物語る亀

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物語愛好者の雑文

幸色のワンルーム騒動について〜犯罪と表現の関係性とは?〜

 

 

えー、また表現の自由に対するお話です

 

最近、いろいろ続くねぇ

 

カエル「なんか政治的なお話ばかりしているねぇ。

 別にそういうわけでもないつもりなんだけれど……まあ、みんなそういうか」 

 主「今回のテーマは『犯罪と表現』です。

 もちろん異論もあるだろうけれど……ちょっと、最近過激かなぁ、と思うことが続いているので、意見を表明させていただきます」

 

カエル「では、記事の始まりです!」

 

 

 

幸色のワンルーム騒動に対する姿勢について

 

 

では……まずは、今回の騒動に対する立ち位置を表明しようか

 

難しいところだけれど、基本的にはテレ朝の放送中止は支持できません

 

カエル「まあ、そうだよね。じゃなかったらこんな記事は書かないし……」

主「ただ、その姿勢に対して『理解』は示します。

 いうなれば理解はするけれど納得も支持もしない、ということかな」

カエル「……え? どういうこと?」

 

主「まずテレビ、特に地上波は高い倫理を求められるというのは理解する。多くの人が無差別に見る可能性が高いメディアであることは間違いない。ネットや好きな人だけが見るケーブルテレビなどとは訳が違うのは当然である。

 そのために、慎重な表現を選ばなければいけないというのはその通りだ。

 もっとも、今のテレビにそれができているのか? と言うと、意見は様々だろうけれどね」

主「確かにテレビが簡単にデマを流したり、あるいは遺体や過激な暴力シーンなどを放送することがあったら、それはさすがに問題だよね……」

 

主「ただし、自分はその理由が『犯罪性のある表現を扱っているから』という理由で関東地区の放送中止を決めたことを支持はしません。

 今回、この記事で語りたいのは……『犯罪』と『表現』の関係性についてです」

 

 

幸色のワンルームの評価

 

カエル「そもそも、幸色のワンルームを読んだの?」

主「読んだよ。と言っても、pixivで公開されているものだけれど、それでもある程度はどのような作品かはわかるし……多分、この騒動を語るのに大きな問題はないように考えているけれど」

カエル「その感想は?」

 

主「表現としては稚拙なところがある。

 やはりどうしても比べてしまうけれど、同じ時期に話題になった犯罪性のある家族を描いた『万引き家族』と比べると、大きく差があると言わざるをえない。ただし、この評価は酷いものでもあって、例えるならば世界が認めたミシュラン三ツ星レストランと、町のちょっと有名なレストランを比べているようなものだからね。

 元々がネットで生まれた表現ということは差し引いて考えるけれど……多分、この騒動がなければ語ることは一切なかった作品でもある

 

カエル「う〜ん……じゃあ、見所はないの?」

主「いや、ないわけではないよ。

 2人だけの世界に入り込む類の恋愛作品としてはよくある話で、そこに誘拐という違法性のある行為を設定に加えている。これによって『虐待を受けている少女(中学生くらい)の子を誘拐で救うことは是か非か?』という問いが生まれている。

 つまり、『ある程度は自分で判断することができる年齢の子が、自分で状況を選択して親以外の元へ向かうことは果たして悪なのだろうか?』という疑問が生まれている。

 その意味では判断力の乏しい幼い子を誘拐して……というのとは、また違う物語であることを指摘して、そこが重要な違いだということを述べてあげないと、さすがにアンフェアかなぁ」

 

カエル「中学生がどれほどの判断能力があるのか? という問題にも発展しそうだけれど……少なくとも少年法は善悪の区別がつく14歳から適用ということから見ても、一定の判断力はあるはずだ、という解釈の方がいいのかな」

 

 

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ネットでの物語表現

 

今作は『ネットから生まれた』というのが特徴なのかなぁ

 

10年前ならばケータイ小説として生まれたんじゃない?

 

主「自分は10年以上前のケータイ小説が全盛の時代を横目で見ていたけれど、話題になる作品の多くがレイプ、妊娠、中絶、ドラックなどの過激な描写が多かった印象がある。

 それは今でも同じで……例えばさ、ネット広告で出てくる漫画って犯罪性のあるものが多いじゃない?

