オリジナル長編小説 『白泉光』の2回目になります。
1回目はこちら
母が暗い顔をして帰ってきたのは一週間前のことだった。働き詰めて疲れたのだろうと必死に励ましたが、無理矢理こしらえた笑みをこちらに向けるだけで何も話してくれなかった。
そしてあの日。
わたしは学校に出かける前に不思議といった言葉がある。
「さよなら」
ドアを閉めてからどうしてあんな言葉をいってしまったのだろうと、なぜだか激しい後悔が襲った。親に朝出かける挨拶がさよならでも、間違えたという一言で済む話で、そこまで気にすることではないはずなのに、その日は妙に胸が騒いだ。
夜。いつ解約しようか相談していた家の電話が珍しく鳴った。病院からだった。
母が事故にあった。
自転車で帰っている最中に、籠に多くの食材を詰め込み、崩れてしまいそうな荷物に集中していたのだろう、交差点に差しかかっても停止が遅れて車道に少し出てしまった。そこを信号が切り替わる前に駆け込んできた、猛スピードで突っ込んできた車に轢かれた。
運転手はまだわたしとそう歳の変わらない若い男で、体中につけたアクセサリーが印象に残る風体をしていたらしい。轢いた直後、周囲に人通りがなかったことと、何よりも怖くなったのだろう、男は数十メートルほど逃げようとした。しかし騒ぎに感づいた住民に自転車で追っかけられている姿に諦め、車を止めた。
病院に駆けつけた時、まだ母にはかろうじて息があったがいつ事切れてもおかしくない状況だと説明された。万全は尽くしたがおそらく数日持たない、奇跡を祈るしかない状況と、医者からの説明がなくともはっきりと見て取れた。
思えば、あの時のわたしは不思議と冷静だった。実の親が、しかもたったひとりしかいない家族が不慮の死をとげようとしているのにも関わらず、どこか冷めた目でそれを見つめていた。
一瞬だけ目覚めた母はわたしの姿を見つけると、震える手を伸ばした。そっと手を掴むと、冷え性で冷たかった手がさらに冷たく、氷の彫刻に触れているようで、こちらに顔を向けながら、最後の言葉を残した。
白泉光の実が食べたい、と。
いや、もしかしたらそんなことはいっていなかったのかもしれない。白泉光ではなく、たまには線香を上げにきてね、という意味だったのかもしれない。なにしろ、息も絶え絶えで何かを伝えることなど到底難しいあの状況で、わたしが聞き間違えていない可能性の方が低いぐらいだと思う。
それでも白泉光を食べたい、と母はいったのだ。なぜわかる、と問われるとそんなことはわからない。
なぜかそんな気がするという、曖昧な予感だがそれは確信でもあった。
その一言だけを呟いた後、意識が混濁して眠りについた母は、日付が変わろうとする時間に、急な死にも納得しているかのように安らかに息を引き取った。
その後は慌ただしくてめまぐるしい日々が過ぎていった。
相手の親の土下座する姿すら見えそうな謝罪文と慰謝料の話があり、弁護士の先生と話もあった。通夜にはその死に方が哀れだったのか、普段は母を罵り、時には足蹴にしていた親類までもが涙をこぼし、わたしを哀れんだ。そして、きっと告別式になるともっと多くの人が、次々に涙を流すのだろう。便利なものだ、自分がどんなにひどい扱いをした相手かも忘れて、通夜の場になると自動的に涙がこぼれるようになっているらしい。どういった精神構造をしているのだろう。
そこに本当に母のことを悼むひとはほとんどおらず、親類縁者は一通り泣き終えると、一様にちらちらとこちらを見ると、先ほどまでハンカチで涙を抑えていた者さえ、誰がわたしを引き取るのかゴミの押し付け合いをしていた。
そんな中、数人だけ本当に母の死を悼んでくれたひとがいた。今日子さんは、明らかに昔はレディースにいたであろうとわかるような、ほとんど赤に近い茶髪や、その切れ長の瞳、そしてその一挙手一動足がやや乱暴なひとだったが、その場にいる誰よりもまともで誠実なひとだった。いや、それは今日子さんに失礼だろう。何しろ、母の死よりも自分や子供たちの礼服の着こなし方や、葬儀のマナーを気にしているような人間たちばかりだったのだから。
今日子さんは似たような風貌の女性たちと共に現れた。服装はまちまちで、ひとりだけしっかりと礼服に身を包んだひともいたが、明らかに職場から駆けつけたであろうOLの服装のひともいたし、今日子さんに至ってはシャツにジーパンにサンダルと、隣のスーパーに寄るついでですとばかりの服装だった。しかし、焼香の列に並び、数少ない母も写った写真の中から、とびきりの笑顔を写した遺影を眺めると、肩を落とした。ひとりが小さな嗚咽をあげる。その声に触発されたのだろう、一様にハンカチで目元を抑えたが、今日子さんだけは歯を食いしばり、その遺影をじっと睨みつけた。
