この記事は後編になります、前編はこちらです
カエルくん(以下カエル)
……ここから先が本題なのに、なんで前半、あそこで切っちゃたんだろうね?
主
長くなったから2記事に分けたら、こんなことになっちゃった
カエル「まあ、それはそれとして……それでは、ここからまた語っていきましょうか」
主「後半戦、スタートです!」
後編の本題に入る前に
感覚と論理を伴った4タイプの表現
まず、後編の本題に入る前に、最近考えていることを整理したいということだけれど
独自理論になるんだけれど、最近思うのは、インプットとアウトプットの右脳と左脳の違いってことかな
主「右脳が感覚的、左脳が論理的な思考回路をしていると言われているのは有名だ。
ということは、インプットとアウトプットの2種類があるから、計4種類のタイプがあるのではないか?
つまり個人・社会、もしくは表現の向上など技術的なことも含めて、物事の問題意識や伝えたいことをインプットする方法に感覚と論理の2種類があり、それをアウトプットする際にも感覚と論理がある。
すると、このような4つの考え方が生まれる」
まだ詰めきれていない部分があるけれど、わかりやすい表になったんじゃないかな?
主「果たしてアートとエンタメが対義語なのか、両立しえないのか、あるいは批評と学術研究は違うのか? あとは批評や研究も広義的には表現なんだけれど、いい言葉が浮かばなかった……という問題点はあるけれど、大まかにはこのような定義ができると考えている」
上が表現で、下が批評・研究と分けているんだね
ここでいう”感覚的なアウトプット”というのは、受け手の解釈に委ねられる割合が多いということだ
主「抽象的な感覚を抽象的にアウトプットするのがアート、というのはわかりやすいのではないだろうか。個人が抱いている感覚を何かに表現し、受け手の感覚(解釈)によって成立する抽象表現。
わかりやすいかなって思って、言葉としてはアートとしたけれど、違和感があれば抽象表現と捉えてもらってもいい」
一方で問題や課題を論理的に理解し、それを論理的に組み立てながらも、受け手の感覚に伝わるように表現することをエンタメとした
主「ここは難しいところなんだけれど、エンタメ作品の作り手たちは論理的なアウトプットだとしても、その受け手が感覚的に受け取る(解釈によって成立する)ということなんだ」
具体的なアウトプット=解釈の余地を残さない
ふむふむ……まあ、突っ込まれても、これからさらに練ればいいアイディアだしね
次に説明する”具体的なアウトプット”というのは、受け手の解釈の余地をなるべく残さないアウトプットだ
主「わかりやすいのは左下の論理インプット・論理アウトプット。
自分は学術研究としたけれど"誰がみても客観的な事実"をもとに構成されて”誰でも同じ結論に辿り着く論理的な展開”をともなってアウトプットされるものだ。個人の解釈の余地を極限まで無くすことが求められるのが学術の世界だろう。
映像では報道もここに入るかもしれない。信用するかは別として、客観的な事実を客観的な視点で伝えるのが、報道の役割だからね」
数学がわかりやすいけれど、同じ計算式でどちらも計算ミスがないのに、Aさんの答えは1で、Bさんの答えは3になるようでは、学術として使えないってことだね
理系学問は実験などで客観的な答えが出やすいからわかりやすいけれど、文系学問は曖昧になる部分もありながらも、なるべく厳密さを増したほうがいい
主「もちろん批評やライティングも論理インプット・論理アウトプットでしている人もいるだろうけれど、ここでは大雑把に言葉の定義をしています。
個人で感じたことや社会に対して思っていることを感覚的に受け取り、それをなるべく誰がみても同じ結論に辿り着くように発表する。
つまり、批評文そのものには、解釈の余地をなるべく残さないようにする。
個人で感じたことだから、インプットには学術研究ほど客観的な事実性はない。
だけれど、発信された文章は解釈の余地が少ないものになる」
これを映像表現でまとめると、こういうことになるのかな?
