ブログ主(以下主)
「今日のお題は何にしようかなぁって迷ったけれど、やっぱりあの衝撃を覚えるとね……ということで、今回は庵野秀明という人間について、個人的に語っていこうと思う」
亀爺(以下亀)
「もう既に語り尽くされている感もある人じゃから、取り立てて新鮮な感想はないかもしれんがな」
主「やっぱりエヴァを中心に語ることにするかねぇ。あれが1番わかりやすく庵野秀明という人間が出ているような気がするし」
亀「それこそ、多種多様な解釈ができる作品じゃから、一つの意見として受け取ってほしいの」
主「……亀爺、まだ始まってないんだからさ……そういうマイナスなことを言うのはやめてよ」
亀「うん? これを言っておかんと『長い割につまらん記事だった、ワロス』なんて言われかねんぞ?」
主「そう言われないように頑張るよ!!」
1 エヴァという作品の意味
亀「まずは、エヴァという作品について語っていこうと思うのじゃが、主はエヴァが好きな人間じゃったな?」
主「もちろん、大好きだよ。なんというかさ、良くも悪くもあれだけ考察の余地があると、それが大好きな層には受けるよね。
一部では『勝手に深堀してくれる』なんて言われるけれどさ、それだけの『おもちゃ』として耐久性がある作品は中々ないから。
ただ単に余白があればいいわけではなくて、それがある程度考察に耐えられる物語の構造をしないとダメなんだよね。じゃないと、歯抜けになるだけだから」
亀「ほう、では主が考えるエヴァの意味とは何じゃ?」
主「これは色々な評論を読んで一番納得したのが、氷川竜介の評論だったんだよね。エヴァがやろうとしたことって何かと言ったら、『アニメとは何か』という証明だったっていう説なんだけどさ。主にテレビシリーズの25話、26話のことを指しているんだけど。
ここで少し話はそれるけれど、『ドン・ハーツフェルト』っていうアニメ作家がいるんよ。多分、この記事を読む人の9割は知らないと思うけれど」
亀「DVDも通販のみで、当然TSUTAYAなどに置いているわけのないアニメ作家じゃな」
主「今はAmazonにあるかもしれないけれど、アメリカ人でさ。まず登場人物が棒人間みたいなものなのよ。誰にでもかけるような絵のアニメで、少しグロテスクな作品を撮るんだけど、それが個人的には究極のアニメーションだなって印象を受けるわけ」
「メランコリックな宇宙 ドン・ハーツフェルト作品集」 予告編
主「で、この作品を見るたびに思うのが
『アニメってなんだ?』
ってこと」
アニメってなんだ?
主「これは海外作家を見ているとよくわかるよ。有名どころでは『ベルヴィル・ランデブー』とか、『戦場でワルツを』みたいな特殊な形式のアニメもあるわけじゃない。それこそ、名作で言えばアレクサンドレ・ペトルフの油絵を用いたアニメだったり、『木を植えた男/フレデリック・バック作品集』みたいな鉛筆画のアニメもあるわけよ。
じゃあさ、アニメって何よ?」
亀「……? 難しい話になってきたかの?」
主「そうかもしれない。結局、絵が動けば全てがアニメだというならば、台本だって、字だって動けばアニメなんじゃないの? というのがエヴァの25.26話だったというのが氷川竜介が語っていたエヴァ論。個人的にも大賛成。
そして、個人的な評論としてはエヴァがやろうとしたことはアニメにおける一人称の獲得だと思うわけ」
亀「……簡単に言って欲しいの」
主「アニメという媒体……いや、映画もドラマもそうだけど、必ず映像系の表現媒体には『カメラ』という視点が入ってくる。一人称というのは基本的にありえない。もちろん、探せばそんな作品もたくさんあるかもしれないけれど、カメラを通してその物語を見る観客は、どんなに頑張ってもその登場人物にはなりえないんだよね」
亀「まあ、そうじゃの。カメラがある=三人称とするなら、その通りじゃ」
主「カメラの視点、カメラマンの視点でしか物語を見ることができない。
それを、どうにかして取っ払おうとしたのがエヴァという作品だったと解釈する」
2 『小説的な』エヴァ
亀「前に物語論の中で語っておったが、一人称に向いておる媒体というと、やはり小説かの?」
主「その通り。小説は文字だけで構成されているから、カメラは存在しない。だから一人称というものが比較的容易なんだよ。
エヴァに熱烈にハマった人の中ではさ、こういうことを言う人がいるんだよね。
『碇シンジは僕だ』って。
『僕は誰よりも碇シンジを理解している』って。
