キ~ンコ~ンカ~ンコ~ン
起立、礼、着席
はい、おはようございます
カエルくん(以下カエル)
「では、映画とその時代の関係性について語るシリーズの第2弾です。
今回は終戦から一気に時代が飛んで、1960年代について語ります。
前回の記事で『次は1970年代について語るよ』と言いましたが、あれは嘘です。
謹んで訂正いたします」
主
「チャッチャと効率よくやらないと!
語りたいことなんていくらでもあるんだからさ!」
カエル「……なんであなたは謝らないわけ?
まあ、実はずっと温めていた企画ではあるもんね。
その割には結構ガバガバな部分もあるんですけれど!」
主「これをやらないと語れない作品があるんですよ。
ちなみに、今回は1980年代の若者文化と社会までを考察して行きます!
さあ、忙しくなるぞ!」
カエル「……よくわからないですが、記事を始めましょうか」
1960年代の若者文化と物語
1960年代かぁ……どんな時代だったの?
何と言っても学生運動が活発だった時代ですよ
カエル「ベトナム戦争などがあって、若者が安保闘争に熱中していた時代だよね。有名人でいうと宮崎駿や高畑勲などが学生運動に奔走し、そのちょっと上の世代である養老孟司などは教師側として翻弄されていて、若本規夫は学生たちを取り締まっていた。
一方では山下洋輔は早稲田大学の一触触発の状況下で、バリケードの中でジャズピアノを弾いて伝説を作り、加藤登紀子は旦那さんの藤本敏夫が逮捕されているときに獄中結婚をして……と、伝説も多いすんごい時代だよねぇ」
主「押井守が語っていたのは『あれはモテるためにやっていんだよ』というのは、割と的を得ていたようにも思うけれどね。
結局若い男が最も関心があることは、いかに女の子をオトすか、ということなのはいつの時代も一緒だし。
その時代で功名を手に入れた者もいれば、指名手配犯になったり命を落としたり。学生運動に間に合わなかった世代も居たりしてさ、まあ、傍目から見ているだけなら面白い時代ですよ」
カエル「面白いって……」
主「ただ、この流れ自体は当然のものだと考える。
『20歳で左翼にならないものは情熱が足りない、40歳で右翼にならないものは知能が足りない』というのはチャーチルの言葉として広まり、今ではデマとして否定されているけれど、この言葉自体は、ちょっと納得するんよ」
カエル「あ~、前回の記事で語った『若者は常に社会に不満を抱えている』ということね」
主「社会の一員として認められていない、認められても大きな力を獲得しておらず、情熱は有り余っている若者たちにしてみれば、社会の象徴である体制を倒すのは大きな意義がある。
アラブの春の発端だって、元々は26歳の若者が当局の取り締まりを受けたことによる抗議の焼身自殺から始まっている。
イスラム社会での焼身自殺はとても強い意味を持つ。命をかけて、しかもその遺体すらも燃やしてしまう……それだけの覚悟を持っているという、メッセージ性を含んだ行動だ。
もちろん、若者だけが起こした革命運動ではないけれど、かなり大きな力となった。
若者は離職率も高い国が多く、不遇な待遇にありやすい。
だからこそ、改革を志すわけです。
その意味ではシールズなんていうのは、若者らしい行動だとは言えるのかもね」
大学紛争のバイブルとなった漫画
ここで注目するのはこの作品です
ご存知、大学紛争のバイブルである『あしたのジョー』だ
カエル「あしたのジョーは当時の大学紛争に取り組んでいた若者の多くが熱中して読んでいて、力石徹の葬式には」
主「他にもこの時代を象徴する作品は『巨人の星』や『タイガーマスク』などがあるが、その特徴としては『貧民街(ドヤ街、孤児院)に暮らす貧しい少年が、己の才覚と実力一つで成り上がって行く』という物語だ。
そして金持ちのキャラクター(白木葉子や花形満)にある種の敵愾心などを抱きながらも、物語は成り上がりと没落を繰り返し、そして最後は燃え尽きるというところも似ている」
カエル「3作品とも梶原一騎だから、似ているのはある意味当然だけれどね」
主「これらの作品は、革命の物語だとも思うわけだよ。
それも熱量がとんでもないしさ。彼らは大きな舞台に自分の力で殴り込んでいく姿に、明日を見出した。
