テレビ放送に備えて、聲の形の記事をリライトします!
これでも、まだまだ語り足りないところがあるんだよね
カエルくん(以下カエル)
「ここまで何記事も語って、まだ足りないんだ……」
ブログ主(以下主)
「結局劇場で8回くらい鑑賞したからね。もちろん、もっと観ている人はたくさんいるだろうけれど、自分は色々な映画をたくさん観ているから、おそらくこれだけ劇場で鑑賞するのは後にも先にもないんじゃないかな?
改めて見直スト気がついたこともたくさんあって、それも書いておこうかなぁ、と思って。
もしかしたらみんな気がついていることもたくさんあるかもしれないけれど……聲の形に関しては、最も『深い』無料ブログを自称したいので、片っ端に書いていこうと決意したわけですよ」
カエル「……誰に頼まれたわけでもないのにね」
主「やっぱりそれだけの作品だと思うよ。
はじめに語るけれど年間ベスト級の作品だし『シン・ゴジラ』とか『君の名は。』とがなければ、公開直後に2016年ベストって言い切っちゃうと思う。
でも『この世界の片隅に』を含めて、このクラスのアニメ映画が続いたから、やっぱり異常な年であるわけで……
聲の形を含めた上記の作品は今の邦画界、アニメ界では最先端を走っているんじゃないか? と思わされるものがあるんだよ。
もちろん、方向性は全然違うけれど。実写映画も含めてそこそこ見たけれど、やっぱりいい意味で異常な作品だと思うよ」
カエル「うちでも障害と物語の関係性は、重視しているテーマでもあったもんね」
主「何回も語ってきたけれど、このタブーが比較的少ない日本でも触れにくい部分に突っ込んだだけじゃなく、新鮮な表現になったからね。
詳しくは以下の記事を参考にしてね」
カエル「じゃあ記事に入るけれど、この記事は以下の記事の続編なため、こちらを先に読むことを推奨します。もちろん、この記事だけでも完結しているけれど、前提がある記事ということは先に伝えておきます。
あと、ネタバレありです!」
脚本について
まずは脚本の素晴らしさについて解説しようか
今回の記事では硝子、将也、結絃、植野の4人に焦点を絞って行きましょう
主「もちろん、原作付きだから原作から素晴らしいところもあるけれど……この映画版は主に4人に焦点を絞っている。人数が多い分、全員の細かい描写はできないから、英断でしょう」
カエル「それが硝子、将也、結絃、植野の4人だね」
主「それ以外の友達もたくさんいるけれど、多くの出番が削られてしまった。その分、比較的目立ったのがこの4人の描き方だよ。
で、この描き方が……すごくうまいと思ったから、それをこれから説明していく」
このシーンでも同一化は始まっているが『西宮』の名字だけでは届かない……
同一の存在
カエル「これは以前の記事でも語っていたよね。つまり、将也と硝子は同一の存在である、ということでしょ?」
主「普通はこういう主人公とヒロインって、同一の存在にしないで凸凹にしてセットにしたりするけれど、この作品のうまいところはこの2人を単なる恋愛関係にしなかったところ。
まず、この2人って共通点が非常に多いんだよ。それを箇条書きで上げていくと
- あだ名が『しょうちゃん』(劇中でも言及されている)
- 自己評価が低く、自殺願望がある
- いじめにあっていた(将也は自業自得かもしれないが)
- お互いが相手の小学校時代を滅茶苦茶にしたのは自分だと考えている
- 同じ池でびしょ濡れになる
- 人の顔を見ることができない(後述)
- 小学校時代をやり直す
パッと浮かぶのはこういうところかなぁ……この2人の存在って鏡合わせのようにできている。だから途中で橋の上で将也を糾弾する場面があるけれど、あのシーンのように将也が傷つけば傷つくほど、硝子も傷ついていくわけ」
カエル「まあ、硝子は自分のせいで将也の小学校時代がめちゃくちゃになったと思っているもんね。
