクハラ描写に厳しい現代では、なかなか難しい題材だよね……」
主「今作が海外展開も視野に入れているとは思うけれど、児童虐待や児童の性的な描写には、それなりに気を遣っている。
例えばしんちゃんがお仕置きされるシーンでは、みさえの頭グリグリをするけれど、児童に痛みを与えるのではなく、ジャイアントスイングのように振り回してしんちゃんが楽しむ描写を入れる、とかね。
今回お尻ぶりぶりもズボンのままだったはずだし、児童の描写に関してはかなり慎重になっている印象だ。
それがいいのか悪いのかは、また別の話だけれど……クレしんそのものが色々と難しい作品であるということは、この記事の前提として話しておきたい」
アニメーション表現について
今回はしんちゃん初の3DCGだったということですが、そのアニメーションについてはどうでしたか?
詳しくはこちらの外部記事に書いているので、参考にしてみてください
カエル「簡単にいうと、初の3DCGということもあって色々な挑戦があったけれど、それも一定の評価を得るだけのクオリティになっているのでは? ということですね」
主「あくまでも”初めての”という注釈がつくけれど、シリーズ初の3DCGの映像表現でこれだけのものができれば、十分な出来だったよ。
さすが白組の技術力だ。
しんちゃんシリーズというのは、手書き表現の自由である種キテレツな表現が持つ魅力を最も発揮したシリーズの1つと言える。その抽象度が高くて難しい作品に挑んだことでも評価できるし……さらに初のCGであっても無気味の谷に入らず、しんちゃんとしてキャラクターの違和感をあまり指摘されていない状況は、素晴らしい結果と言えるのではないだろうか。
今作は映像面について……もちろん課題や改善点があるだろうけれど、初のという注釈付きでよければ、十分褒めるべき作品に仕上がっている」
物語面について
賛否が割れている物語面についてですが……ここはどうだったのでしょうか?
ある程度は許容できる範囲内だし、やろうとしたことの意義はよくわかるかなぁ
カエル「今作は特に物語面で指摘が多くて、かなり否定的な意見が相次いでいる印象です」
主「でも、個人的にはわかるというか、やろうとしたことは良かったと思うんだよね。
敵役である非理谷充が30歳で、しんちゃんがほぼ30周年に近い作品だから『しんちゃんがそばにいるよ。あなたを助けてくれるよ』というメッセージ性そのものは、意図としてよくわかるし、長期続いたシリーズものらしい。
それに社会的な問題そのものも……ここは後々に語るけれど、それを語ろうとしたことに関しては理解できるし、その意気は買う、といったところかな」
じゃあ、どんなところが問題だと思うわけ?
描きたいことが暗喩ではなく、直喩になったことかな
カエル「暗喩ではなく、直喩?」
主「社会的なメッセージ性とかを直接的に語りすぎているのが荒れてしまった原因だと感じている。
物語は暗喩が使えるのがとても効果的なわけで……変な話に聞こえるかもしれないけれど、観客全員がそのメッセージに気が付く必要はないんだよ。
観客の3割がそのメッセージに気づくくらいがちょうどいいのかもしれない。
だけれど、今作は真正面からそのテーマを描いてしまったからこそ、多くの人の中で違和感を生じてしまった。
社会的なメッセージを強くしすぎた弊害かな。実はしんちゃんはそのバランスがとても上手いシリーズだったので、今作はそれが惜しいけれど……でもしんちゃん初挑戦のスタジオ&監督・脚本だから仕方ないといえば仕方ない。
その辺りは映像表現にもでているけれど、映像表現については後半で語るとしよう」
語りすぎな脚本について
一方で「セリフで語りすぎでは?」という意見もあるようですが……
ここは、自分も同意だけれど、でも大根監督の気持ちもわかるかなぁ
カエル「結構重要なこととかを説明するセリフが多くて、そこがノイズになったというレビューも散見されるね」
主「その意見自体は自分も同意だし、さすがに語りすぎだと感じたし、それがこの映画の賛否両論につながっている一面はあるかもしれない。
ただ、それもなぁ……大根監督ってアニメでは脚本を担当した前作の『打ち上げ花火、下から見るか?横から見るか?』が、あれだけ荒れたじゃない?」
打ち上げ花火〜は大根監督が「アニメの脚本は説明しすぎだ」という思いを元に話が作られているんだよね
だけれど「意味不明」という評価も山ほどついている
主「いや、うちは今でも『打ち上げ花火〜』を大絶賛ですよ。劇場で3回かな? 観て3回とも絶賛級だったから、多分評価は揺るがない。
だけれど『打ち上げ花火』があれだけ言われてしまうと、色々と考えてしまうんじゃないか」
ましてや、今回はちびっこも来るファミリー向け映画で、しかもクレヨンしんちゃんだから、相当わかりやすくしようという意図が働いたと思う
主「もしくは、大根監督が抱いていたアニメの脚本像がこれなら、確かに語りすぎだね。
ただなんのアニメを参考にしたのかは気になるけれど……今時、ここまで説明するアニメもそこまで多くないし。
まあ、本来は脚本と映像の両面で情報量のコントロールがなされるべきではあるけれど……3DCGは大根監督も専門外の映像分野だろうし、ましてや組むのも初のスタジオだろうし、その辺りのコントロールは相当難しかったんだろうな、とは邪推できるかな」
以下ネタバレあり
作品の問題点
白組の問題点・課題 作品の根幹たる思想性がないこと?
