オリジナル長編小説 『白泉光』の8回目になります。
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アパートのある町をでて、いつものように買い物に寄って帰ってみると景虎はいなかった。ランドセルはあるから、一度帰ってまた遊びに出たのだろう。きょうの当番は朝のゴミ出しだけなので、遊ぶ時間はゆうにある。まだ窓から差し込む太陽は若干赤くなりかけてきたが、時間を見ると帰ってくるのはまだまだ後のことだろう。
エプロンを絞めて、腕まくりをするとさっそく調理にかかる。今日は母直伝のブリ大根だった。
母の味といえばぶり大根だった。一番の得意料理と張り切りながら、誕生日や入学祝いなどの特別な時には必ず作っていた品だ。
何かに付け、わたしはこれをねだっていた。一番始めに教えられた料理だってぶり大根だ。それだけに思い入れは強い。
こうして大根を洗っているだけで母の声が聞こえてくる。幼い頃、足下でうろちょろするわたしに、困ったように笑いながらも、ゆっくりとその優しい声で、丁寧に教えてくれた。
考えてみれば、よく小学校低学年だったのにも関わらず包丁を持たせてくれたものだ。母がいない場で包丁と火は使わないと約束させられたが、それも一年もすれば自然と解除された。
そのおかげか、家庭科の授業でわたしよりも料理がうまい生徒はひとりとしていなかった。もしかしたら先生よりもうまいかも、とお世辞ながらに褒められた記憶もある。運動神経も鈍く、引っ込み思案なわたしが唯一注目される時間だった。それが嬉しいとおもうことはあまりなかったが。
そういえば景虎も考えてみればまだ小学生なのに、包丁も持てば火も使う。今日子さんがいなくてもお構い無しだ。最も、あの子の場合は禁止されても構わないかもしれないと、ひとり笑ってしまう。
どこかしっかりしているようで、年相応に抜けている。この前も砂糖と塩を間違えてとんでもなく甘い秋刀魚の焼き物が出てくるという凡ミスをやらかしていた。
くすくすとひとり笑いながら料理を続けていく。大根の皮も剥き終わり、さていよいよ煮始めようかな、というところで後ろから物音がして振り返った。
「お母さん、おかえり」
思わず反射的に口をついた言葉。
その視線の先には今日子さんも、景虎も、当然母もいなかった。ただ積み重ねただけの本が、何かの拍子に崩れた。それだけだった。
あれ?
なぜ、わたしはここにいるのだろうか。
頭では理解できる。母が死んで、今日子さんに引き取られて、夕飯の準備をしている。そして帰ってきた景虎から給食袋を受け取り、お箸を洗い、汚れた小さな割烹着を洗濯機に放り込む。そんなことをしていると、今日子さんが手に発泡酒のはいったビニール袋をぶら下げながら帰ってくる。そしていうのだ、今日もご飯がおいしいね、と。
先週と変わらない光景。
でも気がついてしまう。
先月とは大きく変わっていることに。
そして、そのさらにひと月前とも。
母がいない。
慣れたつもりだった。
わかっているつもりだった。
それでも。
この家には母がいない。
疲れた表情を浮かべながらもあのぼろアパートに帰ってきて、なんとか笑みを浮かべながら、ただいま、と優しく語りかけてくれる母は。
食卓を囲みちょっとだけ塩の分量の間違えてしょっぱくなったおかずを前にしてそれでも残さず食べてくれる母は。
もうすでにこの世のどこにもいないのだ。
そんな当たり前のことが頭をついた。
「……おかあ、さん?」
ふいに口から溢れだした言葉に、応えるものはいない。
それでも、わたしの口は閉じることを知らなかった。
「お母さん、お母さん、お母さん……」
手元から大根と包丁が床へと落ち、わたしの足下をかすめながら転がっていく。
拾わなきゃ、と手を伸ばしても、この手が触れてくれない。拍子で体がまな板にぶつかり、皮をむいたばかりの大根が次々と落ちて、床をころころと転がっていく。
どうしよう、洗い直せばまだ食べられるかな……
もう大根はないし、また買いにいかないと……
頭は動いても、体が一切言うことを聞いてくれず、膠着したままだった。
あーあー。もう、もったいない。
母の声が頭の中でよぎる。
ほら、そんなにポロポロ皮を床に落とさないで。
そうそう、その調子でゆっくり剥いていってね。
ああ、手元をよく見て、ほら危ないよ。
本当、うまくなったもんね。昔は皮一つ満足に剥けなかったのに、桂剥きが出来ちゃうんだから。
もうお母さんのやることなくなっちゃうよ。
