では、2018年のテレビ放送に合わせてこちらの記事も修正するとするかの
しかし、まさかNHKが24時間テレビの真裏で放送してくるとはね……
亀爺(以下亀)
「『本当に障害と向き合うというのはどういうことか?』ということを体現してきたNHKのEテレスタッフらしい判断じゃな」
ブログ主(以下主)
「……本作って、自分もこれから語るけれど、障害のキャッチーな面が重視されるけれど、実はそれ以上に重要なことを描いているからね」
亀「ちなみに、今回は考察と評論の記事になる。
そのためガッツリとネタバレをしていくから、それを心しておくように。
まあ、今となっては公開からかなりの時間が過ぎておるから、別に大きな問題はないかもしれんの。
ちなみに、ネタバレがあると楽しめないかというと……そういう映画でもないじゃろうな」
主「元々公開初日にガッツリと考察記事を書いていたんだよねぇ……
この記事ではただ単にあらすじ紹介するだけじゃないけれど、一度映画を見てからこの記事を読んで欲しいって思いはあるかな」
亀「今回も相当長くなるじゃろうが、それでは考察を開始していくぞ!!」
この記事では以下の点について語っていきます
- 移動する向き、光と影の演出などが語るものとは?
- 各キャラクターに与えられた役割について
- ポスターから読み取れる意図について
ネタバレなしの感想記事はこちら
演出が語るもの
まずはこれから語る演出についての概要から始めるとするかの
自分で言うのもなんだけれど、構成し直すの面倒だなぁ……
亀「今作はそれなりにメッセージ性が演出の中に隠されておった印象じゃの」
主「隠されたというか、脚本とかで言葉にして語らなかったことが多いかな。『たまこラブストーリー』もそうだったけれど、山田尚子監督の演出とか絵コンテって、すごく個人的にわかりやすいから嬉しんだよね。
押井守とか、難解だからそれこそ何回も見なければいけないし。あ、シャレじゃないよ」
亀「……まあ、それは無視するとして、今作の演出というと、どのようなところが光っておったかの?」
主「この記事では以下の点に注目しながら考察していきます」
- 移動する向きの演出
- 光と影の演出
- 各キャラクターの意味
- メタファー
主「この記事では主にこの点に注目していきます。
将也と硝子の関係性の変化については、次の記事で語るとしようかなぁ」
亀「演出の基本的なことが並んでおるの」
主「まずは前も語ったけれど
移動する向きの演出
光と影の演出
キャラクターの意味
ここで挙げたのは基本かもしれないけれど結構奥深く演出されている。それがさらに深化したのが『リズと青い鳥』だしね。」
亀「原作があるとはいえ、結構改変されておるところもあるからの」
主「賛否があるのは当然だと思うけれど……個人的にはまとまって、いい改変どころか、しっかりと『映像作品として』昇華した印象も強い。
まあ、原作ファンからしたら許せない気持ちもわからないではないかなぁ」
移動する向き
亀「まずは順を追って話していくかの」
主「この作品は高校生時代がメインのストーリーなんだけど、学校に行く時や病院に行くカットというのが何回も映している。それが特になくちゃダメな、すごく大事なカットかというと……必ずしもそうではないのかな。
だけど、これも演出意図がなんとなく想像できると意味が生じてくるんだよ」
亀「いつもの上手と下手の話じゃな」
主「そう。この作品において、将也が自転車で漕ぐのは大体下手から上手(左から右)なんだよね。
これって、自然な演出とされるものとは逆なのよ。
大体行きが上手から下手、帰りが下手から上手が自然な演出とされている。
『たまこラブストーリー』は多くの進行方向が上手から下手だったけれど、これとは逆になっている。
この意味を考えると、この時点での将也は『過去を向いている、強い後悔を抱いている』という風に捉えることができるんだよね。
逆に『たまこラブストーリー』は基本的に未来に向かう話だから上手から下手に向かっているわけ。このいく向きに注目すると、その時の登場人物の心情が大体わかるよ」
亀「それが理由だけではないかもしれんがの」
主「この作品って基本的に『小学校時代をやり直す』という作品じゃない。もちろん、そのままやり直すことはできないから、高校生になってから色々あるわけだけどさ。
そういう意味では過去の方向を向いた作品なんだよね。未来を向いていたたまこと対になる存在かな」
亀「小学校時代はちゃんと演出の自然な流れに沿った……つまり上手から下手の流れになっておったからの」
主「そうそう。
だから、小学生の時は自然に、未来を見つめていたんだけど、高校生の将也は未来を向いていないんだよ。
そこが一つのポイント」
光の演出
ここでは小学校時代の喧嘩のシーンについて語るとするかの
序盤の大きな見どころだね
亀「いじめが発覚したのち、2人でケンカをしているシーンじゃな」
主「そうだね。特に、将也と硝子が取っ組み合いの喧嘩をする場面なんだけど。ここって、考えようによっては最悪の場面じゃない?