『恨みを抱えた人が復讐する』とかさ、エッチなところを強調したり……」

 

カエル「『当て屋の椿』みたいにエロティックな描写がある作品はそこばかりを強調されて、大事なことは無視されるよね……

 アクセスしてもらうためには仕方ないことかもしれないし、アドセンス広告を貼っている側がいうことでもないかもしれないけれど……」

 

主「やはり暴力とかエロなどの犯罪性のある描写というのは、とても読者や観客に伝わりやすい表現でもある。良くも悪くもね。

 無数にある作品の中で目立つためにはそう言ったキャッチーな要素を入れていく必要もあるだろうし……極端なことを言えば『バカでもわかる物語』にしなければいけない。

 そして今回の騒動のように簡単に人が反応する。ネット用語で言えば釣れるわけだ。結局のところ、そういう表現が目立ちやすい世の中になっているけれど……それはあくまでもネットなどの中での話。

 大手メディア側はそういう作品を発表していいのだろうか? という疑問を持たなければいけない時代になっていることを、より強く意識しなければいけない

 

 

テレ朝に望む態度として

 

カエル「結局さ、どうして欲しかったの?」

主「簡単なことだよ。

『1度決めた以上は最後までやり通せ!』ということ。

 つまり『表現として鑑賞した後にあれこれ言ってくれ』ということを表明して欲しかった。その表現自体を奪われては、どのように反応すればいいのかは視聴者としても態度を決められない。

 前にも語ったし、これからも何度も言うけれど、表現規制というのは自主規制から始まることも非常に多い。国や政府、自治体は始めるものではなく、メディア側が自主的に始めるものだ」

 

カエル「それこそヘイズコードであったり、今回の倫理的に問題だからと取り下げたりね……」

主「知り合いの脚本家が語っていたのは『今のテレビドラマは面白い作品を作れない。高い倫理観を求めすぎて、表現できることの幅がほとんどないし、金もない』と語っている。

 現実には子供が生まれて『あ〜……失敗したなぁ』と思う親もいるし『早く親が死んでくれないかなぁ』と思う子供もいる。だけれど、それはテレビドラマで描くのは難色を示される。もっと細かいこともたくさんあるよ。そんな状況で面白いものが作れるのか? という問題だ」

 

カエル「それで工夫をしろ! と言われても……という思いはあるかもね」

主「多分、今の時代に放送開始したならばクレヨンしんちゃんは放送中止だよ。確固たる評価が定着したからこそ大丈夫だけれど、一時期は『子供に見せたくないアニメ』だったわけだし。

 でも、そういった若干の問題を抱えているからこそ、表現としての面白さもあるわけなんだけれどね……

 

 

 

 

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犯罪と表現の関係性について

 

犯罪の物語は悪なのか?

 

今回『犯罪を美化している!』という声も上がったわけだけれど……

 

 

う〜ん……何が悪いのかもよくわからん話だ

 

 

カエル「そもそも『幸色ワンルーム』が実際に起きた事件を参考にしているということだけれど……」

主「そういう作品はいくらでもある。

『八日目の蝉』なども実際に起きた事件を参考にしているけれど、特に大きな問題はなく絶賛されていた」

カエル「えっと……でも、万引き家族も八日目の蝉も、悪いことをしたら罰せられるわけで……」

 

主「それは物語としての都合でしかないと思うけれどね。物語の重要な『転』や破滅を作り出すための展開でしかない。

 でも、悪いことをしたら罰せられなくてはいけない、という作品は確かにある。

 例えば……『かいけつゾロリ』はイタズラの王様だけれど、悪いことをずっとしているダークヒーローということもあって、望むもの……かわいいお嫁さんや自分の城は手に入れられない。そういう教育的な側面がある作品だって多くあるのは事実だし、そういう作品もあるのも事実だ。

 だけれど、必ずしもそういうことではないんだよ」

 

カエル「というと?」

主「例えば『ゴットファーザー』はマフィアの物語だけれど、1においてマイケル・コルシオーネはマフィアとして罰を受けたのか?

『スティング』は詐欺師の物語だけれど、巨悪のマフィアを倒すためとはいえ詐欺を行って罰を受けたのか?

『ルパン三世』は窃盗犯の物語だけれど、それを英雄的に描いている。日本を代表するヒーロー像の1つであるのは間違いないけれど、これだって犯罪を描いている。原作ではバンバン人を撃つし、女性に手を出しまくる悪党ですよ?

 こういった作品のように『悪党を描く』という作品は多くあり、そして必ずしも罰を受けるというわけではない。

 それでも名作や長年にわたり愛される作品は生まれているんだよ」

 

 

『正しいこと』とはなんだろう?

