物語る亀

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物語愛好者の雑文

オリジナル長編小説『白泉光』 14/14 最終回

 オリジナル長編小説『白泉光』の最終回です。
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 ファミリーレストランはとても混雑しており、店員さんもみんなてんてこ舞いの忙しさで動き回っていた。私の横をハンバーグがジュジュウと音を立てながら通り過ぎていく。景虎はちゃんと食べているかな、と心配になりながらアイスティーを口に含み、参考書へと向き直った。
 あの後、時間とがきてしまっており、白井さんは仕事に戻らなければならず話をすることが出来なかった。そのため、七時には行くからと駅前にあるこのファミレスを指定された。
 会ってからどうするかはあまり考えていなかった。ただ、あの写真についてお話しできればそれでいいとすら思った。だけど、いざ白井さんを前にして、どういう言葉が出て来るのか私にも一切わからない。もう一時間前から開いた参考書も空しく、頭の中に単語の一つも入ってこない。
 あの写真を見た白井さんの表情が今でも目の奥に焼き付いている。驚いたような、恐れているような、安堵したような、そんな表情。
 そしてわたしもまた、どんな表情で会えばいいのか、全くわからなかった。
 後ろの席では同い年だろうか、高校生の男女のグループが大きな声でがやがや、わいわいとうるさく話していた。学校の話、教師の話、クラスメートの話、恋人の話……この一時間耳に入って来る話のなかに、父親の話は一切なかった。
 多分、そんなものなのだろう。
 ファミレスの中には何組かの親子連れがいたが、子供がまだ小さかったり、逆におじいちゃんとおばちゃんといった歳上の親子ばかりで、わたしと同い年の親子はいなかった。
 母親ならば当然接し方もわかる。けれど、男性と親しくなった経験もないのに、さらに父親という相手へのふり舞い方などわかる筈もない。
 しかも、娘であることを隠さなければいけない。
 あの叔母という嘘は今にして思えばどうだったのだろうか? 成功だったのか、失敗だったのか。まとまらない考えが頭をぐるぐると回る。
 そうしていると、カラリという音がして入り口の扉が開いた。
 白井さんだった。
 きょろきょろと周囲を見渡していたので、私が手を挙げると店員に待ち合わせと告げ、すこし小走りになりながらこちらにやってきた。
 当然のことながら白衣は脱いでおり、事務所で見た時と同じ紺のスーツ姿で、額には汗の玉が浮かんでいる。そうとう走ってきたのだろう、息もきれぎれで出された水を一気に飲み干してしまった。
 こうして見ると職場で会ったのとまた違う印象がある。厳格さとでもいおうか、固い雰囲気が増していた。なんでだろうとじっとその顔を見つめると、先ほどまでかけられていた眼鏡がなくなっていた。
「ごめんなさいね、ちょっと仕事が立て込んでいて……待たせてしまったかな」
 じっと見つめていた中、そんなことをいわれたものだから少し焦ってしまう。
「あ、いえ、こちらこそ申し訳ありません。あまりにも急なお願いでしたので、相当無理させてしまったと思いますが……」
「こちらのことは何も気にしないで下さい。僕も後日に回したくなかったから……すみませんね、こんな店しか思いつかなかったもので。飲み屋ならいくつかいい店も知っていますが、高校生が入れるお店となるとね……まさか、マックというわけにもいかないし……」
「それは気にしないで下さい」
 わたしたちは一体どんなふうに見られているのだろう。
 親子? 教師と生徒? 危ない関係?
 そしてわたしはどう見られたいのだろう。その幾つかを当てはめてみたりもしたが、どれもしっくり来なかった。
「注文は……食事はどうしますか? もちろん学生に払ってもらうつもりなんてありませんよ。ここのお金は全て僕が出しますので、好きなものを食べてください」
「いえ、結構です。家で家族がご飯を作って待っていますので」
 ああ、それもそうか、と返事をしてアイスコーヒーとを注文する。再びコップに注がれた水を半分程飲み、息を落ち着かせる。そっと胸元に手をやって煙草を取り出すが、この席に灰皿がなく、禁煙席だということに気がつき、さらに目の前に高校生がいることに配慮して再び胸ポケットにしまう。
 そのまま、こちらをじっと見つめる白井さん。
「君はおばさんにそっくりだね。生き返ったかのように瓜二つだ」
「よくいわれます。母親よりもおばに似ているそうです」
「血ってのは争えないものだ」
 言葉のひとつひとつが胸に刺さっていく。
 わたしの言葉も。
