物語る亀

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物語愛好者の雑文

オリジナル長編小説『白泉光』 5/14

 

オリジナル長編小説 『白泉光』の5回目になります。

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 何をするでもなく新しい家にたどり着く前に、近所をぶらりと歩き回り帰る頃には西の空は茜色を通り越し、星すら瞬いていた。 相変わらずの平屋にはすでに灯りがある。台所からは換気扇が回り、風呂場の窓は白く曇っていた。
 引き戸を開けて中に入ると、すでに小さなスニーカーと汚れたスニーカーがキレイに並んで揃っていた。
 何もいわずにとりあえず靴を脱ごうとかがみ込むと、奥から景虎が顔を出した。腕まくりをしたその服は若干濡れており、どうやらお風呂を湧かしていたのだろう。
「ああ、おかえり」
 にっこりと満面の笑みをみせる。その笑顔に小さく笑いかけたが、きっと不細工な笑顔になってしまっただろう。
 あがって和室に入ると、すでにちゃぶ台が用意されていた。
「遅かったね」
 台所から今日子さんが顔を覗かせる。昼間見たような化粧はすでに落としていた。こうしてまじまじと見ると、母と同じ歳のはずにも関わらず今日子さんの方が若干若く見える。
 鞄を畳の上に置き、そっと向き合い頭を下げた。
「申し訳ありませんでした。明日からは早く帰ります」
「別に構わないよ、なに、部活でもやってんの?」
「いえ、別に……」
「じゃあなんで……やめようか。これじゃ尋問だ」
 そう呟くと背を向けて台所へと戻っていく。ふっと一息ついたところに、再び今日子さんが顔を覗かせた。
「ああ、別に早く帰ってこいってことじゃないよ。非常識な時間じゃなかったら別に構わないけど。ほら、勉強や付き合いもあるだろうし」
 それだけ話すとそそくさと再び台所に戻っていった。
 鞄を三畳の部屋に置き、何かできないかと居間を見渡すが、勝手が分からず立ち尽くしてしまう。
 とりあえず散らかった衣服などを整理しようかと思うが、あまりあれこれいじると逆に迷惑になると思い、手を止めてしまう。そうこうしているうちに、先ほどよりもずぶぬれになった景虎がゆっくりと戻ってきた。
「とりあえず座りなよ。もう少しでご飯ができるはずだよ。なんだったら先にお風呂はいる? あんまり長いと今日子さんが怒るけれど」
 くすりと笑いながら話す。
「ううん。わたしは最後でいいよ」
「遠慮する必要はないんだよ。別に入りたかったから、誰から入っても構わないから。特にルールはないから」
 コップなどを準備する景虎を手伝おうと台所へと足を向けるが、むしろ狭い中邪魔だといわれてしまい、仕方なくちゃぶ台の前で立ちすくんだ。
 やがて景虎はちゃぶ台の前に座ると、麦茶をごくごくと飲み干した。そのまま腕で口元を拭い、その手で座るように促した。仕方なく制服のスカートを膝に折り、正座する。
 やがて今日子さんがカレーを運んできた。それぞれの前にどん、と乱暴に皿を置くと、自分はあぐらを組んだ。
「あれ、暁はまだ制服なんだ」
「あ、すみません……」
「いや、謝ることじゃないけれどさ、制服にカレーがついたら大変だよ。着替えてきたら」
 すっと一礼して三畳間に戻る。ボストンバックからジャージを取り出すと、それに着替え始める。持ってきている服はそう多くなく、今はまだ寝間着代わりにはこの服しかない。
 ゆっくりと五分ほどかけて着替え終わり、戻ろうと視線をあげた瞬間に、タンスの空いたスペースに置かれた母の位牌が目に入った。そっと一度撫でると自然と笑みがこぼれた。
 そしてちゃぶ台へと戻ると、テレビを見つめながらじっと待っているふたりの姿があった。あわてて席に着く。
「すみません、先に食べていただいても……」
 こちらを一瞥すると、何もいわずに手を合わせた。
「それじゃ、いただきます」
 いただきます、と唱和した後スプーンを握りしめ、一目散に食べ始めた。
 一方、ビールの缶を開けながら一杯目を口にする今日子さん。その視線はずっとテレビに向かっている。カレーもつまみでしかないのだろう、ご飯は盛られることもなく、ルーの量もそんなに多くはない。
 また一口だけくちをつける。カレーなんてレトルトを使えばどこの家庭もほとんど同じ味になるだろうに、なぜこんなにも違うのだろうか。
 結局、二口ほど食べるとやはりスプーンを置いてしまう。
「あの、今日子さん」
 呼びかけるとテレビを見ていた目が、こちらへとじろりと向く。
「あの……今日学校にいらしてましたよね?」
「ああ、そりゃあね。一応保護者交代したしね。顔見せをかねて、今後のこととか、普段の様子を訊きにいったんだよ」
「何かいっていました?」
