フリー・ラーソンがアカデミー賞主演女優賞を獲得した作品であるルームを鑑賞したのでその感想を。
今話題の誘拐のお話なので、少しだけ言葉を選ばないといけないかなぁ……
以下ネタバレあり
まずは一言感想
世界はかくも広いものか
1 特長的な構成
まずは本作をどのような映画と心して見に行ったかという問題から始めてみよう。
この作品を見に行くということは、おそらく映画館に行って適当に映画を見ようとした際にこの作品を選ぶ可能性は低いように思う。そういう層はもっと知名度がありそうな『スパーマン VSバットマン』や『ちはやふる』などに足を運ぶように思うのだ。
おそらくこの映画を観る人は、テレビでフリー・ラーソンがアカデミー賞を獲得したことを知った人だったり、映画館で予告編を見た人がほとんどだろう。つまり、それなりの映画が好きな人を対象にしているということだ。
そういう人たちだから、全くの予備知識なしでこの映画を見に行く人は少数派だと思われる。(映画好きの友人の付き添いなどは有り得るが、デートムービーではないのでカップルで見に行くにしろそれなりに映画を鑑賞する素養のあるカップルだろう)
それがこの映画にどのような影響を及ぼすかというと、この映画を『サスペンス』なのか『ホラー』なのか『ハートフルな感動系』なのか、どんな意識で観に行くのかということに繋がってくる。
私などはこの作品は『サスペンス映画』であるという意識で観に行った。そうなるとある程度映画を見慣れていると気がつくのである。
「あれ? この展開は早すぎねぇ?」と。
正直度肝を抜かれましたよ。まさかまだ半分のところでルームを脱出するなんて誰も思わないじゃん!!
あまりにも早すぎるから思わず時間を見てみたら(バックライトのない時計で明るいシーンを待った)まだちょうど半分を示す1時間くらい……
その瞬間察するわけです。
「あ、これ失敗するやつだ」と。
だからジャックが初めて空を見たシーンというのは正直見れたもんではなかった。あれだけ感動的な音楽が鳴り響く中、呆然とする少年の顔のアップと美しい空の次のカットで、バットを持った男がそれを振り下ろすシーンが来るんでしょ!? と緊張していたのだ。
だが何もない。
じゃあ逃げた男がお母さんを惨殺しているのかなぁ……とドキドキしていたらこれも何もなし。ほぼ脱出前と同じ姿でいるのだから、一安心である。これにて万歳、親子は無事に救われたのである。
この構成には非常に驚いた。サスペンスとしてどのように外に出て行くかが少なくとも映画の3/4は占めると思っていたのでこの展開には製作陣のしてやったりというニヤリ顔が見えたのが悔しいところ。
でもこの構成は何も間違いではなく、むしろここからがこの映画の本番だった。
2 「助けられてよかったね」ではないお話
普通の作品であれば脱出した段階で日常に戻りました、チャンチャンというのが多いのだが、この作品はそうではなくその後の生活の難しさというのが正面から描かれている。警察に救出されて犯人も逮捕、これで不安もなくなって家に帰ってのんびりと……と思ったら帰った直後に街中の人たちに歓迎されてしまうわ、両親は離婚しているわ、知らないオジさんと再婚しているわ……もう散々な目にあってしまう。
7年という月日はあまりにも大きすぎたのだ。
それからの生活はマスコミに注目されるわ、ストレスは半端ない生活に突入してしまう。しかも息子の一挙手一投足に対しても「異常じゃないの?」という目を向けてしまう大人たち。その最たるものはスマホで遊ぶことだった。幼児にスマホを与えることの是非はともかくとして、今時スマホで遊ぶこともそうおかしくはないのだが、『普通であること』を意識しすぎて何もかもが異常な行動に見えてしまう。
これらは障害だったり特殊な環境下にあった人たちに多いのだろうが、単なる個性の問題で片が付きそうなことが、特殊な環境によってそうなったのではないかと思い込むところにこの問題の難しさがあるのだろう。
そんな少年と1番うまくコミュニケーションをとっていたのはおばあちゃんの再婚相手のレオだった。おそらくこれはレオの人間性ということもあるのだろうが、血のつながりもなく1番無関係の人間だからこそ、その特別な事情というものを考慮することなく接することができたのではないだろうか?
