西高東低の冬の寒気も少しずつ去っていき、少し前まで身を切らんばかりに冷えた風が、ほのかに暖かくなってきた。今年は暖冬だったから冬の間も暖かい日が何日も続いたが、それでも春の匂いの訪れはようやく、といったところだろうか。
このくらいの気温になってくると、いつも田舎にある爺ちゃんの平屋木造一軒家へ行くことが毎年の我が家の慣例だった。その代わり、正月にはあまり集まることがない。その理由は爺ちゃんが
「八月の次に集まるなら、二月だろ」
なんて言い出したからなのだが、正月休みに道路の渋滞に巻き込まれたり、高いお金を出してどこへ行っても人混みの中を平泳ぎで掻き分けることがなくなったから、親戚一同みんな喜んでいた。
だが爺ちゃんの思惑が別のところにあると気がついている大人は少ない。結局のところ、初孫である兄貴がでかくなり、その分あげるお年玉の額も多くなり、この後に俺や他の孫たちにもあげなければならない未来を考えた時に、それはゴメンだと思ったのだろう。兄貴はちゃっかりとそれなりの額を貰っていたが、そのせいで俺は最高額が2000円で強制的にお年玉はなくなってしまった。もしかしたら、親戚一同の喜んでいる理由はこれなのかもしれない。
だが、俺だって高校生にもなってわざわざ親戚と会うことに喜びにを感じるほど奇特な人間ではない。この決定に不満はあるものの、わざわざ異を唱えるほどのことでもなかった。
縁側で新聞紙の上に足を放り出しながら、爪切りでパチパチと足の爪を切る爺ちゃんも、普段着姿がいつもよりも薄手になった。まだ寒い日がぶり返すこともあるというのに、我慢強さが粋だという信じる爺さんはそんなことに聞く耳を持たない。
冬が過ぎると母は大きく息を吐き、「安心した」といつも言う。爺ちゃんも婆ちゃんもまだまだ元気で、普段は二人だけで生活しているが、冬は高齢者の突然死が多いと聞く。婆ちゃんはまだ大丈夫だろうが、「粋は我慢だ!」と雪の日でもミニスカートの女子高生と何一つ変わらないことを吐く爺ちゃんは、その年齢を考えればいつ心不全やらでぽっくりと逝ったとしても不思議ではない。
だからと言ってもう「若くないんだよ」の一言で止まるような人間であれば、婆ちゃんも母もここまでヤキモキすることなくそれとなく注意して、お茶でも飲みながらコタツでワイドショーで笑っていればいい話で、そうではないからこそ毎年毎年変わらずに大きなため息を吐くのである。
新聞紙に集まったカサカサの爪を無遠慮にガサガサと庭にばら撒いて、その新聞を折りたたむとバサっとガサツに置いた。
「慎吾、そういや大地はどうした?」
爺ちゃんは横でスマホを弄っていた俺にそう話しかけてきた。ちょうど音ゲーの難易度最高で、フルコン中突然呼びかけるのはやめてほしい。こっちだって対処できるはずがない。
イヤホンで聞こえていないフリをしながら画面から視線を動かさずにいると、爺ちゃんは垂れたコードを引っ張り、無理矢理イヤホンを外させた。その引っ張られた衝撃で、頭が画面からブレてしまい、しかもスマホまで落としてしまったのだから、フルコンどころかクリアすらも絶望的だ。
「……爺ちゃん」
「慎吾、大地はどうした?」
俺の責めるようにじっとねめつける視線も何のその、我関せずとばかりに話を進めてくるその自己中心的な物言いに、少しばかりイラッとするが、もはやこの歳で何を言っても性格が変わるはずもないと諦めて、スマホを拾い上げる。
「兄貴はこないよ。バイトもあるし」
「女か」
「知らないよ、兄貴の事情なんて」
「あいつは昔から軽い男だからな、そっちは見込みあるぞ……で、慎吾はどうだ?」
「俺の話はいいんだよ」
「あぁ……まあ、お前は昔から鈍臭いからなぁ……」
「いや、決めつけんなよ」
「じゃあ5人くらい囲ってんのか?」
「そんなわけないだろうが……まあ、今はいないけど」
「『今は』、ねえ……」
そんなことを言いながらケケッと小さく笑う。この晩婚化と草食系が叫ばれている時代に、爺ちゃんの若い頃の基準で物事を話されてもこっちが困る。大体、婆ちゃんとだって親が決めた見合い結婚で、浮気しようにも一切モテなくて、結局風俗に行くしかなくて婆ちゃんにドヤされていたのを知らないとでも思っているのか?
