物語る亀

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<良作・原作と比較>感想&評価『デッドデッドデーモンズデデデデデストラクション 後章』 浅野いにおが描こうとしたものは何か?

 

今回は『デッドデッドデーモンズデデデデデストラクション 後章』(以下デデデデ)の感想記事になります

 

半分以上は浅野いにお論プラス社会論になってしまうけれどね

 

ポスター画像

(C)浅野いにお/小学館/DeDeDeDe Committee

 

カエルくん(以下カエル)

今回も1万文字クラスで長くなりますので、よろしくお願いします

 

ちなみに自分はデデデデでは凛と中川兄が好きです!

 

カエル「……また、なんというか、絶妙なチョイスだね」

 

主「中川兄のように生きたいなぁ…あの生き方って憧れる。

 自分もネットで物語に関する適当なことを呟いているという意味では同じような存在だからさ、すごく共感するところがあるかなぁ」

 

カエル「はい、じゃあ始めましょうか。

 前章の感想はこちらをご覧ください」

 

 

blog.monogatarukame.net

 

 

 

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Xの感想

 

 

 

Xに投稿した感想

5月24日公開
試写で見させて頂きました
まずは何も聞かないで、劇場に向かって欲しいです
ボクは絶賛です‼️

 

もちろんネタバレはしないですが、浅野いにおファンなので原作も読み返した上で改めて思うのは、今作は非常にアニメ映画化が難しいという点です。

 

浅野いにお作品は漫画の特性を発揮している挑戦的な作風が多いので、まだアニメよりも実写の方が映像化に向いている印象でしたし、今作は特に映像化難易度が高いと思っています。


なので前章に関しては世間は絶賛の嵐だったように認識していますが、ボクは原作と浅野いにおファンとしては疑問が多かったです

 

一転して後章はこれぞまさに望んでいたものであり、両手をあげて大絶賛をします‼️
まさに見事としか言いようがないほどの浅野いにお作品らしっさが発揮され、語りたい言葉が尽きないのですが、ネタバレしてしまいそうなので、この程度で一旦筆を収めます。

 

素晴らしかったです、ありがとうございます‼️

 

 

 

 

感想

 

それでは、感想から始めていきましょう!

 

ここまで評価が変わるとは、思っていないほど誉めです!

 

カエル「前章ではそこまで誉めていなくて……原作を読んでいることもあって、世間では絶賛一色だった印象ですが、うちはそこまでハマらなかったんだよね。

 それで、今回はどうだったの?」

 

素晴らしかった!

 

主「浅野いにお作品に求めていたものが見れたし、今の時代でここまではっきりと突き抜けたものを描くのか、という高揚感があったね。

 これは後述するけれど、浅野いにお作品は映像化、しかもアニメ映画化は最も向いていないと感じているし、それは今でもそう思う。

 だけれど、原作を再調理することによって、このように大きな変化を遂げたこと、そしてそのテーマをはっきりと描き、賛否両論になろうが貫いたこと、これはとても素晴らしいよね

 

今作に関しては、はっきりと賛否両論で割れるくらいでちょうどいい‼️

 

アニメーションについて

 

その難しいと思った部分の1つであるアニメーションについても語っていきましょうか

 

決してレベルが低いわけではないけれど、だけれど浅野いにお作品の魅力を引き出したかというと、そうではない

 

カエル「あれ、これは絶賛評価の割に厳しい評価かも……」

 

主「重ねていうけれど、決してレベルが低いわけではない。ただ、これは後述するけれど浅野いにお作品のハイパーリアリティの絵の表現をアニメで再現するのは非常に難しいし、今作も成功したとは思えない。

 また日常表現も……色々な描写、特に政治やTV番組の描写が権利関係もあるのだろうけれど日和ったものにされていて、原作が生み出したリアリティが薄れてしまっている。

 それでも、それでもこの物語を描き抜いたこと、それを自分は高く評価したいんだよね。

 あとは終盤にある劇中曲がかかるけれど、そのシーンは鳥肌が立つほど良かった!

 そこはアニメオリジナルの完璧なポイントだよね」

 

先に言っておくと、原作とセットでこの2作は完結すると思うので、ぜひ原作も手に取ってください!