わたしはそんな光景にも実感もこもらず、とりあえずそっと俯き座り込んでいると、話し合いをしていた親類のおじさんがこちらへとつかつかと近づいてきた。足下の黒い靴下が目に入ってきた時、腐臭がしてきて吐き気を催した。たまらずに顔を上げると、おじさんは今日子さんたちを一度ちらりと汚物を見るような、訝しげな表情を向けて再びこちらに視線を戻す。昔、おじさんは三万円を借りたまま返せない母をおばさんとともになじり、土下座する母の頭を足蹴にした。そして毎日電話で催促し、そんな状態が半月ほど続きようやく三万円を返すと、利子も付けないことをなじった。
そのおじさんが何度か舌打ちした後、わたしに話しかけた。
お前の家が決まった。文句があるなら施設にいくか。
若干にやついた笑みを浮かべながらそう告げる。
どんな話の流れになったのか、わたしにだって容易に想像ができる。
親族はわたしの処遇をどうするか話し合った際に目を付けたのが、あまりにもありきたり過ぎるが、この後に入ってくる母の保険金や慰謝料だった。それに母がいない間に家の一切を行っていたわたしを、ただで使えるお手伝いさんにしようと考えている節があった。
目が合うだけで汚されると視線を落とし、必死に目をつぶったが、おじさんはいつまでも顔を上げないわたしの肩に手をおいて気持ちはわかるといったが、返事をしないのに苛立ったのか、頬を平手で叩いた。叩かれた場所が赤く染まる。痛みが脳天を突き刺すが、それを現実と意識をしない。小説の中の登場人物に叩かれたところで、本気に相手をする方がどうかしているようなものだ。世界に存在するのは母だけ。それ以外の人間は存在しない。わたしにとってこの通夜というものは、単なるじっと耐えていれば終わるイベントのひとつでしかなかった。
さらにおじさんは手をあげた。反対の頬が再び赤く染まる。周囲の大人たちもこちらじっと眺めているが、だれも止めようとしない。
さすがにあれはやりすぎじゃない?
あの子も無愛想だしねえ。
反抗期の子供にはこれぐらいがちょうどいいのよ。
高校生にもなって何もいえないのかしら。
自分の子供じゃない人間に構うほど大人たちは善良でもなければ、偽善者でもなかった。散々母を罵っていた過去が、娘も罵ってよいという理屈になったのだろう。そっと目をそらす者はまだ善良だったのかもしれない。だけど、親類の常識というものを打ち破れる人間はほとんどいない。
ただ、ゼロではない。
二度目のビンタで振り上げられた拳を薄く見つめていたが、それでも視線を合わせようとしないわたしに余計に苛立ち、おじさんは拳を握り固めた。今度は歯の一本は持っていかれるかな、とぼんやりと考えていたところで影が落ちた。
「やりすぎ」
今日子さんはわたしの前に立つと、かばうように両手を上げた。どいてくれないかと騒ぎ立てるおじさんに、啖呵を切る。
「あんたら、親を亡くして天涯孤独の女の子が、通夜の席で、大人の野郎に殴られてるのに見向きもしないとは、いい度胸してるじゃねえか。人間が腐ってなければとてもできない芸当だぜ」
おじさんはその言葉にさらに怒り、何かをまくしたてる。その音は耳に届かない。
そんなわたしの体をそっと包み込む姿があった。ふと顔を上げると、少し肌の荒れた今日子さんの顔がすぐ目の前にある。
「ああいいさ。あんたらに渡すくらいなら、この子を引き取るよ。マブダチの子供は、わたしの子供だ」
おじさんは顔を真っ赤にして今日子さんに痰を吐く。頬にそれは命中し、黄色い汚らしいそれは頬を伝う。しかしそれを拭うこともせず、そっと親類たちを睨みつけている。眉をひそめた親類は、ついに母の悪口も飛び出した。
友達があんなのだから荒れた生活をしたんだ。
うちの子を連れて来なくってよかった。
あんな子を引き取らなくていいようになったのだから良かっただろう。
娘の育て方を間違ったんだ、これだから片親は。
口々に会ったこともないようなひとたちが、思うがままに勝手で汚い言葉がその場を支配するが、わたしの耳には届かない。右から左、これならば読経のほうが聞き入っていたぐらいだ。
そっと、汚物がついた頬を袖で拭ってあげた。わたしの顔をじっと眺めると、母の次にすてきな笑顔でわたしを迎え入れてくれた。
続き