雨が降ってきた。
ちょっと見栄を張って入ったルノアールは、大きな商店の立ち並ぶアーケード通りの二階にあって、大きな窓に面した席から下を覗くと、雨粒を避けようと走る人の姿があった。心なしか、小降りにもかかわらず雨の中で濡れ鼠になることを厭わず歩く人はいつもよりも少ないように見える。とは言っても、いつもここで人を眺めているわけではないから何とも言えないが。
じっと眺めていると、傘を挿す人ですら歩調は早い。
「雨だね」
向かい側に座る彼女はそうつぶやいた後、モーニングが終わるギリギリの時間に入店して注文したサンドイッチに手を触れながら、ゆっくりと口元へ運んでいく。僕はトーストをとっくに食べ終えて、手持ち無沙汰でコーヒーカップの中身が空になっているにもかかわらず、もう何度口元に運んでしまったことだろう。
仕方ないのかもしれない。
つい一月ほど前に遠くの原発が事故を起こした。昔は世界のあちらこちらで実験として、原爆実験をしていたことをそこまで気にしていなかったであろう人たちも、この事故に心底恐怖し、色々な話が出回っていた。
何百キロも離れて暮らしていても、用心でさらに遠くの土地へと行くほどだ。
「どうしようか」
彼女に話しかける。頬杖をつきながら外を眺める表情は、どこか悲哀に満ちていた。
きっと、色々なことがあったから疲れているのだろう。僕たちだって、会うのは一月振りだし。
「もうチケット買ってるしね」
「映画ぐらいなら別にいいんだよ」
「今週でお終いなんでしょ。あれだけ見たがってたじゃん」
携帯の時計を確認すると、あと10分もすれば映画は始まる時間だった。ここから歩いて5分だから十分に間に合う。
「じゃあ、いこうよ」
彼女は立ち上がると伝票をもってスタスタとレジまでいってしまった。慌てて僕も後ろからついていく。
会計は僕が払い、外に出ると雨はちょっと強くなっていた。傘を挿さずに歩いている人はいなくなっていた。隣に立った男が、連れの女性にいう。
「うわ、放射能やばくね?」
彼らはきた道を引き返してアーケードのほうに歩いていった。映画館まではアーケードも地下街も通じていない。
「傘、ある?」
彼女の言葉に僕は首を横に降った。
すると、赤い折りたたみ傘をそっと出すと、大きく広げていった。
「入りなよ」
あまりにも小さなその傘に、ふたりも入るはずはない。無理だよ、そう言葉に出そうと息を吸い込んだその時だった。
「気にしてるんでしょ?」
「なんでそう思うの?」
「いつもなら黙って先いくのに。濡れ鼠になりながらね」
ほら、と腕を掴まれて半ば無理やりに傘の中に入らされる。そのままスタスタと道に出た。
右の肩が濡れる。彼女の左の肩も濡れる。
「たまにはいいでしょ」
そう呟く彼女の表情に赤みが混じっていたのは、赤い傘のせいではないはずだと祈った。
了
3月11日ということで、少し時事ネタを絡ませた作品をアップします。書き上げたのは12年の7月くらいだったので、もう放射能問題も落ち着いた頃の作品ですね。
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