物語る亀

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物語愛好者の雑文

<傑作・考察>『ジョーカー フォリ・ア・ドゥ』ネタバレ感想&評価 才能のない野良犬はどのように社会に噛みつくべきか

 

今回も2024年末の今更語るの? と言われそうですが『ジョーカー フォリ・ア・ドゥ(以下ジョーカー2)』の感想記事になります

 

何度も書いては消してきた記事だしなぁ

 

ジョーカー:フォリ・ア・ドゥ(オリジナル・サウンドトラック)

 

カエルくん(以下カエル)

熱量がないのではなくて、むしろその逆に「どうやって語ればいいのだろうか」と考えちゃう作品なんだよね

 

語り口がたくさんあるというのもあるし、かなりレビュアーのパーソナルなところに踏み込まなければ語れない作品でもあるからねぇ

 

カエル「実際、アメリカでも日本でも賛否が分かれていて……日本はアメリカほど批判はされていないという印象だけれど、それでもここまで大作洋画ではっきりと賛否が割れるのも、珍しいかもね」

 

主「いきなり結論を語るようだけど、自分はこの映画は『どのように解釈するか』が肝だと思うし、同時に『映画に何を求めるのか』ということが評価を決定づけるような気がしているかな。

 今回は色々と試行錯誤しながら書いた複数の記事のパーツを組み合わせるので、いつも以上にまとまりのない記事になるかもしれないけれど、それでもいいならば読んで欲しいかな」

 

それでは、感想記事のスタートです!

 

 

 

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Xの短評

 

 

Xに投稿した感想

めっっっちゃ好き‼️

 

今作に込められた気持ちが伝わってくる、ボクにとっては年ベス入り確定クラスの傑作です‼️

 

アーサー/ジョーカーという2面性を持ちながら人々に求められるものと、そして自らが演じる役割を考えながら観客の思想を困惑していく138分

 

正義と悪、秩序と自由が交差していく中で本当の自分の問いと枠組みを破壊していく姿、そしてその熱狂が迎えるラストに胸が高鳴ります

本作への賛否両論含めて語り継がれるであろう傑作‼️

 

なんとなくパト2みたいに後々に伝説になる気がするんですよね

1作目は大衆に多く受け入れられる娯楽作としての話題作

2作目は作家性とメッセージ性を込めたアート性も含めてのカルト作

 

もしかしたらジョーカー2は10年後、20年後に評価される作品かも

 

 

感想

 

それでは、感想のスタートです!

 

自分は年ベスも考えたほどに、好きな作品なんだよね

 

カエル「Xでも語っているけれど実はうちは年ベス候補になるくらい、高い評価をしているし、かなり高揚した作品なんだよね。

 なのでかなりの絶賛派ということになります」

 

主「1作目はそこまで好きじゃなかったと記憶しているんだけれど、2作目は見ている最中から酔いしれてしまうほど、大好きだったんだよね。

 ミュージカルシーンがイマイチ、なんて言われているけれど、むしろそれが最高に良かった。今までも記事を書こうと思っていたけれど、むしろ何を書けばいいのかわからないくらい、色々と語り口も多様で、考えがまとまらなくて……この記事もそこまでまとまっていないけれど、1つの形にはなったかもしれない。

 それくらい、色々と考えてしまうくらいに、ハマっている作品ですね」

 

 

 

 

なぜ評価が分かれたのか?

 

今作は公開前から語られているけれど、アメリカの評価がかなり悪かったと言われているよね

 

このような映画はなかなか稀有だから、貴重な経験になったよ

 

カエル「ロッテントマトというアメリカの有名な評価サイトで悪い点数がついたのが、日本公開前から話題になりました。

 批評家評価と一般評価があるのですが、その片方が悪い場合は難ありだけれど見どころがありなのですが、両方悪いというのは単純に出来が悪い作品が多いので、そこを色々と心配する声が多かったんですよね

 

主「自分もそこは気になったけれど、でも年ベスに選びたくなるくらい好きだったし、少なくとも単純に出来が悪い映画ではないと評価する。

 ロッテントマトでここまで評価が悪くなったのは、正直理解が難しい部分もあるけれど……ただそのシステム的なものもあるかもしれない」

 

システム上の問題?

