3月8日の深夜に秒速5センチメートルがBSで放送されると聞いて、その前にレビューのようなものをあげていきたい。
最近、新海誠のデビュー前の作品である『彼女と彼女の猫』がテレビアニメ化されたので、少し新海誠ブームというか、波が来ているのだろう。個人的にはもっと注目を集めてもいい監督だと思うのだが、このニッチ感がちょうどいいのかもしれない。
彼女と彼女の猫の記事はこちら(新海誠版)
1 圧倒的な共感性
いきなり気持ち悪いことを言うが、
『遠野貴樹は私である』
いや、もちろん私は小学生の時に別れ離れになった女の子もいないし、種子島に移住もしていないし、サーフィンが趣味の女の子に告白されたことなんてないし、会社を辞めて独立もしていない。
だがもう一度言わせてもらう。
遠野貴樹は私である。
これほどまでに強烈な共感性、同調性を持つ作品というのはそこまで多くはない。有名どころは太宰治の作品群であり、例えば『人間失格』などを読んだ後は「これは自分のことを書いているのではないだろうか?」と思うほどの圧倒的な共感性を強く持っている。だから太宰のファンというのは誰もが「私が世界で一番太宰を理解している」という狂信者めいた確信を持っている人が非常に多い。
またそれは海外文学で言えば『ライ麦畑でつかまえて』であり、この作品に強い共感性を持った人は世界中でたくさんいる。(テレビアニメ版攻殻機動隊の神山健治監督は、「SACはライ麦畑でつかまえてを参考にしており、笑い男などはまさしくそのようなものだ」と発言している)
強烈なのはゲーテの『若きウェルテルの悩み』であり、これは小説を読んだ若者が小説に感化され、絶望し、自殺するという行動を取っている。これを受け報道や物語に触発されて自殺等をすることを『ウェルテル効果』と名付けられた。
これほどの強い共感性を持つ作品群というのは人を選ぶ作品が多い。なぜならば、その作品の魅力とは読者との共感であり、それがわからない人間にはどれほど魅力を語ろうとも理解されることはない。
例えるならば、ドラゴンボールを読んで「悟空はかっこいい、強い、憧れる」ならば多くの人に理解できるだろうが「悟空は僕なんだ!」と語り始めたら、最悪心療内科へ案内されるだろう。
だが、理解できる人にはそれはまさしく『自分の物語』という錯覚を始める。
2 穴は多いストーリー
本作の穴というのは非常に多い。
例えば最も根本的な部分であるが、「そんなに好きならメールしたり、時々会いに行けばいいじゃん」というものがある。まあ、もっともな意見である。
これも共感できる人からしたら「世の中ってそんなもんじゃん! なんでわからないんだよ」というものになる。
だが、その理由は人によって変わるもので
「貴樹とあかりがキスをした瞬間に世界は変わったんだよ」
「若い頃の恋愛ってそんなもんじゃん」
「会いたくても会いに行けない気持ちもあるよ」
など実はその理由というのは人によって違うものであったりするのである。だが、統一された見解がないというのが(余白があるということ)また共感性においては重要で、そういう作品には明確な『理由』よりも、そう至った『気持ち』の方が重要だからだ。
だからこそ「この二人の関係性って何?」とか疑問に思ってはいけない。それはそういうものだと受け入れるしかないのだ。
他にも
「中学生で一晩中家を抜け出して騒ぎにならないのか?」
「そもそもなぜ平日の夜に会いに行った?」
「なぜ貴樹は佳苗の気持ちを受け入れなかったのか?」
「そこまで拒絶した理由は何か?」
などという疑問点は多いのだが、その一つ一つに答えをつけることが重要ではなく、観客に求められるのはその時の貴樹の気持ちと同一になることである。
3 なぜそれほどの強い共感性を獲得したのか?
ではなぜ秒速5センチメートルはそれほど強い共感性を獲得することができたのであろうか?