『私といると不幸になる』って発言がその象徴で……硝子は周りが悪いって全く考えていない子だから」
主「そう。それはある意味では将也と同じなの。
将也も『自分が悪い』であって、他のみんなを恨んでいない。
あの状況を見れば確かに将也も非常に悪いけれど、最初に忠告もしているし、教師や川井などのクラスメイトに責任がなかったかというと、それは違う。でも、将也はそう思っていない。
だから単なる恋愛関係だけじゃないんだよね、この2人って」
同一化が行われた瞬間。先の場面と対になる
「硝子!」 と名前を叫ぶこと、花火の夜というのも重要
手をつなぐ
カエル「これは色々と指摘されているポイントだよね。手をつなぐことの意味とかさ」
主「それまでは何度名前を呼んで手を繋ごうとしても、2人の手はすれ違ってしまった。最初の橋とか、遊んでいる最中とかは象徴的だよね。
同一化が明確に始まったのはいじめが逆転した時……つまり、将也が池に落とされた時だけど、それが決定的になったのは花火の夜『硝子!』と叫んで手を繋いだ瞬間だったんだよ。
ここで2人の役割というのがガラリと入れ替わった。それは演出にも表れているけれど、後述かなぁ……」
カエル「じゃあ、あの夜に落ちるべきはやっぱり硝子だったってこと?」
主「だと思うよ。べきだったというとあれだけど、あそこで手を繋いで代わりに将也が落ちるというのは、硝子が負うべきだった痛みを代替したというのもあると思う。
この2人がなぜそこまで惹かれあったのかわからないという意見もあるし、加害者と被害者の関係という対偶の存在だとする意見もわかるけれど……個人的にはこの2人は、非常に似通った、同一の存在として描かれているというのがその答えじゃないかな」
代理の存在
……この代理の存在ってなに?
言葉が難しいけれど、将也の裏の存在、硝子の裏の存在という意味に捉えてもらっていい
カエル「……どう言う意味?」
主「硝子の裏の存在は結絃だというのはわかってもらえると思う。いじめられている姉を助けるために、将也に意地悪をしていた。
硝子も将也もあって当たり前の面……つまり攻撃性がないんだよ。その相手を非難する存在、硝子のもう一つの顔として存在するのが、結絃というわけ」
カエル「なるほどね……じゃあ、将也は?」
主「もちろん、これは植野だ。
植野は硝子を徹底して攻撃するわけだけど、これは初期の結絃と同じだと思うんだよね。つまり、自分の大切な人の人生をめちゃくちゃにした、相手の存在が嫌い。
だから攻撃するという。
これだけだと単なる偶然とか、キャラクター性の問題に思われるかもしれないけれど、それを補完する演出があるんだよ」
カエル「演出? なんだろう……雨のシーン?」
主「そう。
硝子と将也が対偶の存在ということにも関係してくるんだ。
まず、将也と結絃が仲良くなったのってあの雨のシーンからでしょ? あの時、雨に濡れる結絃に傘を差し出したのは、敵であるはずの将也なんだよ。このシーンは語りたいことがあるけれど、それもまた後述。
で、硝子と植野の場合も全く同じ。雨に濡れている植野に傘を差すのは硝子な訳だ。これは意図しての演出だよね」
カエル「あれだよね、前回の考察であった『水に濡れた人は障害、硝子と向き合っている』理論もあるよね」
病室の守り手
主「もちろん、それもあるんだよ。それもあるけれど、この場面で注目して欲しいのは……将也と硝子があの花火の夜で入れ替わったと言ったじゃない? それを補完する演出がある。
それはね、病室を訪れる硝子ということだ」
カエル「……? どういうこと?」
主「ほら、序盤において手話学校に訪れるのは将也だったでしょ? そこを妨害したのは結絃だったわけだ。この時は永塚の助けもあって、2人は会うことができた。
今度は病院にいる将也に会うために硝子が向かうけれど、ここで妨害するのは植野でしょ?
