この記事では『竜とそばかすの姫』について、たっぷりと語っていきます!
この記事はほぼ全編にわたり”ネタバレあり”でおくるので、気をつけてください
カエルくん(以下カエル)
「あと、とても長いです。
1万文字超えていますので、気合を入れて読んでいただけると助かります」
主
「いやー、難産だったからなぁ。
それだけ気合をこめて書いているので、ぜひお気軽に読んでほしいね。
あと、今回はタイトルにもあるように、うちは絶賛派ですので、そこは了承してください。
それでは、記事のスタート!」
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今作の物語について
評価が荒れがちな物語面について
では、ネタバレありでまずは何から語っていこうか?
1番荒れがちな物語面について、振り返っていこうかな
カエル「今作の物語に関しては、はっきりと割れている印象だよね。
というか、批判意見のほとんどがここのような気がする。
細田守脚本って確かに流れが荒かったり、ご都合主義が目立つよね。
だからこそ、他の脚本家と組むべきだっという意見があるのも、この辺りも原因の1つだよね」
主「まあ、脚本家と組んでも『時をかける少女』も『サマーウォーズ』だって、ご都合主義の連発だからねぇ。それこそ『僕らのウォーゲーム』だって、結構ご都合主義だし、それはそれで面白いなら問題ないんだけれどね。
で、確かに今作はその悪癖が出ているという意見も多く見受けられる。
まあ、確かに荒いところは荒いんだけれど……でも、ちょっとわからないんだよね」
わからないって何が?
2回観たけれど、この映画はそれなりにコントロールされているように思えるわけですよ
主「1回目観た時の印象としては、この映画はいい意味で型がないと感じたんだよね。
今の脚本ってほどんど類型が決められていて、そこになぞるだけの作品も多い。特にディズニー・ピクサーをはじめとしたハリウッド映画はほとんどそうで、その型を知っていたら全部同じに見えてしまう部分もある。
飽きてくる、って言い方が正しいのかな。
その点でいうと、今作はその型に沿っているとは思わない部分も多かった。
この形式だと”形無し”になる場合も多いけれど、自分は今作に関しては水のような非定型とでも言おうかな。だからこそ、引っ掛かる人は、引っかかる面が多いと思う」
カエル「まあ、突っ込みポイントは多いと言われているし、色々とキャラクターの感情の流れが理解できなかったということも指摘されていたりするわけだけれどね」
主「だけれど、自分としては今作もまた”私小説”だと感じたわけ。
つまり、本作は細田守という人物が如実に現れた脚本なんだよ」
私小説のような脚本
これって、前の感想記事でも語っていたけれど、どういうことなのさ?
そのままの意味だけれどね
カエル「でも、確かに細田守作品って作品を重ねることに私小説というか、監督の価値観を反映しているような作品が増えているよね。
特にほぼ単独脚本になり始めてきた『バケモノの子』『未来のミライ』なんかも、そうだったと思うけれど……」
主「これは以前にも語ったことだけれど
- バケモノの子→熊哲を誰も育てられない天才(宮崎駿)に見立て、そこから成長していく少年の姿を描く=宮崎駿からの脱却宣言
- 未来のミライ→東映アニメーションなどのかつて体験していたアニメ表現を振り返りながら、家を飛び出す=新しい未来の自分の道を作り出す
という物語になっていたわけだ。
この2作は定型的な物語としては粗が大きいのだけれど、細田守という作家の私小説だとして観ると、様々な見え方がある。
物語を描くのではなく、自分を描くことができる。
だからこそ、強烈な個性が生まれるわけだ。
そして、それは今作でも大きく出てきているわけだな」
自分のルーツを遡る物語に
それが、この物語にも出ている部分っていうのは、どこになるの?
