物語る亀

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物語愛好者の雑文

オリジナル長編小説『白泉光』 12/14

 オリジナル長編小説『白泉光』の12話です

 前回の話はこちら

 

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 その日の朝は雲一つない快晴だった。
 今日の朝食当番を済ませたあと、洗面台の鏡の前に立ち制服姿をじっと見つめてみる。今整えたところで学校に行けば気崩れるし、無駄になることはわかっているのに、そうせざるを得ないような気持ちになる。
 結局、今日子さんは最後まで納得してくれることはなかった。あの日以降普段の雑談はしてくれるものの、白井さんの話になるとうん、とだけ答えてそそくさと立ち上がってしまう。それは景虎が話しかけても同じだった。
「おはよう、はやいね」
 眠気眼をこすり、前ボタンが開いたパジャマからは襟のくたびれたシャツが出ていた。お腹をぽりぽりと親父くさそうに掻きながら大あくびをうかべる。
「今日は、暁が来てくれるでいいんだよね」
「うん。午前中は学校に行ってから迎えにいく」
「はいな」
 そう答えてからとてとてとトイレへ歩いていく。その間に積み上げられた本のタワーから何冊か落としていくが、本人は全く気にするそぶりもない。まったく、仕方がないものだとそれをまた摘み直していく。そろそろゴミとそうじゃないものもわかってきたし、いっそのこと全て捨ててみようかしらと考える。
 さて、朝食にしようと今日子さんを起こしにいく。低血圧なのか毎朝寝起きの悪い今日子さんを起こすのは一苦労で、わたしと景虎のふたりが交代でおこなっているが、家事分担表にはない一番大変な家事になっているかもしれない。
 今日も三つ程の目覚まし時計が合唱を始める時間に起こしにいく。
「起きて下さい、朝です……よ?」
 扉を開けた先にある蒲団は、すでにもぬけの殻だった。三つ並んだ目覚まし時計も全てリセットされていた。
 どこへいったのだろうと周囲に目を向けるが、当然すぐに目につく場所にはいない。煙草を吸いに縁側に出たのかとも思い見にいくが、やはり姿はなかった。
「景虎、今日子さん知らない?」
 洗面所で口からだらだらと歯磨き粉をこぼしながら、とろんとした瞳で歯を磨き続ける景虎に訊いてみる。こちらを振り返り怪訝そうな顔をした後、「ふぃらふぁい(知らない)」と答えた。
 玄関を見てみると、今日子さんのスニーカーがなくなっていた。どうやら何らかの用事で外に出たらしい。しかし、いつの間に出て行ったのか、まるで気がつかなかった。
 仕方なしに朝食を並べて五分程待ってみたが、今日子さんは帰って来なかった。これ以上待ってご飯が冷めるのも嫌だし、何よりも朝の五分間は一瞬で過ぎ去っていく。とりあえずふたりで食べ始めることにした。
 景虎はいつも通りの早食いであっという間に食べ終え、わたしはようやく半分程食べたとき、玄関ががらりと開く音がした。
「帰ってきたのかな?」
 そっと顔だけ廊下へ向けると、ジャージ姿で軽く汗をかいた今日子さんが、息を切らしながらお風呂場へと向かっていくところだった。
「……急にどうしたのかな?」
「さあ。どうせただの気まぐれか、ダイエットだと思うけど」
「ダイエットって、昨日もご飯おかわりしてたよ」
「今日の朝からはじめたんじゃない?」