この時は永塚でも扉を開けることができなかった。
この段階ではっきりと立ち位置が変わっているでしょ? 会いに行く相手が入れ替わっているんだよね。だけど、それを阻害するのが代理の存在なんだよ」
カエル「へぇ……なるほどねぇ」
主「将也が硝子と仲良くなれたのは、間違いなく結絃の協力もあったからだ。あの雨のシーン以降、硝子と将也の2人の仲というのは急速に近づく。
だから、ここで入れ替わった硝子はどうするべきか?
答えは同じなんだよ。
つまり、代理の存在に対して優しくすること。相手を想う人が向ける、自分への怒りに対して優しく向き合い受け止めること。。
その象徴が雨の場面だ」
カエル「硝子も将也と同じことをしているわけだねぇ……」
主「そう。自分は前回の考察で『硝子と植野は仲良くなる』と言ったけれど、それが演出にも表れているんだよね。つまり、将也と結絃の関係と、全く同じように描いている。
そして脚本の話でいうと、まず主人公とヒロインの同一視があって、さらにその2人に代理の存在がいるわけだ。
これって、すごくうまいと思うよ。こんな脚本はあまりない」
カエル「同一の存在って言葉が出てきたのは、最近だと『湯を沸かすほどの熱い愛』かなぁ……」
主「同一の存在だけだったら、バディ物とかで多いかもね。それこそこのブログでも大絶賛した『SCOOP!』とか『ズートピア』も似たようなことをしていたけれど、同一というよりは補いだからちょっと違うかなぁ……だけど、そこにプラスして代理の存在も組み込んだ脚本というと……語った中では『キャロル』が唯一似たようなことをしているくらいかな?」
カエル「しかも2時間の映画でやったわけだからね」
主「だから、もっと評価されていいと思うよ。
この映画の緻密性って、かなり高いレベルだから」
演出について
前回で語りきらなかった演出論については、ここで語っていこうか
まずは、花火について語ろうかな
主「この映画における花火というのは、非常に大きな意味がある」
カエル「あの衝撃の夜も花火の夜だったもんね」
主「あの夜の花火って『硝子の声にならない声』だったんだよね。つまり、あそこで大きな花火が上がるというのは『助けて!』とか……もしかしたら『ありがとう』とかかもしれないけれど、『言葉にならない声』だった。
硝子は自分の気持ちを声にしなかったんだよ。全部手話にして語っていた。その言葉を、暗喩としたのがあの『花火』だったんだよ」
カエル「……だから花火大会の夜なんだ」
主「あの瞬間、一瞬音が止まるじゃない? あの演出もメリハリが効いてよかったよねぇ……あの『硝子!』の叫びが……硝子には届かないというのがまた切ない。だけど、あの叫びが絶対必要だったんだよ。あそこで叫んだから、将也は手を繋げたわけだから」
カエル「でもさ、花火といえば……」
主「冒頭で将也が飛び降りをやめたのも小さな花火でしょ?
あれはそこだけ見ると意味がわからないよ? 人がいるからやめたのか、怖気づいたのか……そう受け止められかねないけれど、その理論を適用すればわかると思う。
あの小さな花火って硝子の声だったんだよ。それを聞いたからこそ、将也は飛び降りをやめたんだよね」
カエル「実際の将也の気持ちとしては怖気づいたとかが正解かもしれないけれど、演出としてはそう受け取ることもできるんだね」
無数の花火と硝子。この花火が硝子の声となる。
月と雨
カエル「月はこの映画では明確だよね。つまり『好き=月』だったり。雨というか、水は前回も語っているけれど『水=障害』であって『水に濡れる=障害に向き合う』という意味になると」
主「どうしてそうなるのかは前回の記事を読んで欲しいけれど……この演出が最大限発揮されたのが『結絃をつれもどす八重子』のシーンだよ」
カエル「あー……雨に濡れているしね」
主「親だからさ、当然のように硝子について真剣に向き合っている。それはあの行動を見てもわかるし、雨に濡れているという演出でもわかる。