スタミナがゼロになってしまい、ゲームを続けることができなくなってしまった。仕方ないからスマホを胸ポケットにしまい込む。
「おじいちゃーん」
まだ4歳になったばかりの従姉妹がトコトコとその手に画用紙を持って走ってきた。会うのは久々だが、いつまで経っても俺の顔を覚えてくれず、会うたびに親の後ろに隠れてはこちらの様子を伺っている。まあ、俺の兄貴もいるし、年に数回会うか会わないかでは仕方ないか。
爺ちゃんには相当懐いているようで、何かあるたびにこうして寄ってくる。爺ちゃんにとっても初めての女の孫だから、明らかに俺や兄貴よりも態度が柔らかい。だからと言って婆ちゃんが可愛がってくれるかというと、そんなこともなくて、何となく納得いかない。
「これかいたのー」
そうやって見せたのは……うん、判別不可能なクレヨンで描いた謎の落書きだった。おそらく上に描かれている大きな赤い丸は太陽なのだろう。では下にいる2本の黒い棒は……人、なのか? いや、待て、木にも見える。しかもこれがどういった視点で描かれているのか全くわからない。書き手の一人称のようでもありながら、おそらく顔と思わしきものは横を向いているようで、目はこちらに向いているし……
まるで抽象画を解読するように一つ一つじっくりと眺めていると爺ちゃんはその絵を手にして「上手いなぁ」と言った。
「お前は将来画家になれるぞー」
「そうだね、これだけ抽象的な絵を描けるなんて才能だ。俺にはできない」
その言葉を単純な褒め言葉だと思ったのか、ニヘラと笑って体をクネクネとさせる。我が従姉妹ながら、よく分からない謎のダンスを見せられて、こちらとしてもMPを拭い取られそうな気分だ。
「じいちゃん、なにかいてほしい?」
結局なにを描いたのか一切分からずに従姉妹は話を進めていく。それに対して憤りを感じたところで、相手はまだ未就学児だ、俺にはどうしようもない。
「そうだな……栗とリスかなぁ」
……何を言い出すんだこの爺。
当然のように頭に疑問符を浮かべながら、その3分の1ほどを占める大きな頭を傾ける従姉妹の姿に、そのまま倒れてしまいそうだなぁ、なんて幼い頃に見ていた忍たまを思い出した。
「まだあきじゃないよー」
「いいじゃねぇか、あきがないってな」
ケケケと笑う爺ちゃんに、台所の方から婆ちゃんが「変なこと教えんじゃないよー!」と大きな声を張り上げた。もうそれなりに歳なのに、声の大きさは年々大きくなっていっている気がする。耳が遠くなっているだけだと母さんは言うが、このまま10年もしたら声だけでガラスを割ることもできるんじゃないかと少しばかり想像したら、なんとなく笑えてきた。
婆ちゃんが従姉妹を呼ぶと、その手に持っていたクレヨンを置いてテテテと走り去ってしまう。
「……その手にある500円は何?」
おっと、なんて言いながら握りしめていた硬貨をポケットの中に忍ばせた。いや、仕舞わなくていいから、俺に渡してくれよ。
「ほれ、そろそろ行くよ、慎吾もさっさと用意しな」
婆ちゃんがデッカいお重を包んだ風呂敷を手に、顔を覗かせる。映画やらドラマを見ていると、今時お重なんて持って外に出て行く古風な家があるもんかと思っていたが、これだけ身近にいるもんだから案外バカにできないものだ。