では、ここからはネタバレありで語っていきましょう!
まずは白組の問題点について語っていくとしようか
カエル「CGアニメーション技術に関しては日本屈指とも言えるけれど、その白組の弱点というか、課題はどこにあると思うの?」
主「……もしかしたらこれは日本の3DCGアニメスタジオ全てに言えるかもしれないけれど、作家性の強い監督・脚本家の不在かなぁ」
カエル「作家性のある監督・脚本家の不在かぁ。
でもさ、今作は外部から大根仁監督を呼んできているし、他作品では山崎貴監督が担当することが多いイメージだけれど、それじゃダメってこと?」
主「ダメというわけではないけれど……
大根監督はともかくとして、山崎貴監督ってやっぱり技術屋だという見方を自分はしている。
映像表現は一流で、そこに対して挑戦する精神もあり、結果も出している。だけれど、物語における作家性・個性・癖・思想みたいなものは一切感じないんだよね」
実写では一部では思想性が強い原作も扱っているけれど……実写・アニメも含めて映画作品からは、そこまで特定の思想性は感じないのかなぁ
結局のところ、白組は映像表現以上の”映画たりうる何か”が決定的に欠けているスタジオな印象がある
カエル「それこそ『STAND BY ME ドラえもん』とか『ドラゴンクエスト ユア・ストーリー』とか、あるいは今作も含めて、変なところでケチがついて炎上しているイメージがあるかなぁ」
それらもさ、何か思想性が決定的に欠けている、あるいは偏っているというわけではない
主「なんというか……無神経というか、ちょっと細かいことができていない。
結局のところ、社会問題やその映画で表現したい物語性・メッセージ性に挑戦するのはいいんだけれど、そこに1本の思想性がないから、変にフワフワして反感を買ってしまうことが多い印象がある。
特定の政治思想に偏ることがいいとは言わないけれど、語りたくなるような物語性、あるいは監督・スタジオの個性が物語面からは徹底的に除外されている。
変に無味無臭だからこそ、映像は良くても変な物語に感じられてしまうのではないか」
そのための個性を発揮するために大根仁監督を呼んだのではないのかなぁ
でも、大根監督も難しかったと思うよ
カエル「いきなりクレしんで、しかもCGでアニメーション監督だもんね。どこまで自分の作家性を出していいのか、迷うところだし……」
主「実はクレしん映画って最も作家性が発揮されているシリーズの1つだから、もっと攻めてもいいと思ったけれど、初めて組むスタジオだろうし、そこら辺は難しいよね」
抽象的な言い方になるけれど『”映像”はいいけれど”映画”としてはケチがつく』という言い方になるのかなぁ
主「映画とは何か、という難しい話にもなるけれど。
これは他の3DCGアニメ映画にも言えるけれど、個人の、監督や脚本家、あるいはスタジオの個性を感じる物語性がある作品が全くないんだよ。原作を破壊したとしても語りたい何か……それができる人やスタジオとして生まれてこない限りは、厳しい言い方になるけれど"優れたCG映像会社”以上の存在にはなれないのではないかな」
今作の描いた社会面の評価
結構物語面、特に社会性について荒れている印象があるけれど、うちとしてはどのような評価になるの?
まあ、こんなところが妥当じゃないのかなぁ
カエル「妥当って言葉で片付くくらいには気にしていないんだ」
主「う〜ん……まあ、難しいとは思うんだよね。
30歳の非理谷充の解像度が高すぎたってのは、1つある。
もっともっと抽象的な……今では難しいけれどオカマとかさ、あるいは売れない地下アイドルとかホストとか芸人のような、ちょっと笑えるエンターテイナーな存在だったり、世界征服を狙う変な科学者だったりさ。
もっと離して宇宙人とか忍者とか、そういう現実から切り離した存在にすれば、抽象度が上がって、ここまで反感は買わなかった可能性はあるよね。その意味では、社会性の入れ方が中途半端に具体的すぎたのかもしれない。
実際、30代の男性が幼稚園占拠とかリアルすぎて笑えなかったけれど、ハイグレ魔王みたいなルックスだったら、コメディとして成立するし怖くないでしょ?」
今作の社会性の部分が荒れた原因ってなんなの?