だってさ障害者の女の子と、元気な男の子が喧嘩をしているんだよ?
だけど、光が差して明るいんだよね」
亀「ここは作画も力が入っておったの。ここで光が差すということは、何らかの明るいことがあるはずじゃが……」
主「ここの演出の意図って、多分だけど……初めて硝子が本当の意味で、他人とコミュニケーションをとった瞬間なんだよね。
それまでの硝子って、みんなに嫌われないようにと気を使いすぎて、いつも笑って我慢している女の子だったわけだ。そこもみんなの怒りに、火に油を注ぐ結果になった。
確かに将也は障害者である硝子をからかって、虐めたよ。度を過ぎた行動をした。
でも、あのいじめの糾弾を受けた後においては、硝子と将也はカーストで言えば最下位、むしろ『障害者という弱者』ではなく、さらに『障害を抱える女子をいじめた罪人』という意味がある分、硝子より下にいるわけだ」
亀「ここでも虐めた相手の机を拭く、硝子というのはあまりにもいい子すぎるの」
主「それだけコミュニケーションを求めていたんだよね。
伝えたいのに、伝わらない。
それがモドカシイからさ。
だけど、あの瞬間、あの殴り合って喧嘩した瞬間において、硝子は初めて『本当の気持ち』を家族以外の他人にぶつけることができたんだよ。
硝子が作中において、本当の気持ちをぶつけたのは将也だけ……ではないけれど、それは後述する。
だからこの場面というのは光が降り注いでいるわけだ。殴り合ってコミュニケーションって男子同士のものっぽいけれど、それまでは殴りあうことすらできなかったからね」
亀「なるほどの。その意味では『硝子と将也の恋愛描写が薄い』という意見もあるが、この演出を見る限りでは唯一コミュニケーションを取れた他人じゃから、特別な相手ということかの」
主「まあ、いじめた相手と加害者が恋愛関係に陥るのが嫌、って気持ちもわかるけれどね。そんな生易しいいじめでもなかったし」
光が多く取り入れられている小学校時代。
喧嘩一つをすることも出来なかった時代……
(C)大今良時・講談社/映画聲の形製作委員会
中盤の演出について
川の意味
本作は川のシーンが非常に多い作品でもあるの
大切な場面は大体川や水が出てきている
亀「前回、たまこラブストーリーの記事では川というのは境界線、つまり未来と過去の境界であると言っていたが、そういうような意味かの?」
主「う〜ん……それもあるかもしれないけれど、大体この作品の『感情の爆発』は、橋の上が多いんだよ。
その理由を考えてみたんだけどさ。
ここでいつものロジックを使う。
『作画カロリーが高い描写には意味がある』というやつね」
亀「川の描写で特徴的だった部分というと、あの川に飛び込んでノートを探す瞬間かの?」
主「そう。そこって、多分すごく重要な意味を持っていてさ、川の中に、水の中にいる間だけ、健常者であっても聴覚障害者と同じような状態になるんだよね。
ほら、水の中って音がよく聞こえないでしょ? 音がうまく伝わらないからだけどさ、おそらくこの描写って『障害の疑似体験』という意味があるんじゃないかな」
亀「ほう。では、今回の川の意味というのは『障害』を意味するのかの?」
主「そう。障害の上に成り立つコミュニケーション、障害を考えた上でのコミュニケーション。だからこそ、川の上の橋という舞台を多用したのかなって。
さらに戻ると、この作品でずぶ濡れになるのって硝子と将也と、あとは硝子の家族である結弦と母親と……もう1人いるけれど、これは、濡れた人は障害について考えている、直視しているってメタファーでもある」
多くの感情の爆発は川の上で行われる
(C)大今良時・講談社/映画聲の形製作委員会
川が重要な序盤のシーン
亀「少しだけ小学校時代に話を戻すが、この作品の方向性を決定づけるシーンがあるということじゃが……」
主「それがケンカの直前のシーン。つまり、いじめについて母親とともに謝りに行った時に、硝子と出会うシーンだ。
ここでは初めて2人が本当の意味で向き合った後……つまり『水に濡れた後』に出会うシーンなんだけれど……
注目して欲しいのは『川の前』にいること、そして『鳥(ハト)』だ」
亀「ふむ……先ほどのロジックを使うと、障害(川)と向き合っている硝子の姿を、初めて将也が向き合うということでもあるかの」
主「それと、鳥に餌をやっているのは硝子なんだけれど、ハトは平和の象徴でもある。
彼女は1人でいると平和なんだよ。
だけど、その状況を壊してしまう他人……それが将也だ。
でも、コミュニケーションってそういうことじゃない?
