今回は話題の『二度目の人生を異世界で』の原作者ヘイトスピーチによる小説出荷停止について、私見を述べていきます。
多分、賛否両論だと思います。
ただ、自分の意見はここに書いて表明させて欲しいので、書かせていただきます。
読みやすさなどを一切考慮せず書きなぐっていますので、大変申し訳ありません。
ジャージャー・ビンクスの悲劇
自他共に認めるアクション映画音痴である私でも、スターウォーズシリーズは好きだった。過去形になってしまっているのは、やはりディズニーが制作する近年のスターウォーズ作品に対して、少し思うところがあるからである。
あれだけの大作であれば万人が受け入れる作品を作るのは不可能。ディズニーはディズニーなりに努力している結果だろう。もちろん、それ自体を否定はしない。
ただ、やはり昔の作品の思い出補正には勝てない。
そのスターウォーズシリーズ最大のヘイトを集めるキャラクターといえば、ジャージャー・ビンクスである。
爬虫類を思わせるフォルムに、長い舌を出して唾を飛ばす、コメディー役だ。
私はジャージャーが好きだった。エピソード1では出番が非常に多く、そのコミカルな動きなどに魅了されていた。
ジャージャーは私の知り合いのスターウォーズファンにも、受け入れられていたように思う。
しかし、ジャージャーは世界中の人に嫌われていた。
過激なスターウォーズファンの制作するファンアートで、残忍な手法で殺害されているジャージャーの画像を見た時、私は強いショックを受けた。中には、どうしてここまで恨むことができるのだろうか? と強く疑問に思う絵もあり、正直に言えばその神経を疑うものもあった。
今でもそのことに悲しい思いを抱くことがある。
とはいえ、それは所詮はCGキャラクターに向けられたヘイトである。
制作者や演じた役者は傷つくだろうが、あくまでも架空のキャラクターに向けられたヘイトだ。
しかし、その矛先が現実にいる役者に向かうことになってしまった。
EP8で登場したローズというキャラクターであるが、正直に言えば私も嫌いだし、記事でもこけおろした。
ただ、それはキャラクターに対して向けたものであり、役者は与えられた台本とキャラクターをきっちりと演じたにすぎない。しかし、そのヘイトは彼女の人格否定を行い、アジア系女性ということで差別ではないか? と議論が巻き起こっている。
ヘイトスピーチや差別はダメ絶対!
ヘイトスピーチや差別は行ってはならない。
国籍、宗教、人種、性別、その他あらゆる身体的な特徴などを馬鹿にしてはいけない。
これは、現代に暮らす我々社会人であれば、共通する思いである。差別を憎む発言に賛同するし、ヘイトスピーチをなくしていく努力は極めて重要である。
ただ、その相手はすべての人に向いているだろうか?
中国人や韓国人に対するヘイトスピーチ、確かにこれはダメだとみんな言うだろう。
イスラム教徒に対するヘイトスピーチ、これも同様である。
北朝鮮に対するヘイトスピーチ……これは微妙なところか。
イスラム国(IS)に対するヘイトスピーチ……これは……どうだろう。
今回、声をあげた相手が韓国や中国でなく、ISや北朝鮮だった場合、ここまで問題にはなったのだろうか?
このヘイトの相手が日大の内田監督や日大アメフト部のコーチに対して、直接的に尊厳を傷つけ、死に追いやるような言動でも、同じ対応をしたのだろうか?
