オリジナル長編小説 『白泉光』の7回目になります。
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次の日からわたしは家事に入ることになった。はじめはお手並み拝見とばかりの夕食作りからだ。
朝、勢い込みながら冷蔵庫を開けると、そこに入っていたのはお酒とジュース、それにいつ開封したのか分からない調味料が数種類と、レトルト食品が数種類。確かに野菜などもあるにはあるが、その数は子供とふたり暮らしにしては明らかに少ない。
冷凍庫を開けると、アイスや氷はびっしりと詰め込まれていたが、取りにくい奥にお弁当用と書かれた冷凍食品が突っ込まれており、しかもいつからあるのか、霜ですっかり白くなっていた。
なるほど、たしかにこれは……
「中々ひどいものだろう」
いつの間にか後ろにいた景虎が牛乳を横から持っていきながらいう。
「……今までどんな食生活だったの?」
毎日母かわたしが料理をしていたことを考えれば、この家の現状はとても信じ難いものだった。
「今日子さんが作る日は基本的にレトルトが多いね。昔はおばあちゃんや直人が作ってくれた」
「直人?」
「ボクの父親。うちは今日子さんが一番料理が下手なんだ。センスがない。このままじゃ自分の成長にまずいと危機を感じたボクは、料理を始めたわけさ。まあ、お手本になるひともいないから進歩はカメの歩みだろうけど、少なくとも今日子さんが作るよりはうまいと思うよ」
「でもカレーは……」
「そりゃあ、レトルトぐらいは簡単に料理できるよ。料理と言わないかもしれないけれど」
ケラケラと笑いながら居間に戻る。
非常に強い危機感が頭に警鐘を鳴らし始める。
これは、間違いない。
家族云々ではなく、わたしが料理を担当しなければ、そう遠くないうちにこの家は大変なことになるだろう。
じっとこころに誓い、とりあえず学校の時間も近いのでその場を後にする。
そして夕方、駅近くのスーパーで買い物を済ませて帰ってくると、すでに家の中には煌々と灯りがついていた。
「それじゃ始めようか」
景虎を横にお手伝いとしてスタンバイさせながら料理を始める。なるほど、確かに景虎の手つきはそこまで悪いように思えない。野菜の皮をむいたり、切るのは若干危なっかしい部分もあるが、それなりに慣れてきているのはすぐに分かる。
ただちょっとしたコツが分かっていない。例えばみそ汁。味噌を始めに入れて煮込み始めたり、溶き方もお玉で少しずつではなく、一気にどぼんと落としてしまったり……
教える人がいないとなるほど、こうなってしまうのか。ただ、それは知らないだけだ。後からいくらでもやり直すことはできる。教わろうという気概があれば、手遅れというほどではない。
「今日子さんは今からやっても、もう手遅れかも知れないけれどね」
そんな軽口を叩く景虎。
やがて完成した料理が次々と並べられていく。誰でも好き嫌いなく食べられるハンバーグにしたが、それすらレトルトではないもので焦げなどがないものは珍しい、という景虎。
そして夜になり、今日子さんが帰ってきた。台所から漂う香りに靴を脱いでさっさと茶の間に来ると、すでに完成している料理を眺めながらいった。
「ほお、こりゃ久々にまともな飯が食えそうだ」
「……自分の料理はまともじゃないという自覚はあったんだ」
「生意気なことをいってないで、冷める前に早く食べちまおう」
そういうとそそくさと着替えにいき、二、三分もしないままに戻ってきた。
手を合わせた後、みんなして一口食べる。むっと固まる今日子さん。そして大きく頷く景虎。
「なるほど。これならボクたちの料理をあまり口にしなかった理由がよくわかる。ね、今日子さん」
そう話しかけるが、うーんと唸ったままじっと目を瞑り黙り込んでしまう。しかしその手は止まることなく、パクパクと進んでいる。いつもの缶ビールにも手を付けずに、ただひたすら箸を進める。
その様子を見ながら景虎もいつもより早く手を動かし、箸を動かしていた。
その様子を見てわたしも一口運ぶ。うん、そこまで悪くない。
すっかりキレイになった皿をじっと見つめながら、腕を組む今日子さん。眉間に皺を寄せ、険しい顔をしている。何か不手際があったかとドキドキしながら見つめていると、皿を片付け始めた景虎がにやにやと笑いながら話しかけた。
「正直、失敗したと思ってるでしょ?」
え? と思わず声が漏れる。くすくす笑いながらこちらに顔を向ける。
「これだけ料理の腕があるなら、もっと当番お願いするべきだったかな、とか考えているでしょ?」
じろっと睨み返すが、その口は否定をすることはない。ケラケラと笑いながら皿を下げていく景虎。
しかしこれでわたしの当番を増やしましょうかと問いかけると、怒りだすことは分かりきっているので、何もいわないで台所に戻っていった。