 

 

 

 

 

 

原作について

 

浅野いにお作品の特徴

 

では、映画後編を語る前に原作についても触れておきましょう

 

今作の場合は、原作を読んでおくことを強くオススメするからね

 

カエル「確か、前章の時は『浅野いにお作品は映像化が難しい』と語っていたけれど、それは褒め一辺倒の後章を見た後でも変わらないの?」

 

主「変わらないかなぁ。

 浅野いにおの漫画というのは……もちろん、短編を含めて色々な作品があるけれど、大きく2つの特徴があると考えている」

 

  • 緻密な表現技法と描写に基づいた圧倒的な日常描写
  • 日常描写の積み重ねによる登場人物の感覚を描く

 

具体的な例を挙げると『デデデデ』では以下のような描写だ

 

©︎浅野いにお/小学館  3巻より

これは3巻の描写だね

 

カエル「この前後がないので状況がわからないと思いますが『東京がやばいかもしれない』と小比類巻健一が話しているところで、この電車の中吊り広告が描写されます」

 

主「東京は本当にやばい、賢い人はみんな逃げ出している……という話を小比類巻が門出にしているし、結果的にはそれは正しい。だけれど、東京で暮らしている人々の日常は続くし、誰もそこに危機意識を持っていない。

 メディアもこの状況に対して新聞の中吊り広告のように、警戒を啓蒙するのではなく、その状況を揶揄しながら扇情的な記事を量産する。

 それはまさしく、日常でしかないし、我々が暮らす世界、東京の街並みそのものではないか? ということだね」

 

日常を積み重ねていくことで生まれる物語

 

ふむふむ……それがどうして、アニメ化やメディア化に向いていないという話になるの?

 

物語の作り方ということになるかもね

 

カエル「物語の作り方も色々ありますが、おそらく今脚本教室に通ったら、3幕構成や〇〇メソッドを活用した専門用語を羅列したような脚本術を教えてもらえると思うけれど……それとは物語構成が異なるということなのかな?」

 

主「とても単純化して言えば、物語とは主人公に何かが起こり変化することで展開していくものなんだ。

 一例として、以下のようなものを挙げる」

 

  • 主人公は現在の状況に不満を抱えている
  • 目的を見つける
  • 敵を見つける
  • 仲間を増やしていく
  • 冒険を重ねる
  • 一度負ける
  • 挫けそうになるけれど再び立ち上がる
  • 敵との激闘
  • 目的の達成、ハッピーエンド

 

こういう流れが、一般的な物語の流れだ

 

主「つまり何らかの現状への不満があり、目的があり、敵を倒して仲間を増やしてさらに冒険を進める。

 例えば『ONE PIECE』で言えば、ルフィは海賊王になるという夢を持ち、各章の敵を見つけて、仲間を増やしながらそれを倒して冒険を重ねていくうちに、より強大な敵や世界の真実に近づいていくのが、一般的なあり方だ。

 しかし、デデデデをはじめとした浅野いにおの作品は……日常を積み重ねていくので、そういう劇的な展開は少ない。もちろん、ないとは言わないけれど、本質はそこにはない

 

いわゆる日常系ってやつなのかな?

 

デデデデに関しては、極限の環境下にある日常系だからね

 

過去の浅野いにお作品を引用

 

浅野いにお作品の構成というか、作りをわかりやすく説明するために、初期の傑作であり実写映画も人気のある『ソラニン』を例に挙げよう

 

 

 

ソラニン

ソラニン

  • ASIAN KUNG-FU GENERATION
  • ロック
  • ¥255
  • provided courtesy of iTunes

 

『ソラニン』は2005年に連載を開始され、当時の東京を舞台にした男女の恋愛話です

 

カエル「日常的な展開が続いていくのですが、ある瞬間に物語が一気に展開し、そこから異なる展開を迎えていく作品です」

 

主「浅野いにお作品というのは、基本構造として日常の積み重ねがあるときに一気に変換していく姿と、その心情を描いている。だからこそアジカンの『ソラニン』の歌詞ではないけれど”たとえばゆるい幸せがだらっと続いたとする”情景をリアリティのある描写を重ねて延々と書き、それが”悪い種が芽を出して”変化する様を描く作家だ。