 

ロッテントマトって基本的には2択なんだよね

 

カエル「単純に1か0かで評価されやすいというような仕組みだよね。

 簡単に説明すると、トマトメーターというものがあって、批評家と一般観客の何%が面白い・肯定的に評価したのか、というものになっています。

 日本の……例えば映画.comやFilmarksなどの映画感想・評価サイトは観客の付けた点数の平均点が何点か、を表示しているので、そこが違いますね」

 

  1.  ロッテントマト → 10人中8人が面白いと評価 → 評価80%として表示
  2.  映画.comなど → レビュアー評価の平均値で表示

 

アメリカだとIMDbが映画.comなどと同じ評価軸だよね

 

カエル「詳しくは以下の記事を読んでください」

 

eiga.com

 

①はより極端に、②は食べログもそうだけれど穏健な数値に落ち着きやすいんだ

 

カエル「普通に考えたら、集合知による評価が90点、100点ってありえないよね。

 全員が満足する映画って、それは過去の作品全てを合わせても存在するのかどうか……」

 

主「あくまでもロッテントマトは1か0、つまり面白いかつまらないかの2択なんだ。

 だから『まあ、こんなもんじゃない?』というのも肯定的と言えるし『悪くはないんだけれどちょっと文句がなぁ…』みたいな作品がつまらない側になるかもしれない。極端に四捨五入で考えると、60点が100点換算されて、49点が0点換算されると考えると、わかりやすいけれど相当乱暴なシステムとも言える。

 もちろん、完璧なシステムではないから、他の要因もあるかもしれないけれどね。

 その意味では今作は極端にダメというよりは『なんとなくダメかなぁ…』という評価が多かったのかもしれない。

 少なくとも……自分が観測している限りは、ここまで悪く言われるような映画ではないかなぁ。

 もっと単純に作りが悪い映画はたくさんあるという評価になるんじゃないかな

 

 

 

 

 

表現論としての『ジョーカー2』

 

今作と類似していると感じている作品

 

今の気持ちとして、1番語りたいことが表現論ということだけれど……

 

結局さ、表現論という観点が1番納得できる気がしたんだよねぇ

 

カエル「表現論が1番、自分自身の中でピッタシくる説明なの?」

 

主「本当に色々な見方ができる作品であるんだけれどね。

 その中で、今作に近い捉え方をしていると思う作品が、以下の作品たちなんだよね」

 

  • 映画大好きポンポさん
  • 冴えない彼女の育てかた fine
  • ゴーストランドの惨劇

 

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うちのブログを長年読んでいただいている方には、お馴染みかもしれないラインナップですね

 

要は表現論について語った作品たちなんだよね

 

カエル「どれもお気に入り度で言ったら、その年の年ベスとかに絡むくらい好きな作品ばかりということだね」

 

主「上記の作品はどれもその年の年ベスクラスの作品なんだけれど、ジャンルなどを考えると全く異なる作品に思える」

 

  • 映画大好きポンポさん → 映画を制作するアニメ映画
  • 冴えない彼女の育てかた fine → ハーレム系ラブコメディアニメ映画
  • ゴーストランドの惨劇 → スプラッター要素のある実写ホラー

 

でも、この3作品って自分の中では全く同じことを言っているんだよね

 

カエル「それが”表現論”だと」

 

主「この3作も、そして『ジョーカー2』も含めて、全て”表現しなければいけない脅迫めいた感情”を扱っているし、ある種の”好き(創作)の暴走”を描いている映画でもあるんだ。

 さらに語れば”社会に対して『自分の”好き”という暴力』を叩きつける映画”でもある。

 そういう作品を自分はたまらなく好きだから、どれも高い評価を下しているとも言える」

 

 

 

表現とは何のためにあるのだろうか

 

『ジョーカー2』を考える時に大事な視点が、ここにあると

 

表現って何のためにあるのだろうかという、とても基本的な話だよね

 