まあ、ほぼ全編なんだけれど……
カエル「わかりやすいのは『美女と野獣 』オマージュなのかな。
『美女と野獣』って細田守もインタビューで答えているけれど、年収が100万円いかない駆け出し時代に、あまりにも気に入って2万円するボックスを買ったらしいしね。しかも、そこでは色々な都合もあって、完成品じゃなくて制作過程のものがあったらしいけれど、それが演出などの勉強に非常に役立ったというインタビュー記事もあったよね。
それでいうと、細田守の原体験の1つなのは間違いないよね
主「自分は『美女と野獣』には思い入れがないのだけれど、思い入れがある人には引っかかるらしいけれど……それも含めて”細田守が見た美女と野獣像”と、しかも物語としてはご都合の混じったものだから、そりゃ批判意見もくるよな、と。
あとはわかりやすいのは……例えば竜とベルが初めてあったライブ会場での戦闘は『デジモンアドベンチャー ぼくらのウォーゲーム』だし、それからしのぶがすずに『ベルの正体、お前だろ』って語るのも『時をかける少女』のセルフオマージュだよね。
わりかし、初期の方の作品のオマージュが多かった印象かな」
それが何か、意味を持つと?
それこそ、セルフオマージュなんじゃないかな
主「音楽で言えば……セルフカバーってことになるのかな。
過去の作品や、過去の手法を自分なりにリメイクすることによって、現在の自分がどこまでできるのかを確認する行為。
少なくとも、その映像面については、過去の作品よりもブラッシュアップされていたり、印象に残るシーンになっていたのではないだろうか。
自分は今作に関しては”集大成の先=新たなる細田守像の提示”だと思っているけれど、まさにそれだった。そのために、過去の作品をオマージュし、超える必要があった。
世界中のアニメーターやデザイナーなどを連れてくることで、Uの世界そのものをワールドワイドに魅せるだけでなく、日本アニメの幅を広げ、より世界的な存在になるための第一歩としての作品」
カエル「ということは、『美女と野獣』をも超えたと?」
主「作品全体として客観的に超える必要はないんだよ。
ただ、細田守の中で『美女と野獣』を越える、あるいは模倣すればいいんだ。
つまり、本作の『美女と野獣』の意味は
- 自身のアニメ業界の原体験としての意味合い
- 世界に向けてわかりやすく自分のアニメを紹介するための引き合い
という2つの面があっただろう。
そして、それは成功していると考えるんだけれど……単純な作品完成度などでは、勝負していないのではないかな」
細田作品の物語の特徴として
それで、批判意見でよく聞くのは、特に後半だよね
まあ、そこはそこで語るとするけれど……基本は細田作品って『親がなくても子は育つ』って考え方なんだよ
カエル「親が無くても子は育つ?」
主「少し極端なまでに、子供達の自立などを描いている。そこに大人の助けなどは、ほとんど必要としていないわけだ。
わかりやすいのは『デジモンアドベンチャー』とか、あるいは『おおかみこどもの雨と雪』だよね。あれらは、わかりやすく子供達の成長の話だけれど、その成長に大人たちは……例え親であっても、ほとんど関与していない。
自分で自分の道を見つけ、足掻きながら前へと進んでいく、そんな物語だ」
カエル「いや、でも親が無くても子は育つって考え方ってどうなの?」
主「自分はすごく共感する……というか、ボクは坂口安吾に影響を受けているけれど、安吾はもっと過激で『親があっても子は育つ』って考え方。親は子供の成長の邪魔でしかないというね。
細田監督も、そこまでは言わないまでも、その傾向がある。
多分、1人でなんでもやってきたんだよ。
もちろん、アニメ制作は1人ではできないけれど、何かあれば1人で抱え込んで、1人でそこに挑戦して、1人で課題をクリアしていく。
親との関係性はあまり良くないらしいけれど……だからこそ1人で挑戦し、成長していくということに対してあまり違和感もなく、そういう価値観の人だろう」