この辺りで桜というと、ソメイヨシノよりも河津桜の方を連想する。2月の肌寒い頃には見ごろを迎えるため、2月に集まることになった理由もその見事な桜をみんなで見ようという意味も含まれている。
爺ちゃんが振り向きもせずに答える。
「どこ行くんだ?」
「第三公園でもう保美が場所取りしてるって」
「第三? ガキばかりじゃねぇか、そんなとこ行くかよ」
そう毒づいて全く体を動かす気がないのがありありとわかる。こんな爺ちゃんの相手を何十年としてきたのだ、慣れたもので「はいはい」なんて言いながら説得する気の欠片もない。
「慎吾は?」
「親父がもうすぐで来るはずだから、一緒に行くよ」
今から行ったところでいるのは女ばかりで、しかも爺ちゃんもいないなんてただでさえ窮屈な親戚の集まりが、余計に肩身の狭い思いをすることになる。そんなことをは流石にごめんだ。
玄関から叔母さんが婆ちゃんを呼ぶ声が聞こえた。はいはいなんて言いながら、ゆっくりと外に向かっていき、そこで何かに気がついたのか再びこちらに戻ってくると「鍵閉めんの忘れんじゃないよ」と怒鳴るような大声で告げた。別に本人に怒っている気はないのだろうが、どうしてもその声に少しドキリとしてしまう自分が情けない。
「……行かなくていいの?」
相変わらず動きのない爺ちゃんに声をかけてみた。いつの間にやら靴下を履き、あとはジャケットでも羽織れば外に出かけられる服装だったし、そのために少ない髪まで整えてあるのにここまで動かないのはハッキリ言って変だ。
ふと、外を見て庭を眺める。そしてその視線が道路にいった時、爺ちゃんが言った。
「慎吾、あそこに落ちている枝、拾って来い」
またわけわからんこと言いだしてからに……なんて思いながら、つっかけを履いて道路に出ると、そこに子供がふざけて折ったのだろう、桜の花が咲いている枝を一本持ってきた。
それを爺ちゃんに渡すと、おもむろに立ち上がり、床の間にある花瓶に挿した。
桜が、咲いた。
シックな色合いだった床の間が、たった一輪の桜の花が部屋全体を華やかに彩り、どことなく匂いまで変わったような気がする。
「花は一輪、美酒は一献。それだけで人生は十分だ」
そう言って満足そうに桜の花を見ながら、爺ちゃんは1つ頷いて、こちらを向いてニヤリと笑った。
……この数寄者が。
「おう、マサやんよ!」
玄関がガラガラと大きな音を立てて勢いよく開き、大きな声が家中に響き渡る。その声を聞いて「来たか!」なんて言いながら、爺ちゃんはさっさとそちらへと向かっていった。
みると大きなビニールシートを手にした近所のおっさんがその顔をのぞかせていた。その後ろには酒瓶やビニールシートを乗せた軽トラの姿もある。
「おせえぞ、待ちくたびれちまった」
「悪いな、もうみんなに連絡回したからよ、すぐにでも行けるって」
「そうか、じゃあさっさと行こうや」
「それより、いいのかい? さっきヨッちゃんが娘さんと出ていいたが……」
「いいよ、いいよ。あんなガキと女ばかりの中で呑んじゃ何も面白くねぇ。第三に行ったからよ、俺らは河川敷に行こうや」
「おうよ!」
ゲラゲラと笑いながらその軽トラに二人して乗り込むと、そのままそっと発進してすぐに見えなくなてしまった。
俺は仕方なしに1つため息をつくと、桜の枝を花瓶から取り出して、そっと庭に埋めてやった。
了
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