今回はアニメ映画版の『ジョゼと虎と魚たち』のネタバレ解説記事になります!
徹底的にネタバレしていくので、それが嫌な方は引き返してほしいの
カエルくん(以下カエル)
「あとは、記事の性質上原作・実写版との比較も行いますので、そちらもご了承ください」
亀爺(以下亀)
「ちなみに、ネタバレなしの感想記事が読みたい方はこちらをお願いするかの」
カエル「それでは、早速ですが記事のスタートです!
また、この記事が面白かったらブクマ、Twitterでのつぶやきなどをお願いします!」
ジョゼと虎と魚たちについて語るYouTube動画を公開しました
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ジョゼという作品を読み解くには
まず、ジョゼという作品を読み解くには、以下の3つの要素がすごく大事なのではないでしょうか
- 障害
- 性
- 苦難を支えるもの、想像力
この3つのバランスが、それぞれの各媒体で異なるわけじゃな
カエル「ここも簡単にまとめると
- 原作小説→障害・性・想像力がバランスよく組み込まれている
- 実写映画→障害・性が強め。想像力の話は弱め
- アニメ映画→障害・想像力が強め。性が恋の話に
このようになっています」
亀「では、この3点をそれぞれ見ていくとするかの」
障害描写について
ここについては……正直、どのように書いても文句が出るような、難しい描写ではあるよね
今作においても、様々な議論がされておるの
カエル「障害を持つ方から見た、とてもいい記事があったのでこちらにあげておきます。参考にしてください。
この記事で注目したのは、以下の点じゃな
女性障害者が性犯罪の格好の標的とされる状況は今も変わっていない。
女性障害者達は恋愛や性の領域で次のようなジレンマを抱えていると考えられる。一方では桁違いに高い性被害のリスクと、そこからの「保護」を口実にした生活への厳しい管理・介入。他方で「恋愛や性では障害を言い訳にせず、もっと主体的にならないといけない」という規範圧力も根強い。まさに前門の虎、後門の狼である。
もちろん、ここは性にも絡んでくるポイントでもあるが、障害者描写のみに焦点を当てて考えたい
カエル「実際のところ、障害者という存在は物語の中では出しにくいというのも、事実としてあるわけで……その理由としてはやはり、繊細な配慮が必要となる描写だから、というのが1番大きいよね」
亀「以前の記事でも語ったが、日本のアニメというのは一部の障害に関しては比較的好意的に描いていた。例えば、車椅子の少女というのは、病弱の少女と同じように純粋なものとして描いておったり、あるいは強キャラとして描いておる。
しかし、これはステレオタイプな表現に繋がったり、 あるいは実際に存在している車椅子の方の存在を無視している、という表現にも繋がるわけじゃな」
カエル「ふむふむ……それはアニメ業界だけなの?」
亀「いや、そんなことはない。
例えば池波正太郎の『剣客商売』では、主人公の1人である秋山大治郎の身の回りの世話をするのは『唖(おし、話せない人)の女房』と呼ばれる人となっている。
またわしが敬愛する坂口安吾は『白痴』などで知られておるが、少し知能に問題があるひとに魅力を感じていた。
それから、以前の記事でも語ったが『座頭市』では主人公を盲目の剣士とすることでキャラクター性をさらに強めておるの。
つまり、障害を描くということに関して、そこになんらかの魅力を見出すということは、表現の世界では特異なことではなかった。
もちろん、時代が違うし、その描き方が正しいのか……実際に障害を持つ人々に寄り添っているのか、という問題はあるがの」
じゃあ、ここで3つの媒体の障害描写について考えていきましょう
- 原作……車椅子のジョゼが障害を持つ苦難と、その恋路(性愛)を描く
- 実写版……ジョゼは世間に隠しておきたいなど存在として描かれる
- アニメ版……街中で暮らすには危険度が高い存在として描かれる
わしは、障害描写だけで言えば、1番違和感を覚えたのは実写版であった
亀「もちろん、もう15年ほど前の作品であり、当時の価値観と今の価値観が異なることは言わねばならない。ただし、以下の点においては、違和感がとても強い」
- ジョゼを穢れのように扱い、隠そうとするおばあちゃん
- ボロボロの家屋
- ジョゼの性格描写(暗めでボツボツ喋る)
……これらの描写が、ステレオタイプなのではないか? という問題だね
障害者に対するテンプレートに思えてしまった
カエル「ジョゼを守ろうとするのはわかるんだけれど、散歩だったらお昼にでも、普通に外に出してあげればいいのに、わざわざ隠そうとしたり……それで変な噂がたってしまっていたりね。
そんな風に隠さなければいけない存在として描かれているのが実写版だと」
亀「また、その住む家もボロボロである。実際問題としては高齢者と車椅子の女性だけの生活は年金生活や生活保護などが考えられるため、そこまで派手なものではないのかもしれんが、物語の都合ではここは問題があるような気がしておる。
そして……これは演技プランの話にもなるが、ジョゼがかなり暗い性格をしているように思える。これもまた、障害者像としてよくあるものになっておる。
重ねていうが、実写版は15年ほど前の作品であり、現代の価値観で語ることはあまり良くない。
これでも当時としたら、斬新な方かもしれん。
しかし……現代の価値観からすると、決してパーフェクトな作品ではない、ということじゃな」
アニメ版の障害描写の演出について
ではでは、アニメ版に話を進めましょう