「いや、特に教師陣は大したことはいってないよ。心配してたんだ、とかそんな当たり障りのないことだけ。結局、教師といえども他人だからできることは少ないだろうね」
 そういうと、すっかり汗のかいたビール缶に手を伸ばす。
「あんな場所で、制服姿を見るとやっぱり母親そっくりなんだね。一瞬生き返ったのかと思った」
 すっと立ち上がると押し入れを開けて、カバーが手垢で汚れている、一冊の年期の入ったアルバムを取り出してきた。
 ペラペラとめくると、あるページで指を止めた。
「ほらこれ」
 その細い指が指し示したのは、四人の高校生が映った写真だった。一番左端に一目で分かる、若かりし頃の母が映っており、真ん中には柄の悪い赤毛の女性がいる。おそらく今日子さんだろう。
 半袖姿だから夏の頃、どこかの公園で撮られた写真だった。四人とも雰囲気が違い、今日子さんはヤンキー風の足首まで隠れるような長いスカート姿なのだが、母は髪を染めるどころか、スカートの丈ひとつとっても規則通りであろう長さで、優等生として非の打ち所がない。残りのふたりのうち右端の女性はいかにも男受けしそうな軽そうな風貌だったし、今日子さんに肩を組まれている女性は小太りだが、真面目そうだった。このグループを町中で見かけてたら、たぶんわたしは首を捻るだろう。
「ほら、こうして見ると学生時代なんてそっくりだと思わない? やっぱり親子なんだね」
 写真の中の母の笑顔は、わたしが知るものとは多少違うものだった。どんなに苦しくても、歯を食いしばって浮かべた笑顔ではなく、どこにでも普通にいるような、友達に囲まれている少女の笑顔。
「……母の学生時代の写真初めて見ました」
「そうなんだ。あの子、けっこうアルバムとかまとめるのマメそうだったけれど」
「わたしの幼いときの写真とかは結構あるんです。だけど、母の昔の写真とかはほとんどなくて……祖父母のいる実家に帰ればあったのかもしれませんが……」
 なるほどね、と呟く。そのままビールを口に付けた。
「それほど写真があるわけでもないんだけどね。あんまり映りたがらない子だったし。それにね、高校も途中で辞めちゃったから」
 じっと黙ってアルバムを眺める。母の写った写真は開かれたページにある一枚しか写真はなく、他は生まれたばかりの景虎の写真で埋め尽くされていた。
「あ、この辺りの話は聞いてるの?」
「ええ、知ってます。わたしを妊娠して高校を退学したって……」
「ああ、よかった。急にタブーな話をしちゃったかと思ったよ」
 ふう、とひとつ息をついた。
「急だったからね。辞める半年前から明るくなり始めてさ、ようやく高校にも慣れたかなっと思ったら、急に何にもいわないで退学しちゃった。一応自主退学って形だけど、あれは教師が追い出したんだろうね」
「……わたしの高校も他クラスの女の子が妊娠して辞めていきました」
「おかわり」
 口回りを汚した景虎が皿を今日子さんへと向けた。
「自分で好きなだけとってきな。それから、口回りも拭いてくるんだよ」
 はあーい、と間延びした答えを返すと、ゆっくりと台所へと向かっていった。
 次のページへとアルバムをめくると、まだ生まれて間もない景虎と、それを抱く眼鏡をかけた、優男の男性の姿があった。
「この男性は景虎君の?」
 カレーを食べて、こちらに振り向くこともせずに答える。
「そう、景虎の父親。わたしの兄貴だよ」
「え?」
 お兄さん? 
 意味がわからないと首をかしげると、合成された、乾いた笑いしか流れないお笑い番組に顔を向けながら、抑揚の全くない声で答える。
「景虎はわたしの子供じゃないからね、兄貴の子」
「兄貴って……お兄さんの?」
「いや、それ同じ意味だから」
 こちらに向き直る今日子さん。くすりと小さく笑いながら足を崩した。
「別に隠してることじゃないしね。景虎も知ってることだ」
 きっと今のわたしは後から見るととても面白い顔をしているだろう。百年の恋も一瞬で冷められてしまうかもしれない。その証拠とばかりに、くすくすと笑われてしまった。
「どうしたの?」
 戻ってきた景虎が笑っている今日子さんと呆然としたわたしを見比べて、ゆっくりと話しかける。その手にした皿には二杯目だというのに山のようにこんもりとそびえるライスに、その分量には明らかに足りないルーが溢れんばかりに盛られていた。
「またお前はそんなに載せて………全部食べきれよ」
「分かってるよ」
 がつがつと口に入れていく。パジャマには元々染みができていたが、その上から新しい染みができるのは時間の問題だろう。
 呆れながらも、その鋭い眼光から目尻が下がる視線は、やはり母親のものとしか思えなかった。きっとわんぱくな男の子を持った母親に共通したものだろう。
 しかし、その視線はやがてわたしにも振られる。じっと視線を下げて皿を見やると、わたしを鋭い眼光が襲った。あわててスプーンを手にして、若干冷えたカレーを口に運ぶ。二口、三口もするとやはり手を止めてしまう。