今作の読み解き方の1つは”大人VS子供”なんだよ
カエル「……そこはVS構造なんだ」
主「もちろん、VSだけではないけれどね。
今作はすずの成長譚であり、親にトラウマを抱えている、大人を信用できない、あるいは信用するに値しない大人にしか恵まれなかった子供の話。
だから大人は露骨なまでに悪様に描かれているってわけ。
もしくは、すずを”見守る”という……つまり、傍観者。
ここいらへんは細田監督の子供観、あるいは成長観がはっきり出ている。
『大人はいなくても子は育つ』だし、同時に『大人は子供に何もできない』って考え方に近いのではないだろうか」
今作の映像表現について
いくつもの階層に分かれた”リアル”の差について
ここからは、映像表現についても語っていくとしようか
まずは、作中のいくつもの階層について話していこう
カエル「今作はわかりやすいのは
- 現実の世界→手書き作画
- Uの世界→CG作画
といった部分だよね」
主「ところがどっこい、そこがさらに一歩進むわけだ。
今作の映像表現を分けると
- 現実の世界→冒頭・実写的な日常パート
- 現実の世界→アニメ的な演技パート
- Uの世界→CGアニメ・日本アニメ的なパート
- Uの世界→海外アニメーションパート
がある。
ここは、海外向けのパートも含めて、色々と多様な映像表現をしていたわけだよ」
カエル「ふむふむ……」
主「1について語ると、今作の冒頭から……どれくらいだろう、多分15分くらいだとは思うんだけれど……冒頭から、すずの日常と過去が描写される。
そのシーンのリアル感はものすごく高かった。
映像表現そのものアニメ的というよりは実写に近い、ロトスコープ寄りの表現を志していたし、声優陣の演技も、その間合いも変化していた。
ここはより少し怖いような表現をしていたけれど、ある種不気味のような、日常の退屈さとすずが抱えるトラウマをより映像的に見せつけるように描いていたわけだね」
それが変わるのがここのパートだね
わかりやすく、一気にエンタメになったね
カエル「ここから、かなりエンタメ寄りな……日本アニメお得意の表現なんだよね。
例えばこの画像でもすずの目が糸目になっていたり赤い斜線が頬に入っていたり、あるいはヒロちゃんのメガネが白くて目が見えないとかの漫画・アニメ的な表現が入っていて、この辺りは動きも含めて、とても面白かったね」
主「他にも中盤に関してはこのシーンだよね」
ここは、おそらくカートゥン・サルーンのトム・ムーアなどが参加しているから、ここを担当していたと推測できるくらい、個性に溢れた場面だったね
主「ここが4の海外アニメーションパートだ。
日本アニメは……特に大作は、変な話に聞こえるかも知れないけれど、良くも悪くも日本アニメの影響が強すぎるかもしれない。
それは『天気の子』などもそうだけれど、日本アニメの萌え文化とかが強すぎているのかもしれないんだ。それは、ボクたちのような日本アニメに馴染みがある層や、オタクには普通に楽しめるけれど、もっと視聴者層を広くするならば海外向けを超えて、海外のエッセンスを入れなければいけない。
その点で言えば、今作は『美女と野獣』でアメリカアニメーション、そしてこのシーンなどのヨーロッパアニメーションの要素もあるというのは、日本アニメの幅を広げるという意味でも、マーケットを広げるという意味でも重要だ」
カエル「ふむふむ……」
主「こういった描写が重なることによって、後半の私小説的な部分がより強化されるのではないだろうか」
いくつかのメタファーについて
今作でもメタファーがいくつもあったということだけれど……
それは冒頭からあったよね
カエル「それは例えば……欠けた茶碗とか、あるいは片足の欠けた犬などが当てはまるのかなぁ」
主「そうだね。
この作品で何度も出てくる欠けた茶碗、あるいは片足が欠けた犬というのは、母親が亡くなってしまって心のどこかに欠けた部分のあるすずの等身大の存在となっている。
犬なんていうのは、まさしくすずの合わせ鏡なんだよ。