私はそれを、圧倒的なリアル感だと答える。
例えば桜の花が舞い散るシーンや、真夏の海の波、夜の寒々とした都会の絵もそうなのだが、それだけではなく、車の中で揺れるストラップ、携帯電話と領収書、ベットの上に脱ぎ散らかした衣服、テレビ(パソコンのディスプレイ?)の横に積まれたCD……
そういった一つ一つの映像が単なる『美しい絵』というだけでなく、生活感などをリアルに描写している。それらがこちらに『既視感』を与える上に、その空気や匂い、音を思い起こさせてくれる。
さらに、そこに付属するように独特のポエムのような一人語りがある。
例えば私が自らと貴樹を同一視したのは3話の秒速5センチメートルにある、以下のセリフだった。
この数年間、とにかく前に進みたくて
届かないものに手を触れたくて
それが具体的に何を指すのかも
ほとんど脅迫的とも言えるようなその思いが
どこから湧いてくるのかもわからずに僕は働き続け
気づけば、日々弾力を失っていく心がひたすら辛かった
そしてある朝
かつてあれほどまでに真剣で切実だった思いが綺麗に失われていることに僕は気づき
もう限界だと知った時 会社を辞めた
私は会社こそ辞めていないが、ここまでの切実な思いとそれに裏切られたような気持ちというのは痛いほどよく分かる。このセリフが私の中で何か(人生とか、性格とか、宿命とか、そういう自分の根幹に関わる何か)に触れた時、「ああ、貴樹は私なんだ」と共感したのだ。
一人称の語り口
この作品は三人称というものがあまりない。確かに貴樹や佳苗が見ていない場面で誰かが話したり、独り言をつぶやくシーンなどはあるため0ではないのだが、その本心はよくわからない。
その独白の多くが主人公である貴樹か、2話の主人公である佳苗の視線で作られているため、そこに共感するポイントが非常に多い。
これは小説に自分を投影する作品が非常に多いのと似ていて、映画やドラマなどは基本的に3人称で作られていて、観客の目線はあくまでもカメラと同じであり、つまり神の視点でしか物語を眺めることはできない。
一方、小説は1人称というものが非常に多用されており、その主人公などの語り手と自らを同一視することができる。
それを映画で、ポエムのように一人語りをして、さらに美しい映像で魅せるということで表現したのが本作だ。
4 過去の2作とは何が違うのか?
なぜ過去の2作以上に秒速5センチメートルが評価されるかというと『ほしのこえ』も『雲の向こう、約束の場所』も双方特殊な設定のSFであるという点が大きく違う。
我々がSFやファンタジーを見る際に、その壮大なスケールや設定に驚愕することはあっても、その世界は我々の住む世界と繋がっているとはあまり思わない。そこにあるのは憧れであって、共感ではないのだ。
だから新海誠が描いた彼らの生活や感情は本作よりも遠く離れているわけでもないのだが、そこに感情移入をすることができない。
『星を追う子ども』も私は失敗したと思っているが、それは明らかなファンタジーだからであり、描こうとしているものは似ているのだが、そこに共感性が宿らないからというのも1つの理由だと思っている。
(言の葉の庭はこれと似た様な造りをして半分くらい成功している)
映画としては……?
本作は映画の脚本の作り方からすると、失敗作かもしれない。
なぜならば主人公に目的がなく、また挫折などの理由が開示されておらず、それを察するにしても非常に難解だからだ。3年間付き合った女性が誰なのかと言うのもわからないし、その2人の間に何があったのか、察することも難しい。
起承転結、3段構成のようなものにも微妙になってない。(1章の答えが3章になるなら3段構成だけど、この3つって正確には繋がっているようには思えない。独立した3つのお話を1つにまとめたという印象)
しかも最後のEDの笑顔ともなんとも言えない気持ちに至った理由も、その顔の意味も開示されていない。挫折も、成功も、過去を吹っ切るのも、何もかも唐突な気がしてしまう。
そういう意味では答え合わせのようには語りづらいし、誰にでも理解出来る作品にはなっていない。
でも、非常に便利な言葉を使えば『人生ってそんなもんじゃん』
すべてにおいて理由があるわけじゃないし、何となく嫌な気持ちで会社休みたい日もあれば、理由もなく人に優しくしたい日もある。突然子どもや恋人にプレゼントを持って帰る日もあるし、家に帰らずにネットカフェで一晩を明かす夜もあるし、突然走り回る日もある。
その理由を尋ねられても、「まあ、何となくだよ」としか言えない時っていうのは必ずある。そこを誰か他人に理解してもらうことなんてできないけれど、でも本人はそれで満足って時があるだろう。
それを表現したのがこの作品だと思っている。
それからEDに流れる山崎まさよしの曲も当然ながら非常に強い影響力を与えているのも忘れてはならない。
山崎まさよしのPVという人もいるが、それはそれで間違っていないと思う。
最後に
最後になるが、本作を観るときは必ずパッケージ版を見て欲しい。
それは違法アップロード、ダメ絶対と言う理由だけでなく(もちろんそれもあるが)この圧倒的に美しい映像はいいテレビとブルーレイで見て欲しいからだ。画質の違いによって大きく影響される作品だからこそ、是非とも美しい状態で視聴して欲しい。
(Amazonレンタルも100円のものが多いので是非)
漫画版もオススメ
ラストが映画と違ういます。
(自分は漫画版も好き。明里よりも佳苗派なので)
短編小説やってます。
少し切ない話を一つ。