「辛過ぎた?」
「いえ、そんなことはないです」
 そう答えながらも手は全く動かない。
 昨日からあまりにも食べていないわたしを心配しているのだろうか、優しい視線は全く揺るぐことなく注がれており、逸らすために、わたしは作り笑いを浮かべた。
「あの、大事な話があります」
「なに?」
「あの、お金のことなんですが……」
 その瞬間、すっと表情が変わる。何とか取り繕うと言葉を重ねる。
「母の保険金もありますし、その、お金なら出せます。お世話になるわけですから、その生活費を出すべきだといわれたらもちろんお支払いしますし、なんならばどこかに安いアパートを借りることもできますし、その……」
 言葉を重ねれば重ねるほどに今日子さんから表情は消えていってしまう。それを取り繕うと言葉が次から次へと溢れだしてくるが、渋面を壊すことはできない。
 一度ちゃぶ台をこつん、と拳で叩いた。けした大きい、怒りに任せたものではない。しかし、それでわたしを止めるにはあまりにも十分過ぎた。
 すっかり食べる手を止めてしまった景虎がこちらをじっと見つめる。ふう、とため息をひとつ吐くと、再び食べ始めるが、そのスピードは先ほどよりもずっと遅く、時折こちらの様子をちらちらを眺めていた。
 今日子さんは腕を組み、じっと眼を瞑った。そして大きく二度、深呼吸をすると、眼を見開いてそっと指を奥間へと指し示す。
「あれ、分かるよね」
 あまり広くない奥間を半分近く占拠しているのは仏壇だった。それほど大きくもないが、それでもこの小さな家に比べると立派に見える。
「うちはね、ここ数年でふたり死んだんだ。お袋と……兄貴がね」
「……」
「いや、別にふたりが死んだこと自体は関係ない。でも、やっぱりふたりも死ぬとさ、それなりに残るものもあるわけだ。分かる?」
 質問してはいるものの、一切の発言を許さない、きつい声でいわれる。
「確かにこんなおんぼろな家に住んでいたらさ、金の心配するのもわかるよ。でもね、この家は元々親父の持ち家だし、もう金はかからない。それにふたりの保険金もある」
 そこで、すっかり汗も乾いてしまったビールを一口呑む。
「あんたが思うほどうちは金に困ってないんだ。食っていくだけならば、わたしの稼ぎでも十分足りる……いや、そんな話じゃない。なんでわたしがこんなこと言っているか、わかるかい?」
「いえ、本当にすみません。わたしがバカにしたような口調だったらすぐに謝ります……」
 頭を下げようと一歩下がるが、その肩をとんと叩かれた。
「そういう問題じゃないんだ」
 顔がくっつきそうなほどの至近距離で、鋭い眼光に射すくめられる。あわてて視線をそらそうとするが、その迫力がそうさせてくれない。きっと、蛇に睨まれた蛙というのは、今のわたしと同じ気持ちなのだろうと、どうでもいいことに思考が逃避した。
「あんたがその金をどう使うのかは勝手だよ。それはあんたの母親が遺したものだからね。男に貢ごうが、起業しようが、銀行で眠らせようが、勝手さ。だけどね、それをわたしたちに払う必要は一切ないし、そんなことを要求した覚えもない」
「でも……」
「でもも何もない。もういいね、この話は終わり。景虎、風呂は湧いてるか」
「ひふへもほうそ(いつでもどうぞ)」
 さっと体を翻すと、足早に足音をならしながら浴室へと入っていった。
 ふう、とひとつため息を吐く景虎。そして今日子さんの皿からルーだけを貰うと、かき込むように食べ終えた。
 口の中のものを全て飲み込み、じっとこちらに澄んだ子犬のような目をしながら、空いたふたり分の皿を重ねながら立ち上がる。
「暁。君はもうボクたちの家族なんだ」
 そのまま台所へとゆっくりと下がっていく。
 結局、わたしはまた失敗したらしい。
 いつものことといえば、いつものことだ。誰かと距離を狭めようとしたら、失敗して変な間ができてしまう。それを埋めることもできず、そのまま誰とも疎遠になってしまう。
 小さい頃からそれは変わらない。
 思えばそれなりに話していた相手はいつもどこか距離を詰めにくい相手ばかりだったような気がする。生徒よりは教師の方が話しやすいのもそれが一因だろう。
 じっと俯き目の前のすっかり冷めてしまったカレーを一口食べるが、全く喉を通るはずもない。
 台所から水を流す音が響く。しかしすぐに止まり、ゆっくりと景虎が戻ってきた。ちゃぶ台の前に座り、テレビを眺めながらあっけらかんといった。
「そう気にしなくていいよ。今日子さんは怒るひとだけど、すぐに忘れるひとだから」
 そのままチャンネルを次々と変え、やがて見るものもないと分かるとごろりと横になり、手元に転がっていたワンピースを読み始めた。
 そっとカレーの残った皿を持って立ち上がり台所に立つと、ビニール袋の中にカレーを放り込み、ぎゅっと縛ってゴミ箱に捨て、皿を洗い始めた。