レオにしてみればおそらく会ったことのない再婚相手の娘とその息子というただでさえ気まずい相手なのだから、誘拐どうのではもう動じないのかもしれない。
一方の本当のおじいちゃんの気持ちもよくわかって、ただでさえ娘が誘拐されている最中に離婚したという負い目があるのに、その上別れた相手の家で再婚相手と再会した娘と犯人の息子との食事というのは少し酷すぎる状況のように思える。多分状況が状況だったら少年とももう少し向き合えたかもしれないが、あの状況が意固地にさせたのかなぁ……
3 『ルーム囚われる』ということ
本作品のスタートは『ルームの中の様々な物に挨拶する』という場面で始まる。全編を通して少年だけに注目すれば(この状況が異質なものだと認識しなければ)本作では1番幸せそうなのはこの瞬間だったりする。
確かに外の世界を知る大人からすればこの状況が異質なものだということはわかるが、しかし少年にしてみればどうだろうか。これが普通の状態だと認識するだろう。
今作の中では不思議の国のアリスがきっかけの場面があるが、そのアリスは母親であり、不思議の国が異常だとわかる。なぜならば、アリスは外の世界から落ちてきたからである。しかし、帽子屋や猫などのあの世界の住人たちは自分たちの世界が如何に異常かを知ることがない。外の世界を知らないからだ。
こういった読み取り方ができる作品の選択など、脚本が練られているなと思う部分でもある。
だからこそ母親は彼を外に出すことに苦労するわけで、そもそも外の世界に出たい母親と、外の世界なんて知らない少年の認識がすれ違ってしまっている。そこを埋めるだけでも一苦労なのは言うまでもない。
外の世界に出た少年も母親以外の人間は実際に見たことがなく、本物と偽物の区別がつかない。これは私も考えさせられたが、テレビの中の芸能人とアニメの登場人物では、どちらも触れ合うことなど基本的にないにも関わらず、芸能人は存在してアニメは存在しないということをどう説明すればいいのだろう?
結局外の世界に出たが、今までとあまりに違う世界に少年が馴染めるはずがなく、むしろルームに帰りたいと駄々をこねる。そんなわけにはいかないのだが、この気持ちがわからないでもないのだ。
小さい頃に私は引っ越しをしたのだが、集合住宅から一軒家に移るだけの、学区も変わらないような引っ越しでもたまらなく嫌だった。そこの家の思い出などの理由もあるのだろうが、何よりもその集合住宅以外の記憶というのは全て未知の領域だからだ。
誰だって今いる環境こそが1番安心するもので、1度陥った環境から逃げ出すことというのは簡単ではない。だからこそ上を向いて行動しようという自己啓発本が流行るわけで、簡単に抜け出せるのであればこんな本の類は必要ないのである。
私はこの映画を見ている最中、少年が帰りたいというたびに「これは当然のことだよなぁ」と思っていた。
このルームの外に出て良かったと思う人は是非とも『世界』に目を向ける努力を怠らないでほしい。「ルームの外には世界がある」というのはこの作品のキャッチフレーズでもあるが、このルームの文字を地元や日本に言い換えるとドキリとする人もいるのではないだろうか?
今の環境に慣れてしまい、新しい環境に足を踏み入れることを怠っていませんか?
あなたが今いる環境というのは、あなたが望んだものではないかもしれない。けれども、外に出て行く努力はしていますか?
確かに外の世界に行くと苦労も多いかもしれない。あの母親のように死にたくなることも多いかもしれない。自分がした選択が最良の選択ではないと他者に責められるかもしれない。
それでも外の世界に飛び出していかないといけない時もあるよ。
私はこの映画の主題はこの部分に尽きると思う。
最後に少年は「バイバイ」と別れを告げ、母親も小さく「バイ」と言葉を告げた。それで終わりではないけれども、小さな世界から外に飛び出そうという目的は達成されたのだ。
少年よ、大志を抱け
クラーク博士の名言であるが、私は少年にあの地元にこだわるのではなく、あのような体験をしたからこそ町を出て、アメリカすらも超えていってほしいなと思う。