1人でいればずっと平和で楽しいかもしれないけれど、他人と交流をするとそうも言ってられない……でも、それがコミュニケーションだよね」
亀「簡単な物語ではないということをここで提示しておるのじゃろうな」
電車のシーン
亀「ここも美しいの。たまこでもあったが、2人が近くの距離にいるのに、カットで離れているように見せる演出が多用されていたの」
主「そうね。これも考えてみると、結構意味があるなぁと思ったけれど、この電車の進行方向って左から右、つまり下手から上手だったんだよね。
光に溢れているから明るい意味合いの演出だけど、方向は下手から上手ってことは、ここからいよいよ2人は過去を取り戻すよ、過去と向き合うよって意味でもある。
それだけの不安もあるけれど、強い意志も感じるよね」
亀「なるほどの。後半の電車は逆じゃったの」
主「そうね。これは未来に向かって進んでいることを表している。
そしてここから、いよいよ過去の友人たちとの再会だけど、キャラクター1人1人に明確な意味があると思うから、ここからはそれについて語っていこうと思う」
各キャラクターの立ち位置
では、ここからキャラクターの立ち位置について語るとするかの
それぞれのキャラクターにも明確な意味があるのが、この作品の特徴だろう
亀「原作と比べると先生や島田など、一部の人物の描写は除外されてしまったの」
主「まあ、映画も撮らないし、時間を考えると難しかったのかもね。
それ以外のメインキャラクターにはそれぞれ意味があると思うから、それについて書いていくよ」
永束友宏
亀「ブロッコリー頭の永束じゃの。将也関連の時に結構出てきたのじゃが……」
主「彼はわかりやすいよね。最初の将也の友人にして、障害と関係なく硝子に近づき、将也と接する人物。
親友ポジションだよね。
彼がいないと将也は諦めて帰って硝子と会えなかったから、彼と交流することによって新たな扉が開かれる、という意味になる。
彼の役割はズバリそのまま『閉じこもった扉を開ける』係なんだよ。
これは最後に話すけれど、彼はこの作品の主題に対して大切な、第一歩目を踏んだキャラクターだから、重要だよ」
川井みきと真柴智
亀「この2人も強烈なキャラクター性を持っていたの。特に川井みきは賛否が分かれそうじゃな」
主「個人的には2人ともダメなんだけど。この2人に与えられた役割は『無自覚な暴力』だったり『一般大衆』の役割なんだろうね。
ほら、2人とも正義感が強いというか、いい子ちゃんの割には、ナチュラルに鬼畜じゃない? 将也が悪いと思ったら、なんの躊躇もなく将也を傷つけるし。まあ、生き方がうまいというかさ」
亀「結構辛辣な意見を言ったりもしていたの」
主「だから硝子の障害に結構関心はあるというか『障害を抱えているから優しくしてあげよう』という意識はある。
だけど、本当の意味で優しいかというと、そんなことはない。
手話も覚えないし、同調圧力に負けるし。
だから、良くも悪くも一般大衆なんだ」
亀「かなりヘイトも多いキャラクターじゃな」
主「だけれど、本作ではとても重要な役割を抱いている。
3度目には川井の評価も大きく変わったと以前の記事で述べたけれど、その理由は彼女は『正しくあろうとする人』なんだよ。
彼女の語る『自分のダメなところを、愛して前に進んでいかなくちゃ』という言葉が、本作に重要な意味がある」
佐原みよ子
亀「唯一手話を覚えようとしてくれた、女の子じゃな」
主「そう。彼女は川井みきとは違って、本当に親身になってくれた女の子。硝子にとっての初めての女の子の友達ってところかな。
今回の映画版では結構出番が削られちゃった印象もあるね」
亀「彼女は普通のいい人というイメージじゃな」
主「障害に親身になってくれる、典型的ないい人だよね」
植野直花の重要性
植野だけは特別扱いするんじゃな
今作において、最も重要な友人というのはこの植野だと思うからね。
主「個人的にはこの植野と硝子の交流を描いたということに、この作品の最大の意味があると思う」
亀「ほう……それは一体なんじゃ?」