一声頭をよぎったらもう止まらない。毎日料理を教えてくれて、毎日一緒に食卓を囲み、毎日一緒に話した日々。それが一つ頭をよぎると、次々と連鎖して頭の中を駆け抜けていく。どの記憶にも母の表情があり、声がある。
計量カップ、ピーラー、醤油さし、キッチンタイマー、おろし金……さらに視線を傾ければマグカップ、お茶碗、お弁当箱……その全てに母の思いが詰め込まれていた。
考えないようにしていたのに……
床に一粒涙がこぼれると、それを皮切りに次々と床を濡らしてしまう。もう何も考えることが出来ない。
口をつく言葉もない。
わたしはその時、母が死んでから初めて大きな声で慟哭した。
気がつけば、もうすでに日はすっかりと落ち、家は真っ暗闇だった。灯り一つ灯らぬ家は、窓から照らされる街灯以外に光は差し込まず、床に置かれた物もうっすらとしか見えない。
どれだけここで泣いたのだろうか、顔がふやけてしまっているのではないかと思う程にこぼれた涙が、床に小さな濡れた跡をいくつも残していた。
ふと我に帰り周囲を見渡すが、どこの部屋も灯りが灯っていない。まだ景虎は帰ってきていないのだろうかと、時計を探すがあまりの暗さに目が慣れず、手で探り探り進むが、転げ落ちた大根が触れるばかりだった。
偶然触れた包丁の柄を掴むとゆっくりとまな板の上に載せる。そのまま流し台に寄りかかるようにゆっくりと立ち上がると、一度足がもつれて再び倒れ込んでしまった。
今日は本当にダメだ。
そう一言呟き、今度はしっかりと立ち上がる。そのまま闇の中に手を伸ばし、空気を掻き分けるように泳がすと、電灯の紐が触れた。
カチリ、と小さな音を立てて電気が点く。闇に慣れた瞳が急な光に悲鳴を上げ、慣れるまで数分ほど過ぎたあと台所を見渡すと、大根は床に散乱し、スプーンやお玉、菜箸、ビニール袋が散乱していた。
今日のご飯をどうしようか、と考えていると、時計がようやく目に入った。
八時二十分。
一瞬、血の気が引いた。早ければ七時台には今日子さんは帰ってくる。それなのに、料理は何一つ出来ていないどころか、この散乱した食材や器具で台所はひどい有様だった。
なんとか料理をこさえようと頭をめぐらせ、冷蔵庫の中を開けてみるが、これといった食材はなかった。ちゃんと食材を細かく分けて保存しておいた筈なのに、こういう日に限ってキレイになくなっている。
とりあえず食事の前に台所の整理を、と手を伸ばしたところで、ふと気がついた。
景虎は?
もうこの時間には帰ってきていなければいけないのにも関わらず、どこにも姿は見えない。電気も着けずに眠りこけているのかと思ったが、台所から玄関を覗いても靴はないようだった。
どこへ行ったのだろうか。少なくとも、帰ってきた音はしなかった。
「景虎」
まだ震えが残る声で呼んでみたが、返事はない。やはり帰ってきていないようだ。
それはそれで気になるが、とりあえず今は出来ることをこなしていかなければならない。まずは片付けをして、食材の買い出し、そしてお風呂も湧かさなければならないし、洗濯物も取り込んで……
これから家事の算段をつけているところで、玄関の戸がガタガタと音をたてる。あわてて玄関まで走り、鍵を開けて引き戸を開くと、ちょうど鍵を鞄から取り出した今日子さんと目が合った。
「あ、おかえりなさい」
ただいま、とガリガリ君を口にくわえた景虎が一目散に中へと入っていき、テレビをつける。今日子さんはこちらの顔をじっと見つめると、ふう、と一息ついて家に入り、靴ひもをほどき始める。
「ごめんなさい、まだちょっと食事の用意とかできてなくて……これからすぐに作るので、ちょっと待ってもらっても……」
「ほれ」
そういって渡されたのは、フライドチキンの絵が印刷されたビニール袋だった。あわてて受け取ると、まだほんのり暖かい。
「今日はそれでいいよ。せっかく買ってきたんだから、さっさと食べちゃおうか」
え、と言葉を返せないでいるわたしに、背中を向けて数歩進んだあと、こちらに振り返る。
「先にお風呂入っちゃいな。かわいい顔が台無しだよ」
そう言ってちゃぶ台の前に座ると、景虎に「その土汚れのついたお尻で座らないでよ」と注意され、うるさい、と答えながらもベルトを外しながら渋々奥の間に引っ込んでいった。
ふと玄関の外に目を向けると、煙草の吸い殻が四本落ちていた。
「ほら、暁も早くこっち来てよ、冷めちゃうよ」
景虎の声で我にかえり、はーい、と一つ返事を返すと、吸い殻を拾ってゴミ箱へと捨て、玄関の扉をそっと閉じた。