 

……なんか厨二的な発想だよね

 

価値基準を何に求めるか、というのはとても重要なものだよ

 

主「例えば、それを法律としよう。

『法律に反していることを描いているからダメな表現だ!』という基準であれば……未成年者の喫煙、あるいは自転車などの2人乗りなどの描写もダメになる。でも、そういった行為があるからこそ、描ける物語があるわけじゃない?」

カエル「罪の大小はあるけれど……確かに窃盗はダメだけれど、でもバイクを盗むという歌詞でなければ尾崎豊の言いたいことは伝わらないだろうしね」

 

主「以前に児童ポルノの単純所持の話をしたけれど、施行時に賛否両論が出た法律だってある。それを施工されたからと価値基準にしてしまうと、それは権力に対する追従以外の何物でもない。

『悪法も法』とはいうけれど、では物語は法令順守を価値基準にしてもいいのだろうか?

 そうなると、治安維持法が施行されても、それに追従するのが正しい表現のあり方になってしまう

 

カエル「それはそれで極端だよ」

主「自分が言いたいのは『表現とは時に法律違反をする描写がなければ描けないものがある』ということ。

 その表現に対して『ここで描いていること法律違反だろ!』というのは自由。

 だけれどそれを理由に表現そのものを取り締まるのはダメ。

 少なくとも、紙とペンや電子データで書かれたものである以上は、それを書く行為自体は何の法令にも違反していない。決して『表現することそのもの』を非難するべきではないと考えている」

 

 

違法=悪なのか?

 

カエル「また厨二的なことを……」

主「これは思考実験でもあるけれどね。

 例えば、近年の貧困を扱った映画で例に出すと『フロリダプロジェクト』というアメリカの貧困家庭を描いた作品では詐欺まがいの行為や売春などの犯罪や倫理的に問題のある行為が描かれている。でも、生きるためにはそうしなければいけない現実がある。

  『ジーサンズ』では高齢者問題で食べていけないために、強盗を働くという物語が展開されている

 一方で『私はダニエルブレイク』という政府や自治体の対応を非難した映画では犯罪などに手を染めないけれど、どんどん衰弱していく姿を描いていた」

 

カエル「特にジーサンズは娯楽作品ということもあるけれど、強盗という凶悪犯罪に対しての断罪意識はそんなにないよね」

主「昔から言われる話だけれど『貧困のために物を盗む』ことや、あるいは極端なことを言えば『何万人に被害が出るテロを計画している犯人を殺害する』ということを描くとする。

 ここでは窃盗や殺人という犯罪行為が描かれている。

 だけれど、生きるために、あるいは多くの人を救うための犯罪、それは必ずしも断罪される『悪』なのか? という問題がある

 

カエル「う〜ん……」

主「実際の違法行為は法律で裁くべきだ。

 だけれど、その法で裁かれる人の裏にある『人間』を描くのが表現だ。

 『法に反するような表現=悪とは言い切れない』場合もあるし……万引き家族などはそのギリギリをせめた傑作だったんじゃないかね?」

 

 

 

 

なぜ表現を規制してはいけないのか?

 

そもそもさ、なんで表現規制に反対なの?

 

 

自分が表現第一主義であり、表現というものを重視していることもあるよ

 

 

主「今、世論として『犯罪者の表現を許すな!』という過激な声もある。自分はそれに対しても反論する。

 話はちょっと変わるけれど……2007年の1月にある殺人事件が起きた。自分の妹を殺害し、バラバラにして押入れにしまって兄はそのまま大学入学のための冬季集中講座に行った。そして異臭に気がついた親が遺体を発見したという痛ましい事件だ」

 

カエル「かなりセンショーナルな反応をされた事件だったね……」

主「その事件についたあれこれのゴシップは割とどうでもいい。なぜこの事件を特に覚えているのかというと、犯人の兄が高校時代に出したある句がある。

 『髭生ゆる 我が顎に出り 父の影』

 この句を見た瞬間に、多くのことが理解できた。さらに言えば『ああ、この人は自分だったんだな』という風にさえ思った」

 

カエル「この俳句自体には父に対する憧憬とも受け取られるし、ある種の諦めのようでもあり……父に対する様々な思いが感じられるね」

主「マスコミの100のセンセーショナルな報道よりも、たった17文字の言葉の方が犯人の実像に迫っているし、人間性などがはっきりと出ていて、自分には深く伝わってきた。