主「植野は一見するとすごく嫌な女の子だよ? 明確に敵意を向けてくるし、手を挙げるし。それは正直、障害者に与える態度ではない。
だけど、この作品において唯一、植野だけが『障害を抱える硝子』ではなく、1人の少女として接したんだ」
亀「明確な敵意は恋敵ということもあるじゃろうが……」
主「それもあると思うけれど、観覧車の敵意をぶつけるシーンっていうのは、その会話の内容に反比例して、結構光が取り入れられていたんだ。もちろん、これは昼間の、遮るものがない観覧車という空間だからかもしれないけれどさ。
明確な敵意を向けているけれど、植野は正直に自分の感情を伝えている。
この作品において敵意であったとしても、むき出しの感情を硝子に向けているのは、将也と植野だけなんだよ。
そう考えると、明確にコミュニケーションを、障害関係なく取ろうとしている存在として、非常に重要な立ち位置にいる」
『障害者への配慮』という壁
亀「ふむ……小学校時代の喧嘩のシーンと同じようなものかもしれんの。
確かに、本来、障害者に対する罵詈雑言であったり、暴力行為というのは差別の観点から表現が難しいし、非難されてしかるべきものかもしれん。
じゃが、その『配慮』こそが差別の、区別の始まりであるからな。
善意であったとしても、の」
主「難しい話だけど……でも、ケンカも1つの時には必要なコミュニケーションだというのは納得する人もいるんじゃないかな?
そして、障害を理由に自分の殻に引きこもっていた硝子を引っ張り出したのも植野なんだよね。
『私は私が嫌いです』って言葉を『ふざけんな』って怒鳴った。障害は理由にならない、理由にさせないという態度で接した、唯一の友人。
多分、この話のラストの後、この2人って本当の意味で友達になれると思うよ。それだけの濃厚なコミュニケーションを交わしたわけだし」
亀「……ふむ『障害者』と『健常者』の壁を超えた付き合いか」
主「確かに嫌な女の子に見える。だけれど、嫌な女の子になっている理由を考えると、また違う意味があるのではないかな?」
植野との再会のシーンについて
亀「なんじゃ、さらに植野について語るのかの」
主「だって、この植野の描き方が最もこの作品で革新的で重要な部分だと思うからさ、この子を勘違いして欲しくはないんだよ!」
亀「やれやれ……仕方ないの、では手短にの……」
主「まず、植野を勘違いしやすいのは、硝子との再会のシーンだけど、ここで補聴器を抜いているわけじゃない?
あれってからかうとか、いじめをやり直すというよりも、これから始める会話を硝子に聞かせたくないって意味もあるのではないか?
将也の気を引きたいけれど、どうすればいいかわからないから、とりあえず昔みたいに話してみる……その種に硝子を使っているんだよ。
だから、ひどい言葉を言っているようだけど、硝子には一切聞こえていない。
多分、補聴器で遊ぶつもりはなかった」
亀「久々に再会した好きな男の子の彼女が、昔いじめていた女の子で、それが心残りとしてあるからどう接していいかわからずに混乱したのじゃろうな。
しかも……よくよく考えてみると、硝子の耳の病状が進行していると気がついたのは、家族を除けば唯一気がついているのは植野なんじゃな……」
主「それを補完するのが演出でさ、たまこラブストーリーでもそうだったけれど、顔を映さないんだよね。これは『本心を語っていない』という意味がある。
だからあのシーンの会話って、植野は本心を語っていないからさ、印象は最悪だけど、意味は違うんだよ。
あのシーンにおいて『マジダサくなったわぁ……』というシーンがあるけれどさ、あそこは唯一口元が見える。
その言葉と裏腹に、笑っているように見えるわけだ。
本心はそっちなのかな。もちろん、これは嘲笑ではなく、安心の方の笑いだと思う。
『ああ、将也もやり直せたんだ』という笑いだね。
そしてこの後……植野との関係は追記2へと行くわけだ」
決して顔を見せない植野。その真意は言葉とは別にある。
(C)大今良時・講談社/映画聲の形製作委員会
本作の重要な『セリフ』の意味
ふむ……言葉の意味、とな?