それを象徴するのがあしたのジョーであり、あの葬式だったのではないだろうか?」
カエル「でもさ、どっちも最期はそんなにハッピーな終わり方じゃないよね?」
主「それこそ革命家らしい滅びの美学でしょ。
日本人が大好きなやつでさ、今でいうとゲバラとか、あとは維新志士とか。歴史を作ったのは伊藤博文や徳川家康、源頼朝などの為政者だけれど、みんな好きなのは西郷とか坂本龍馬、織田信長、源義経のような志半ばで散った人たちばかりでしょ? 人気だって何倍もあるし。
むしろ、滅びの美学がなければその手の人たちは人気を集めなかったのではないか? ということまである」
カエル「それを言い出したらアメリカでも『アメリカン・ニューシネマ』があって、それも反戦運動中に生まれた映画として注目を集めがちだよね。
そしてアメリカン・ニューシネマもまた、倫理的に問題のある若者が、最後は散っていく物語が多いわけで……」
主「あの時代の西側諸国の若者に共通する思いだったのかもね。
自分はアメリカン・ニューシネマは社会規範を基とする表現規制であるヘイズ・コードが、力を失った反動とも見ているけれど、それが社会情勢とも見事に重なったのも大きいのだろう」
個人的な学生運動の疑問
判官贔屓というか、滅びの美学ってものがあるからねぇ
で、ここから自分はある疑問があるんですよ
カエル「……疑問?」
主「結局さ、どれだけ調べても彼らが何をしたかったのか、よくわからんのよねぇ」
カエル「え? 社会を変えたかったし、変えられると思っていたからじゃないの?」
主「多分、言葉にすればそうなんだろうけれどさ。
なんというかさ、勝利条件がわからない。
どうすれば彼らは勝利だったのか、その勝利条件を設定していなかった。そんなので勝てるわけないじゃん。
もちろん、大雑把な目標はあったと思うんだよ。楽園のような共産主義の国にしよう! とかさ。
だけれどセクトやら合流や分裂を繰り返し、なんだかんだと言って細分化して行き、違う方向を向いた瞬間に、勝利条件を失ってしまい、戦うことが目的になってしまった」
カエル「明治維新だって個人個人の思想で言えば尊王攘夷だけにまとまったわけではないけれどね」
主「何が言いたいのかって、日本らしいよなぁってこと。
行動こそが目的となってしまい、本来の目的や勝利条件がわからなくなってしまう。
それこそ、あしたのジョーの矢吹丈の目的ってなんだったのだろうか?」
カエル「ボクシングのチャンピオンになることだったんじゃないの?」
主「それもそうだよ。ボクシングのチャンピオンになること、力石などの強敵に立ち向かうこと、それが目的でもある。
でもさ、自分は矢吹丈の目的は『ただ闘うこと』に思えてならない。
ジョーにはチャンピオンがどうとか、そういうことはどうでも良かった。ただ目の前の敵を倒し、挑み続け、真っ白な灰になることが目的だった。
それは学生運動の青年たちも同じだったんじゃないかな?」
カエル「チャンピオンになるためにズル賢く立ち回るようなキャラクターだったら、こんなに人気は出ないもんね……」
主「結局はあしたのジョーって敗者の物語なんだよ、
勝者というのはボクシングのチャンピオンになって、名誉と金を手にして、悠々と生活している人のことだろう。ジョーはそんな勝者にはなれなかったからこそ、みんな熱狂した。
こんなことを言いつつも、自分もその手の物語は大好きなんだけれどね。
『レスラー』や『カウボーイビバップ』なども大好きな敗者の物語だけれど、あれは散って行く人間の物語だと理解しているかいないかというのは、とても重要なことじゃないのかねぇ」
カエル「その辺りの革命後の日本ではなく、戦うことそのものに意味を見出したところとかも、右派の人たちの『あの学生たちは革命ごっこ遊びだ』と言われる原因かもねぇ」
主「ヘルメットとゲバ棒で社会革命ができるわけないじゃない。オウムの方がよっぽど本気で国家転覆と革命を狙っていたよ。だからこそ凶悪で許されない犯罪なんだけれどさ」
カエル「学生運動の残党の中では今でも逃走中の凶悪犯もいるよ、というのは、常識だけれど明記しておきます」
1980年代について
続いては、そのまま1980年代について語って行きます!