それが物語でも生きていて、中盤でルカちゃんが犬に対して優しくしているシーンがある。そこで犬=すずを優しく扱ってくれることで、自分の中であったルカちゃんへの凝り固まった意識を改めるという意味でも、とても大事な場面だったりするわけだ」
ふむふむ……
そして大事なのは”川”だよね
主「今作で多く登場した川が何のメタファーなのか、ここは色々な解釈の余地があるだろう。
自分はここは”母”のメタファーに感じたかな」
カエル「母……お母さん?」
主「そう。
この作品では大人=傍観者になってしまう。
その意味では忍くんや、合唱団の女性陣がなぜベル=すずだと知っていたのか? というと、彼らは古くから”見守る人”であったからだ。だから、すずが昔は歌や音楽が大好きな少女であることを知っていたし、その歌声なども傍観者だからこそ知っていたということも考えられる。
先ほども語った通り、基本的に細田作品は『親が無くても子は育つ』あるいは『親が知らぬ間に子は育つ』なんだよ。
だけれど、傍観者とは観ているだけと聞くと、悪いように感じるけれど、そういう意味ではない。
同時にこの作品では母親のメタファーである川は、いつもそこにいる。
だからすずが吐いてしまったり、歌えなかったり、歌を披露したりする、大きな感情を披露するシーンの多くが川の前なんだ。
それは”川=母親がいつも見守っている、成長やその葛藤を見ている”というシーンだったんだよね」
カミシンのカヌー
そうなると、カミシンの描き方も特徴的だという話になってくるらしいね
カミシンは、なぜカヌー部なのか? ということだよ
カエル「特に印象深いのは、街中にある普通の川をカヌーで漕いでいるシーンだよね。
都会の感覚では川ってドブ川とまでは言わないけれど、とても汚いものだから……余程キレイな川なんだなぁ、と思っちゃったかな」
主「カミシンというのは1人でカヌー部を立ち上げて、誰も来てくれなくても1人でカヌーを愛して、全国大会まで行っている。
つまり、最も独立した、自立した存在として描かれているんだよね。
だから、カミシンは他の人には、いい意味で頓着しない。
人気者のしのぶ相手だろうが気にせず付き合うことができるし、だからこそ人気者のルカちゃんが気にしているし、その思いに対して鈍感なところが出てしまう」
カエル「ふむふむ……」
主「カミシンが1人でカヌーを漕いでいるシーンというのは、母、あるいは親や傍観者の存在などの上に、1人で独立しているという意味なんだよ。
川という何もないところで、自分の力だけで存在することができる。
現実世界で、自分の体1つで勝負することができる世界にいる。
川がものすごく特徴的な作品だからこそのカヌー部という設定だろうし、これがチームスポーツであったら、また別の意味が出てきてしまう。だからこそ、カミシンはカヌー部なんだろう」
後半の展開について
大人VS子供の対立
後半の話に入る前に、この作品のポイントを語るということだけれど……
この物語は”大人VS子供”の対立構造にある作品なんだ
主「これはとても大事なんだけれど、この話は”大人VS子供”の対立上にある。
それは、竜に対する人々の捉え方というのも決まるわけだ」
カエル「確か……
- 竜に対して子供達→正義の味方、子供達に味方
- 竜に対して大人達→叩くべき悪
というものだったよね」
主「この作品では子供達の同時接続数が少ないということで、子供を叩く大人の声が多く出てきた。
それは『子供達の声は世界では届きにくい』ということを表している。
結局、世界は大人達が支配していいて、子供達はあくまでも不完全なるものとして扱われてしまいがち、ということにつながるのだろう」
カエル「ふむふむ……」
主「竜に対してどのような立場を取るのか? ということを含めても、子供と大人では違う。
そしてすずは大人と子供のちょうど中間にいる存在なんだ。
だからこそ、この物語は成立する」
1人で立ち向かうすず
さてさて、批判意見も多く聞かれる後半ですが、ここはどう解釈するの?