本作のセリフって誰に向けられたものなんだろうね?
亀「それは、当然向かっている相手に言っているものじゃろうな」
主「う〜ん……でもさ、自分はそれだけに思えないんだよね。
例えば、上記の発言……植野の『友達? いじめてた奴と友達?』というセリフ
そして川井の『ダメな自分を愛して……以下略』というセリフについて考えよう」
亀「ふむ……植野は将也を嘲笑しておるし、川井は硝子を諭しているように聞こえるが……」
主「本当にそれだけなのかな?
本当はこのセリフって自分に言っているじゃないかな?」
亀「……?」
主「つまり、いじめていたこと、そしていじめを無視していたのは植野も同じだ。
そして川井は自分がダメだってことをわかっている。
川井はただ、その時の状況で正しいことを選択したいだけなのではないか?
だけれど、それは難しい。いつも正しくあれる人間なんて、それこそ聖母だよ。
そんな自分も愛して……というセリフにも聞こえるんだよね」
後半の演出について
では、ここから後半に入っていくが……
まずは鯉の演出からかな
主「これはTwitterか何かでみたけれど、原作では鯉って『まじない』って意味らしいのね。それはこの作品でも似たような意味だと思う。
2人の距離感を図る演出として、鯉が行ったり来たりしている。それこそ鯉=恋かもしれないしね」
亀「鯉に餌をやる=恋を育くむ、かもしれんしの」
主「そうそう。あとは、中盤の告白シーンの『好き』という言葉が『月』になったのも、夏目漱石のI LOVE YOU=月が綺麗ですね、から来ているんだろう。
ただし、このシーンもただのラブコメではないんだよ」
亀「……というと?」
主「将也は『他人が自分に好意を向ける』という事実を理解できない。自分は罵倒されて、死んだほうがいい人間だと思っている。
だから仮に『好き』という言葉が届いても、それは理解できない。だからこそ、あの中盤のシーンは意味があるんじゃないかな?」
花火とその後の展開について
亀「話を後半に戻して、あの予告編でも使われた衝撃のシーンじゃな」
主「この一連の流れで特徴的なのは『飛び降りる硝子を救うのは、死にたがっていた将也』という点だろうね。ここにおいて、この2人は同一の存在となる。この描写が、後々生きてくるわけだよ」
亀「なるほどの。そしてここから『感情の爆発』の描写があるわけじゃの」
主「そう! 個人的に一番推したいシーンがあるんだよ。
外で硝子と植野がぶつかって、そこを母親が止めに入るという病院でのやり取りなんだよ。
この瞬間において、溜まっていた感情を爆発させて一気に……なんていうのかな、ぶつかり合ってグチャグチャになっていく。
ここってさ、分かりやすいカタルシスがあるわけじゃないし、みんながみんな快感を覚える描写ではないかもしれないけれど、ここにおいて、また一つの『君の名は。』とかとは違う爆発を見せてくれた」
亀「ここの早見沙織の演技なども素晴らしかったの」
主「すごく涙腺を刺激されちゃった。ここは全てが揃った、素晴らしい描写だと思うよ」
鯉が意味するものは? 恋? まじない?
(C)大今良時・講談社/映画聲の形製作委員会
そしてラストへ
『障害の象徴』である橋の上での告白シーンがあるわけじゃな
とりあえず、今回はラストへと行くよ
亀「なんじゃ、一気に飛ぶの」
主「この告白シーンもカタルシス描写ではあるけれど……個人的にはその前にあれだけの爆発が見れたから、まあこれでいいかなって気分だね。
ここまで張った伏線が一気に回収される文化祭のラストになる」
亀「ここは一部で批判を浴びておるの。映画を撮らなかったから出し物が変わった、などの」
主「う〜ん、自分は違和感なかったけれどなぁ。
まず、文化祭で閉じこもる将也の扉を開けるのは、やはり長束なんだよ。
彼は『扉を開ける役割』……つまり、親友として将也の孤独の扉を開ける役割がある。
ここで硝子と2人で歩くけれど、将也は前を向くことができない。
ここってある意味、視覚障害みたいだなって印象があったのね。聴覚障害を抱える硝子が、人の顔を見れない将也を引っ張るという、ある意味補い合いの関係なのかなぁって思うわけよ」
亀「ふむ……」
主「明確な意味はもしかしたらないかもしれないけれど。そしてラストにおいて人々の顔に×が付いていた将也の視界から、それが外れていくわけ。
序盤では勝手に脳内で罵詈雑言を想像していて、中には妄想としか思えない描写もあったけれど……そして、その声を耳に入れると、実際に罵詈雑言であった描写もあるけれど、ここにおいて、ようやく将也は前を向いて歩くことができるんだ」
『The shape of voice』
亀「そうじゃの。それがどうかしたのかの?」
主「……ほら! さっきさ『自殺を止めることで硝子と将也は同一になった』って語ったでしょ!?