結論に答えがない問題を設定してしまったことじゃない?
カエル「非理谷充みたいな人や、社会の不満をどうやって救うのかっていうのは、結論がないといえばそうなのかなぁ」
主「例えばさ、ハリウッド洋画みたいに『分断はやめよう、多様性を重視だ!』とかは、その理念そのものは多くの人が賛同しており、答えがあるじゃない? その結論に物語をもっていけばいい。
だけれど若者にとって日本がお先真っ暗という問題……この問題設定が適切なのか否かという議題もあるけれど、その問題を設定をしたときに、じゃあどうすれば解決するんだ? という共通認識としての答えはない。
あるなら、多分その解決に向けてみんなで動いている。
例えば政府を転覆したり、政府与党をぶっ潰した、ベーシックインカムを導入した、あるいは全員に1000万円配りましたでも、それで『全部解決しました!』とはならないよね」
頑張れ!の是非
非理谷充が弱者男性というか、無敵の人みたいに見えちゃったけれど、その解決方法に関しても意見が相次いでいるよね
う〜ん……でも、自分はああいう回答しかないと考えているんだよ
カエル「非理谷充に対してひろしが『頑張れ!』とエールを送るのが無責任というか、あまりにも配慮がないという意見があるけれど、それには賛同しないの?」
主「難しいポイントだけれどさ……じゃあ、どういう回答をすれば良かったのか? と問われると、自分には答えがない。
『頑張れ』って確かに無責任な発言に思えるけれど……これって少なくとも自分の記憶では20年以上前にはすでに頑張れの無責任問題については指摘されていて、どんどん『頑張れ』とは言わないほうがいい雰囲気は形成されている印象もある。
だけれど、時には必要な言葉でもあるだろうし、物語の落とし所としては、最も安易だけれど1つの手段として納得するかなぁ、自分は」
その意味では問題設定自体が間違えているのでは?
それはそうだけれど、でもここに挑む意義はわかるから、なんとも言えないな
『貧乏は心が豊か』という幻想の再現が必要か?
でもさ、主みたいなのは別としても、非理谷充みたいな人って、やっぱり生きづらいじゃないの?
その意味では現代の不幸は『貧乏は心が豊か』という幻想が完全に打破されてしまったことかもしれんな
かつては「貧乏だが(だからこそ)周囲と支え合い心は豊か」という思想がありボク個人的には当時から懐疑的だったものの、2023年の現在の悲劇はその思想が完全になくなり「貧乏は心も貧しい」ということで貧困の精神的な逃げ場がなくなったことが更に生きづらくしているのだろうな、と感じる日曜の昼
— 井中カエル@物語るカメ/映画・アニメ系VTuber(初書籍発売中!) (@monogatarukame) 2023年8月27日
ちょっと昔までは『貧乏だけれど家族や周囲の人と支え合って心が豊かです』という思想みたいなものが、確かにあった気がするね
高畑勲監督や宮崎駿監督、漫画家ならば、ちばてつやの世界だよね
主「『じゃりン子チエ』みたいなもんで、農村や田舎には素朴なつながりがあって暖かいという思想があった。事実はどうかは別としてね。
だけれど現代はそれが一切なくなってしまっていて、貧乏=苦しいもの、という意識だけが残ってしまった。
貧乏でも救いとなるはずの共同幻想がなくなってしまったんだろうな」
カエル「それを考えると、現代というのは貧しい人にとっては特に厳しい社会になってきていて、観客が非理谷充に感情移入したことに納得してしまうのかなぁ」
主「幻想は幻想だったのかもしれないけれど、それが一縷の救いになっていたこともあったのかもね。
今は実際には中流家庭と呼ばれるような条件の家族でも、生活が苦しく感じられるからこそ、より今作の課題と解決には怒りを抱くのかもしれんなぁ」
作品感想から離れて社会論
自分だったらどのように答えるのか?
じゃあさ、もしも主だったら、どのように答えるの?