八重子の描き方って結構難しくてさ……苛烈な女性として描かれているんだよね。手を挙げたシーンが3回、石田母、将也、植野の3人だ。ここで将也の代理の存在である植野だけがやり返したといのも面白いところだけど……
だからさ、見方によっては相当嫌な人に見えるかもしれないけれど……それを補完する演出があるんだよ」
カエル「あー……それが月かぁ」
主「そう。あの帰っていくシーンでは、八重子の後ろに月が綺麗に輝いているんだよね。雨に濡れている、月が輝く。
これが意味するのは『障害に対して、硝子に対して愛を持って向き合っている』という意味だよ。
だからさ、本当の意味で硝子について考えているし……悩んでいる。それが伺えるような演出だよね」
カエル「でも……それを考えると、あの夏休みに入ってからの硝子というのは本当に罪深い存在なんだね」
主「おばあちゃんが亡くなって、結絃の写真を送ったり、八重子の誕生日を祝うというのが……あれが、自分がいなくなった後のことを考えての行動だとしたら……すごく切ないと共に『馬鹿姉ちゃん』と言いたくなる気持ちがよくわかるなぁ……」
月と雨と母。この一枚だけで多くのメッセージが込められている
歩いていく方向が右向きというのも、強い意志を感じさせる
導き手の不在
カエル「これも多くの箇所で指摘されていることだけど、この作品って明確に『父性』が存在していないよね」
主「この意味も自分なりに考えてみたけれど……この映画ってさ、導き手となる大人の存在がないんだよね」
カエル「……大人はいるよ?」
主「だけど、大人があるべき姿を指し示してくれるわけじゃないじゃない? 担任や親も含めて、みんな悩んでいるんだよ。
答えを持った大人がいて、その人が指導をしてくれたら1番楽だけど、この作中において、どうすればいいか答えを持った人がいないんだよね」
カエル「確かにね……みんなもがいているよね」
主「親である八重子ですらそうで、おばあちゃんもそうだからさ。もう誰も答えを持っていないのよ。
それが出ているのが父性の不在なのかなぁって。これで父親がいれば、少しは導き手になったり、逆に反面教師になったかもしれない。だけど、そんな存在がいないからこそ、この話はより重く、辛いものになっているのかなぁ」
カエル「障害に対して『こうありなさい』という一般常識はあるけれど、それに縛られない考え方をしている映画だもんね」
主「そうね……じゃあ、いよいよこの記事に本題である『硝子の選択』について語ってみようか」
硝子はどのような選択をするべきだったのか?
長かったけれど、ここから本題だね
ここからも長いよ。
主「まず、最初に注目したいのが観覧車のシーンかな」
カエル「観覧車? 前にも語った、あの光が取り入れられているシーン?」
主「そう。この映画を先進的とする理由のひとつがこのシーンの存在だよ。
植野は障害者だからじゃない、1人の少女として嫌いだと、このシーンで語っている。
そしてそれは硝子も同じはずだ、と。この場面というのは、硝子の首にかけられたカメラで撮った盗撮動画だけど、この場面の角度が面白い」
カエル「……角度?」
主「もちろん、首から下げているから体の下部を写すのは当然だけど、顔を映していないんだよね。前回の記事でも語ったけれど、顔を映さないというということは『本心を語っていない』という意味がある。
だけど、この場合はそうじゃないんだよ。なぜならば、カメラを通しているけれど、この映像は硝子の視点として機能しているから。だから、この映像からわかるのは『硝子は最初から植野の顔を見ていない』ということだ」
カエル「ふ〜ん……なるほどね」
主「それを補完するのが会話でさ。
『別に謝ってほしいわけじゃない』ってはっきり言っているにも関わらず、硝子はごめんなさいと言って、さらに『私は私が嫌いです』というわけだ。