カエル「何だか、哲学とか宗教とかが関連するような話になってきたような……」

 

主「そう聞こえるかもしれないけれどさ。

 自分は本来、表現とは”全ての人に与えられた自分を主張するための手段”だと考えている。

 それは大々的に、社会に語ることだけではなく、例えば家族に『お腹が空いた』と語る、あるいは恋人に『好きだ』と伝えることも、立派な表現だ。

 つまり表現の自由とは誰にでも、そしてどんなものにも存在するわけだ」

 

そこだけ聞くと、とても当たり前の話に聞こえるよね

 

だけれど、これが当たり前じゃない

 

主「例えば大作映画を制作する際に、不文律の制約というのはたくさんある」

 

  • 作品としてのレベルが高い
  • 監督や主要キャストが犯罪に手を染めていない
  • (ナチスドイツのような)歴史的に大きな問題を起こした組織や暴力団などの反社会組織を称賛してはいけない

 

列挙したけれど、それもなんか、当たり前の話じゃない?

 

本当にこれを当たり前としていいのだろうか?

 

主「我々は意識的に恋人や家族に優しい言葉をかけ、抱きしめることが愛情を伝える方法だと知っている人が多い。だけれど……もしも、罵倒する言葉しか知らず、暴力でしか愛を伝えられない人がいるとしたら?

 同じように……少児性愛、つまりロリコンは侮蔑する対象とされている。でも、もしもそういう児童しか愛せないとしたら、その人はどうするべきなのだろうか?」

 

カエル「……そういう人は人を求めてはいけないのでは?」

 

主「その通りかもしれない。

 だけれど『愛する人を求める気持ち』はどうすることず、癒すこともできない」

 

アーサーはそういう人だったのではないかってこと?

 

映画に話を戻そう

 

主「例えば『ジョーカー2』に似ている、と自分が考えている上記の作品に共通するポイントがある。それは『好き(オタク的気質)が暴走していく』ということだ。

 ここは解釈にもよるけれど、以下のようにまとめることもできる」

 

  • 映画大好きポンポさん → 映画オタク(ジーン監督)の創作熱が暴走する
  • 冴えない彼女の育てかた fine → ラノベ・アニメオタクの創作熱が暴走する
  • ゴーストランドの惨劇 → スプラッタホラーオタクの創作熱が暴走する

 

オタク的な気質、好きの気持ちが暴走して、それが創作へと繋がっていく物語だと

 

これらの作品に1つ共通するのは”一定以上の才能がある”ということだ

 

カエル「一定以上の才能……つまり、その分野のプロの世界に入れたり、あるいはプロになれなくても、完成させることができるということだね」

 

主「じゃあ、ここで1つの問題が出てくる。

 『才能や運がないもの、発表できる環境にない者はどうすればいいのか?』という問題だ」

 

 

 

 

社会的弱者・才能がない者の表現

 

才能がない人の表現……?

 

誰にも振り向いてもらえない者の表現だよ

 

カエル「それがアーサーだと?」

 

主「そういうこと。

 アーサーはコメディアンとしては誰も笑ってくれず、評価される人も、理解してくれる人もいなかった。それでも誰かとの繋がりを求め、その手段としてのコメディを選択した。

 つまり、表現としてのレベルは稚拙である。

 だけれど表現したいこと、繋がりたいという思いは人一倍ある存在だ

 

そしてさらに言ってしまえば、アーサーはオタク的な気質は薄かったことも要因かもしれない

 

主「お笑いに対して色々と考えることはあっても、それをオタク的な部分まで掘り下げることができない。

 つまり、上記の3作品と違って”好き(オタク的気質)が暴走”まではしないんだよね。

 そういう人の物語として今作は成立している」

 

だけれど、アーサーはジョーカーとして熱狂的な人気を獲得したんだ

 

主「つまりコメディアンとしては誰にも見向きもされなかったのに、犯罪に手を染めた瞬間にジョーカーとして一躍を風靡するほどの人気と注目を得た。

 ここでジョーカー/アーサーは、犯罪者としてスターとなった。

 つまり、犯罪という表現手法しか……そしてアーサーではなく、ジョーカーとしてしか、誰にも注目されなかったわけだ

 

