お久しぶり……といえば、お久しぶりです、井中カエルです
今回はこちらでは久々の雑記となります
カエルくん(以下カエル)
少しお休みしてしまいました
主
体調……なのかな、があんまり芳しくなかったのでってことにしておいてください
カエル「実際は『シティーズ:スカイライン』という2015年に発売した街づくりゲームにどハマりしていたからだよね!?」
主「びっくりした……あそこまで面白いというか、止まらなくなるとは思わなかった。
約7日間弱で……色々やることがあった日もあった中で、77.9時間もプレイすることになるとは、思っていなかった……」
カエル「……それが原因でエンタメ遅報もブログも勝手にお休みしたの?」
主「書く気はあった……いや、なかったのか、なくなったのか。
その辺りも含めて、雑記的な記事&気になったことについて語っていこうかな」
映画を楽しむのは実はハードルが高い
最初は何から話しましょうか
映画を楽しむっていうのは、とても高いハードルがあるんだよ
カエル「……映画を楽しむハードル?」
主「美味しんぼの11巻のとんかつの回があるでしょ?」
『いいかい、学生さん。とんかつをな、とんかつをいつでも食えるようになりなよ。
それが人間えら過ぎもしない、貧乏すぎもしない、ちょうどいいってとこなんだ』
自分だったら、このとんかつを映画に変える
カエル「……映画に?」
主「世の中の娯楽がたくさんある中で、映画を鑑賞する……特に映画館で観るというのは、実はとてもハードルがあることなんだ」
◯ 映画館で2000円を払える
→ 経済的余裕
◯ 時間が指定されても約2時間前後、映画作品を観れる
→ 時間的余裕
◯ 作品を楽しめる
→ 精神的余裕
この3つが揃って、はじめて映画は楽しめる
カエル「もちろんお金は割引サービスがあったりするけれど、それらも映画に関して一定の知識がないと知らなかったりするのかな。
あとはサービスデーも、その日に行けるとは限らないし……」
主「これがyoutubeなら……まあ、YouTubeが最強なんだけれど、広告はあるけれどお金も基本無料、時間もショートなら1分、しかも場所を取らないし、ジャンルも膨大。
漫画でも500円くらいで読めるし、ドラマもアニメも放映時間が30分〜1時間くらいと短いし、サブスクを使えばいつでも観れる。
そう考えると、映画館で映画を観るって、実はかなり難しいことなんだよ。
だから、いつでも映画を観れるというのは『えら過ぎも貧乏過ぎもしない、ちょうどいい』なんじゃないか、ってことだ」
映画を楽しむには、かなりの精神的余裕が必要
その中でも精神的余裕っていうのが、よくわからないけれど……
自分もよくわからない時があったよ
カエル「映画は難しいけれどYouTubeはOKとか、あるの?」
主「学術的にはわからないけれど、自分の場合はあるかな。
楽しむことができなくなる順番をあげていこう」
読書 →映画 → 漫画 →
アニメ → ゲーム → YouTube
これって、何か傾向があるの?
簡単にいえばこういうことだ
- 集中力の欠如
- 能動的か受動的か
カエル「ふむふむ……つまり、主の経験則としては、まず集中ができなくなるから、本を読むとかの能動的な娯楽が難しくて、受動的な娯楽はまだマシと」
主「読書も映画も……まあ、やめようと思えばやめられるけれど、基本的には全部を楽しもうとすると、まとまった時間がかかる娯楽だ。
だからまず時間がかかる娯楽がダメになる……集中力の問題だね。
そして受動的な映像メディアは、比較的娯楽として楽。
あとゲームがここに来るのは……自分の場合は『シティーズ:スカイライン』とか『プロ野球スピリッツ』のような、ストーリー性のない広義のシュミレーションゲームが中心となるとから、物語に集中しないでも良いというのが大きい」
もっと酷くなるとどうなるの?
本当に、何もできなくなるよ
主「ただ寝ているだけになる……そこで体も色々な数値が崩れるね。
よく言われるけれど、お風呂に入るのだって、実はかなり能動的な行為だし……洗濯なんてできたら奇跡になる。
で、体調の波はあるからね……すごく能動的でやる気に満ち溢れる時もあれば、その逆もある。その山と谷に、どういうふうに向き合っていくかが、ということになるのだろうね」
ここでの結論は『娯楽を楽しめるうちに楽しみましょう』ということですね
評価に対するスタンスについて
朝日新聞に掲載された『怪物』評について
実は今回はここからが本題なのです
朝日新聞に『怪物』の批評、および鼎談が掲載されました
簡単に状況を説明します
カエル「是枝裕和監督の『怪物』が2023年の6月に公開されましたが、その作品が性的マイノリティを扱っていました。この先では鼎談に従ってクィアという表記をしますが、宣伝時点でクィアの少年が出てくることを隠していた、と受け取られてしまい、それが物議を呼んでいました。
そして『怪物』の映画評価にまで発展していき、今回は性的マイノリティに対して積極的に発信している映画評論家と是枝監督の鼎談になっています」
この記事に自分の感覚はこちら(長いポストです)
https://t.co/EvJMFnjyP5
— 井中カエル@物語るカメ/映画・アニメ系VTuber(初書籍発売中!) (@monogatarukame) 2024年3月16日
読みましたが……基本的に、ボクとはスタンスが全く異なっているな、と思いました…
この意見そのものが正しいとか、あるいは鼎談が正しいとか間違っている、ということを語るつもりはありません
主「ただ……映画を評価するスタンスが全く異なっているんだよね」
カエル「映画に対するスタンス?」
主「表現に対するスタンスといってもいい。
『表現は社会に対して影響力があるので、いい影響を及ぼすべき』という意見があるのも承知しているし、一定の理解は示す。
反差別、確かに大事です。
だけれど……自分は社会なんて時代によって価値観が変わる不確かなものを基準とするよりも、個人がやりたいことを描くべきだ、という意見だ」
『社会の良識』って何?
良識的な映画が必ずしもいいわけではない、と
その良識って、時代によって変わるからね
主「いつも語るように、ヒトラーの時代や戦中の日本だって、戦争奨励するような表現が社会的な正しさだったんだよ。
中国、中東、アフリカ、南アメリカの国々では価値観が全く異なる。価値観が近しいアメリカですら『オッペンハイマー』騒動でもわかるように、原爆だってアメリカと日本ではスタンスが全く異なる。
『社会を良くしよう』という意見は立派だと感心するけれど、同時に『良い社会』とは何なのか。
経済で言っても資本主義の格差の大拡大も問題だけれど、では社会主義や共産主義が完璧ではない。どれも良い面と悪い面がある、という当たり前の話であり、その良い悪いを誰が決まるのか。
近年の映画関連の話題だと、性加害を許さないのは当然としても、司法でもない存在が私刑を与えて晒し上げるような真似は、果たして"良いこと"なのだろうか?」
細かいことを考え出したら、キリがないと……
その当時の常識的な行動をしていたら、時代を経たら差別主義者とされたなんて事例は山ほどある
カエル「特にうちは坂口安吾、太宰治のような無頼派や寺山修司、落語なら立川談志とかのような、破天荒で時代の良識を無視して、支持された人々に傾倒してきたからね」
主「自分の映画評価の傾向としても、社会の善悪よりも個人の表現したいことを表現した映画の方を、より激しく論評していたという自負はあるけれどね。特にクリエイターを描いた作品はね。
なので、スタンスが全く違うということを書きたかった」
後編はこちら
- 評価は結果論
- 映画を語るときに重要な個人の状況
- うちの評価に対するスタンス
などを語っていきます