分け方はとりあえず適当に決めました
主「感覚的アウトプットというのは、受け手の解釈に委ねる部分も出るものとしてフィクションとなる。
空想的なアウトプットという意味だよね。
一方で下の論理的なアウトプットとは、客観性や事実性があるアウトプットのことで、ノンフィクションとした。
報道とドキュメンタリーの領域も曖昧なところはあるけれど、個人の伝えたい感情を無しで客観的な事実のみを伝えるのが報道、個人の伝えたい感覚があるものをドキュメンタリーというふうに分けてみた」
表現評価について
評価は結果論
そして、この記事で1番言いたかったのは、ここだということですが……
まずさ、映画の評価なんて、基本的には結果論なんだよ
カエル「結果論というと、色々な語弊があるかもしれませんが……作り手側は作る最中に色々と判断している一方で観客や批評家は完成品を見て評価しているという話だね」
主「つい最近も『VIVANT』がなぜ世界で売れなかったのか、という記事がたくさんあったけれど……逆にマイゴジはなぜアメリカでも売れたのか、ということに言及している記事もあった。
それについては別記事で雑記ブログの方にでも書くとして……結局のところ、全部結果論にしかすぎないなんだよね」
売れたという結果から判断しているってことだね
作品評価だって同じだよ
主「例えば料理を作る時だってさ、このタイミングで具材を入れよう、調味料を合わせようと考えながら作るよね。
それでも美味しくない時はある。それを食べて『美味しくない』と語るのは簡単だよ。だけれど、作りながらそれがわかるかというと、熟練しないとわからないわけだ。
もちろんフィードバックは大事だけれど、それはあくまでもPDCAサイクル……今時はOODAとかSTPDとか言うらしいけれど、その後の創作活動につながる評価には重要だけれど、あくまでも結果を見てのものだよねって話」
歴史とかも『あの時ああしておけば……』という話があるけれど、そのifが当時にわからないものだよね
株とかもそうだよねぇ
主「それと同じで、映画もアニメも集団制作だから、設計図通りに仕上げてくれるとは限らないし、いい意味でも悪い意味でも想定外は起こるもんだろう。
だからあの鼎談があんまり意味をなしていないと感じたのはそこでさ、是枝監督が糾弾されているように見えたんだけれど、それは今後の課題として話せばよかったんじゃないかね」
その時に応じて変わる価値観
結果を予想することも難しいのに、作品をコントロール……特に集団制作でそれができるのは、相当難しいことだね
あとは、個人の価値観もその時に応じて変わる
カエル「個人の価値観ってことは、前編で語ったような"時代に合わせた社会の価値観"って話ではなくて?」
主「じゃなくて、前回の話にもつながるけれどさ。
その人が何に関心があって、どのような精神状態なのかによって、考え方が変わるということ。
気鬱な時は何を見ても面白くないかもしれないし、失恋後は優れた恋愛映画も嫌になる。
これは……評価記事を出そうと思っていたけれど『夜明けのすべて』って映画が公開されているんだよね」
めちゃめちゃ評判がいい映画だよね
本当は別記事で、ちゃんと評価記事を書くべきなんだろうけれどさ
主「この映画の中ではPMSやパニック障害が出てくるんだけれど……これはもう、映画ってそういうものだから仕方ないけれど、でもセンセーショナルに描きすぎだと感じた。
かなり抑制しているけれど、それでもその辛さを過度に描きすぎだと、自分には感じられた。
でも、これって自分が症状こそ違うけれど……症状が違えば全く別物なのは理解しつつ、だけれど似たようなことを、メンタルのコントロールが難しくなるという状況を知っている身だからこそ、思うことかもしれない」
変化していく”我”
逆に言えばそれを知らないと……あるいは知っていても、人によってはこの描き方が救いになると考える人もいるってことかな
もしかしたら、来年みたらもっと感激するかもしれない。10年したら『こんなに差別的な映画だったのか……』となるかもしれない。個人の状況だって当然変化するよ
主「映画に限らず、表現の評価というのは、受け手の状態によって大きく変わるものではないか。
そしてその受け手である自分は一定であり続けられず、簡単に変わる。
”我思う故に我あり”は西洋の価値観で日本もそうなりがちだけれれど、自分は”我思う……あれ、何を思たっけ?”だと感じている。
そうなると”感覚的なインプット”が変わるのだから、その結果放出されるアウトプットも変わる。
最近良く語るけれど『表現とは作者と受け手の相互誤解の上に成立する』っていうのは、そういうことなんだよ。
主「作者の意図とは全く違う感動を受け手はしているかもしれない、極端に言えば180度違う解釈をしているかもしれない。
だけれど誤解だとしても感動したという事実は変えられない」
鼎談に絡めると
前編で話した鼎談に関しては絡めると、どういうことになるの?
結局は自分のスタンスと違うって話に戻るんだけれどさ
主「社会的な正しさも、個人の正しさすら一定ではない。
その評価基準すら、変わっていくんだよ。
だけれど、作品そのものは固着してしまう。
エリア・カザンがハリウッドの仲間を売った。チャップリンはロリコンなことをした。その人物像の評価は時代によって変わる。だけれど、作品はその時代に出たものとして固着し、触媒として未来の鑑賞者の感覚を変化させたり、研究されたりする。
作品は変化せず、作者も亡くなったらそれ以上変化しないのに、その作品を取り巻く評価は変わる。それが当たり前なんだ。
だからその時代の社会的な正しさ”だけ”を追求するよりも、創作者が作りたいものを作ることのほうが、遥かに将来にわたっても、表現として重要な意味を持つのではないだろうか」
表現を語るときのスタンス
物差しをいくつもつか
そうなると、今のうちの評価のスタンスってどういうものになるの?