 白井さんの言葉も。
 まるでアイスピックのような鋭い刃物で、ちくり、ちくりと刺されているかのようだ。
「いや、子供たちと一緒に見学に来たときから、気になっていたんだ。あのそっくりな子は誰かなって……そういえば、あの子達の中に君の弟さんはいたの?」
「はい。一番始めに挨拶した男の子で……」
「ああ、あの子か。他の子と違って物怖じせずに色々聞いてきたりして、大した子だなって。そうか、あの子が弟さんか。わからなかった」
「父親に似たようで」
 自分でもよくこんなにもスラスラと嘘が言えるものだと思う。言葉のひとつひとつがその場をしのぐ為のごまかしでしかないことは火を見るよりも明らかだった。
「それで……どうだな、どこから話そうか」
 机の上に広げられていた参考書などをしまい、鞄からそっと先ほどの写真を再び出す。それを見つめる切れ長の瞳は、きっと私など写していないのだろう。
 写真を手にふっと大きく息をつく。
「その、叔母さんは今どこに?」
「……先日、事故で亡くなりました」
 そう告げると切れ長の目が大きく開かれた。そしてただ俯いて深く息を吸った後、「そう」と一言だけ小さく呟いた。店員が運んできたアイスコーヒーにも手を付けず、写真をじっと眺めている。
 一体、わたしは何をしにきたんだろう。
 何がしたいんだろう。
 何も知らずに幸せに生きているひとを捕まえて、あなたの思い人が亡くなりましたと問いかけて、わたしの人生の何が変わるというのだろうか。
 再びそんな疑問が頭をよぎる。
 それでももう状況は動き始めてしまった。
「その……今回お話を伺いたいのは、その叔母のことなんです」
 うん、と弱々しく瞳をこちらに向ける。
「その……単刀直入に訊きます。叔母と、どういうご関係だったのですか?」
 最悪な質問だな、と自分でも思う。
 さっきまですらすらと嘘を吐けた自分は一体どこにいたのだろう。このひとに、白井さんにはじめて言う本音が、わたしが一番嫌悪したワイドショーのような質問と全く同じこととは。
 結局、わたしもあの大家さんと同じでしかなかったのかも知れない。
 白井さんは頭を両手で抱え、深く考え込んでしまう。私からは表情が見えないが、真っ黒なコーヒーに映り込んだそれはとても悲痛で、思わずそこから視線を逸らす。
 この周囲のざわめきも、この重い沈黙を流してくれない。
 店内には最近流行のポップスが流れていた。お決まりの君への真実だとか、裏切らないとか、永遠に愛し続けるなんて歯の浮くような言葉が羅列される。
 お気楽なものね。目の前にいる白髪まじりのおじさんに、同じ言葉が吐けるのかと問いただしたくなる。
 数分程沈黙が私たちを取り巻いた後、ゆっくりとその重い唇を開いた。
「どう、だったんだろうね。お恥ずかしながら僕は、彼女のことを恋人だと思っていたよ。あの頃は僕も若かったが、それでももう三十を超えていてね。いい歳した男が、自分の半分ほど年下の女の子にこうも入れ込むとは、ね」
 もういい。そんな話は聞きたくない。
 そう思いながらもわたしの口は、全く違う言葉を紡ぎだす。
「……思っていたというと?」
 そっと顔をあげてわたしの顔をその瞳に写した。一体、このひとには何が見えているのだろう。
 母とほとんど同じような顔をした存在がすぐ側にいて、どう思うのだろう。
「彼女となら結婚してもいいと思っていた。さすがに十代のうちは早いかなって彼女も笑っていたけどね、僕にすれば関係ない話だった。そう思っていたある日、急に連絡がとれなくなったんだ。本当に、急に。
 必死に探そうと色々な手を考えた。彼女の家にも行った。だけどね、その家は引き払われた後だったんだ。彼女は実家から出て、一人暮らしをしていてね、実家がどこにあるのか、そのおおまかな場所すら知らなかった。その時に気がついたんだ。僕たちの関係は切ろうと思えばいつでも切れる、曖昧で危ういバランスの上にあったんだって。
 情けない話かもしれないが、捨てられたと理解した。十代の娘さんが三十を過ぎた男に惹かれる理由よりも、十代の他の男に惹かれる理由の方がいくらでも考えつく。それに……今でこそ苦労話になっているけれど、仕事の面でも色々とあった時期だからね。それが余計に堪えた。
 だけどね、僕が彼女を責めることは出来ないんだよ。あの時、全てを捨てても必死に探し出して、彼女と一緒になって生きていくという選択肢もあった。だけども、僕には仕事があった。やらなければならないことだった。僕以外にできる状況じゃなかった。だから忘れる為に、必死に仕事して、研究して、白泉光をつくりあげた」
 そう訥々と語り終えるとそっと目をつむり、深く口を閉ざしてしまった。
 私は何をいえばいいのだろうか。