いくつかの点において、障害描写が……実写版と比べたら、という注釈付きではあるが、先に進んでおる
亀「まず、注目したいのがこのシーンじゃな」
カエル「割と序盤のシーンだよね。家を飛び出したジョゼが、恒夫に追いつかれるところで……」
亀「車椅子というのが多くの作品で多用されるのは、映像的な表現がしやすいからというのもある。
それこそ『最強のふたり』であったり、2020年ならば『倫落の人』などがあったが、車椅子を1人で押すのか、誰かに押してもらうのかによって、その時の主人公(障害を抱える車椅子の人)の状態がわかりやすい。
ジョゼの場合は、1人では町から出ることもできず、踏切で止められてしまう。
しかし、次の場面では以下のようになる」
あ、恒夫が車椅子を押すことで、2人が共同作業を始めた雰囲気が出るんだね
その通りじゃな
亀「これは実写版でも採用されておったが、
隠されるように押される→ 常夫に太陽の下で押される→ 1人で車椅子を乗り回す
という車椅子を取り巻く状況の変化によって、ジョゼの心境の変化を表しておるわけじゃな」
そしてもう1つ注目したいのが、ジョゼの家じゃ
カエル「実写版よりも明るく、そして古いながらも風情があっていい家になっていたよね」
亀「それ自体も1つの進歩であるが、最後の最後のネタバレになるが、その家が取り壊されていたじゃろ?
これはジョゼを縛り付ける象徴→家の否定なわけじゃな。
あの家がなくなり、おばあちゃんの……言葉は悪いが、呪いというか、幻影というか、そういったものを失うことによって、さらに先に進むことができる。
確かにアニメは実写などに比べると障害描写などがマイルドに感じられるかもしれんが、決してやるべきことをやっていないわけではないんじゃよ」
想像力の物語に
次に語るのが、想像力のパートです
先の記事でも批判されていた部分ではあるが、ここが素晴らしかった
亀「わしに言わせて貰えば、ここができたからこそ、アニメ版はとても優れておる。むしろ、ここに関しては実写版は全くできていないかったからの」
カエル「それこそ、このシーンが象徴的なのではないでしょうか」
ジョゼの家が水族館となるシーンだね
常夫との対比にもなる、名シーンであるの
カエル「ここはアニメならではの美しさと表現だったよね。特に足が悪いジョゼが、魚になって自由に泳ぎ回る想像をする、だけれど地上に上がることはできず、陸の上では自由になることができない……その思いがとてもはっきり出ていたし」
亀「ジョゼはその性格上、知的好奇心の旺盛なタイプである。
そしてそれが絵を描く才能に繋がった。
彼女の絵がどれほど上手いのかはわからんが……わしは、そこは特別なものだとは思わない。
自分語りにもなるが、もしかしたら、わしがこうやって映画やアニメを語り、文章を書くことを特別な才能だと思う人もいるかもしれん。しかし、日本人は義務教育が行き届いており、誰もが文字を書くことができる。機械さえあれば、ブログなど誰でも開設できるし、映画も見ることができる。
ジョゼもそうなのではないじゃろうか?」
カエル「つまり、絵を描きたいという意欲があり、その足が悪い状況だからこそ、それに没頭する時間も集中力も与えられた、と」
亀「わしはそれが特別な才能には思えなかった。
むしろ、それはあってもおかしくない、普通の才能じゃ。
これはジョゼをおとしているわけでも、あの作品が悪いというわけではない。ただ、絵を描きたいという想像力、それは誰にでも与えられた力である。
どんな苦境にあっても、想像力の翼がその人を救う。
それは障害とか、健常者とか、そういった話を超える普遍的なことではないか。
これが絶対暗記能力だったりしたら特別というが……何かを夢見たい、表現したい、それができるというのは、普通のことだと、わしは思うの」
性愛描写について
ここが一番問題になるポイントかもねぇ……
正直に言えば、わしのアニメ版の最大の不満点はここじゃな
カエル「逆に言えば、ここ以外はほぼ満足なんだけれどね…」
亀「原作も実写版も、障害を持つ女の子がよこしまな目で見られてしまい、性被害にあいやすいということが描かれておる。
ただそこが主題ではなく、どちらも障害があるから、というよりも、若い女の子だから、と言った方が適切な気もするがの。
その点がないのはわしは気にならなかった。
むしろ気になったのは……はっきりと言ってしまえば2人がセックスをしなかったことじゃな」
カエル「……それだけ聞くとエロジジイのようだね」
亀「いやいやいや、ここが非常に重要なわけじゃ。
障害と性に関してはとてもセンシティブでありながらも、そこに挑戦した作品はたくさんある。近年ではうちで絶賛した『パーフェクトレボリューション』だったり、あるいは2020年の映画であれば『37セカンズ』がそこに該当するじゃろう」
ジョゼの実写版で最大に評価したいのが、このポイントじゃ
亀「別に他の作品であればなくても構わん。
しかし、ジョゼは違う。
ジョゼは恋愛ではなく、性愛を描いた作品である。
障害と性を描かないことは、ジョゼに近しい別の何かだと言いたくなるほどのものじゃ。
ここは日本のアニメの欠点というか……綺麗な、表舞台のアニメの欠点となるが、そこが描くことができないわけじゃな」
カエル「まあ、一応全年齢向けなわけだしねぇ」
亀「それもわかるのじゃが、ここは是非とも挑戦して欲しかった。
確かに"恋愛"ではこのアニメ版が強いじゃろう。しかし"性愛"となると、全く太刀打ちできてない。そこが大きな不満点であるわけじゃな」
脚本構成への考察
聲の形とジョゼ
あとは言っておきたいのは……脚本構成のところかな?