 表現にはこのような力があるし、何よりも雄弁にある種の真実を伝える(ように感じさせる)力がある。

 もちろん、彼の犯罪は断罪されるべきものであり、裁判も終わって服役なりしているのだろう。現実の犯罪は犯罪として裁かれるべきであるのは言うまでもない。彼が行ったのは犯罪だから」

 

 

『表現』が『犯罪』となる場合もある

 

カエル「……えっとさ、なんで『彼は自分だ』と思ったわけ?」

主「……また話は変わるんだけれど『創』って雑誌があるんだよ。自分も積極的に読む雑誌ではないけれど、重要犯罪の加害者の手記などが掲載されることもある。

 まあ、執筆者に対する不払いで提訴されたりもしているし、岡田斗司夫なんかは『何年か分、払われてないね』っていうような、色々な意味でお騒がせな部分もある、いかにも売れなさそうな雑誌。

 で、そこで2014年に『黒子のバスケ脅迫事件』の渡邊博史の手記を、秋葉原事件の加藤智大が読み解くという内容があったのよ

 

カエル「内容を簡単に言えば『なぜ黒子のバスケ脅迫事件』を起こしたのか? という渡邊の手記に対して、加藤智大が私感を述べた手記です。

 渡邊の手記には『解』という加藤智大が書いた本も引用されていて、しかもその内容が専門家の……加藤が名指しで批判しているのは香山リカだけれど、専門家の心理学者ですら理解できなかった内容を渡邊が理解していると語っている内容で……」

 

主「秋葉原事件が起きた時によくニュースになっていたけれど『社会に無視されたから事件を起こした』と加藤は語っている。

 それに対して当然のように強いバッシングが吹き荒れたけれど、一部ではなんとなくその気持ちわかるなぁ……という人もいるんだ。

 芥川賞作家の田中慎弥や爆笑問題の太田光などは、加藤智大に対して、その犯行動機について理解を示すような言動もあった。

 はっきりと言えば、自分もこの気持ちはよくわかる

 

 

『表現モンスター』と社会

 

先に言っておくのは、犯罪を擁護するつもりは一切ありません

 

 

彼らの起こした行動は明らかに犯罪であり、罪です

 

 

主「自分がこの記事で擁護しているのは『犯罪を描く表現』であり、それ自体は犯罪ではない。

 だけれど『犯罪そのもの』は罪であるから裁くべきである。

 そして……例えば殺人や死体を晒すなどの猟奇的な殺人に関しては明らかに法令違反であり、そのことまで表現の自由として擁護するつもりはない」

 

カエル「勘違いして欲しくない部分なので強調しています」

主「ただし『その表現そのものが犯罪でない限り、どこの誰であっても、いかなる理由によっても表現規制を受けるべきではない』というのが自論です。

 なぜならば、表現モンスターという人種は間違いなく存在するから」

 

カエル「……えっと、話が飛んだね」

主「加藤智大も渡邊博史も共通する動機が『社会からの断絶を受けたから』というものだった。ネットや漫画の世界において、自分が表現することを許されないような行為を受けた。だから、社会に対して認識してもらうために犯罪を起こしている。

  渡邊博史や加藤智大は頭のネジが吹っ飛んでいるけれど、バカじゃない。事件以後も刑務所で様々な事件などについて手記を発表している。反応が欲しくてしょうがないし、それがあることが嬉しいのだろう

 加藤智大が通り魔であり、渡邊博史が作者への脅迫と程度が違ったのは、その時思いついた行動がそういうものだったからにすぎない。

 社会に認識してもらうために、そういった犯罪を起こすことは、別に突飛なことではないんだ」

 

カエル「それが『表現モンスター』なの?」

主「そう。

 太田光は以前にテレビ(確か爆問学問)でこの事件を受けて、だいたい以下のように語っている。

『人間には2つの自分がいて、社会的な自分と個の自分がいる。個の自分はもっとやれ、と煽るけれど、社会的な自分がそれを止めている。だけれど、いつその個の自分が化け物となって暴走するかはわからない』

 つまり、社会的な反応を得るためには何をやっても注目を集めたい! という人間たちだ。

 理解できない人には全く理解できないと思う。身勝手であり、自己顕示欲の塊のようで醜いと思うかもしれない。

 だけれど、自分にはとても強く理解出来る言葉なんだ。

 なぜならば、自分も表現モンスターだから。

 多分、太田光や田中慎弥も同じような存在だろう」

 

 

何を表現として選ぶのか

 

カエル「えっと……でもさ、犯罪に走る人とそうでない人がいるわけじゃない?

