物語る亀

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物語愛好者の雑文

食べることって何だろう? 映画『カレーライスを一から作る』を見て

 今回は『カレーライスを一から作る』という映画について語っていこうと思う。

 比較的公開規模が小さいので、この映画について少しだけ解説を加えながら、この映画の魅力などについて語っていければ、と思っている。

 

 ちなみに今回もカエルくんと亀爺はお休み中。

 少し遅い冬眠に入っているようだ。

 

 なお、この記事は『食事系ドキュメンタリー3部作』の最終章にあたる。

 

『築地ワンダーランド』

『ノーマ東京 世界一のレストランが日本にやってきた』

『カレーライスを一から作る』

 

 の3作である。理由は公開時期が似ていることと、そして何よりも私が鑑賞した日付が近いことである。それ以外に理由は……ない!

 だが、おそらくこの3作を見たという人も日本に100人もいないと思うし、さらに記事にまとめた人は誰もいないと思われるので、その意味では希少性は非常に高いと思われる。(需要は知らん)

 

 

 

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【映画 予告編】 カレーライスを一から作る

 

 

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1 『グレートジャーニー』関野吉晴

 

 一時期、私もこのブログでまとめていたのだが『クレイジージャーニー』という番組がTBS系列で深夜に放送されている。この番組は世界各国の『クレイジー』な探検家、冒険家、ジャーナリストなどを取材する番組であるが、非常に棘の鋭い面白い番組なのでぜひとも鑑賞してほしい。

 

クレイジージャーニー vol.3 [DVD]

 

 

 そのクレイジージャーニーの名前の由来になったのが『グレートジャーニー』こと関野吉晴である。(ちなみに番組にも登場したことがある)

 

 

 

 関野のこだわりは『1から作ること』

 番組で紹介されていたのは『日本に人間が海を渡ってきたというのはわかっているが、それはどのような行程を経たのだろうか?』という、至極真っ当な疑問から始まった冒険についてだった。

 インドネシアなどの南方から海を渡ってくるのだが、普通であれば船を漕いだり、ヨットを操りながら東南アジアから日本に渡ってくると思う。

 

 しかし、関野のすごいところは『1から作る』というところにある。

『え? じゃあ舟から作るの?』

 普通の人はそこから考える。だが、関野は違う。

 

 斧などの工具から作るのである。

 

 だから、海を渡るための準備をしているはずなのに、まずは砂鉄をとるところから始まる。

 この壮大な旅!

 いかに関野が素晴らしく、そしてクレイジーな冒険家であるかお分かりいただけたかと思う。

 

 

関野が考える『カレー』

 

 現在は冒険を小休止して、武蔵野美術大学にて教鞭をとっている。『冒険家が美大の教授?』と聞くと、中々に謎な経歴だが、その卓越した知識と経験を生かして文化人類学を学生に教えているようである。

 今回はそんな、関野の授業に迫った映画である。

 

 なぜ1からカレーを作るのか?

 関野は『1から作り始めることによって、見えてくるものがたくさんある』と語る。

 私も農業経験があるのだが、普段の生活で作り上がった食材と、自分で1から作り上げた食材では、味からして全く違う。

 美味しい? いや違う。逆である。

 まずいのだ。

 

 考えてみれば当たり前の話である。

 美味しくなるようにプロが丹精込めて、品種改良などもして育てあげたものを、流通のプロが精査し、それを料理人やメーカーが長年かけて磨き上げた技術を持って作り上げるものが、美味しくないわけがない。

 どうして素人が作り、研究もあまりしていないものが美味しいということになるのか?

 

 だが『1から作る』というのはそういうことであろう。

 私はその過程に意味があると思う。

 

 ちなみにこの映画のカレーがどんな味になったのかは……それは映画を見てのお楽しみ。

 

 

 

 

2 食事をするということ

 

 もはや私などが語るまでもないが、食事をする、ということは『命を食べる』ということである。だが、日本においてはその食事が『命を食べる』ということは、あまり感じる機会はない。

 なぜならば、基本的に加工されて状態のものを食べるからだ。

 

 強いて言えば魚は生きたものを締めてさばき、食べるものであるが現代の一般家庭において魚を捌ける家庭というのはどれほどあるのだろうか?