まあ、強引は強引だったよね
主「でもさ、あの子達が助けを拒否して、孤独になっていたことって、なんかわかる気がするんだよね。
『誰も僕たちを助けてくれなかった』と語るのは、児童虐待の現場などでもよく聞く話だ。今は少しずつ改善されてはいるけれど、過去に戦い続けた人たちは、先生や友人にSOSを送ったけれど、でも何もしてくれない、何もできなかったと語っていることも多い。
あの兄弟には、Uの世界は最後の助けであり手段だったんだよ。
竜の登場シーンにも『相手を壊すように殴りつけて、自分のアザを見せつける』という話があったけれど、それが心情として最も説明されている。
彼らは大人相手に戦う以外の行動ができず、あざを見せつけて自分たちの苦しみを悟ってもらうことしかできなかった。
だけれど、それを信じて助けてくれるどころか、荒らし認定されてしまったのか、正義マンに迫害されてしまう。
本当に助けなければいけない人物を、表層的な情報しかないままに迫害してしまう……それは今のインターネットの、短絡的で一方的な情報だけで判断し、批判してしまう風潮に似ているのではないだろうか」
……何とは言わなけれど、似たような思いをするときは多いよね。弱者に寄り添うということを目指しているつもりが、でもその弱者を叩いてしまうというか……
こういった事例は、正義が異なるからこそ、生まれてしまうものだ
主「これは意見が割れるところだけれど……つい最近もオリンピック関連でウカンダの選手団の1人が失踪した。このことについても、色々な立場があるだろう。中にはネットの意見では『ウカンダが貧困らしいが、日本だって貧困だ』という意見があった。
だけれど、ウガンダは……特に北部に暮らす人々の中には、国際的な貧困層の基準である1日1,9ドル以下で生活しないといけない人が41%もいる。日本のホームレスだってもっと稼いでいるかもしれない。
日本の貧困層である年収100万円台〜300万円台くらいというのは、経済産業省「通商白書」(2009)の定義によれば、実は世界的には中間層なんだよ。もっと酷い貧困は世界にいくらでもあるんだ。
そんな国内状況で、しかも戦争や内戦があって、その傷が至る所に国内中にあって……という状況を知れば、むしろその行動を叩くのではなく、いかにして助けるのか? という議論があってもいい。
オリンピックは華々しいだけではなく、世界の現状を知るいいチャンスなんだ。
ルールを破ったのはいけないことだけれど、それもまた弱者の抵抗の手段である。
では、その時我々はどのように行動すべきだろうか?。
この事例に限らず、社会的弱者(と思われる人物)が法を犯した時、その罪を問うべきか? という問題はあるだろうし、それに対しては様々な立場の人がいるだろう」
それをこの作品は描いていると?