 いえ、違います。母はあなたを愛していました、とでも?
 ここに来てしまったこと。
 連れてきてしまったこと。
 過去を引きずり出してしまったこと。
 その全てがもしかしたら、人生を狂わせているかもしれないというのに。
 昨日までのこのひとは、人生をそれなりに上手に過ごしていたのだろう。仕事をして、家庭に帰り、私の知らない誰かと過ごす。それで良かった筈だ。
 それを今、こわしている。
「……その写真は?」
「ああ……これはね、彼女と一度だけ旅行にいったときの写真だよ。ちょうど長期休暇を使ってね、キャンプに行ったんだ。大きな湖が見えてね、そこで魚を釣ったり、テントを張ってね……それが彼女に会った最後になるとは思わなかったな……」
 この重くなった空気を察したのだろう、白井さんはまた、あの作り上げた笑顔を貼付けた。
 全てを隠す、あの笑顔を。
「そうそう、白泉光って名前もね、この時につけたんだよ」
 うっかり聞き逃してしまいそうなほどあっさりと、そう口にする。
「あれ? でも先ほど白井だからとか……」
「対外的には白井が作った光を照らす商品、とかいっているよ。自分でもつまらない理由と思っているけれどさ、それぐらいの方が理解されやすいからね」
 そっと眼を瞑り、過去に戻るように感慨にふける。
「本当はこの日の朝に二人で朝焼けを見たんだ。まるで世界が一変していくような、そんな朝だった。朝日が山の向こうから上がってきてね、それがちょうど泉を白く照らすんだ。その反射で湖の小さな揺らめきが、光を浴びる。僕は勝手な男だからね、彼女との将来を祝福された朝だと思った。彼女もそう思ってくていると信じた。その時、決めたよ。今開発しているものが完成したら、白泉光と名付けようって……僕の祝福の名前なんだ」
 何かを聞けば変わると思っていた。
 会えば何か見つかると思っていた。
 少なくとも、恨みか喜びかどちらかは見つかると思っていた。
 だけど、いまこの瞬間にこうして白井さんと話していても、わたしには何がどうしたいのか、何も見えて来なかった。
「あの、ご家族の方は……」
「いまだに独り身でね。前は見合いだなんだという話もあったんだが、もうこの歳になるとね……」
「その……白井さんは今、幸せですか?」
 そう尋ねると軽くなった口がまた一度閉じられてしまう。そのまま深く考え込んでしまった。
 そのままアイスコーヒーにようやく手を付け、一口飲む。
 そうだねぇ、と呟き、ゆっくりと答え始めた。
「幸せかどうかなんてものは、あくまでも相対的なものでしかないと思うんだ。だから、どんな状況にいようが、僕は幸せだと言っていたい」
 そういうと再びアイスコーヒーに手を付けた。
 きっと、母にも同じことを何度も繰り返して言っていたのだかもしれない。だから母は、あんな苦しい状況でも、笑うことやめず、いつもなんてことないといっていたのかもしれない。
 そのことをこの目の前の人に伝えたかった。あなたの想い人は、あなたのこともずっと想っていましたと、伝えたかった。
 だけど、その言葉が浮かばなかった。
 きっと、何をいってもこころない慰めになるだけだ。この何十年もそれを背負い、癒してきた人に、伝えられる言葉など、今の私には何一つとしてなかった。
 また言葉を探し始めるが、やはり見つからない。母についてききたいことは山ほどあるが、その問いのひとつひとつが、白井さんの人生と過去に突き刺さっていく刃になることを思えば、これ以上の言葉は無用のように思えた。
「あ、そう」
 白井さんが声をあげる。何をいうのかと思い顔を上げるが、やがて言葉は空に霧散してしまったようで、開いた口からは何の音も紡がれることなく、やがて口を閉じてしまった。
「いや、何でもないんだ……今さら何を……」
 そう呟くとそっと下に俯き、再び沈黙してしまう。
 あまりの気まずさにそっと時計を気にすると、もうすでに時間は八時を回っていた。
「それではそろそろ……」
「ああ、もう遅いからね。なんなら送るけれど、どうする?」
「いえ、大丈夫です。ひとりで帰れます」
「そうそう、これが僕の連絡先だから、何か困ったことがあったら何でもいいから連絡をください」
 そういって胸元から名刺を取り出すと、裏に住所と家の電話番号を書いてこちらに差し出してくれた。私もテーブルに置かれていたペーパータオルに、ボールペンで電話番号とアドレスを書いて渡す。
「……そういえば、君の名前を聞いていなかったね」
「あ、そういえば……暁です」
 そう明かすと、一瞬呆けたような顔をして、こちらじっと見つめる。
 そしてしばらくそのままでいたかと思うと、体を震わせて、急に涙をポロポロとこぼし始めた。
 男の人が泣くところを生まれて初めて見た。