 今日着ていくズボンやシャツを手に、興味がなさそうにのほほんと答える。そのまま奥に引っ込んでいき、引き戸をがたんと閉めた。
 お風呂場からはシャワーが流れる音がする。当然のことながら多少気になるが、しかしそろそろ食べ終えなければ学校に行く時間になってしまうため、あわてて朝食をかき込む。それでも普段の景虎の食べる速度の方が早いのだから、本当は噛んでおらずそのまま丸呑みしているのではないかと疑問に思った。
 ひとり分の朝食をちゃぶ台の上に残し、食べ終えた食器を流しに置いて水に浸ける。いつも通り電車の二本くらいは余裕があるけれど、だからといってゆっくりとしているわけでもない。
 鞄を手に取り、小走りで玄関へと走っていく。ローファーを履いて扉に手をかけたところで、後ろから歩く音聞こえた。
「本当に、今日行くの?」
 その問いに少しだけ罪悪感を覚えながら、首を縦に振る。
「せっかくこうして会えるチャンスも出来たから。行かせてもらいます」
 そう、と呟く。
 白井さんに会いにいくのは景虎たち小学生組と、保護者代表としてわたしということになっていた。元々今日子さんが行くつもりだったが、急な仕事でどうしても都合が付かなくなり、将来の就職に供えた近隣の企業見学も兼ねて保護者代理として一緒に行くという筋書きだ。学校側が何か言ってくるかと思ったが、どうやら何事もなくすんだらしい。
 景虎たちが向かう時間は今日の午後、給食を終えたら校外学習として保護者同伴で外に出ていいということになっていたので、私はお迎えとして午前の授業を終えたらすぐに小学校へ行くことになっている。
 高校には何もいっていない。今日は朝から熱っぽいからと言って、午前中だけで帰らせてもらうつもりだった。嘘をついて早退をしたことなんてないから、そこだけ少し緊張している。
 この筋書きを考えたとき本当に成功するのか多少不安があったが、今のところはつつがなく進行している。
 今日子さんを除いて。
「そう。ま、こっちとしては本人が行きたがっているのに止める理由はないんだけどね」
 ジャージ姿からいつもの部屋着姿に着替えて、ぐっとひとつ体を伸ばす。今日は以前から休みを申請していたらしく、その必要もなくなったとはいえ休みを取り消す必要もないので、一日中のんびりとする予定の筈だ。
「で、どうするの?」
「どうする、というと?」
「会って、何を話したいの?」
 会った後。
 そのことを全く考えてなかった。
 結局昨日まで何日も考え続けたが、答えは出て来なかった。ただ、母の過去の手がかりになる人物がいて、その人物と会う機会に恵まれた、それだけのことと軽く考える以外にこころのもっていきようがなかった。
 今更ながらに会って、あなたが父ですか、と問うつもりもなければ責めるつもりもない。そもそも私には実感のこもらない存在なのだ。
 ではなぜ会いに行くのか?
 そう問われるとふと立ち止まってしまった。
 おそらくその迷いが顔に出てしまっていたのだろう、そんな様子を見てひとつ大きく嘆息する。
「まあさ、暁のことだから、こっちがどうこういうこともないよ。そうだね、ひとついえるとしたら……どちらにしろ、後悔だけはしないようにってところかな」
 そう言うとこれから朝食にするのだろう、さっと振り返って居間へと向かう。
 そっと、行ってきますと外に飛び出していった。それでも体は動くのに、頭はずっと止まったままだった。
 一体、何がしたいのだろう?