そしてこの描写のラストに再び、英題である『The shape of voice』の文字があらわれるわけだ」
亀「それがどうかしたのか?」
主「……この『聲の形』という題は我々観客は……少なくとも自分は『聴覚障害を抱えるヒロイン』がいるからだと考えた。聲の形は見えないけれど、その形ってどんなものだと思う? みたいな意味だと思ってた。
だけど、この同一視によって、つまり『聲の形』というタイトルが最後に出ることによって、耳を塞いでいた将也を表す言葉でもあったという意味になる。
つまり、この聲の形って障害やいじめの被害者だけではなく、加害者も……もちろん、将也みたいにすごく反省している加害者だけど、そういう人も言い表しているんだよ。
これってすごくうまい演出だと思った。タイトル一つで、この物語の主人公とヒロイン、そして聴覚障害といじめという大きな問題を包括しちゃったからね。
永束から始まったトラウマの克服が、ここで終わったわけだ」
亀「なるほどのぉ……」
雨に濡れる植野
では、また植野の話に戻るかの
自分はここもすごく重要視しているんだ
主「この作品において『水に濡れる』というのは障害や硝子に本当の意味で向き合った人という意味なんだよね。
だから将也、硝子、結弦、母親、そして植野が水に濡れるわけだ。
あの病院のシーンにおいて、何度も訪れる硝子の姿を見ているわけだ。そこで硝子と向き合い、さらに雨に濡れる植野に傘を差し出すのが硝子でしょ?
これは序盤の将也と結弦のやり取りを踏襲しているんだよね」
亀「あの2人もそこから仲良くなったからの」
主「そう。そしてこれは監督が明かしているけれど、最後の文化祭において植野が『ハカ』と手話をして、硝子は『バカ』と訂正しているんだよね。
これってさ、初めて硝子が他人に冗談を言った瞬間なんだよ。
『ごめんなさい』しか言えなかった硝子が『バカ』って言えたんだよ。
これが植野が望んだ本当の会話じゃない?
将也以外の他人と……しかも、最も敵意を持った相手とコミュニケーションが取れた瞬間でもある。
この点において、植野は将也とまた違った意味で、硝子と特別に接することができたわけだ」
亀「ふむ……なるほどの」
主「だから、植野の描き方ってすごく大事なんだよ。佐原との関係もそうだけど、植野だってやり直したいの。
そしてそれは、初めは硝子抜きだったけれど、今ではもう硝子のことを無視できないくらい大きな存在になった。
そんな変化をした植野を描いたことが、この作品の最大の革新的な部分であり、核心だと思うわけ」
ポスターから読み取れるもの
これは……メインビジュアルというか、公式のポスターじゃの
ここからも多くのことが読み取れるんだよ
主「この絵の中で正面を向いているのは硝子1人だけなんだけど、これは当事者であるからこそ、障害にしっかりと向き合っているという意味だろう。
そして、他のみんなは右から左へと歩いているよね。これは、未来に向かって、自然に歩いている。
普通に生きているということなんだけど、将也の後ろにいる3人……永束、川井、真柴の3人は硝子の方を向いていない。これは障害というものを見ない、あるいは気づかない、そこまで関心のないということを表している」
亀「実際目の前に現れれば関心を示すが、そうでもないと特別考えることもないという意味じゃの。これは一般大衆と同じかもしれんな」
主「そして前を歩く3人……佐原は硝子を気にしているけれど、多分歩みは止めないよね。気にはするけれど、自分の未来に向かって進んでいる。
そして植野は俯いて、見ないようにしている。これは、硝子という存在には気がついているけれど、特別気にしないようにしている。だけど、よく見ると目は硝子を向いているんだよね。
それが後ろの3人とは違う部分。
結弦は当然しっかりと硝子を見つめているけれど、体自体は向き合ってない。これは、障害を持っていないという意味もあるだろう」
亀「そうなると、唯一足を止めているのが……足を止めそうなのが将也ということになるの」
主「そうね。そして空中に手を伸ばすでしょ? 硝子と将也が見ている先にあるものは同じなんだよ。そして、それを掴むために『手を差し伸べる』という行為を描いている。
将也も障害を抱えていないから、体は正面を向いていないけれど、他の面々が『硝子』という障害者を気にしているのに対して、硝子と将也の2人は、そのちょっと上を見ている。
この2人の見つめる先に、小さいけれど光があるんじゃないの?