結局缶ビールはあけられることなく、再び冷蔵庫に戻ることになった。
それから一ヶ月、特に何事もなく過ぎていった。
慣れてみると元々ひとりでこなしていたこともあり、分担してやる家事はそう大した苦労もなく、思っていたよりも効率的だった。後はふたりの家事スキルがあがってくれれば何もいうことはないのだが、景虎はともかく今日子さんは期待するのも難しいと言わざるをえない。それでも徐々に上達はしているのだろうが、それで今ならば昔はどれほどひどかったのか……
考えただけで今までの景虎の苦労が伝わってくる。
学校から電車で三つほど駅を通り過ぎ、さらに乗り換えをして二駅ほどで前に住んでいた街にたどり着いた。今日子さんの家から学校に向かう反対路線になるため、引き取られてからはまだ一度も足を踏み入れていなかった。
大家さんの好意で年内はある程度まで荷物は置かせてもらえることになっていたが、あまり長く置いておいても迷惑になるだけだし、さすがに全ての荷物を今日子さんの家へと持っていくわけにはいかない。大切なものは全てすでに運び終わった後だし、鍋ややかんなどをあの家へと持っていってもそう何個も必要なものではないが、しかし家にある便利グッズは役に立つかもしれない。なにせピーラーすらなかったような家なのだ。
大切なものはあらかじめ運んでおいたが、今月末には全て荷物を捨ててしまわなくてはならない。その前に、使えそうな道具や必要なものを整理して、持っていけるものは今日にでも運んでしまおうと話し合っていた。
駅前のロータリーに足を一歩踏みしめる。ちょっと前まで当たり前だった、たこ焼き屋や焼き鳥屋のたれの焦げる香りが出迎えてくれた。たったひと月で何かが変わるわけもなく、町のにぎわいも雰囲気も同じものだ。
世界は、母の死を一切関知していないのだ。
地元に戻ってきたにもかかわらず、その何も変わらない雰囲気がとたんに悲しくなってくる。
それでも俯いているわけにもいかず、歩を進める。せっかく戻るのだからゆっくりぶらぶらしておいで、と今日子さんはいってくれたが、生憎とこの町に歩き回りたい場所なんてなかった。
この町に越してきたとき、わたしは高校受験も目前に控えたときだった。母はそのことに対して引っ越しを決めるぎりぎりまで悩んだみたいだが、仕事場が変わり、前の家からだと片道二時間かかる道のりを通っていたことを考えれば、それも仕方ないと諦めがついた。
越して来てから誰もわたしに構ってくれるひとはいなかった。中学校はもう半年もすれば卒業で、同級生たちは高校受験を控えてぴりぴりしていたし、何よりもすでに完成されたコミュニティーで、しかも解散が目前に迫っている中で、新しく来た異物を受け入れようという雰囲気はあまりなかった。
しかも、どの学校にも当たり前のように存在する不登校やいじめに苦慮するあまり、先生たちも孤立していることに気がつかなかった。いや、気がついたのかもしれないが、それに対応している暇なんてまったくなかった。
そしてわたし自身もそこまで余裕はなかった。高校を全く知らない土地で一から選び直さなければならない。しかも、うちの財政を考えれば私立なんて到底望める筈もなく、合格できる範囲の公立校で条件を探さなくてはならなかったし、何より母が帰って来るまでの家事はこなさなければならない。
それでもよかった。
味方は母だけでよかった。
駅前から少し歩くと、店の名前は変わらないのに、売り物をすぐに変える店が目に入った。漬け物屋、弁当屋ときて、今度はおにぎり屋になった。
ころころと変わる様を母とふたりして笑ったものだ。
駅前の大通りを抜け、小道に入る。入ったことのない文房具屋や自転車屋が並ぶ。その並びの間にある道に入り、突き当たりにある木造の二階建てアパートがわたしの家だった場所だ。
階段下に申し訳程度に作られた駐輪場には、錆びかけの自転車が置かれていた。
二度と乗りたくない自転車が。
三部屋並んでいる中で真ん中がわたしの家だった。隣の部屋の玄関前に置かれた洗濯機の間を抜けて、ドアの前に立つ。たったひと月しかあけてないはずなのに、隣の部屋から生活音は一切しなかった。
ポストの中にはダイレクトメールや、宅配のチラシばかりが折り込まれており、ハガキの一枚もなかった。
部屋のカギを開けて中に入る。
そこには物がだいぶなくなった、生活感のない部屋が広がっていた。入ってすぐに出迎える台所に置かれた冷蔵庫の中を開けてみると、特売品で買った食品は一切なくなっていた。冷凍庫に保存されていた安いお肉や、冷凍されたご飯、氷ひとつに至るまで一切見当たらない。中身が何もない冷蔵庫なのに、その白い内装の色のせいなのか、開けた瞬間に幻の冷気が体を突き刺す。
電気のスイッチに手を伸ばすが光が灯ることもない。水道の蛇口を開いても、ガスの元栓を開けてみても、すべての生活に必要なものが止まっていた。