そこまで深くは考えていないかもしれないけれどね
カエル「でもさ、作品に話を戻すと、一般論として、あのような状況だとして……あれだけ外面がいいお父さんと、息子の意見だったら、お父さんを信じてしまう人も一定数いるのではないか? というのはあるよね。
体のアザとかを見てもらえば少しは変わるのだろうけれど……」
主「助けて欲しいと手を出した世界が、逆に自分を攻撃し始めたら、そりゃ心を閉ざすよな、と。
だからこそ、この話は『大人VS子供』の側面もあるんだ。
でも、そういった暴力から少しでも逃げられるもの……そして人を暴力から人を救うものは、文化なんだよ。その意味では『超時空要塞マクロス』と一緒なのかもしれない」
対峙するすず
そして、あのラストの対立がありますね
まあ、強引も強引だったね
カエル「よくある批判としては『なぜ1人でいかせたのか?』というものがあるけれど……それに関してはどう思うの?」
主「至極真っ当な疑問だと思うよ。
その答えも第一に浮かぶのは”脚本の都合”だもの。
間違いなく言えるのは、冒頭の母の行動とリンクするように描きたかったのだろう。多くの人に批判されるけれども、今濁流に呑まれる子供を救いたい。その一心で体が動く。
『そうしなければいけない時があるの』という母の言葉と同じなんだよ。
あの時、すずは誰かに見守られている子供ではないく、子供や弱者を守るべき大人になったんだ。そして、世の大人達が責任を果たさない、果たせない以上は、自分が責任を果たすしかない。
初めて竜の兄弟達の味方となる大人になったわけだ」
カエル「まあ、でも、やっぱりあの解決方法は強引だよね」
主「強引だけれど、この物語のルールには沿っている。
この作品のルールの1つは『Uの世界では誰もが素顔を隠したがっている』ということだ。これは内面の意味も含めてね。
過去を掘り出しても完全無欠の人間はどこにもいない。
誰もが仮面を被っているし、隠したいものなんだよ」
カエル「でもさ、現実では実名で顔出しでYouTubeとかやっている人もいるんじゃないの?」
主「いるけれど、全てをさらけ出しているわけじゃない。
善意の塊のようなYouTuberが、もしかしたら過去に犯罪歴があったり……もっと小さいことでは立ちションしたり、隠れて緊急事態宣言中にお酒を飲みにいっているかもしれない。
どんな人にも隠したい過去はあって……特に自分は Vtuverが好きだけれど、かなりどうでもいいことを掘り出して炎上し、謝罪に追い込まれたり、あるいは引退していった人もいる」
それを暴き出したと?
おそらく、Uの世界で顔を晒すというのは、その人の素性を全て晒すことと同じ意味なんだろう
主「”顔を隠し続け、人に見せたい外面だけを晒す人”と、”素顔を晒した人”では強さや覚悟は全く異なるんだよ。少なくとも、この物語のルールではね。
もしかしたら、お父さんもベルの配信を見ていたのかもしれない。だからこそ、知っている人間が介入してきたことに恐怖を覚えたのかもしれない。
現実でもそういうことってあると思っていて、家庭内暴力などを繰り返す人は、外からの視線に弱いこともある。内弁慶というか、誰かに見られていることですぐに萎縮してしまうケースだよね。特に、今回のように外面がいいひとはそうだ」
カエル「でもさでもさ、普通は専門機関とかに電話するんじゃないの?」
主「そこは物語の都合でもあるけれど……でも、すずはあの兄弟にとって『初めて自分たちの言葉を信じて、手を差し伸べてくれた人』でもあるわけだ。
ネットでの意見よりも、救い出す行動が大事。
たとえ賛否が割れても、とりあえず行動をしてみること。
それを語ることを重要視しているだろうし、テーマの1つなんじゃないかな。
まあ、その語り方が下手くそだって言われたら、そうなのかもしれないけれどね」
細田守の私小説として
ネットと共に成長してきた細田守
やっぱり、この作品も細田守の私小説的な要素はあるの?
多分、あると思うんだよねぇ
カエル「もちろん、細田監督の現状などはメディアで報道される以上のことは知らないので、100%憶測になります、とは先に語っておきます」
主「つくづく思うのはさ、宮崎駿ってネットがない時代に評価を固められて正解だったなって。だって、自分に言わせて貰えば宮崎駿こそが、粗い脚本を映像演出能力でカバーし、様々な意味でぶっ飛んだ倫理観や感性をカバーしてきた人だもんね。
あの時代にネットがあったら、今のような大家にはなれていないかもしれないね」
カエル「はぁ? いきなり宮さんの話?」
主「細田守はネットが普及する過程と、作品を発表し成長してきた過程が一致する人物なんだろう。
もしかしたら、ネットの申し子の1人かもしれない。2000年くらいにインターネットの話を可視化させた物語が普及していたのは……もちろんSFとかもあるけれど、細田守や『デジモンアドベンチャー』の名前はあがるだろうし。
細田監督も54歳。
おそらく今が最も脂が乗り切った時代であり、このまま3年に1回のペースとすると、60歳まであと2本。そこからは緩やかに力も落とさざるを得ないだろう。
それまでどこまでできるのか、ということを意識しながら描いている。
今作も詰め込みすぎという意見はあるし、それも間違いではないけれど、あと残された歳月を考えたら、焦ってしまう気持ちもわかるはわかるかな」
細田守の私的な部分が最も出た部分
今作で細田守らしさが最も出たのは、どこのあたりになるの?
