面白い物語を作りたい、というのは誰もが同じことを思っているはずだ。そのための方法論も書店やネット上ではたくさんある。
だが、少し待ってほしい。
そもそも面白い物語とはなんなのだろうか?
今回はそこを考えていきたい。
(トンデモ記事かもしれないが、多種多様な意見を聞いて、どれを取り入れ、どれを排除するかというのも大事なものだ、という予防線を張っておく)
前回の記事はこちら
まず結論から話そう。
私は物語の面白さとは『真理』と『共感性』だと思っている。
では、その解説から始める。
真理とは何か?
まず真理とは何か、という話だが、それは人生の奥深さであったり、人間の真理、もしくは物事の真相、表現の新たな可能性を探ることだと考えている。
例えば映画で言えばゴダールの映画などがそうで、彼の映画はエンタメとして成り立っているとは思えないし、正直にいうとわけがわからない。しかも赤字続きでほとんど売れていないわけではある。
だが、それでも彼は映画を撮り続けているし、しかも世界的巨匠としての一定の評価をもらっている。これは、ゴダールが映画という表現の真理をついたから(先進性と本質という意味で)であるのではないかと考えている。
他にも小説家でいうと純文学作家がそうで、正直な話をすれば日本中の純文学作家は一部を除いてほとんどが売れていないのだけれども、ある程度一定の評価を受けている。
〔エンタメと純文学の対立の話がよく出てくるが、私はエンタメというのは共感性(広さ)を武器とし、純文学は真理(深さ)を武器にしているので、噛み合わないものだと認識している〕
アニメでいうとやはり押井守や今敏がそうであろう。彼らの作品は一度見ただけでは理解できないが、作中で表現している内容や、表現していることがわかれば非常に熱く語れるものだ。
媒体を問わず世界的大傑作作品などは人生の真理をついた作品が多い。例えばドストエフスキーだったり、ニーチェだったりというのは、賛否はあれども人間の本質をついているからこそ時代を超えて愛されているものである。
真理というものは理解できれば非常に語りたくなっていき、それに対する考察や評論などはおそらく深い表現であればあるほど、永遠にできてしまうものである。
だが、問題が一つあるとすれば、真理というのはそれがわかる人間しか相手をしていない。
例えば子供が生まれて初めて映画を見るのに、親がゴダールが映画の本質だからと信じていても、それを見せてしまっては理解することもできない。小説だって、宮沢賢治や椋鳩十のような児童文学ならばともかく、ドストエフスキーなんて読ませた日には小説を捨ててしまうだろう。
非常に失礼な言い方をさせてもらえば「馬鹿には理解できない」のだ。なぜならばそれを理解する基礎知識や物語経験という土台がない。
それは料理にしても同じで、なぜその材料を選ぶのか、なぜその工程や下ごしらえをするのかというのはある程度料理の知識、経験があるこそ理解できる話であり、素人に高級料理店のシェフの調理過程を見せても「へ〜え、すごい」で終わってしまう。その凄さがなんなのかが理解できない。
だがそれが理解できる人にしてみれば、その深さというのはあまりにトンデモナイものであり、その意味を考えて語るだけでも、相当な時間を消費する。
考える、発見する、語る、その工程にこそ物語の語る『真理』というものはある。
だから物語の真理とは、深くなればなるほどに理解する人は少なくなっていく。
共感性とは何か?
共感性の最たるものは『この作品は私のことを語っている』と思わせる効果である。
例えば小説で言えば太宰治の作品群であり、『人間失格』などは「私のことを語っているんだ」と思っているファンは非常に多い。そういう人は太宰治の最大の理解者は自分だと思っているし、太宰治とは私のことなのだと思っている。
そういう作品は小説だとそれなりあるもので、『ライ麦畑でつかまえて』なども主人公と自分を重ねて考えてしまう人はいる。私の場合はアニメでは新海誠の『秒速5センチメートル』であり、映画では『レスラー』であり、小説では小川洋子の『猫を抱いて象と泳ぐ』がそのような気持ちにさせられた。
そんなのはお前だけだと思うかもしれないが、例えば音楽ファンの中で中島みゆきや尾崎豊、BUMPの音楽や歌詞に自らを投影した人というのはそれなりにいるのではないだろうか? もちろん趣味などがあると思うが、全く自分を投影したことがないという人はいないと思う。
また、そこまで極端でなくとも主人公や登場人物の姿に涙したり、同じように笑う、怒る、スカッとするというのも物語と共感しているからである。
他にも弱い共感ではあるが、物語や登場人物に『憧れ』を投影したことのある人は多いだろう。
アクションの作品を見てあんな強い男になりたい。
恋愛作品を見てあんな恋をしてみたい。
時代劇を見て義理や男の生き様を真似したい。
ヤクザ映画を見て強くなった気がして肩で風を切って道を歩く。
そういったものもやはり物語や登場人物に『共感』しているのだ。
また、キャラクターがかっこいい、かわいいという感情も広く言えば共感の一種である。
さらに言えばそれを見ていた誰かに「ジャニーズの誰々くん、カッコイイよね」とか「綾波レイはカワイイよね」と言い合うのも共感である。
さすがに「この物語の主人公は私である」などというほどの深い共感を他者と共有することは難しいかもしれないが、「ルフィはかっこいい」や「まどかはカワイイ」という感情は多くの人と『共有』することができる。
物語と『共感』し、それを見た誰かと『共有』するということが物語を楽しむ上では大事だろう。
だがデメリットがあるのは、その共感や共有は真理をつくことができないことだ。
例えば子猫がいる。その子猫の写真や動画などを通して、子猫が可愛いという感情を共感し、それを共有することはできる。だがそれで子猫の可愛さから導き出される真理というものを考察し、人に伝えることができるだろうか?