 だからこそ、浅野いにお作品は読者に強烈な共感意識が生まれる。

 その究極系として評価するのが、うちでは漫画界の最高傑作の1つだと語る『おやすみプンプン』なわけだよね」

 

 

つまり、現代の物語の描き方とは異なると

 

これは連載漫画、あるいは時間をかけることで生まれる作品の作り方だよね

 

主「例えば単発の映画の場合、時間の経過に関してはコントロールが難しい。原作漫画が10年かけて描いた日常という物があった場合、単発の映画はそれを2時間に圧縮して物語を語ることになる。

 つまり、日常を語るには不向きなメディアなんだよね。

 日常を語るには時間がかかるメディア……連載漫画、小説、あるいはTVドラマやTVアニメの方が向いているかもしれない」

 

……メディア化する時の構成がとても難しいものになるんだね

 

浅野作品でも短編や2巻くらいの作品ならば比較的可能だと思うけれど、デデデデは12巻もある長編を、映画2作にまとめるのはとても難しい

 

主「そしてそれを支えているのは、圧倒的なハイパーリアリティの描写力だ。

 それはアニメでは……不可能とまでは言わないまでも、非常に難しい。むしろ漫画でも、よくここまで描き込めると驚愕するほど。

 つまり繰り返しになるけれど、浅野いにお作品は」

 

  • 緻密な表現技法と描写に基づいた圧倒的な日常描写 ← 緻密さの壁
  • 1の積み重ねによる登場人物の感覚を描く ← 日常表現・描写の壁

 

主「この2つの壁があるからこそ、メディア化が難しい。

 そしてそれは、今作も例外ではなかったっていうのは、上記の”アニメーションについて”で語ったとおりだ」

 

原作の終盤の展開について

 

あまり直接的にネタバレはしませんが、原作の終盤の展開についてはどう思ったの?

 

……正直、かなり不満があった

 

カエル「あー……だめだったんだ」

 

主「というか、かなり難しいんだよね。

 浅野いにお作品って先から何度も述べているようにハイパーリアリティに基づくから、そこから離れる何かが入ると途端に崩壊する印象だ。例えば『おやすみプンプン』ではオカルトが入り込み、そして今作ではSFが入り込んだ。

 そのSFの濃度が高まるにつれて、物語は魅力を失い……終盤に関しては、まあこうなるよなぁ…と納得というか、仕方ないよなっていう印象になった。

 それくらい難易度が高いことに挑戦していたよね」

 

それが劇場アニメ版だと良かったと

 

というよりも、劇場アニメ版と原作の2つが合わさることで効果を発揮するんだ

 

主「だからできれば、この原作とアニメの2つをセットで鑑賞して欲しい。

 そうすることで、浅野いにおが……黒川監督やシリーズ構成の吉田玲子なのかはわからないけれど、この作品でやりたかったことが見えてくると感じている。

 というわけで、ここから先はそれを語っていこう」

 

 

以下ネタバレあり

 

 

 

 

作品考察(政治的なお話があります)

 

大状況と小状況

 

では、ここからは作品について考察していきましょう

 

今作が描こうとした”大状況””小状況”について、まずは語っていこうか

 

カエル「大状況と小状況っていうのがどこまで一般的な言葉かはわかりませんが、簡単にいえばマクロとミクロというか……以下のように分類します」

 

 

  • 大状況=社会や政治、国際関係などの大きな状況、マクロ
  • 小状況=個人の生き方などの小さな状況、ミクロ

 

大状況と小状況の描き方が浅野いにおは独特なんだ

 

カエル「例えば『デデデデ』だと明らかにSEALDsを基にした学生団体があり、安倍首相や菅首相をモチーフにしたであろうキャラクターが登場し、原発を含めた核問題を示唆したり、2015年前後にあった安保法案などに関する反対デモなどをモチーフとしたことが描かれていたよね」

 

主「そういった社会や政治の状況こそが大状況であり、それを変えようとデモを行う人々がいる。

 だけれど同時に、そういった大状況の変化を希望する運動に対して、全く関与しない……できない、あるいは変わらないと諦めている個人がいて、それを小状況とする。

 つまり社会がどれほどヤバくなろうとも……現実で言えば原発事故が発生しても、震災があっても、遠くの国で戦争が起こり無垢な人々が無惨な目にあっても、そこに心を痛める人はいるけれども、被災していない個人の生活は何も変わらないという現状がそこにある」

 

冷笑系とも称される世界

 

大状況の変化が個人には影響を及ばさないってこと?