 その差は何なの?」

主「太田光には漫才があり、田中慎弥には小説があり、自分にはブログがあって、それで一定以上の反応や結果があった。ある程度の社会とのつながりがあった。

 加藤智大にはネットの掲示板があり、渡邊博史には漫画があったけれどそれが奪われた(ように感じた

 多分、それだけの違いなんだよ」

 

カエル「……奪われたか否か、だけ?」

主「そう。

 また話が逸れるけれど、少し前にアニメ監督の谷口悟朗のインタビューを読んでいた。谷口監督は『なぜエロゲーなどには純愛ものがあるのか?』と疑問に思っていた。どうせオナニーのためのゲームであれば、鬼畜系などの方がまだ理解はできると。

 それに対して答えた人は『それは谷口くんが幸せなセックスをしているからだよ』と。つまり、中には純愛なんてものに触れることができずに、それを代替するように純愛もののエロゲーに手を出す人もいる。もちろん、全員がそうじゃないけれどね。

 なぜこの話をしたのか?

 満たされている人は満たされていない人の気持ちはわからなし、どれだけ飢えているかもわからない。

 満腹ででっぷり太った人には、飢えて今にも倒れそうな人の気持ちなんてわからなくても仕方ない」

 

カエル「えっと……つまり、表現を奪われた人の孤独感や諦念は、満たされている人にはわからないと?」

主「社会との繋がりというのは、別に表現だけじゃない。例えば家族であったり、友人、恋人、会社の人との繋がりだって社会との繋がりなんだ。

 だけれど、それらを一切持てない人がいて、社会と繋がりたいと渇望する人がいる。その手段として表現を選んだ場合でも、それを無理矢理絶たれてしまった人がいた場合……その渇望感は暴走する。

 ネット用語でいう『無敵の人』……つまり失うものが何もない、犯罪に走りやすい人たちを生み出していき、極端な犯罪に走らせるわけだ」

 

 

その手段でしか社会と繋がれない人もいる

 

 

つまり、表現の自由とは社会を安全に保つ上でも必要だということ?

 

何を表現として選ぶかはその人次第だ

 

 主「中には自分のように、ブログやレビューなどを書いてそれを読んでもらってある程度満足する人もいる。

 だけれど、中には目を疑うような方法でしか表現できない人がいる。

 自分は苦手な映画監督として園子温がいるけれど、あの人の表現や作品は嫌いだよ。嫌いだけれど、その表現を行う行動自体は非難しない。多分、園子温監督はそのような表現でないと描けないものを撮りたいのだろう。

 その表現自体を『嫌いだ』とか『道徳でない』とか、あるいは『気に食わない』からといって奪うような行為は絶対にダメ。

 それは表現モンスターは行き場をなくして、暴走するしかないから。

 そういった『気に食わない表現を認めること』つまり表現の自由もまた、1つのセーフティーネットなんだよ。

 だから、犯罪的な行為が描かれているからといって、それを自主規制であっても規制するようなやり方には反発を覚える」

 

カエル「話を幸色ワンルームに戻すけれど、少なくとも犯罪被害者からの抗議や法令違反による提訴はないようだしねぇ」

主「この作者は表現モンスターではないかもしれない。

 だけれど、このような表現でないと描けないものが描きたかったと推測される。

 それは尊重してあげるべきだ。

 確かに拙いかもしれない、幼稚かもしれない、問題を抱えているかもしれない。だけれど、表現としては社会に発表している以上、非難はあれども1つの表現として認めてあげるべきだし、テレ朝はそれを認めてドラマ化を発表した。

 その時点で腹をくくるべきだったのではないか? というのが結論に辿り着きます」

 

カエル「まあ、放送するのも取りやめるのも自由といえば自由なんだけれどね……放送する以上責任が付きまとうし」

 

 

まとめ

 

 

では、この長い記事を締めるけれど何か言いたいことはある?

 

 

ここ最近、こんな話題が続いたなぁ

 

カエル「これで最後にしたいけれど……まあ、それは難しいのかなぁ」

主「もちろん、この記事の内容に異論がある人もいるでしょう。それはそれで自由です。

 ただ、自分としては意見を表明しておきたかったというのが大きいね」

カエル「言論を闘わせて成熟した社会になっていってほしいね」