 おそらく、すでに絞められた魚をさばいたこともない、という家庭のほうが多いのではないか?

 

 現代の日本において、食事や食材というものは『スーパーで買うもの』もしくは『お店で食べるもの』という認識が強くなった。それは時代の変化であろう。『築地ワンダーランド』ではその変化を嘆く声もあったが、魚が切り身で泳いでいるという思っている子供の例などは、実際に魚に触れる機会がなければありうる勘違いである。

(それを問題視する声もあるが、私は単なる知識不足であり、成長すれば補える問題だと思っているので、そこまで問題視していない)

 

 

 作中で鳥を飼育し、それを食べるかどうか、ということを議論する描写がある。

 この鳥を食べるべきか? と疑念を抱いたのは40代のサラリーマンを退職した男性だった。

 若い学生たちはその意見に疑問を抱き『食材として買ったのだから食べるべきである』ということを頑なに主張していた。

 映画の中では若干悪者のような『トンチンカンなことを言い出した人』みたいな扱いになってしまっていたが、私には決してそうは思えない。

 むしろ、あって当然の反応だと感じた。

 

 

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頭で理解すること、体で理解すること

 

 私のように映画などの物語の記事を作り、あーでもない、こーでもないと適当に言葉を紡ぎ、そしてそれをもって作品の価値や思いを自分なりに考えている人間には、実はこの映画というのはとても重要なことを突きつけてくる。

 

 私も、そして多くの観客も『食べ物は命であること』を『頭で』知っている。

 だからご飯を一粒残さず食べるし、食べ物で遊ばないようにする。

 

 だが、本当の意味で『体』では理解できていないのである。

 

 仕事上でもよくあるが、入社したての新人や、移動してきて間もない時、後は新技術の導入などで慣れていない作業をする時がある。ミスというのは往々にそういう時に起こるものであるが、そのミスをする時『頭で理解している』時の方が多いのではないだろうか?

 だからやったつもり、見たつもり、確認したつもり(もしくは本当にやっている)になってしまい、うっかりとしたミスが起こる。これは、頭で理解していても、体が理解することができていないからであろう。

 そして何度も作業を重ねることにより、体が覚えてむしろ変えることがむずかしくなる……そこまで行って『体が覚える』つまりは『慣れる』ということになる。

 

 私はこの映画を見ている最中、学生たちは頭で理解はしているが、体で理解ができていない』と感じた。一方の社会人出身の男性は『体で少しは理解できている』という気がしてるのだ。

 屠殺場の職員たちは『体で理解している』人たちである。だから頭ではあまり考えていない。こういうと暴言のようだが、毎日繰り返し行う作業において『その意味とは何か? 手順はどうするべきか?』などということを一々と繰り返しては仕事にならないために、覚えこませた体を駆使して仕事をしているわけだ。

 

 言葉にすると『食べ物は命である』という言葉に要約される。

 だが、その言葉の持つ重みというのは、学生と屠殺場の職員では全くの別物なのである。

 

 

 

3 この授業の果てにあるもの

 

 結局はこの授業において食べることを決意し、それまで必死に育てきた鳥を食べるということに結論が出た。そしていよいよ、その瞬間が訪れるのである。

 

『じゃあ、誰か首を折ってみたい奴はいないか?』

 

 関野のその声に学生たちはみんな固まり、声を発することはできない。

 これが『頭で理解していること』『体で理解していること』の差であろう。もちろん、どうすればいいのかわからなかったり、やり方が正しいのか、首を折るというのがイメージと違うということもあったのかもしれない。

 もしくは遠慮したり、傍観すると決めていたのかもしれないが。

 

 『体で知っている』関野はここで学生たちとの格の違いを見せつける。

 彼は無表情に、何事もなく、ただの日課のように鳥の首を折るのだ。そしてカメラが学生を映している間に、すでに首を切り落とされ、肉となっていく。

 この緊張感というのは映画のクライマックスであり、素晴らしいものであった。

 