多くの人は「子猫が可愛い」という情報の共感、共有で終わってしまい
「なぜ子猫を可愛いと思うのか?」
「そもそも可愛いとは何か?」
「私の可愛いの基準とは何か?」
「世界における可愛いとは何か」
ということは考えない。考えるとしたら、それは相当の天才か変人か狂人である。
共感は真理の真逆で、多くの人との共感、共有はできるが、それを読み解くような深さというものは生じにくい。
名作の条件
では世間一般で言われる名作とはどのような作品を示すのだろうか?
それは私の考えるにその作品が示す真理が最大限に深く、その上で共感性が非常に高い(広い)作品である。
この条件というのはいうのは簡単だが、考えてみると非常に難しい。真理が深くなればなるほど共感性は失われていき、共感性が増せば増すほど真理は薄くなるからだ。
例えば『喧嘩をして泣いている少年』という物語がある。
その子をかわいそうだと思うのは誰もが共感できるが、その分考察する材料としては弱くて、後々振り返っても「あの子は可哀想だね」という感想に終始するだろう。
ではなぜその子は喧嘩をしたのか、喧嘩の原因は何か、それに自分はどう関与できるか、そもそも喧嘩は悪か? などということを考えさせるような物語になってしまうと、どんどん難しくなり多くの人は考えることを放棄する。
だから真理と共感性がちょうど両立するような物語を作らなければ、人々が楽しみ、語りたくなるような名作にはならない。
それができている創作者の一人が黒澤明である。
白黒時代の黒澤映画を見てもらえばわかるが、映画としての迫力や画面構成、物語の構成などの『映画の奥深さ』と、さらにそこで描かれている人間の業や社会問題などという『人生の深さ』という『真理』が非常に深くあるにもかかわらず、映画として面白く、そして三船敏郎などの演者がカッコよく、憧れなどの『共感性』が非常に強く保たれている。
後期黒澤作品は様々な批判があるが、それは私が考えるに映画という表現の奥深さや人間を描こうという『真理』を強くしすぎて、その結果大衆の望む面白さや役者の格好良さなどの『共感性』が失われた結果だと考えている。
他にも私が好きな表現者でいうと映画ならばチャップリン、ビリーワイルダーや、クリント・イーストウッドなど、アニメで言えば宮崎駿、今敏、湯浅政明など、漫画ならば手塚治虫、浅野いにお、羽海野チカ、小説家ならば夏目漱石、太宰治、小川洋子などがそのバランス感覚と真理と共感性の絶対値が非常に素晴らしい。(簡単に言えば面白くて深い作品が作れている)
惜しいところでいうと押井守、幾原邦彦、ゴダールなどは真理に傾きすぎているし、細田守などは共感性に傾きすぎているように感じている。
勘違いしないでほしいのは真理に傾いている作品(純文学など)はその分野の未来などを切り開くために絶対に必要だし、共感性に傾いている作品(エンタメ)はその分野にお客さんを呼ぶために必要であり、どちらが上とか下という話ではない。賞を受賞したり名誉を得やすいのは前者であり、売れやすいのは後者である。
私が物語を書く際に意識して欲しいのは、どちらをより重要視するか、そしてその作品のバランスはどうなっているかという点である。
真理ばかりを追求すると、作者とごく一部しか相手にしない非常に狭い表現になっているし、共感性ばかりを追求していると非常に浅い鼻で笑うようなものになってしまう。だが、その両方を取ろうと欲をかいて作品が崩壊する可能性もあり、それは避けなければならない。
そのバランスの取り方などは自分で見つけるしかない。
なので、是非とも精一杯物語を作り上げていき、経験を積んでいってほしいというところで今回の作り方は終了。
(結構とっ散らかったものになってしまったかなぁ……)
短編小説やってます。