普通に考えれば危ない発言だけど、実は同じような現象が小説界ならよく……よくというとあれだけど、稀にあるんだよ」
亀「太宰治や『ライ麦畑でつかまえて』、さらに言えばゲーテの『若きウェルテルの悩み』のウェルテル症候群(ウェルテル効果)のことじゃな」
主「そう。簡単に言うと物語の登場人物に深く同調することによって、その人物や作者と同化してしまう現象だよね。別の言葉で言うと共感性だよ。ウェルテル症候群なんて、本を読んだだけで自殺するくらい強いエネルギーを持っているわけだ。
これらは、一人称(ウェルテルは書簡形式)で描かれることが多い小説なんだよね。太宰でいうと人間失格とか。
一人称って、同調しちゃった時は本当に強い力を持つんだよ。まるで物語の登場人物になったかのような気分になる」
亀「主はそんな小説はあるかの?」
主「『猫を抱いて象と泳ぐ 』っていう小川洋子の作品があるけれど、これを読んだ時、鬱になるかと思った。仕事が手につかないのよ、特に中盤を読み終えた時さ、なんというか……大変な経験をするんだけど、自分がこの物語の主人公『リトル・アリョーヒン』になって同じ体験をしているような気分になった。得難い経験だけど、もうコリゴリといえばコリゴリ」
『エヴァにハマる』ということ
主「エヴァに話を戻すと、大なり小なりその空気感にハマることと同一だと思うのね。
この空気感の話をすると戦後日本にまで話は広がるから、今回はしないけれど、また機会があれば書くよ。
で、個人的に思うのは、おそらくエヴァにハマるのは年齢が関係している。この同一性は歳をとればとるほどに、獲得するのが難しくなっていくと思うのよ」
亀「ほう……じゃあ、わしはもう無理かの?」
主「もちろん絶対に無理とは言わないけれど、やっぱり太宰にしろウェルテルにしろ、サリンジャーにしろ、その作品に自らを同一視するにはある程度の瑞々しい感性が、何にも毒されていない、知識のない感性が必要だと思う。
中学生、高校生の時好きだったものって、大体一生好きになるよね? それは多分、瑞々しい感性と作品を理解する能力がちょうどいいバランスで備わるのがそれくらいの年頃だからだと思う。そこから歳をとると『ああ、これはこの文体が……』とかさ『作者のこの書き方はあの作家の影響が……』さ、アニメで言ったら『製作スケジュールの都合で……』みたいな余計な知識が入ってくるから、その作品にのめり込めにくくなってくる」
亀「……となると、エヴァにハマらない人間というのはその物語への共感ができないということか?」
主「そうなんだよね。別にそれは良い、悪いじゃなくてさ、例えば太宰の人間失格とかはある程度根暗なマインドを持たないと理解できないの。ポジティブな人には彼の悩みは一切理解できないと思う。でも、それは悪いことじゃなくて、合う、合わないだから仕方ない。
エヴァ、というか庵野作品もその時代感だったり、閉塞感、そしてオタク感が理解できないと多分合わない。今回の新作も実はその時代感を切り取っているんだけど、それがわからない人には多分、どんなに説明してもわからないと思う。これは趣味の問題だよ」
3 物語のテーマを持たない庵野秀明
亀「なるほどのぉ……でも、なんで庵野秀明はそんなことをしているんじゃろうな?」
主「個人的な憶測だけど、おそらく庵野秀明には物語や人間に対するテーマというものを持たないんだと思う。
つまり、過去にあった作品の膨大なオマージュだったり、その分野の新しい技術的な進歩がテーマとしてある一方で、例えば『人類愛』とか『夢を追う重要さ』とか、いかにもな物語としてのテーマは一切持たない作家なのかな」
亀「だから余計なこと……というとあれじゃが、その物語の外にあること、例えば技術であったり、『アニメとは何か?』という実験のような作品を作るかもしれんの」
主「もちろん、全てが全てとは言わないよ。だけど、そんなレベルにテーマを設定していないからこそ、エヴァみたいな壮大な作品が生まれるんだよ。
まあ、だから人を選ぶんだけど」
『エヴァ』に似ている問題
亀「では、一部で言われておる新作とエヴァが似過ぎているという問題に関してはどう思う?」
主「別に……」
亀「……沢尻エリカネタはもう誰もわからんぞ!!」
主「だってさ、庵野秀明が作っているんだから、過去作のエヴァに似るなんて当たり前じゃない。それって『北野武の座頭市は北野色が強すぎる』って言っているようなものだし。監督の個性はでるよ。ゴジラっていう箱がそれだけ大きくて、みんなの思い入れが強いってだけじゃないの?