え……多分、反感買うかもしれない答えになるけれど、それでよければ
主「そもそも、自分は”現代はお先真っ暗”という前提条件そのものに疑問があるし、なんなら今の方がとても暮らしやすいと感じている。
例えば、しんちゃん映画では全く使えないけれど、自分だったら以下の3点を答える」
- 一定額貯金をした後にNISAでもiDeCoでもいいから全世界株に積立投資する
- ブログでもYouTubeでもいいから副業を始める
- 収入をちょっとでも増やしながら支出を減らしていく
……うわ、なんか、かなり……何というか、投資とかに積極的な怪しさ満点の話だよね
でも、今の自分が言えるのはホントにこれしかないから
主「うちは運良くブログで……大成功とまでは言わないまでも、書籍まで出してさ。ちょっとは成功していると言える地位まではきているわけじゃん?
しかもライターとしても仕事をもらえている立場でもあるわけで、それって副業としてブログを始めてなければできなかった体験なんだよね。
今は誰でも少額で発信できるし情報も無料でたくさんある時代だから、非理谷充だったらアイドルについて発信していけば、それなりに小遣い稼ぎにはなったんじゃないの? って。
それこそ、名物オタクみたいな存在にはなれた可能性がある」
カエル「ま、まあ、それはそうかもしれないけれど……」
主「投資に関しては好きな人がやればいいと思うけれど、結局は将来の不安って経済・お金の話だったら、それに備える方法はあるよって話だね。
少なくとも起業も投資も、もちろんリスクはあるけれどかなり環境としては整ってきていて、やりやすい時代になってきている。
じゃあ、お金・経済以外の幸せの形はどうなの? という話に移る」
現代だからこその”幸福論”
えっと……どこまで真面目に聞けばいいの?
でも、これって自分としては大事な指摘なんだ
カエル「大事な指摘?」
主「上記のことを実行するかどうかはまた別として……まあ、自分も半分本気、半分冗談なんだけれど。それはそれでいいとして。
ひろしのようなお父さん像って、しんちゃんが連載開始した1990年代前半では、とてもありふれた家族像だった。
多分平凡な一家ということで、原作者の臼井儀人さんもひろしの設定に深い意味があったわけではないと考えている。
だけれど……当時のひろしは現在の60歳ちょいすぎだけれど、その頃は今よりも幸せの形が、かなり狭かったのではないか?」
色々な意見があるだろうけれど、結婚して子どもを育てながら正社員で働いて……というのが一般的なモデルとされた時代だよね
それは今でもそうだろうけれど、人生の選択の幅って少なかったのではないだろうか?
主「例えばひろしが会社を辞める……35歳で転職・独立という選択肢はあまりないだろうし、一定の幸せの形があったけれど、そこから外れたらなかなか”普通”のレールに戻れない時代だったのではないか?
世間や親戚による結婚の圧力も今よりも相当強かっただろうし、ジェンダーロールも固定化されていた時代だ。型にハマった幸せは享受できたかもしれないが、それ以外の形はなかなか理解されづらい時代」
生きやすい時代に?
ふむふむ
一方で、自分は現代の方がはるかに生きやすいと感じている。
主「結婚しなくてもそこまで文句言われないし、同性愛にも寛容になってきているし、孤独に生きるおひとりさま文化も根付いてきた。何よりも型にハマらなくても生きていける手段は増えた。正社員じゃなくても……それこそさっき冗談めかして語ったけれど、ブログやYouTubeなどネットで個人で食べていける時代になった。
お金のことは抜きにしたらSNSを通じて、同じ趣味の人と繋がりやすくなったし、実際に自分は本名を知らないけれど、ハンドルネームで仲良くさせていただいている人も何人もいて、他者とのつながりもある。
生きる手段だったり、幸せの幅はかなり広がっている時代だと感じている」
それは、一方では幸せが多様化してしまい、幸せの雛形がないということにもなるんじゃないの?
だからこそ生き方を見失う人々が多いのかもしれない
主「ただ、幸せの雛形がないからこそ、自分が幸せだと感じる行動が見つかれば、その道がとりやすくなった。かつてはプロゲーマーも存在しないし、ネットでインフルエンサーになることもできなかったけれど、現代では……運も必要だけれど、でもできるよね」
だから、自分の感覚では『日本はお先真っ暗論』は理解は示すけれど、そこまで同調しないってのが、この記事の結論かもね
主「個人の行動で人生は変化するし、しやすい時代になったと感じているから。
もしかしたら、それは強者の理屈なのかもしれないけれど。
そう考えると『お先真っ暗じゃないよ!』というテーマそのものに、そりゃそうでしょって回答になるから、そこまで非難しないんだろうね。
そして何より、かつてのオタク差別時代を知る身としては、オタクとして生きていくには現代の方が超絶生きやすいしね」
……結局、最後の意見が1番大きいのでは?