別に中国や韓国だけを特別扱いするな! と言っているわけではない。
人の尊厳を著しく傷つけるような言動は、どこの誰が相手でも……それこそ死刑囚が相手でもやってはいけないことである。
ジャージャービンクスは……架空のキャラクターだから微妙なところかもしれないが、少なくともローズはともかく、演じているケリー・マリー・トランは守られるべきだ。
それが例え、戦争中の敵国であっても守るべき一線はある、と私は固く信じている。
声優降板問題
では、そう言ったヘイトスピーチは絶対にダメだという前提の上で、話を進める。
私は今回の騒動に対して、非常に強い憤りを覚えている。
まず、声優が降板すること自体については、特に疑問視していない。作品のテイストや思想があまりにも極端な作品や、またはキャリアに傷がつくと考えた場合において、作品を降板するというのは当然の権利である。
その結果1つの仕事を失うことはもちろん、その後の様々な不利益を被ることがある可能性を考慮した上での降板だろう。
ただし、今回は幾つかの問題が発生しているようにも見える。
1つは苦情や脅迫行為により、気に入らない作者や役者、キャラクター降板させられる前例を作ったこと。
これは日本では特定のジャンルや作品への犯罪予告などによって、その作品関連商品が発売自粛になるケースがあったが、今回も同じことが声優への脅迫という形で横行する可能性が生まれてしまった。
もう1つは思想の自由に対する問題である。
アニメに限らず、映画やドラマなどいろいろな形の表現があるが、中には政治色の強い作品や、宗教色の強い作品も多く存在する。その宗教には関心がないが、仕事だからと演じる役者も多いだろう。
別に連続殺人犯や、ヒトラーなどの独裁者を演じているからといって、同じ思想なわけがない。差別主義者の役を演じている、もしくは差別主義者の作者の作品に出演しているからといって、その役者が差別主義者であるはずがない。
私には当たり前の理論である。
だが、今回の件は『思想が合わないならば降板すればいい』という前例を作り出し、そして『その役を演じるのは思想的に合致しているからだ』ということになりかねない。
……極端な話だろうか?
私もそう思う。
思うのだが、この『役者と演じる役、作品の作者の思想は別』という論理が通用しなかったからこそ、今回の大量降板騒動に至ったのではないだろうか?
もちろん、これは声優だけではない。
作画や脚本、音響などの全てのスタッフも含んだ話である。
気に入らない表現? 腐るほどあるわ!
じゃあ、表現の自由を守るために何でも描いていいのか? 何を言ってもいいのか? というと、そんな馬鹿な話はない。
私だって、こうやって表現の自由を大切にしよう! と言いながらも、規制した方がいいと思う表現だってたくさんある。
グロテスクさを売りにするような暴力的な作品や、女性の人権を無視した凌辱的な作品なんていくらでもあり、そういったものに嫌悪感を抱くこともある。
だが、だからといって『今すぐそれを規制しろ!』ということになったら、反対する。
どんな基準があるのか?
なぜそれを規制するのか?
どのように規制するのか?
それを明確に決めて、ルール化して周知徹底をしてから規制を施工するべきだろう。
最近、ある漫画家が児童ポルノ所持により逮捕された。
この児童ポルノに関しても、所持だけで逮捕されることに激しい賛否があり、多くの評論家が反対の意思を示しており、世間でも表現の自由を心配する声が多かったように記憶している。
だが、実際に漫画家が児童ポルノ所持で逮捕されると、激しい非難の声にさらされ、見世物のようにされてしまった。
もちろん、違法は違法である。
だが、それも施行時は賛否が分かれた法案だった。
このように、人間の意識や世論というのは簡単に変わってしまうものなのだ。
だからこそ、どの表現が違法となるのかは慎重に決めることが求められる。
そして、今回の件は作者がヘイトスピーチで逮捕されたわけでもない。
出版社の販売中止に至っては、ただの自主規制である。
検閲は自主規制から始める
私がよく挙げるのが1930年代から始まったハリウッド映画の表現規制であるヘイズ・コードだ。
これは映画業界が始めた自主規制であり、不倫、下品な言葉使いなどをはじめとして多くのことを描くことを規制されてしまい、キスシーンの秒数まで決められてしまった。