 私もこうして偉そうに語っているが、実際にそのシーンを目にした時は目を覆いたくなってしまった。体が無意識に動いた。

 私もまた『頭でしか知らなかった』人間なのである。

 

 

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4 食事ドキュメンタリーとして

 

 さて、私は今回『食事系ドキュメンタリー3部作』と銘打ってこのブログを書き始めた。

 

 食の流通、目利きなど素材の専門家を扱った『築地ワンダーランド』

 世界一の料理人として腕をふるう職人の努力を描いた『ノーマ東京 世界一のレストランが日本にやってきた』

 そして、食べることの意義、その苦労を問う『カレーライスを1から作る』

 

 この3作を並べてみると、実に多くのことが見えてくる。

 我々が普段享受している食材、食事というものは、どれだけの手間暇や苦労の上に成り立っているのか、そしてそれを『商品』として成立させることが、如何に大変なことなのか、ということをわからせてくれた。

 化学肥料に対する苦悩なども『カレーライス』の中には出てきたが、もちろん教育意図としては化学肥料は否定されるべきものだ。だが、それを産業として、生活の一部として成立させるためには、その化学肥料というものも非常に重要性の高いものだということがわかる。

 

 そういった数々の苦悩、進歩、工夫の上に、我々の食生活というものは成り立っている。

 

 

美術大学生が農業をする意義

 

 では、美術大学生が農業をすること、それに意義があるのだろうか?

 その答えは『ノーマ東京』にしっかりと描かれている。

 

 私は料理を『世界一短命な芸術』と称している。そしてそれは正しく五感、つまり

 

『目で楽しむ』(見た目、彩、盛り付け)

『香りを楽しむ』

『音を楽しむ』(食べ物が焼ける音など)

『手触りを楽しむ』(食べ物を切る、パンをちぎるなど)

『味を楽しむ』

 

という、5つの要素を備えた完璧な芸術であるといえよう。

 彫刻や絵画は『味』を使うことはないだろうし、他の芸術でもそのような五感すべてを扱うものはない。

 

 ではノーマ東京のレネはどのようにその美的センスを磨くのか?

 それは日本であれば自然の中に入っていき、実際に栽培されている現場を見つめ、その木々の彩、水の音、生物の息吹、そのようなものを感じながら1枚の皿の上にすべてのセンスを集約させるのである。

 

 学生たちがその経験を生かすも殺すも本人たちの腕と感性一つである。

 それはレネが証明してくれている。

 

 

 

最後に

 

 私は食に関して人並み以上の興味がある。

 築地に何度も足繁く通い、昨日もついに念願だった熊肉を食べることができた。最近は映画を見ることが忙しくてあまりできていないが、初期の頃は食べ歩きの結果をこのブログで発表しようとしていたぐらいである。

 将来の夢は『小泉武夫のように研究し、池波正太郎のように書き、加藤一二三のようなお爺ちゃんになること』である

 そんな私からすると『食べる』ということは、そのまま『生きる』ということとイコールでもある。

 

 つい最近見かけた記事で『ベジタリアンと肉食文化の論争』の記事があった。

 ベジタリアン側は『肉を食べるのはかわいそうだ』と言い、肉食側(普通の人々)は『植物だって生命だ! 違いはない』という議論を尽くしていた。

 私はそのどちらも正しく、そしてどちらも間違っているように思う。

 

 

 生きるということは命をいただくこと。

 食べるということ、その行為が『罪』なのである。

 

 

 だから人間は『原罪』を背負う。そしてひいては『生きているだけで罪』であるとも言える。

 人間は有機物を食べなければ生きていけない。この真理は絶対のものである。異論はないと思う(あ、光合成で生きる人とかは別ね)

 

 我々に求められるのは『かわいそう』とか『食べることは悪いことではない!』という善悪の2元論ではなく、食べるということの罪を意識し、そしてそこに感謝しながら『食べて』そして『生きる』ということである。

 

 さて、今日は何を食べようか……

 

 

面白かったら拡散お願いします。

(多分検索流入がなさそうなので) 

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