最近言っているのは”物差しをたくさん持ちましょう”ということかな
カエル「物差し……つまり、評価をするにあたって色々な価値観や考え方から検討してみましょうってことだね」
主「もちろん、1人の個人が持てる物差しなんて限界があるけれど……でも例えば興行収入も1つの物差しだけれど、それに固執してはいけないと思うんだよ。それをすると売れた作品=良作という話になる。
社会を語る映画でも娯楽として評価してもいいし、映像表現と物語表現を分けて考えてもいい。
物差しをたくさん持つのが大事で、1つの物差しにこだわると考え方が固着してしまう。
もちろん、持っている個人の物差しなんて、ぐにゃぐにゃだけれど、だからこそ面白い」
今は、近江商人の三方よしを例に挙げているかな
カエル「近江商人の三方よし、というのは『買い手よし、売り手よし、世間よし』という商いの考え方です。誰かが犠牲になるような商いはしてはいけないよ、というものです。
買う人もお得で、売る人もしっかり利益が出て、そして2者だけでなく世間の相場感にも照らして問題がない商いをしましょう、ということです」
主「うちの場合は元になった作品があるからね。
なので言うなれば……『読み手よし、書き手よし、作品よし』ってことになるのかもしれない。読者にも満足感を与えて、書き手である自分も満足して、作品にも一定の……それは褒めだけでなく、辛口であったとしても意味のあるフィードバックとなるような記事を書く。
よいしょをするって意味ではなくてね。
もちろん不特定多数の読者や作り手全員を幸せにすることはできないけれど、でもそれを目指すことはできるよねってことだし、それができて、さらにお金も稼げるというのが、本当の意味でプロの書き手ということなのではないだろうか」
うちの目指すべきは二次創作
今はそのスタンスなんだね
だけれど、同時にうちはどこまでいっても二次創作だと思っているよ
カエル「それは批評や研究が二次創作か否か? という話ではなくて?」
主「批評も元になった作品があったとしても、オリジナリティがあれば一次創作でしょう。特に研究分野は自分は明確に一次だと思う。創作者でも気が付かないことを指摘したり、研究して体系化していくんだからね。
だけれど……まあ、一次創作と二次創作の違いって明確化は難しくて、どの作品も何かに影響を受けているという意味では全部二次創作とも言えるんだけれど……というのは、まあ置いといて。
マインドとしては批評家とか、研究家とかを名乗るつもりはない」
さっきの画像を再びあげると、目指したいのは左上なんだ
二次創作って意味は、やりたいことは批評じゃないってことだ
カエル「以前からやっていることは批評かもしれないけれど、それを名乗るのはやらないと言っているよね」
主「論理的なアウトプットではなくて、感覚的なアウトプット……つまり、自分の映画やアニメの感想を受けて、その受け手がどのようにそれを解釈するのか、ということをやりたいわけだ。
それはないって考えてもいいし、肯定も否定もいい。
客観性を伴う、社会的な"正しさ"を追求したくはない」
正しいよりも感情の変化を追求したい
主「ここで語る感情の変化というのは、悲しい、誰かを傷つけたい、ある種の気鬱とか、死にたいとか、そういう気持ちも含める。
死にたくってもいいじゃねぇか、人間なんだから。
気鬱なんて、リリーフランキーじゃねぇけれど、大人の嗜みなんだって。
感情を、心を動かすことを最優先とする。
それが文化であり、生きるってことではないだろうかってことだね」
最後に
というわけで、なんとなく書き始めたけれど、ある程度は着地したね
思い返せば、この文章って自分にとっての『堕落論』なのかもしれないな
人間は堕落する。義士も聖女も堕落する。それを防ぐことはできないし、防ぐことによって人を救うことはできない。人間は生き、人間は堕ちる。そのこと以外の中に人間を救う便利な近道はない。
戦争に負けたから堕ちるのではないのだ。人間だから堕ちるのであり、生きているから堕ちるだけだ。
中略
堕ちる道を堕ちきることによって、自分自身を発見し、救わなければならない。政治による救いなどは上皮だけの愚にもつかない物である。
落伍者だからこそ、見えてくるものを拾い上げていこうや
……なんか、途中からえらい元気になってない?