やっぱり、ベル=すずが1人で歌うところじゃない?
カエル「やっぱり、あのシーンなんだ」
主「先ほどから何度も語るように、あのシーンは細田守監督の私小説的な部分が出てきた、表現論の部分なんだよ。
これまでは演出的にも、さまざまな意味で”世界の広さ”を意味する表現が生まれてきていた。それはディズニーの『美女と野獣』を模したり、あるいはカートゥーン・サルーンの世界を模したりね。
それだけ広いUの世界……それこそ全世界に対するものとほぼ同義なんだけれど、そこに対して自分の表現という思いを届けるためには、最もパーソナルな部分を曝け出さないといけないから。
そして、それはまさしく成功している。
なぜならば……絶賛派も反対派も、この作品に関しては”細田守という人物の意識”を語ろうとしているからだ」
それこそ、中盤に『賛成の人が半分いる、アンチも半分いる』って話もあったよね
アンチも半分いる、というのがとても重要なんだよ
主「それこそ、また話に出すけれど『映画大好きポンポさん』だよね。
『多くの人にピントを合わせたパンフォーカスでは逆にぼやけてしまう、だったらたった1人にフォーカスを絞った方が、物語が締まっていく』という話だ。
そして、この作品はそれを実践した。何万人、何億人を前にしてその全員に歌うのではなく、伝えたい1人に向けて、パーソナルな自分をさらけ出して世界に対して歌う。
その意味において、今作は見事に成功している。
少なくとも、僕にはとても響いているからね」
カエル「つまり、物語としてのカタルシスと個人の作家性・あるいは宣言を同一のものにしたと?」
主「そう自分は考えている。
僕はそういったパーソナルな物語論……むしろ、ちょっと歪んだくらいのものの方が純粋で好きだし、届きやすい人間だから、余計に響いたのだろう。
この場面では、完全に作品を私物化している。
まあ、脚本・監督だから当然と言えば当然なんだけれどね。
そこで『私はこれしかできない、こうすることしかできない、だからここで1人で素顔を晒して歌うんだ』という一面が出てきたのがこの部分であるわけだ。
それがものすごく感動して……ポスト宮崎駿の1人とかではなく、”私”という、”細田守”という一面がものすごく大きく出てきた。
だからこそ、自分は見終わった後のツイート1発目に、この言葉を贈りました。
おめでとう、細田守
— 井中カエル@物語るカメ/映画・アニメ系VTuber(初書籍発売中!) (@monogatarukame) 2021年7月16日
最後に
というわけで、長い長い記事の終わりです!
久々にこんなに書いたし……めっちゃ難産だったわ……
カエル「不思議と、見終わった後は『シンエヴァ』に近かったのかなって。
どちらも日本の大作アニメとして語りたい部分が大きい作品だよね」
主「そうだね。
シンエヴァにも共通するけれど、自分はこの2作は”監督の作家性を発揮し、それまでの作品や過去の呪縛から逃れる物語”だと感じた。
だからこそ、面白い作品だったのかも知れない。
もちろん、色々な意見があるだろうし、それでいいと思う。過度に暴言などにならなければ、それだけ賛否割れるのが1番いい作品だろう。
傑作であり、問題作。
それだけ語りたくなるのは、いい作品である証拠なのではないだろうか」
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