あとはさ、そういうことを言われる作品は名作が多いよね」
亀「ほう? 例えば?」
主「例えば『ルパン三世 カリオストロの城』なんてルパンじゃないし、ルパンである必要もない。あれは宮崎駿作品の色が強いよね。『うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー』だって押井色が強すぎるって、高橋留美子も否定したじゃない。
でもさ、名作でしょ? 監督の色が激しく出ると賛否が巻き起こるのは当然だけど、そういう作品は名作になっていくと思う。今回の作品もそう」
亀「庵野が嫌いな人にはしょうがないってことかの……」
主「その通り。それはさ、ルパンは好きだけどカリオストロの城は嫌いって言っているのと同じだよ。それはしょうがない。だけど、どうしようもないよね」
亀「……それは主のことでもあるのかの? 確か『カリオストロの城はルパンじゃない!』と昔言っておったような気が……」
主「さあ? もう忘れたね」
特撮のモチーフもたくさんあるエヴァ
主「で、エヴァに話を戻すとさ、多分今回の新作がエヴァに似ているって、それ多分逆なんだよ」
亀「逆? というと?」
主「特撮としてエヴァに似ているんじゃなくて、元々エヴァが特撮の要素をたくさん入れていたってこと。そして、そのほかにも色々と影響を受けたものを再び特撮に返したら、やっぱりエヴァになっちゃった。
例えるなら……そうだな、カレーうどんから進化したカレーラーメンは、カレーうどんのパクリだって言われるけれど、いやいやそれ元々カレーから着眼点得ているからそや似るよねって話」
亀「……例えとして最悪じゃな、意味がまったくわからん。
とにかく『エヴァ→特撮』の流れではなく、『特撮→エヴァ→特撮』の流れじゃと主は言いたいのじゃな?」
主「そう! その通り!!」
最後に
主「というわけで、庵野秀明についてはこれで大体今言いたいことは語ったかな」
亀「ちなみに、主は賛否……というか否ばかりの『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q』も割と好きと言っておったが、その意味を教えて欲しいの」
主「あれはもうさ、つまらないって評価の方が正しい。自分みたいな色々捏ねくり回す人間でも寝たんだから、そりゃエンタメとしてつまらないわ。
大体『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:序』が6話まで、『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破』が20話くらい? までの娯楽として面白いところをリメイクしているからさ、そのあとのエヴァQが意味わからなくて当たり前じゃない」
亀「……では主はどこを評価しておるのじゃ?」
主「最後にシンジとアスカとレイが同じ方向に、あの三人だけで歩き始めたって点。やっぱり、エヴァってあの三人の物語だからさ、それが絶望の旧劇場版のリメイクも入っているはずなのに、同じ方向に歩いた……これだけで『シン・エヴァ』の前振りとしては良かったと思うよ。
まあ、庵野監督が『シン・エヴァ』を撮れるのかどうか、そこも楽しみだけど」
亀「相変わらずねじ曲がっておる見方をしておるの……」
主「それが面白いんじゃないの? 金子みすずと一緒よ、『みんな違ってみんな良い』ってね」
亀「……無理やりまとめたの」
ゴジラ関連の記事はこちらにまとめました。
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