 

冷徹な意見だけれど、ウクライナやガザで何人戦死しても、日本に住む我々の一般の生活には直接的な影響がない

 

カエル「……なんだか、それは愛がないというか、なんか冷笑的だよね」

 

主「そうだね、冷笑的だと思うし、実際そういう意見もある。

 ただし、現実として……例えば少子化が問題だとして、じゃあ個人ができることとは何か? 個人である自分が夫婦となり、5人、10人子供を出産したところで、それは直接少子化を解決しない。また国政選挙において、特に大選挙区の比例において自分の1票が果たして何の意味があるのだろう? ということもある。

 あるいは考え方を変えて……例えば今すぐ、自分が自ら命を絶ったとしても、よほど大きなことをしない限りはそれは大状況には一切影響を与えられない」

 

……それって、あまりにも冷たい話なのでは?

 

ただ『デデデデ』の中でおんたんなどはそういう視点の中で生きているのではないか

 

カエル「だけれど、選挙もそうだけれどそういった1人1人の活動がデモなどを経て数となり、大きく国や政府などの大状況を変えることだってあるんじゃないの?

 

主「もちろん、そのとおりだろう。

 そしてその理想を信じる者は、政治活動などの大状況を変革するような運動を行う。

 だが同時に……仮にそれで大状況が変わったとして、個人の持つ苦しみは解放されるのだろうか?

 マイナスな気持ちを例にすると、生きづらさや死にたいという気持ちは、果たして政治や社会が変化することで変わるのだろうか?

 結局のところ、大状況が変化したところで、その個人の小状況には一切関係ないのではないか?

 例えば自民党を倒したとして……現実的なところで立憲民主でも維新でもいいけれどそこが政権をとったところで政治が変わるとは思えないし、社会が変わったところで個人である自分の生きづらさが変わるとは思えない、という気持ちは、現実としてかなり根強い物があるのではないかってことだ」

 

大状況を変革しようとする人々の小状況を描いた描写

 

それは原作のどのような場面がそう思うの?

 

まずは自衛官のノリ君がその両親と寿司屋で食事をするシーンを引用しよう

 

©︎浅野いにお/小学館  5巻より

ここでは自衛官として”侵略者を駆除”しているノリ君と、その両親が寿司屋で食事をしているシーンだ

 

主「ここでは両親と寿司屋の大将が天下国家という大状況について議論している、タカ派な発言が続いている。実際に手を汚しているノリ君は、その状況についていけない……つまり大状況に対して、個人という小状況が圧縮されているような状況だ

 

次に挙げるのはこのシーンですが、少しだけセンシティブなシーンになります

 

©︎浅野いにお/小学館  6巻より

では逆に、侵略者を守ろうとしている側はどうだろうか?

 

主「ふたばはSHIPの活動に入れ込んでいるけれど、その内実として組織の男を連れ込んで、まあ、大学生だから大人の付き合いをしているわけだよね。

 この男としてはSHIPという活動すらも、女性とねんごろになるための組織でしかない。ハト派も大状況を利用して、自分の欲望を優先させているという構図をわかりやすく描いたシーンだ

 

原作のこういった生々しい描写が映画でカットされているから、それはそれで不満ってことでもあるんだね

 

同時に、浅野いにおが描こうとしたものっていうものが、見えてくるのではないだろうか

 

主「つまり、寿司屋の例は大状況に対して大言壮語で天下国家を語っていても、両親という近い存在であってもその実態は全く見えておらず、個人という小状況は無視されている。

 そしてふたばの例は大状況を動かそうと本人は本気になっていても、その周囲はそれを信じていない。

 こういった描写が多いからこそ、浅野いにおを冷笑的だと批判する意見もあるだろうし、それはある種、成立する。

 ただ、冷笑と言われてももっと重要なことを描いていると評価するけれどね

 