これってさ、植野の立場になるとわかると思うけれど、会話にならないよね。謝ってほしいわけじゃないし、本音が聞きたいのに、それでも『私が嫌いです』というのは『私が全部悪いです』というのと同じで、話す気がない。そういうことじゃないんだよ」
カエル「じゃあ、どうすればよかったの?」
主「なんでも良かったよ。
『あなたに私の何がわかるの!?』でも『私もあなたが嫌いです!』でも『何でこんなに私に執着するんですか?』でも良かったと思う。
自分のそのままの気持ちを、そのまま打ち明ければ良かった。
だけど、それができなかったことが、最大の問題じゃない?」
植野が怒った理由
カエル「う〜ん……でもさ、植野が怒ったのって、他にも理由があったと思うんだよね」
主「理由? どんな?」
カエル「多分、あの場面における硝子の言葉って、植野の急所をついちゃったんじゃないかな?」
主「? どういうこと?」
カエル「植野もじゃあ自己評価が高いのか、というと、そんなことは多分ないんじゃないかな? 小学校時代のことを後悔しているし、佐原との関係をやり直すことを考えても、複雑な気持ちを抱いていると思う。
だからさ……深読みだけど『私は私が嫌いです』というのは、実は植野も同じだったんじゃないかな? って」
主「……なるほどね。1番痛いところをつかれたわけか」
カエル「多分ね。だからあんなに怒ったんだと思う。そんな答えじゃ会話にならない! という思いもあったと思うけれど……それだけじゃないよ、きっと」
本作が語るセリフの意味
そして、そこからさらに深読みしていくとある意図が見えるというけれど……
今作の重要なセリフは、本当は自分に向けて語っているんじゃないのかな?
カエル「えっと……それはどういうこと?」
主「例えば、最もヘイトを集めやすい川井の『自分のダメなところも、愛して前に進んでいかなくちゃ』というセリフがある。
監督のキャラクター紹介では、川井は『シスターみたいな子』という紹介がされていて、自分は全く意味がわからなかった。でも、今ならばわかる。
彼女は自分がダメな人間であるということを知っている。それでも、その都度正しいことをしようと考えている。それが結果的に、はたからみると最低の行為のように見えるけれど、彼女はその都度自分が正しいと想うことを選択している。
その結果、間違えてしまう。
それでも彼女は前に進むしかない。だからこそ、上記のようなセリフが出てきた。
最もそれを言って欲しいのは、実は川井本人だったのではないか?
そこの映画の観客のほとんどは、川井と同じ立場だ。そんな観客たちのある種の思いも、昇華してくれる作品だと想うよ」
顔を見れない『2人』
カエル「じゃあ話を戻して……硝子はどうすれば良かったの?」
主「そうそう。上記で将也と硝子は同一の存在と言ったけれど、それは本質的な意味でお互いの顔が見れないということもある。相手の意見や言葉を受け止めて、適切に返すことができない。
私が悪いです、という人とコミュニケーションをとるのって結構難しいと思うんだよね」
カエル「全部『私が悪い』で自己完結されるとねぇ……栗山監督じゃないんだから」
主「栗山監督は今はいいの!
だけど、その抱え込んだ感情を花火のように爆発を起こした描写がある。
それが何かというと『ごめんなさい!』と激しく泣いた場面だ」
カエル「あそこはみんなの感情が一気に爆発して、グッと引き込まれたよねぇ」
主「それもあるけれど、あそこが突出していいのは感情を声に挙げた数少ないシーンだからじゃないかな?
もちろん、それより前に声を出してコミュニケーションを図ろうとした場面もあったけれど、高校生になって、本当の意味で心からの言葉を吐き出して、感情を爆発させた数少ないシーンだと思う。
将也に対する好き、は伝わらなかったけれどさ、そのあとの……ごめんなさいとかはさ、みんなに伝わったよ。だからあれだけの爆発になったんじゃないかな?」
最も好きなシーン
えっと、ここで一番好きなシーンを発表するの?