 景虎の学校に着いたころ、どうやらまだお昼休みのようだったが、掃除の時間だろうか、騒がしい声は校舎から響いてくるが、生徒が外に出て来る様子は一切なかった。
 初めて来る学校は私が通っていた小学校と同じように部外者の立ち入りを断るように門が閉められていたが、鍵がかかっているわけでもなく簡単に中に入ることが出来た。そもそも取り囲むように作られた柵が大人には低く、乗り越えるのはそう難しいものではなかった。相変わらず生徒を守りたいのか、閉じ込めたいのかわからない、不思議な空間だ。それは高校生になった今でも変わらないが。
 開かれた学校、楽しい学校という標語を立てられた看板を横目にゆっくりと校舎の前を通る。
 少子化の影響で入ってすぐにある校舎の入り口はもうすでに使われておらず、中には地域の資料館から持ってきたのだろうか、古い農具が展示されているという話だった。ガラス越しに中をのぞき見ると、昼間なのに陽が射さないのだろうか、電気の灯らない校舎は薄暗く、奥に千歯こきなどの古い農具がどことなく呪術的な印象を与えて少し気味が悪かった。そっと扉を押してみると当たり前のように鍵がかかっており、内側の手すりの縁にはうっすらとホコリが積もっていた。
 私が通っていた小学校は住宅地にあったためか、グラウンドもあまり広くなく遊具も少なかったが、農地寄りのこの学校はそこかしこに木々が生えられており、さらにその足下には花壇が整備されていた。時期にもよるのだろうか、花壇には何も植えられていなかったが、雑草もあまり生えていないそこはしっかりと手入れをされているようだった。
 奥へ進むと景虎たちが普段使っていると思われる昇降口があり、その中に下駄箱がずらりと並んでいた。小学生の頃はそれなりに高かったように見えるそれですら、今の私には頭よりも少し低い。
 一年生からずらりと並ぶ下駄箱の一番端に、来賓用と書かれた一角があった。中を開けるとスリッパが入っており、それを足下に置く。
「どちら様ですか?」
 その声に振り返ると、白衣をまとい眼鏡をかけた先生がこちらをじっと見ていた。小学校で化学の授業はないはずだから、おそらく保健の先生だろう。
 そっと一度頭を下げる。
「あの、今日校外学習があると聞いて、迎えに……」
 校外学習と聞いて首をかしげる。あまり怪しまれるようなことは避けようと景虎の名前を出すと、ああ、と大きく頷いた。
「景虎くんのお姉さんですか」
 突然ぱっと笑顔が咲いたので、一周回ってこちらが不振に思ったくらいだった。どうぞ、と促されるままに足下のスリッパに足を通す。
「景虎をご存知ですか?」
「そりゃあ、もちろん。教室まで案内しますよ」
 そういって先を進んでいく。靴箱や学校を見ると、少子化とはいえそれなりに生徒数も多そうだ。ましてや、小学校なんて六年生までいるのだから、全校生徒にしたら百人、二百人はいることになるのだろう。そのなかで特定の学年、クラスをもたない保健の先生に知られている景虎とは一体なんなのかと考えてしまう。
「学校での様子はどのようなものですか?」
 場がもたないこともあって、今日は授業参観でもなければわたし自信が保護者というには少しイレギュラーな人間にも関わらず、思わずそんなことを訊いてしまう。
 その言葉に保健教師はクスリと笑う。
「すごく元気ですね。ちょっと元気が有り余っている感もありますが、最近は少しずつ落ち着いてきたようにも思います」
「落ちついてきた、というと?」
「数年前まではすぐにケンカする子でしたからね。この先どうなるかとも思いましたが、最近はそんなこともないようで」
 ケンカ?
 あの景虎が?
 少なくともこの家に来てからまだ数ヶ月とはいえ一緒に暮らしている中で、生意気な口を叩いたり、家事を雑にやることはあっても、声を荒げたり粗暴な素振りは一切見たことがない。
「景虎がケンカ、ですか?」
「低学年のときの話ですけどね。何かあるたびに一緒にクラスに駆けつけて、色々と話を聞いたりしていました」
「ケンカの原因は?」
「それこそ色々ですよ。特定の子と仲が悪くて些細なことが気になったり、遊んでいた拍子でぶつかった、ぶつかってないとか。大人からしたらどうしようもないようなことばかり。あの年頃の子にはよくある話ですよ」
 階段をゆっくりと昇り始める。
「感情の起伏が激しい子で。突然怒ったかと思ったら、突然大人しくなって。良くも悪くもクラスの中心人物で目立つ子ですよ。それは今も変わらないけれど」
 そこまで答えて保健教師は話しすぎたと気がついたのだろうか、踊り場で振り返るとそれまでの朗らかな表情を一変させた。もしかしたら担任が親に話していないことや、今の世の中、複雑な家庭事情で踏み込んではいけないところなのかも知れないと思ったのかも知れない。
 あわてて再び朗らかな表情に戻して、それでも先ほどよりも固い笑顔になる。
「優しい子なのは昔から変わらないんですよ。一介の保健教師に過ぎない自分に、年賀状をわざわざ出してくれる子なんて中々いませんから」
 思わず飛び上がったほど嬉しかったものです、と話す。
「家では家事も手伝ってくれる、頼もしい子です」

「そうですか……あ、落ち着かなかったのは数年前の話ですから。今はとてもいい子ですよ」
 誰だって家庭の顔と学校や会社の顔は違うものだろう。それは大人とか、子供といっても変わらないのかも知れない。
 それでも数年前とはいえ、それほど荒れている景虎の姿など想像もできない。
 保健教師は何かを思い返すようにそっと天井を見つめる。
「子供にはよくあることです。感情を上手に吐き出せなかったり、それが出来ないから余計に焦ってしまったり……」
 そこまで話してはっと気がついたような表情を浮かべた。
「ごめんなさい、景虎くんの教室に案内している途中でしたね」
 そういってさっと再び振り返ると、先ほどよりも足早に階段を昇り始めた。
 わたしの頃はどうだったろう。引っ込み思案で、クラスの中心になんて全くなれなかった。なろうとも思っていなかった。
 それでよかった。
 今までは。
 三階に昇り、階段を曲がって廊下に出たところですっかり身支度を整えた景虎がこちらに気がついた。
 「暁!」
 大きな声をあげながら、それ以上に大きく手を振ってきた。はずかしいなぁ、と思いながらも、そっと小さく手を振り返した。