 

 

 

原作と映画の終盤の違い

 

大状況が変化した姿を描く原作

 

ここからはラストに関しては、何となく濁しながら語っていきましょうか

 

原作の終盤は、まさに小状況が大状況によって侵略されたことを描いている

 

カエル「もっとわかりやすくいうと、世界が崩壊して個人がそれまでの生き方を行うことができなくなった社会を描いているんだよね」

 

主「あんまりネタバレしたくはないから、奥歯に物が挟まったような言い方になるけれど、原作はもっと社会や世界がとんでもないことになるんだよね。

 かなり過酷なことが起き、誰も冷笑的でかつての日常を送ることはできない。

 全世界のすべての人が巻き込まれるような大状況の変化を引き起こすことによって、その結果、個人という小状況は抑圧されてしまう姿を描くんだ

 

小状況が大状況を飲み込んだ姿を描くアニメ版

 

一方でアニメ版はどのような変化になるの?

 

その逆で、小状況が大状況を飲み込んだ姿を描くんだよ

 

カエル「えっと、言葉を変えると……個人のエゴが社会や政治を変えるってこと?」

 

主「そうだね。

 この記事は原作についても多く語っているけれど、一応アニメ版の記事だからある程度はっきりと言ってしまうと、おんたんの選択によって社会・特に東京はとても大きな変化を迎える。

 それは個人の感情が、世界を変えてしまったと言えるほどの状況の変化だというわけだ

 

ある種のセカイ系的でもあるよね

 

基本的にセカイ系って社会・政治を大状況と言えば、それと個人という小状況を極端に比較する物語群だからね

 

主「今作において、おんたんはとても大きな代償を払うことになる。そして門出も例外ではないし、他のキャラクターも同じだ。

 ある種、東京に核爆弾が落ちるような衝撃と圧倒的な破壊によって、多くのキャラクターが一瞬で蒸発していくという、まさに核のメタファーとしての母艦の爆発がとても大きな影響を及ぼしている。

 だけれど、そのすべての問題をおんたんが引き受け、門出がそれを支えるという徹底した個人の称賛こそが、今作の素晴らしい点であり、最大の問題点だ

 

 

 

 

今作が描き出したこと

 

坂口安吾の『堕落論』

 

で、今作が描いたことで引用した作品が、いつもながら安吾の『堕落論』ってことだけれど……

 

今作って語る時代が変わった堕落論だと思うんだよね

 

カエル「うちの記事を長く読んでいる方は『また安吾か』と言われそうだけれどね……」

 

主「ただ、描いたことはかなり近いと感じている。

 堕落論って簡単に言えば、終戦直後で戦争が終わったけれど社会制度が変わったら……つまり大状況が変化したら、それまであった美談や称賛された生き方もすっかりなくなったではないかって批判をしている」

 

 

 

◆『堕落論』の冒頭より◆

半年のうちに世相は変った。しこ御楯みたてといでたつ我は。大君のへにこそ死なめかへりみはせじ。若者達は花と散ったが、同じ彼等が生き残って闇屋やみやとなる。ももとせの命ねがはじいつの日か御楯とゆかん君とちぎりて。けなげな心情で男を送った女達も半年の月日のうちに夫君の位牌いはいにぬかずくことも事務的になるばかりであろうし、やがて新たな面影を胸に宿すのも遠い日のことではない。人間が変ったのではない。人間は元来そういうものであり、変ったのは世相の上皮だけのことだ。

 

 

www.aozora.gr.jp

 

 

主「簡単に言えば特攻すると勇ましいことを言った男は闇市(不法な市場)で売買をするし、愛する人を思って生きるといった女たちは新しい恋人にうつつを抜かしているってこと。

 だけれど、それは社会などの大状況が変化したのであって、本来人間っていうのはそういう存在なんだってことなんだよね

 

つまり『デデデデ』で言えば、おんたんの選択っていうのはむしろ人間として当然だと

 

大状況の社会ではなく、個人の生き方を追求しようって考え方をしたのが安吾だ

 