ある意味では、とても地味なシーンのように受け止めれられるかもしれないかな
カエル「そこはどこ?」
主「ズバリ、後半の硝子が黒い服を来て駐輪場を歩いていくシーン」
カエル「えっと…… 結絃が写真を捨てに外に出たら、硝子が外を歩いてどこかへ向かうシーンだね。時間にすると、1時間50分くらいのところかな」
主「そのシーンで注目して欲しいのは2ヶ所。
- 黒いコートがマントのように翻る様子
- ポニーテール
黒というのは将也の私服の色である。
それをマントのように風にたなびかせながら、彼女は颯爽と歩いていく。
そして、そのコートが風にたなびいている。まるでヒーローのように。
山田監督は将也について『ヒーローのような存在』と語っているけれど、そのヒーローの成分が硝子に乗り移っているんだ
つまり、ここで硝子は将也の完全に同一化し、同じ罪を背負ったことになる」
カエル「死のうとすることで罪を抱えてしまった硝子かぁ……」
主「それを補完するのがポニーテールだ。
硝子が自分の感情をぶつける時、本当に勝負をするときに彼女はポニーテールを選択する。これは普段は隠している耳の補聴器をさらけ出し、自分の障害も含めて全力で他の人にぶつかって行こう! という意気込みを示している。
たったワンシーンで硝子は本当に意味で自分の罪や他者と向き合う、その覚悟を示した。
それを映像で表現した、見事のシーンである。しかも、それをまるでヒーローのように、力強い背中と共に描いた。彼女は守ってもらうだけの存在じゃない、自分で主体的に生きることを決意した、1人の女性としての描き方をしているんだ。
これだけで自分は感動してしまう。」
硝子の選ぶべきだった無限の選択肢
えっと……コミュニケーションを取るために、初めから言葉にすればよかったってこと?
それも一つの解決法だよね
主「例えるならさ、外国人の……しかも英語のようなポピュラーな言語を扱う国ではなく、もっとマイナーな、聞いたこともないような言語を扱う外国人が学校に転校してきたとする。
で、その子とコミュニケーションを取るときに『日本語はダメです、英語にしましょう』とか言われたら、負担はあるじゃない?」
カエル「まあねぇ。特に子供はね」
主「だから、お互いに努力は必要だけど、それはさ、ノートに書くとかそういうことじゃなくて……片方は頑張って日本語で話そうとする、片方はそれを聞き取ろうとするという相互努力が必要だったわけ。
やろうと思えばジェスチャーとか、色々あったわけ。
川井との最後の話し合いのシーンで、ノートに書こうとする硝子に対して、川井は抱きしめるという手段を選んだ。それが、とても重要な、言葉以上に大切な思いを伝えてくれた。
だからあのイジメの場面でも、硝子は怒ればよかったんだよ。
将也とそうしたようにさ。
そうやって、言葉以外の方法でも……言葉を交えながらも、思いを伝える努力をするべきだった。
それを笑ってごまかしてしまった。それが彼女の失敗かな」
カエル「それでいじめが解決するかはわからないけれど、一つの選択肢ではあったよね。劇中でもラインという会話法も提示されているしさ」
主「ノートや手話の……強要と言ったらあれだけどさ、それだけじゃなくて、色々な手法で考えてみるべきだった。それが硝子の失敗。
そして、それを受け入れることなく、いじめになってしまったことが、将也達の罪」
カエル「……ただ、小学生には難しい話かもしれないかもね」
主「逆に小学生だから成り立つコミュニケーションかもしれないけれどね」
『聲』の形のタイトルの意味
カエル「さて、手短に追記を書いていくけれど……」
主「ふと思ったんだけどさ、聲の形というタイトルの意味が、映画の各所に散りばめられていたんだなぁって気がついたんだよね。
例えば、この記事でいうと花火がその象徴で……硝子の声にならない声を表しているわけだ。他にも、この映画でいうと、月、鯉、雨、水、川、光……それからコミュニケーションとしては手話、LINEもあったね」
カエル「コミュニケーション技術は進歩しているしね」
主「だからさ、この映画……原作を含めた『聲の形』の聲って、実はそこいらに演出として溢れていたんだよ。
そして、なぜこの作品が『聲』の形なのか、ということなんだよね」