 

 

 

太田光の話

 

ここで引用したいのが、太田光の話だと

 

太田光が色々な場面で”お笑いと自身の中にある暴力性”に関する話をしているんだよね

 

カエル「『爆笑問題のニッポンの教養』の斎藤環との対談の回だったと記憶していますが、配信もされていなくてDVD-BOXくらいでしか確認できないと認識していて、振り返ることが難しいので、記憶で話します。

 太田光の中には『お笑い芸人としての自分』の他に『世間や周囲の人々が欲しい反応が欲しい自分』がいて、後者の自分が暴れ出しそうになるのを止めている、と話しています」

 

つまり、それだけの”人目を惹きたい”という……承認欲求などとも言える欲求が、人の中にはあるわけだ

 

カエル「それこそ今だと炎上系YouTuberみたいな話だね」

 

主「それもそうだけれど、それらはお金が発生するから炎上系に走るという側面もある。

 よりもっと純粋な……お金が発生しなくても、それでも誰かと繋がりたい。

 その手段としての表現というものがある。

 そこで同人イベントで出展したり、今だったら自分みたいにネットの世界に飛び込んでいけるというならば、それはそれで幸せだろう。

 だけれど、そうではない人……実力や運が足りずに注目もされず、環境にも恵まれず、表現が無視される時、人は犯罪などの行為に走ることがある

 

極端な事例だけれど、そういうことだって起こりうるんだ、と

 

表現論で大事なのは、それが”特別な人”の話なのか、あるいは”特別になれなかった人”の話なのかということだ

 

主「それでいうと、アーサーは後者の”特別になれなかった人”であり、凡人であり、運もない人である。

 だから彼が世間から注目を集めるためには、誰かを傷つけるような表現……つまりジョーカーとなり、犯罪者となるしかなかった。

 だけれど同時に、ジョーカーという記号・称号を得ているときだけ、アーサーは本物の自分というか、ありたい自分でいられた。

 アーサーという”本来の自分”になんて、誰も興味を持ってくれない。

 だけれどジョーカーという時だけは興味を持ってもらえる……これがなんと、寂しく、哀しくも美しい話なんだろうか」

 

 

 

 

現実と空想の対比

 

アーサーが憧れた『バンド・ワゴン』

 

それが如実に出ているシーンがいくつもあると

 

むしろ、そういうシーンでしかこの映画は表現されていない

 

カエル「最も描写としてわかりやすいのは映画『バンド・ワゴン』の中の『That's Entertainment』のシーンなんだよね」

 

バンド・ワゴン(字幕版)

バンド・ワゴン(字幕版)

  • フレッド・アステア
Amazon

 

自分も昔に鑑賞したけれど、最も好きなシーンはこの『That's Entertainment』のシーンかな

 

カエル「『バンド・ワゴン』自体は映画制作をテーマにしたミュージカル映画という側面があり、そして『That's Entertainment』は映画がいかに人々を楽しませる娯楽なのか、ということを、スコット・アステアなどの華麗なダンスなどで表現された、素晴らしいミュージカルシーンです」

 

主「あそこに感動するアーサーというのは、非常に心境として理解できる。

 つまり、あの世界に入りたいんだ。エンターテイメントで、誰もが喜ぶような世界を作りたい。それは自分の承認欲求もあるけれど、同時に他者への奉仕でもある。

 だけれど、それが不可能である……つまり、それだけの能力がないという、極めて残酷な状況にいるのがアーサーである。

 だから、彼はジョーカーになるしかなかった。

 それでしか、社会が認めてもらえる表現をすることができなかったんだ

 

 

 

『ルックバック』との対称性

 

そうなると、2024年で話題となった『ルックバック』と真逆の作品だと

 

描いているものは全くの逆だよね

 

ルックバック

 

カエル「それを図式化すると、以下のようになります」

 

ルックバック   天才・才能があり社会に許容された者の視点

映画大好きポンポさん

冴えない彼女の育てかた fine

ゴーストランドの惨劇

ジョーカー2  才能がなく社会に許容されない者の視点

 