主「かなり過激な言動をしているけれど、安吾が語る”堕落”とは、つまりこの記事で語った冷笑に近いと解釈する。

 つまり社会・政治・天下国家という思いから解放されて、人としてあるべき良識からも解放された時、本当の人間らしさが生まれる。

 それこそが堕落だと。

 勇んだ男が闇市に行くことも、貞操を誓った女性が新しい男に惹かれることも肯定し、それこそが人間らしさだと語った力強さが安吾である。

 そしてそれは……『デデデデ』において、社会や政治や東京や家族がどうなろうとも、おんたんと門出の思いに終始したという今作の物語と共通するものが多いのではないか」

 

1980年前後生まれのクリエイターに根付く感覚

 

これもいつも語るけれど、1980年代前後生まれのクリエイターには、この手の感覚を表現した作品が多いのではないか? という思いだね

 

浅野いにおの他にも、BUMP OF CHICKENの藤原基央、小説家の西尾維新なども思い上がる

 

カエル「もちろん世代論でくくるのも乱暴かもしれませんが、これらの人々にはある共通点を感じられると」

 

主「特に3人とも20代前半では世に出てきたという若さもあるだろうけれど、社会の中で折り合いがつかなかったり、どのように生きるべきかという個人を描いてきたクリエイターだと認識している。

 社会や政治などに対する冷徹とも言える視点があり、その中で個人がどのように生きるのか、変化していくのかを問う。

 例えば藤原基央は初期作では『グングニル』は、神様などの大状況に立ち向かう個人を高らかに歌い上げるし『ギルド』は社会が与える役割を果たせない個人を歌い上げる」

 

グングニル

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ギルド

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そして西尾維新は『戯言シリーズ』において、さまざまな状況を「戯言だけどね」と冷笑的に笑い飛ばす

 

 

その辺りってなんか時代背景的なものはあるの?

 

こじつければ1980年代前後生まれって多感な時期に世界が一変しているんだよね

 

主「10歳くらいの時に冷戦が終わって社会が一変して、1990年のバブル崩壊などで就職氷河期世代でもあり、社会が暗い中で最も多感な時期を迎えている。

 その時代に社会を変えようという運動に意味を見いだせなくなり、個人を変革しようという流れが出るのは、ある種当然な気もしている。

 これはオタク文化も同じで、1995年にエヴァがブームとなり、2000年ごろからセカイ系ブームが来る。セカイ系は世界という大状況と個人という小状況を直結させる現象だから、ある種時代の流れを反映しているのかもしれないね」

 

この辺りは語り出すとさらに長くなるので、この辺りにしておくけれど社会論と文化を語る上では重要なのではないだろうか

 

 

冷笑的でも個人を救う文学性

 

『デデデデ』が描き出したことの意味って、結局なんなの?

 

やっぱり、個人の価値を高らかに歌いきったところではないか

 

カエル「社会よりも個人が大事だと高らかに語りきったということ?」

 

主「冷笑系って言葉は、今は非難されがちだけれど、個人的には重要な態度だとも感じている。なぜならば、社会や政治が変わることが個人の幸福につながるとは限らないから。

 確かに社会や政治を変えようという運動は大切で、その人たちにしてみれば冷笑的な態度というのは目障りだし、そういう行動をする人々も社会を変革するという意味では大事なんだよ。

 もちろん、それらの変革が個人を救うこともある。極端に言えば全体主義国家になって、国や組織に帰属しているという意識が連帯感となり、孤独感を薄めて救われる人だっているだろう。

 だけれど同時に、社会や政治が救えない人々というのもいて、それらの人々には政治活動を重ねたところで個人である自分が変わるとは思えない

 

そういった個人を救うもの、それは文学であり芸術であり、ひいてはフィクション、物語ではないだろうか

 

主「だから、自分は……あくまでも自分は、だけれど、物語ってのは徹底的に個人に寄り添うものであるべきだとすら思っている。その救う人物がたとえ1人でも、あるいは作者1人だけであっても、それでいい。

 社会なんてどうでもいい、政治も関係ない、ボクたちはボクたちでしかなく、自分は自分でしかない。

 それを高らかに宣言しただけでも、個人的には思想を貫いたし褒め称えたい作品なんだよね