時代は下って学生運動はすっかり下火になって行く
カエル「じゃあ、この時代を代表する作品ってどんなものなの?」
主「それはもちろんヤンキー文化ですよ!
ボンタン履いて突っ張って、髪を逆立ててメンチを切って喧嘩に明け暮れる。そんな若者がカッコいいと思われた時代だ。
当然この時代を代表する作品もそのようなヤンキー漫画をいちいち挙げるまでもなくたくさん登場している」
カエル「一応タイトルを挙げると『ビーバップハイスクール』や『魁!男塾』『ろくでなしBLUES』『今日から俺は!!』などの様々なヤンキー漫画が登場しました」
主「特に80年代後半は多いね。今じゃ沈静化の方向に向かい、むしろ若者の中では白い目で見られがちな暴走族も、当時はかっこいい男の象徴だった。
テレビを見てもその時代に人気が爆発し始めたお笑い芸人はとんねるず、ダウンタウンのようにヤンキーのような風貌をした人物もいた。
結局はモテるから、というのは大きい理由かもしれないけれど、ヤンキーがカッコいいとされた時代があったわけだ」
ヤンキー文化がなぜ流行ったのか?
カエル「では、なぜそのような文化が一気に流行ったわけ?」
主「ここも『若者は社会に鬱屈を抱えている』という理論を適用する。
既存の社会や政治に対する反抗が前述の学生運動の時代だった。だけれど、この80年代にヤンキーになった彼らが子供だった頃には、すでに学生運動は力をなくし、しかも社会に対する重要な迷惑をかける犯罪者出会って、カッコいい対象ではなかった。
でも、不満が解消されたわけではない。じゃあ、どうするのか?
今度は大人の倫理への反抗を起こしたわけだ。
それがヤンキーブーム」
カエル「もちろん、それ以前でもヤンキー文化というものはあったけれど、ここまで流行ったのにはそのような理由があったのではないか? ということだね」
主「ここで重要なのは、1960年代の学生運動にしろ、1980年代のヤンキーブームにしろ、大人や社会の既成の価値観への反抗という面があったということだ。
それだけ社会が高度経済成長期ということもあって、ある一定の共通する価値観がしっかりとあった時代だったと言える。
つまりさ、大人が敵になっていたんだよ。
子供や若者が反抗する相手として存在することができた。
だけれど、それにも限界が訪れる。
それがバルブ崩壊と混迷の95年だ」
まとめ
では、この記事のまとめです
- 1960年代は学生運動という政治を介した社会と戦う運動の時代だった
- 1980年代はヤンキー文化が一気に花開いた時代だった
- これらに共通するのは政治的、倫理的な面での社会や大人への反抗心である
とりあえずこんなもんですかねぇ
カエル「……ぶっちゃけていうと、結構語りづらい時代でもあるんだよねぇ。
もっと昔ならばその時代を知っている人も少ないだろうけれど、この時代を肌感覚で知る人はたくさんいるし……」
主「実際、肌感覚で知っているというのはとても大きいからなぁ。
だからこそ見えてこないものもあるけれどさ。
実際、1番語りたいのは次の記事なので」
カエル「というわけで、混迷の時代である1995年の社会と物語の関係性について、楽しみにしていてください!」