時間すらも止まってしまったかのようなこの部屋の和室の中心に立つ。残されているのは机や細かな荷物ばかり。
台所下の引き出しを開けると、中にはピーラーや様々な便利グッズが収納されており、鞄の中に詰め込んでいく。タンスや押し入れにわずかに残った本や小物を整理していると、タンスの奥から母がずっと捨てずに残していたらしい服が出てきた。
捨てずに残しておく割には着ることもなく、しかし一年に何度か出しては陰干しなどしている服だった。昔の若者ファッションという気がして今の母が着たら違和感が強いだろうし、わたしが着ても古臭い。何度も母に着ないなら捨てれば、といってきたが、そのたびに困ったような顔をしながらも、来年にね、と繰り返す。
これはいくら何でもいらないだろうと手に取ると、ガチャンと写真立てがひとつ落ちてきた。
拾い上げて見ると、若干時代がかってのか、保存が悪かったのか、少しセピア色になった写真だった。
あの高校生の母や今日子さんも映った、四人の写真。
もう一枚あったとしても今日子さんも困るだろうが、わざわざ捨てる理由も無いので写真も鞄の中へと詰め込んだ。
庭に出てみると、そこに置かれていた筈のプランターは姿を消していた。
この庭で何を育てたという記憶はあまりない。昔住んでいた家では、小学校の授業で育てていた朝顔やチューリップが占領していたことがあるが、それ以降何かを育てたことはない。それでも土の上には雑草やらどこからか飛んできた花の種子が芽を出して、庭を鮮やかに彩っていた。
プランターにシロツメクサが咲いた時、わたしはよく四葉のクローバーを探していた。母が持っていた四葉のクローバーの押し花を使った栞が羨ましかったのだ。
だけど、一生懸命探すわたしを見ては、母は呆れたようにこう呟いた。
『暁、だめだよ。四葉を探す為に、三つ葉を摘んじゃ。幸せってね、そうやって探すものじゃないんだよ』
そういってはゆっくりと掻き分け注意しながら、一緒に探してくれた。
今思うと、それは母の人生哲学だったのかもしれない。誰かを不幸にすることなく、幸福を追い求める。だけど、子供の頃に遠足でみんな一緒に四葉を探してみても、見つけるのは、三つ葉を踏みつけている子供たちだった。
あらかた荷物をまとめ終えて外に出ると、二階に住む大家さんが階段越しに顔を出したところだった。
「あらあら、暁ちゃん」
形だけは気遣う表情を浮かべながら、手を振りこちらに走ってくる。
「今回は残念だったわね」
まるで贔屓のスポーツチームが優勝を逃したような、そんな軽い口調に苛立ちを覚える。だけど、それは仕方ないのかもしれない。大家さんからみたわたしは、早く出て行ってもらいたいけど、世間体を考えたらすぐに追い出すのも躊躇ってしまう、そんな人間だ。
「お母さん、あんなことになっちゃうなんてね」
哀れみ交じりの視線がこちらに向く。
わたしはどれだけ哀れなのだろう。
わたしはどれだけ不幸なのだろう。
そうこの大家さんに訊いてみたかったが、それを話したところできっと奇異な目をこちらに向けるだけだろう。
「それで、今どうしているの?」
それが一番訊きたかったのだろうか、その口調はどことなく昼のワイドショーのレポーターを思い起こさせた。母親急死、うら若い女子高生に密着取材! という文字がすぐに頭に浮かぶ。
「荷物はお約束通りに近々全て処分します。その際は騒がしくするかもしれませんが……」
「あ、ああそうね、それはいいのよ」
話の腰を折られて気がそがれたのか、そのまま気まずそうに一つ頭を下げると、そそくさと二階へと戻っていった。
その大家さんの姿を見て、わたしは世間一般から見たらいかに扱いにくい人間なのかわかる。母親を亡くした天涯孤独の女の子は、好奇心を満たし、わたしよりも不幸な人間がいると哀れむことで優越感を得るには十分なのだろうが、しかしあまりにも度が過ぎると世間がその行為を非難する。
触れてはならない禁忌の実。
甘く香る魅惑の果実。
荷物もまとめ終わり、これでアパートの中にあった物で必要なものは全て今日子さんの家に持っていった。あとは捨てるものだけが残され、今日子さんの立ち会いの元、業者が全て廃棄処分することになっていた。わたしも時間が合えば立ち会うという話にもなったが、平日の昼間ということもあり、わざわざ学校を休むほどのことでもない。
だからこの家に来るのはこれで最後だろうし、この町に来ることも無くなるだろう。
わずか数年とはいえ住み慣れた家だけど、不思議と感慨はわかなかった。
アパートから少し歩いて振り返ると、二階から大家さんがこちらをじっと見つめていた。こちらがひとつ軽く頭を下げると、ばつが悪そうな顔をして、扉の閉まる大きな音をさせながら自分の部屋へと入っていった。
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