わしは、『聲の形』への意識を感じたの
うちのブログを長く読んでいる人は説明不要かもしれませんが、オールタイムベストの上位に入るくらいに好きな作品です
今作は、聲の形のヒットを受けて制作されているじゃろうからの
カエル「実際のところはわかりませんが、同じ松竹ということもあって企画を通しやすそうではあったのかなぁ」
亀「この映画に対して色々と言われるのが中盤の大きなオリジナル展開、つまり事故じゃ。
今作は観客のコントロールもうまく、中盤の2人が仲良くなっていくシーンがそろそろ長いかな、と思ったところでおばあちゃんが亡くなる。しかし、それも暗くすることなく、あくまでぽっくりと、という感じじゃな。
そのようにコントロールされておるのじゃが、あの事故は流石に唐突すぎるような気もした」
カエル「正直、邦画で事故って使い古されている感もある表現だもんねぇ……」
亀「しかし、わしはあれが必要だったのではないか? と思う。
というのは、あのシーンは聲の形の中盤から終盤にかけて訪れる、大きな変化と同じ意味を持つわけじゃ」
カエル「詳しくは語れないけれど、確か同一化がどうとかって話だったっけ?」
亀「うむ。今作も2人の同一化がとても進められておる。
例えば、どちらも魚が好き、というのは1つの象徴的な出来事じゃな。
今作では、2人を同一にするために……つまり、視線を同じくするために常夫が事故に遭う必要がある」
例えば、こんなシーンがあるわけじゃな
亀「ここでは、2人の視線が全く同じになっておる。これは常夫が初めてジョゼに向き合い、真正面から見つめたことを意味している。
つまり、視線が合う=その相手の思いを知るわけじゃな。
しかし、あくまでも視線は常夫が目線を合わせて”あげる”ことで成り立っておる。後半に関しては事故に遭うことで、いやでも視線が合う。つまり、やってあげるという関係ではなく、全く同じ視線にたってあげるということじゃな」
ふむふむ……そこで車椅子生活や、夢を絶たれる大変さを知り、ジョゼの苦悩を体験するわけだもんね
それから、舞の存在もとても大きいの
カエル「今作のオリジナルキャラクターである、舞ちゃんだね!
彼女も作品に華を添えていたけれど……」
亀「彼女の存在というのは『聲の形』における植野と同じようなものじゃ。
つまり、障害の有無を超えた恋敵。
恋愛におけるライバルであり、だからこそジョゼを障害者ということを無視しながら、見ようによってはあまりにも酷い仕打ちを行う。
逆に言えば、それは対等に見えているからじゃ。
彼女の存在を象徴するのが、ジョゼとの初めて会ったシーンじゃろう」
ここで注目してほしい点は足と視線じゃな
亀「ダイバーだからということもあるのじゃろうが、舞は足を大きく露出したパンツを履いておる。
そしてジョゼの視線は第一に向かうのは、その健康的でスラリとした足じゃろう。
だから、ここで気分を悪くした。
彼女が1番欠けているものを見せつけてくる女じゃからな。
同時に、そんな女が目線を下げて自分と同じくして”あげている”というわけじゃが……これはこれで、だいぶ苛立ちもあるのではないかの?」
カエル「だから、ここでジョゼは外に飛び出してしまうわけだね……」
亀「健常者が障害者のために、何かをやって”あげる”ということではなく、対等に接する。それを視線の関係で描いた映画ということもできる。
だから、あくまでも健常者目線かもしれんが、この映画はこの映画なりに、障害というものを描き切っていると考えておる。
そして常夫と徹底的に同一化をはかり、舞を植野と同じような障害を超えた恋敵にすることでこの映画は成立させる……ある種のパターンの流用というところじゃな。
もう何回か見たら、もっと色々と気がつくこともあるかもしれんの」
最後に
今回の考察記事は、この辺りで終了になります!
色々と感じるものも多く、原作・実写とともに異なった魅力を備えた作品じゃと思うぞ!
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