上に行けば行くほど選ばれし者の物語となり、下に行けば行くほど選ばれない者の物語となる

 

主「つまり『ルックバック』などはまさに天才の話で、プロになって卓越した人気を獲得する人の話。

 一方で『ジョーカー2』は……まさに『ルックバック』で語るところの、斧を振り回す人と同じである。それでしか自分という存在をアピールすることができない、その暴力性でしか、物事を判断することができない。

 『ルックバック』の主人公たちは表現者の中でも1万人に1人の逸材だ。それは同時に『ジョーカー2』のアーサーは1万人に1人の才能下位者でもあるということでもある」

 

問題は、その時に抱える暴力性が自己に向かうのか、それとも他者に向かうのか、ということだ

 

カエル「つまり自責と他責だね」

 

主「それでいうと、その気持ちが暴走した時に自責になる人は表には出てこない。諦めたり、あるいは最悪の手段では自分で命を断つということを選択する。

 一方で他責になり、他者を傷つけることでその気持ちが他責になる人は、本当に稀だろう。だけれど、稀だからこそそういう人は大きな事件を起こしてしまうし、そういう事件は自分はここでは具体例を挙げないが、思い浮かぶものはいくつもある」

 

 

 

 

ジョーカーとして覚醒していくアーサー

 

事件という大きいものを連想するけれど、アンチ的な発言で誹謗中傷とかの比較的軽い気持ちでやってしまうものになると、さらに多くなるのかも……

 

でも、そういう表現でないと自分の気持ちを誰かに伝えられないということだ

 

カエル「だから『ジョーカー2』でが踊って歌うアーサー/ジョーカーがとてもいい、という評価になるんだね」

 

主「それはアーサーという枷がなくなり、社会は世論というものに対する反抗ということも可能だろう。

 ようやく自分の中の枷がなくなり、本当の自分のやりたいことができてきた。それはアーサーとしてではなく、ジョーカーとして出てくるわけだ。

 この心理って伝わりづらいかもしれないけれど、自分はよくわかる。例えば立川談志と本名の松岡克由は、西洋的な価値観では同一人物だ。だけれど、談志は松岡克由と呼ばれるのを嫌っていたという話もある。

 つまりこの立川談志と松岡克由は同一人物のようで、別人なんだよ。

 立川談志という名前があり、積み上げてきたものがあの独特の人間性であり、それは松岡克由とは全くの別の存在なんだ

 

アーサーはアーサー(本名)を理解してもらいたいのではなく、ジョーカー(理想化した自分)を理解して欲しかったと

 

それが虚構を愛するということではないか

 

カエル「”本当の自分を知って欲しい”という映画ではなく”虚構、理想化された自分を知って欲しい”という映画なんじゃないかってことだね」

 

主「もちろん、その2つをはっきりと分けることはできない。

 だけれどアーサーが本当に生きているのは、あのミュージカルを踊っているシーンだけなんだ。

 そしてみんな……特に弁護士がそうだけれど、本当にアーサー/ジョーカーが思っていることなんて理解してくれない。みんな勝手なアーサー像やジョーカー像を作り、勝手に語り、勝手に糾弾し、勝手に弁護していく。

 だからアーサー/ジョーカーは自分で自分を弁護することを始めた。

 それ以外に自分の言葉を語る場がなく、自分の言葉を理解してくれる人もいない

 

誰も、誰も、誰もアーサー/ジョーカーのことなんて理解しようとしてくれないんだ

 

主「みんなが見ているのは”起こした行動とその結果”だけなんだ。

 なぜそれを起こしたのか、という行動原理は勝手に考察するだけで、誰も自分のいうことを聞いてくれないし、考えてもくれない。

 都合のいい、わかりやすい解釈をするだけなんだ。

 ジョーカーというのはアーサーにとって作り上げた人格であり、虚構であり、エンターテイメントであり、1つの理想像なんだ」

 

 

今作への世間の批判とラストに対する自分の疑義

 

今作は下手な映画か?