このように、検閲とは国や自治体から押し付けられることがなくても、簡単に始まってしまうのである。
そして、ヘイズコードの後に始まるのが共産主義者の排斥運動、通称赤狩りである。
トルーマン大統領の発令した行政命令によって、多くの共産主義者が排斥され、アメリカやハリウッド映画界を去ることになった。中にはエリア・カザンのように仲間を売り、それによって今でもハリウッドでは賛否が巻き起こる監督もいる。
後に赤狩りを反省し、その嵐によって弾き飛ばされた方に対して謝罪をするメディアもある。
思想の自由は日本でも憲法で保障されているが、必ずしもそれは守られるわけではない。
多数派が少数派を排斥し、弾圧し、その思想を持つ者を排除することなど、いくらでもあるのである。
だからこそ、思想や言論が弾圧されることにはより注意を払わなければいけない。
表現の自由への絶望感
正直に言えば政治的な記事なんて全く書きたくない。
そんな荒れるようなことを書くくらいならば、アニメや映画の話を書いて、のほほんとしていたい。だが、それが許されないような状況になっているように思うのだ。
私は先日『万引き家族』という是枝裕和監督の映画について大絶賛をしたが、本作はタイトルと監督の左よりの発言から、右派を中心に叩かれている面があり、それについて苦言を呈した。
そしてそれは多くの映画評論家も似たような発言をしており、映画を褒め称える声も多く上がっていた。
だが、今回の件に対しては沈黙を貫いている方が多い。もちろん、アニメや小説の話題であり、映画には直接関係がない、ということもあるのだろう。
しかし、私にとっては『監督(作者)の発言が作品評価を歪めている』という点で同じである。もちろんその内容は180度違うものであり、完全に同一視することも危険なのは重々承知だが、私は今回の件を『万引き家族が監督の発言により公開中止になった』と同じくらい危険なことだと考えている。
そして、普段は表現の自由について熱く語る人たちが、今回沈黙を貫いているように見えることに違和感を覚えている。
重ねて言うが、作者の発言はクソである。
詫びるべきことである。
だが、ヘイトスピーチをした作家ならば、その作品は検閲され、焚書され、発禁処分になることは当然なのだろうか?
もしもそうだというのであれば、私は『2018年6月6日は表現の自由が死んだ日』であると記憶しよう。
メディアは何を語るのか?
近年、ハリウッドでは『表現の自由を守ろう!』という映画が多く公開されており、そしてそれは多くの人に絶賛されている。国を相手に戦うマスメディアの姿が魅力的に描かれた作品が非常に多い。
そして、その手の作品に対して賞賛の声が上がり『日本政府も見ろ!』と多くの声が上がる。
だが、私はこのような作品を賞賛する流れに対して、冷ややかな視線を送っている。
芸能事務所にも忖度し、気をつかっているメディアが国の不正を暴く?
そんなこと、日本でできるわけがない。
世論に負けてしまい、圧力を受けた結果、言論弾圧されてしまった作品が生まれている。それに対して、何1つとしてコメントもなく、非難の声もあげないメディアにどれほどの価値があるのだろうか?
まだ問題が発覚して時間がないためかもしれないが、このことに沈黙するのであれば、何のためのメディアだ。
放送法改正よりも重要な問題じゃないの?
自分たちは大丈夫って思っているのかなぁ……?
まとめ
何度でも言おう。
今回のヘイトスピーチはクソだ。
だが、言論に対しては言論で戦うべきである。
ヘイトスピーチや作者の過去の発言で、作品評価を左右されるのは仕方ないにしろ、それを発禁処分にするような真似は絶対にしてはならない。
それを許してしまえば、後々ブロガー(ライター)の私の首だけでなく、多くの人の首を絞める結果になる。
だからこそ、反対の声をあげている。
右とか左とか、論理的、倫理的、不道徳、差別的とかじゃないんだよ。
ヘイトスピーチに賛成とか反対とか、中国が好き、嫌いじゃない。
作者の発言1つで作品が発売自粛にまでなる現状が『表現の自由を守る国』なのか?
『君の言うことには反対だが、それを言う権利は死んでも守る』
表現の自由とは気に食わない問題発言でも、それを言う権利は認めるということではなかったのか?
……うん、もしかしたら違うのかもね