っていう意味のポスターではないかな?」
障害を扱った映画ではこの2作品もオススメ!
障害の新しい描き方
亀「これは原作と同じ描写かもしれないが、言っておきたいんじゃろ?」
主「そうそう。最近はさ、障害者を取り巻く表現を『感動ポルノ』なんて言ったりするじゃない? もちろん、それは最大限配慮した結果なのかもしれないし、仕方ないとも思うけれどさ、こういう形で新しい描き方ができるじゃない」
亀「新しい描き方?」
主「そう。植野の接し方のように『障害者としてではなく、ただの1人の人間として嫌い』という描き方。
障害を抱える人を……弱者とされる人を、嫌いとか暴力を受けるように描くのはすごく難しいよ。高度なバランス感覚が求められるし、結構いろいろな人権団体から言われるかもしれない。
だけど、そうやって弱者を守るという言い分で……区別をするとさ、いつまでも障害者を描くときは馬鹿にしない、頑張っている姿を描く『感動ポルノ』から脱することはできなんだよね」
亀「感動ポルノは楽じゃしの。頑張った姿を応援することによって、プラスの印象を持たれるし、下手にお笑いなどでいじるよりもプラスな印象を与えることができるからの」
主「でも、そうじゃない。障害は配慮はするかもしれないけれど、それはあくまでも個性の一部である。嫌いだったら嫌いと言っていいし、間違っていたら間違っていると言っていい。そういう風に描いた作品なんだよね、本作は。
これはすごく大事なことだよ。こういう形で受け入れていくことで、描き方の幅が広がる。その先にはさ、バリアフリーな表現があると思わない?
そういう可能性も示した作品なんじゃないかな?」
最後に
亀「今回も長かったのぉ!」
主「いや、相当語ったね。もしかしたらまた追記やら訂正やらして、もっと長くなるかもしれないけれど、とりあえずこんなものかな」
亀「して、主よ。ここで一つ無粋なことを聞くが……『君の名は。』と比較して、どっちが好きじゃ?」
主「……これは好みの問題もあるし、どちらも稀代の傑作だということは言っておくけれど、個人的には賛否が分かれる、グチャグチャにかき乱される作品って結構好きなんだよね。
その意味では……『聲の形』の方が、わずかに好きかもしれない。
でもやりたいことも、やったことも全然違うからね。公開規模も違うから、売上では全く相手にならないだろうし」
亀「いやいや、それでもこれで今年のアニメや映画の表彰関係者は困惑じゃろうな。これほどの作品が出揃うと、あとは審査員の好みになるしの」
主「嬉しい悩みだよね。山田尚子もこれで、また一つ高い位置に登ったんじゃない? 宮崎駿、押井守、高畑勲(もしくは今敏)が旧アニメ界の御三家だとしたら、次は細田守、新海誠、山田尚子かもしれないね」
亀「……なんだか、えらいピュアなメンツじゃの」
主「ここで、難解だったりエゲツナイ物語を作る監督が出てくれば、もしかしたら1チャンあったりして!?」
亀「……まあそんな人がいてもいいとは思うがの。外野はグダグダ言うだけでいいから、楽なもんじゃな」
この記事の続きはこちら。
脚本のうまさや、将也と硝子の関係性、演出の意図に『聲の形』というタイトルの意味なども考察しています。
印象に残ったレビューを貼ります
Yahoo!映画レビューから
特に最後の2文がいいです。
こちらはコメントいただいたid:kato_19さんのブログ。
コメントをいただいたから貼るというわけではありませんので、悪しからず。
愛に溢れています。