 

でもさ、世間の評判を見ると今作は”つまらない”という人も多いわけじゃない?

 

それはそれで正解なんだよ

 

カエル「え、それで正解というふうに認めるの?」

 

主「映画としてはまとまっているけれど、でも何度も言うようにアーサーは上手い表現者ではない。むしろ、その才能がない下位の表現者の部類だろう。だから彼の織りなすエンターテイメントは、つまらないんだよ。

 それはそれで正解なんだよ。

 だけれど、そうではないもの……つまりなぜジョーカーが歌い踊るのか? という気持ちを観客側が見つけられると、途端にそれが面白くなる

 

これはエンターテイメントの映画ではなく、エンターテイメントに惹かれる人の映画であるわけだ

 

主「そして同時に、悪党になるしかない人の映画でもある。

 犯罪者であり、人を傷つけ、それを愚弄し、人々が信じているものを笑い飛ばすことで成立する、暴力の果てにある表現。

 だけれど、それでしか何かを表現することができない人の表現なんだ。

 表現というのは、世界を良くするためだけのものではない。

 むしろ、他者を傷つけることができ、そして世界をより混乱させるための表現。

 その悪意の先にある表現を必死に磨き上げ、カリスマと呼ばれるまでに仕立て上げた男の物語であるわけで、その意味では今の大作と言われる映画や表現の真逆にある存在だ」

 

だから今作をつまらないというのは、善良であったり、求めているものがこの映画にはないということになるのだろう

 

 

 

 

ラストに対する疑義

 

だけれど、この映画をどう評価すればいいのかわからないという部分に、ラストがあるんだね

 

直接的には語らないけれど、でもあのラストで全てがひっくり返ってしまった

 

カエル「それはどういう意味で?」

 

主「う〜ん……やっぱり、トッド・フィリップス監督なのかはわからないけれど、最後の最後で『凡庸であること』を選択したような気がしたんだよね」

 

……凡庸であること?

 

つまり、直前に挙げたような”表現は世界や社会を良くするものである”という考えに傾倒したというかさ

 

カエル「アーサーはジョーカーにはなれないということなんだね」

 

主「その意味では前作でとても社会的な反響が大きく、しかも分断を煽ったという指摘もあったということへの反省ということもできるだろう。

 だけれど自分は、それまで起きていたジョーカーという熱、そして表現の暴走というテーマを全否定しているように見えた。

 その意味で今作を最低だと語るのも、わかるんだよね。

 最後は凡庸に終わったし、凡庸であることを選んだ。

 だからこそアーサーは凡庸だったんだということもできるし、それが人間の抱える善性ということもできるのかな」

 

 

最後に〜今作が語りかけた問い〜

 

最後になるけれど、今作について語りたいことはまだあるの?

 

今作が語りかけた問いは、自分には明確な答えが見出せないものだ

 

カエル「その問いって”暴走する表現をどこまで認めるか?”ということ?」

 

主「そうだね。

 表現する才能がない人が社会に対してどのように立ち向かうのか。

 その方法としての犯罪を認めるのか。

 現実の犯罪は、もちろん許容してはいけないだろう。

 だが同時に、それならば才能がない人は永遠と誰にも声を聞いてもらえず、ただ一人で苦悩し続けるしかないのか

 

あるいはフィクションだったら、何を表現してもいいのか

 

カエル「フィクションだから〜と言っても、うちは園子温的なバイオレンス表現は嫌いだよね」

 

主「ああいうのは反射だと思いつつ、そこに美学を見出し、とても綺麗に描き出す人もいる。

 もしかしたら『ジョーカー2』も園子温的バイオレンス描写と同じじゃないか、と思う人だっているだろうし、自分が今作を高く評価することを理解できないということもあるだろう。それはそれでいい。

 社会や世間に許容される表現とはどこまでで、なんなのか。

 同時に社会や世間に許容されなくても、表現は大事なものではないのか。

 そういう問いが浮かんでは消えていく、とても重いテーマを持ち合わせている。

 だから自分みたいな才能がない側の野良犬にとっては、この映画は重石のようにのしかかってくるんだろうね」

 

 

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