 外に出ると今日子さんが景虎を連れて、路上喫煙は禁止されているからだろう、火のない煙草を口にくわえながら外で待ってくれていた。そんなこと、朝は言っていなかったのに。
 今日子さんは私を見ても何もいわなかった。ただこちらに視線を移すと、煙草をケースの中に戻して、そっと隣に立ってくれた。
 そんな今日子さんの代わりに景虎が訊く。
「もういいの?」
 うん、と頷く。
「もうお母さんのことがわかったし、それだけで十分だよ」
「結局、お父さんに娘だっていったの?」
「景虎」
 今日子さんが口で制するが、私はその言葉に首を横に振って答えた。
「その必要はないよ。だって、今の私の母親は今日子さん。だから、他の保護者なんて必要ないんだ」
 そう話すと、今日子さんは照れくさそうに頭を掻きながら、じゃあ夕飯は外食にするか、と大きな声でごまかした。
 ねえ今日子さん、と小さな声で話しかけると、うん? と返事hがきた。
「もしも、父と母が結ばれていたとしたら、どうなったと思いますか?」
 そうだね、とガードレールに寄りかかりながらじっと空を眺める。「結局、ダメだったんじゃない?」
 ダメ? 
 何が?
 そう聞き返す前に今日子さんは答える。
「わたしだって結婚したことないから大きな口は叩けないけどさ。人間、やる気になればなんだってできると思うんだよ。ましてやひとりの女を捜すなんて、今の日本だったらその気になればできるはずだけどさ。なんだかんだ言いながら、その男はしなかったわけだろ」
 答えながら腕を組む。
「結局さ、男は男の理屈で動いて、女は女の理屈で動いた。その差ってのは永遠に埋まらないものなんだよ」
 未婚のくせに知ったように言うね、と景虎が茶化すとさすがの今日子さんも思うところがあるのか、大きな声を張り上げる。通行人が何人かこちらを振り向くが、気にした様子はなく走って逃げている景虎。
 ふたりの後にそっとついていく。
 やがて今日子さんを振り切ってこちらに駈けてきた景虎が、満面の笑顔をわたしに浮かべながら聞いてきた。
「ねえ、結局会ってよかったと思う?」
 その笑顔が若干カチンときたのと、ワイドショーのような質問に、ちょっとだけいじわるなわたしが顔を出した。
 その腕をしっかりと掴んで一言。
「教えてあーげない」
 そして追いついた今日子さんに引き渡した。裏切り者、などとのたまうが、そもそも協力関係も同盟も結んだ覚えもなければ、助けてやる義理など元々ないのだ。
 頭を一発小突かれて、少し大人しくなる。それでもまた数分もすれば、無尽蔵なエネルギーで復活するのだろう。
「さあ、夕飯は何にするか。ハンバーグでもカレーでも、好きなの食べていいさ」
「どっちも今週食べたばかりじゃない」
 景虎の言葉にむっと口を尖らせる今日子さん。
「そうだ、暁が食べたいものにしよう。暁、何がいい?」
 にこやかに尋ねる今日子さんと、わかっているよね? という顔を浮かべる景虎。
 そういわれてどんなに考えてみても、今の私が思いつくものはたったひとつしかなかった。
「お母さんの手料理が食べたいな」
 そう話すとあからさまに不満そうな景虎の声とは裏腹に、一瞬だけ目を丸くした今日子さんは、やがてにっこりと笑いかけると、わたしの頭をぐしゃぐしゃにかき回しながら、お母さんはやめろ、と呟いた。



 わたしの母はふたりいる。
 生きているとか、死んでいるとか。
 一緒にいた時間とか。
 そういう何もかもどうでもよくて。
 どちらも大切なお母さんなのだ。



 珍しく地元にも雪の降り積もったその日、母の月命日にお墓へと向かう。慣れていない為にすこし転びそうになりながら、ゆっくりと歩いていた。
 右手には花束を。
 左手には白泉光を。
 今日子さんと景虎のふたりは駐車場に車を入れて後から線香をもってやってきてくれる。その前にひとり、先に行って待っているという話になった。
 話したいことがたくさんあった。
 今日子さんのこと。
 景虎のこと。
 学校のこと。
 それから、日々の生活のあれこれ。
 つらいことがなくなったわけじゃないけれど、すぐに性格が変わるわけもなく、大変な日々だけど、それでも楽しいと、幸せだと思える毎日があった。
 そして何より大事なこと。
 お母さん、心配しないで下さい。
 もう、すっかり私は元気になったよ、と報告していこう。
 


 ようやくたどり着いた母のお墓の前の雪はすっかり落とされていた。すでに誰か先客があるようだった。
 誰だろう、と訝しげながら近づくと、線香の灰は燃え尽きていた。



 白泉光がひとつ、置かれていた。