カエル「聲である理由?」
主「もちろん、この聲という漢字は声の旧字体だから、というのもあるかもしれない。だけど、そもそも『聲』の字源は『打楽器を打ち鳴らす音、それを聞く耳』という意味があるんだよ。『声』の字には人間の口から出る言葉という意味しか感じないかもしれないけれど……この映画は『聲の形』なんだよね。
それは明確な……意味を持った、音ではないかもしれない。
だけど、明確に硝子をはじめとした登場人物の気持ちを代弁していたわけだ。
それが……この映画における『聲の形』そのものなんじゃないのかな? って
さらに言えば、それは早見沙織の演技もまた同じで……まとめるとさ
月、花火、水などの演出
早見沙織をはじめとした声優の演技
登場人物の葛藤
そしてその選択
そういったありとあらゆるものが『聲』に溢れていたんだよ」
カエル「なるほどね……だから聲の形なんだ」
主「その音なき聲に、どれだけ気がつけますか? という意味も若干はあるのかもしれないね。
テーマ性と映画特有の力……漫画では出せない『聲』の、音の魅力に溢れた作品だと思うよ」
音について
カエル「最後に、いい音響で聞いたらしいけれど、どうだった?」
主「あまりにも良すぎて……細かい演出が多すぎてさ、良かったんだけど、一方で辛くなってしまった感もあるかな。
よく言われるのはノイズ混じりの音楽で、それも確かに素晴らしかった。だけど、もっと感銘を受けたのは『モブの声』なんだよね」
カエル「京アニといえば『涼宮ハルヒの消失』でもモブの声のリアリティがすごかったもんね」
主「なんでもないシーンなんだよ。例えば、佐原と硝子が再開してベンチで話しているシーンとか、よく聞くとモブが……それっぽいことを話しているわけ。会話自体は作品に一切関係しないよ? だけどさ、その言葉があることでよりいっそうの『リアリティ』を提示されてしまう。
だから、相当に辛かった。3回目だからさ、まだマシだったけれど……初回だったら見ていられなかったかもしれない」
カエル「……リアリティがさらに増してしまう分、えぐられるんだ」
主「ただ、京アニがどこまでリアルにこだわって作ったのか、それがよくわかるからね。
この映画もやっぱり映画館の、いい音響で観ることをオススメする。
どうしても派手な爆発とか、いい音楽が流れる作品に音質云々と語りたくんなるけれど、この作品に関しては、いい音響で聞くことがどれだけ作品世界をより強く輝かせているか、よくわかるよ」
カエル「aikoの歌も歌詞を読むと、すごく胸にくるしね」
主「いろいろ言われているけれど、やっぱり聲の形のための曲だと思うよ」
最後に
いやー、長い記事になったねぇ!
ぶっちゃけ、お金を取れる記事を目指したからなぁ。
主「実際、コピー本とはいえ、同人誌も売ったし。(現在は取り扱っていません)
聲の形について考えすぎて、誰もついてこれなくてもいいから、深い批評を目指した。
多分、人によっては『ここはおかしい!』とか『ここは考えすぎ!』ということがあると思う。もちろん、制作サイドに聞いたわけじゃないし、あまり情報収集もしていないから、正解、不正解はわからない。
だけどさ、元々考察好きだけど……これだけ考察できる作品ってなかなかないんだよね。それだけでも、どれだけこの作品にハマったか、わかって頂けたと思う」
カエル「この記事も一万文字クラスだからねぇ」
主「最初はnoteで有料記事にするか、投げ銭方式にしようかなぁと思ったけれど、やめた。何よりも読んでもらいたかったし、この作品の素晴らしさを共有したかったから。
なので、面白かったと思う方はブクマ、Tweetで拡散してください。この映画が一般層にあまり知られずに終わるのは、やっぱりおかしいと思うから」
カエル「実際、賛否はあるし、キャラデザが苦手とか、話が重すぎるという意見もわかるしね。やっぱり原作のファンはこの映画の描かれ方に違和感を覚えるのも、わからなくはないし」
主「でもさ、シンゴジラの時も語ったけれど、賛否両論の映画はいい映画なんだよ。
しかも、賛否両論の内容が……話のあら捜しとかではなく、レベルの高いものになっている。
それを考えたら、物語と障害という重いテーマに一石を投じた作品になったんじゃないかな?」